近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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平成30年6月25日太宰治「ヴィヨンの妻」研究発表

2018-07-08 23:03:58 | Weblog
こんにちは。大変遅くなりました、6月25日に行われた太宰治「ヴィヨンの妻」研究発表のご報告をさせていただきます。
発表者は3年浦野さん、1年林くんです。副題は―破綻の自覚と受容―です。司会は3年望月が務めさせていただきました。
「ヴィヨンの妻」は、昭和22年3月「展望」に掲載の後、同年8月に筑摩書房『ヴィヨンの妻』に収録されました。
発表当初は高い評価を受けていた「ヴィヨンの妻」ですが、研究史の早い段階で本作が太宰の作家的背景なしには存立しえないことが指摘され、以降は夫(大谷)が抱える〈罪〉や倫理観に焦点が当てられて論じられました。とはいえ、語り手に着目したテクスト分析は研究当初から行われており、研究史の大きな転換点といえば、大谷から妻である「私」に分析対象を移した時点にあると思われます。
発表者は「さっちゃん」こと「私」に着目し、「私」と大谷との論理・倫理の差異を検討しました。平気で他人に嘘をつく「私」がそのことに無頓着で罪悪感を感じていないのに対し、大谷はどこまでも破滅的な人物であり、自己を取り囲む絶望を倫理観から解釈するがゆえに、いつまでも罪悪を抱え、己を対象化できない人物である。大谷が戦後という状況において家庭を放棄する一方、「私」は「椿屋のさっちゃん」として客の相手をすることに喜びを感じながら働く。「私」は家庭を首の皮一枚の状態で繋いでいたが、彼女が他の男に犯される経験によって旧来的な家庭から解放される契機を得る。発表者は以上のような主張をふまえて「私」の大谷に対する優位性を説きました。最後に「私」が大谷に対して放った、「人でもいいぢやないの」という言葉が明確に大谷を突き放しているという結論でした。
議論の中で大谷に善意があるとして、それが嘘かどうかわからない、またこの手の作品において作家的背景を読解にどの程度組み入れてよいかなどといった疑問が提出されました。岡崎先生は語られない空白の物語を読み解いていくことの重要性を説かれました。その上で実在のフランソワ・ヴィヨンを引き合いに出した発表者の意見を受け、むしろ実在のヴィヨンが罪の自覚をしていたことに注目すべきであり、それを大谷に当てはめるならば、椿屋にいる罪を抱えた他の客とは異なって大谷が自らの罪を自覚している点こそ評価の機縁となっていくと御指摘をいただきました。その他にも戦後という社会的背景に着目した意見もありました。
新会員による研究発表は今回が今年度初でした。新会員の林くんからは、研究史を発展させていくこと・論拠を組み立てること・組み立てた論を伝えることそれぞれが難しいとの感想をいただきました。これからの研究会活動において「困難」はあらゆる地点から湧き出てきますが、それらが幾多の思考と思考の共有の過程で「知の愉悦」に移行していく感触を味わっていただければ幸いです。
次回の7月2日、堀辰雄「燃ゆる頬」研究発表は終了いたしましたので、その次の7月9日(月)、中原中也「盲目の秋」研究発表の告知をさせていただきます。