近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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平成30年7月9日中原中也「盲目の秋」研究発表

2018-07-11 16:47:25 | Weblog
こんにちは。夏の暑さも本格的になってきた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。7月9日に行われた中原中也「盲目の秋」研究発表のご報告をさせていただきます。
発表者は2年古瀬さん、2年岡部さん、1年榎本さん、1年永田さんです。司会は2年坂が務めさせていただきました。


「盲目の秋」は、昭和5年4月に「白痴群」で発表され、昭和9年12月には文圃堂から刊行された『山羊の歌』に収録されました。
研究史としては作者である中原中也自身の恋愛、すなわち小林秀雄と長谷川泰子を巡る三角関係と絡めた論じられ方をされたものが多く、読者は作品の言葉と作者の恋愛の考えとを結びつけて作品を読んでいるのではないかという指摘や、ⅠからⅣにかけての作中の起伏や作品構造について言及されてきました。「お前」「おまへ」「聖母」と、文中での二人称の表記が変わっていく点など、詩という短いテクストの中でも、むしろ詩という短いテクストの中だからこそ、非常に読みどころのある作品です。

発表者は、ⅠからⅣにかけての「私」の感情の変化、文中で変化していく「私」の口調、詩の形式が崩れていく様に着目し、その起伏について検討しました。Ⅰで抽象的に美しく歌い上げられる「青春」や「喪失感」を、Ⅱではどう向き合うかが歌われます。Ⅲでは愛する人と過ごす日々と別れを経験したことで悟った「愛」の重みについて歌われ、Ⅳではかなわない夢を見る「私」について歌われます。つまり、Ⅰで抽象的に歌われた「喪失感」や「青春」が、ⅡからⅣの詩篇によって具体的な情報が裏付けされるという構造になっており、この詩のテーマである「喪失」がより浮かび上がってくる、という結論でした。また、そもそも詩という媒体が自分自身を描いて歌うものであり且つ抽象的で情報量が少なく、裏付けをしたいがために作者と絡めた論文が多いのではないかというまとめになりました。
質疑応答では、Ⅳに出てくる「涙を含み」というのが、発表者の見解では女の目のことを指しているが、ひとえにそう考えられないのではないかという意見が出ました。岡崎先生はその直前の箇所「はららかに」という語感から捉えると、一概に目と捉えるのは難しいとした上で、そう読まなければいけないという必然性はないとのご指摘をいただきました。また、詩という媒体の性質上、語感や細かなニュアンスの違いが重要になってくるとのご指導もいただきました。
他にも、「前」と「まへ」の表記の違いについての疑問が提示されました。発表者は「前」の時は物理的に直面している状態を指し、「まへ」は「目方」であり、無限の中に入り込んで進んでいる状態であるという見解を述べました。また、「血管」という表現は静脈というイメージが強く、あくまで「血」と表現されない青白さが、「私」の現在進行形での青春時代を表しているのではないかという意見や、もはや堅くなってしまった血管、という表現が過ぎ去っていく青春を表しているのだろうという意見が出ました。これに対し岡崎先生は、Ⅳでの幼児語の表現からみても、「私」の青春が完全に終わっているわけではないと見たほうが自然であるというご指摘を下さりました。今回の例会では、今まで取り扱いの少なかった詩を扱いましたが、作者の実人生の情報を入れ込まなくても丁寧に分析すれば読むことができる、と示された、今後大いに参考になる有意義な例会であったと思います。


次回は、泉鏡花「化銀杏」の研究発表です。前期の活動も残り僅かとなってきましたが、夏の暑さに負けずに頑張っていきましょう。