デジカメぶらりぶらり

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勉強

2013-09-08 07:25:09 | Weblog
夏休みは、もう終わり、なのに宿題がまだ終わっておらず、机に向かいながら、大きな「?」が頭に浮かんでいる子もいるだろう。「子どもはなぜ勉強しなくちゃいけないの?」。

この疑問をそのまま書名にした本(日経BP社刊)で、生物学者の福岡伸一さんは、「そもそも人間とは」という原点から、この問に挑んでいる。人類誕生をめぐるこんな説があるらしい。

ある時、サルの中に成熟が遅い、言い換えれば、子ども時代がとりわけ長いサルが突然変異で現れた。普通に考えれば、不利な存在のはずなのに、なぜかそのサルが繁栄するようになった。

食料調達や縄張りなど「大人の問題」に悩まされず、好奇心にしたがっていろいろ探ったり、遊びで新しい技を身に付けたりする時間がたっぷりあったために、脳の発達は促されたというのだ。

長い子ども時代は人間だけに与えられた特権であり、その中で「世界の成り立ち」や「自分の存在意義」などという「大きな問い」を発明したーと、福岡さんは指摘している。

そして、そんな人類がたどってきた進化の道を自分で踏みしめてみることこそ、勉強なのだと。いやはや、「子どもはなぜ勉強しなくてはならないのか?」というのは、とてつもないスケールが大きい難問だ。

しかし夏休みが終わっても、おとなになっても考え続ける価値のある素晴らしい疑問でもある。


バケツ

2013-09-06 07:38:37 | Weblog
「バケツをひっくり返したような雨」というのは、どの程度の降雨量なのか。東京大学の木村龍治名誉教授の近著『天気ハカセになろう』(岩波書店)によると、4リットルバケツの水を10秒かけて地面の一カ所に落としていくと、1秒間で1000ミリの降雨量に相当するらしい。

そんな豪雨はありえないが、では実際の集中豪雨は、どの程度か。昨夏の九州北部豪雨の時、熊本県阿蘇市では10時間の総雨量が500ミリだった。10キロ四方にそんな雨が降ったとすれば、東京ドーム大なら約40杯、ナゴヤドーム大なら約30杯ものバケツが、街の上でひっくり返された計算になるという。

そういう強烈な雨が降りそうな時に出されるのが、「特別警報」だ。大雨だけでなく暴風や津波などで「数十年に一度」のレベルになりそうな場合に気象庁が発表する。

昨年から使用している「経験したことのないような大雨」といった表現も使い、すぐに命を守る行動をとるよう呼び掛ける。経験は身を助けてくれるものではあるが、ドイツの小説家ジャン・パウルは2百年前<経験は良い薬であるが、病気が治った後でしか手に入らない>との警句を発している。

特別警報体制が始まるきょう、本州付近には前線が延び、台風15号も近づいている。空に巨大なバケツが、用意されたと思った方がよさそうだ。

内戦

2013-09-04 08:04:59 | Weblog
これは勝者なき戦争だ。シリア内戦の調停を試みる国連の専門家らは、そう確信しているという。「アサド政権側も、反政府勢力側も自分たちの優勢を喧伝(けんでん)してきたが、どちらも勝つことは出来ない」。

と、そんな勝者なき戦争で、命を失い、家を失う人だけが増えている。2年前に内戦が始まってから、10万を超える人が死んだ。国外に逃れた難民は、190万人にもなった。

化学兵器が使われたのも、まず間違いないだろう。現地の病院を支援している「国境なき医師団(MSF)」によると、21日にはダマスカス近郊の病院に、神経ガスに侵されたとみられる症状の人たちが約3600人も運ばれそのうち355人は死亡したという。


「人道法がここまで守られていない状況では、人道援助はその効果と意義を失ってしまう」というMSF事務局長の声明を読めば、今すぐ何かをせねばとの思いに駆られる。

米英仏は一気に武力行使に走りだした。が、思い出すのは、イラク戦争の教訓だ。英国の参戦を検証する場でブラウン前首相は「戦闘には7日で勝ったが、平和を勝ち取るには7年かかった」と語った。

武力行使のその後の青写真がろくになかったとの反省だ。国連の専門家らは「勝者なき戦争だからこそ、政治的解決を目指すしかない」と言っている。巡航ミサイルが、平和への道を開くのだろうか。



取り壊し

2013-09-02 07:45:32 | Weblog
取り壊しには反対です。津波に破壊された建物を『物言わぬ語り部や』として永遠に残してほしいと思っています。私たちは海で生活しています。今ここで生きていくためにも同じ過ちは絶対に許されないと思います。

岩手県釜石市鵜住居(うのすまい)の地区防災センターの祭壇に、身ごもっていた娘さんを亡くした母親のメッセージが張ってあった。遺族会や地元の要望を受け、市は解体を決めたばかりだ。

遺族の中でも思いは割れる。防災センターは非難訓練の使われ、指定避難所と思い込む住民が多かった。遺族連絡会の調査では244人が避難し、210人が亡くなった。

被災で最も多くの人が犠牲になった建物だ。2階の天井近くに浸水した跡が残る。わずかな隙間に顔を突き出せた生還者は屋上に逃げた人も含めて26人。割れたままの窓、はがれ落ちた天井・・・。

「物言わぬ語り部や」は雄弁だが、住民に辛い記憶を呼び起こす。宮城県気仙沼市の市街地に打ち上げられた大型漁船「第18共徳丸」は今も県外からの見学者が絶えない。

死は「震災遺構」として保存する意向だったが、市民アンケートで賛成が少数にとどまり解体が決まった。何を保存し、何を取り壊すのか、被災地は決断の時期を迎えているのかもしれない。

被災者の声にじゅくリと耳を傾け、記憶を未来に伝えてゆく知恵を広く結集してもらいたい。