Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

香山リカ『ポケットは80年代がいっぱい』

2009年08月12日 | 80年代文化論(おたく-新人類 族 若者)
香山リカの自伝的80年代論。

1960年生まれの香山は、私立医大生時代、工作舎の『遊』周辺でアルバイトをしていた。遊塾に入るか迷っていたが、遊塾出身で『HEAVEN』の編集長をしていた山崎春美に誘われて、同誌の制作に。多くは、この山崎周辺で起きたことに費やされている。

◎山崎春夫周辺で

「1979年、遊塾在籍中の春美は『遊』増刊号の責任編集に抜擢され、あまりにも鋭いセンスで活字の世界でも広く知られるようになっていた。それから左内順一郎こと高杉弾が主宰していたポルノとサブカルチャーが合体した自動販売機雑誌『Jam』、それが発展した『HEAVEN』に参加。その後、左内氏が突如、失踪したのを受けて編集長に就任することになったのだ。
 春美は同時に、音楽のインディーズシーンでも注目を集めていた。1977年にパンクバンド「ガセネタ」を結成、過激なヴォーカルと痙攣パフォーマンスで話題をさらったあと、79年には早くもガセネタを解散、"伝説の存在"となっていた。」(p. 29)

そのあたりのシーンの描写は面白い。渋谷周辺のインディーズシーンの一端が垣間見られる。「ガセネタ」の詳細は分からないけれど、痙攣的な身体パフォーマンスで知る人ぞ知る存在だったらしい。「痙攣的な身体パフォーマンス」は、この時期の音楽における身体性の重要な傾向だろう(セックス・ピストルズはもちろんのこと、ディーヴォやトーキング・ヘッズ)。

86年の春になり、国家試験の勉強をしている内に時代が変化したということについて、論の最後にこう語られている。

「新玉川線の渋谷駅から地下通路に出た私は、自分の目を疑った。そこを歩く若い女性の多くが、世にも奇妙な服装をしているのだ。年齢的には20代と思われる女性が、幼稚園児のような白いハイソックスをはいている。隣の女子大生らしき子の紺のスカートには、象のワッペンがぺたぺたついている。スカートそのものもデザインも妙に子どもっぽく、ミニスカートの上にエプロンのようなヒラヒラした生地が巻かれている。
「どうしてみんな、いっせいに幼稚園の制服のような格好をしているんだ。私が数日、街に出ないあいだに、何が起きたのだ……」
 あわててキオスクで女性ファッション雑誌を買い込み、当時はまだ高校生に占拠されていなかった渋谷109の地下の喫茶店でそれらを熟読した。そして、私は知った。これは「ハマトラ」と呼ばれる新しい女性の流行なのだ。ハマトラでは"お嬢さんらしく""かわいらしく"がキーワードで、より無垢により女の子らしく見えるのが大切らしい。
 私は、ショートカットの髪のえりあしを刈り上げにし、コム デ ギャルソンのまがいもののような黒いパンツとジャケットを着た自分が、この渋谷という街では完全に浮いていることに気づいた。
 自分の時代は終わった、テクノはもう古いんだ。」(pp. 196-197)

◎付録の中沢新一との対談 「新人類」のかたち
二つの付録が面白い。ひとつは中沢との対談(「「ニューアカ」と「新人類」の頃」もうひとつは、08年当時矢継ぎ早に出た80年代論を香山が批評していく「バブルより速く 長めのあとがき」)。「新人類」と彼らが憧れた「ニューアカ」+YMOとの関係が中沢から語られる。

「香山 後藤繁雄さんは「新人類」のフィクサーだったとも言われていますね。私なんかも「新人類」の人たちと友だちづきあいしていたんで、イベントを見に出かけたら、終わったあとに「キミも新人類に入らないか」って言われて、なんかよくわかんないけど「いや、ちょっといいです」と言って断った記憶が(笑)。
 中沢 「新人類」といえば、山口昌男さんがあの頃「なんだか知らないけど、新人の類っていうのが現れた」って言っていて、なんだなんだと思っていたら、以前から知り合いだった野々村文宏さんたちがその「新人の類」らしいというんで驚いた(笑)。でも当時は「ミュータント」という言い方が流行っていましたから、「新人類」の前からいろんなミュータントは出ていたんですよ。
……
 香山 ある種の熱狂状態みたいな感じ……。
 中沢 本人たちよりも、それこそ周りにいた「新人の類」の人たち、中森明夫さんとか野々村文宏さんとか田口賢司さんとかが、じつは熱狂の張本人たちだったと思います。ほとんどヒンズー教で言う「バクティー」に近い熱狂状態で、それを見てると、自分たちにもこれには多少責任があるぞと感じて、暗い気持ちになりました(笑)。」(pp. 175-176)

「香山 そういう熱狂状態が86~87年まで続いてく……。
 中沢 いや、85~86年にはもう翳りが出てたんじゃないですか。83年のYMOの「散開」のときに、すでにもう翳りの前兆がありましたし。「ニューアカ」の当事者でありながら、自分たちは「ニューアカ」なんていうムーブメントと関係ない、と思っていたところもある。YMOに較べたら「ニューアカ」なんて全然オリジナリティがないんだもの、途中で嫌になっちゃった」(p. 177)

「香山 80年代が「砂上の楼閣」だったというと言いすぎかもしれないけれど、実際は何も積み上げられていなかったということはないんですか?あと、私たちの責任ということで言えば、中沢さんやYMOの人たちなんかがいろいろと言ってくれて、それを私たちが読みといて、あ、これはラカンのここから来てるんだな、とか、バロウズはいいよね、とか言っていたのが、YMOが「散開」して、みんながそれぞれの場に戻ってしまったら、私たちからは何も紡ぎだせなくなってしまった。「指示待ち世代」という言葉じゃないけど、結局ずっと待っているばっかりだったんですよ。」(p. 191)

「宮崎事件のときに、大塚英志さんとか、私の世代の80年代っぽい人が、初めて社会的な発言をしたんですよ。89年に宮崎事件があって、91年に湾岸戦争があって、あの頃は一瞬、新人類が社会的な発言をしていくんじゃないかという気運があったんですよね」(p. 197)

「新人類」とは関係ないけれど、たけしについてのこの発言もおもしろい。中沢は自分や浅田が行ったモダンの破壊をたけしの振る舞いに重ねてみていたという。

「中沢 同じ頃、ビートたけしさんが「オレたちひょうきん族」をやっていた。たけしさんはあの番組で、それまでのお笑いの規則や、お笑い以外にも日本にあった作法や文法をみんな壊したんです。壊してるのを見てておもしろいと思う半面、これはこわいな、とも思っていた。そのあとにB&Bが出てきて、たけしさんが壊しすぎたところをまとめなおしたのを見てホッとして、これからは自分はB&Bみたいなこともやらないといけないんだな、って思ったこともあるくらい」(p. 181)

「あとがき」でおもしろいのは、例えば、この箇所。

「工作舎用語やニューアカ用語を駆使して禅問答のようなやり取りを際限なく繰り返す人と、「私って、戸川純聴いてギャルソンの服着てピテカントロプスに通ってて!」と限りなく固有名詞や商品名を連ねることでしか自分を語ることのできない人は、ふたつの点において本質的には同じだと考えられる。どちらも、それほど深い意味はない、という点においてと、こういったものの言いの本当の目的は「このお作法に従えない人はあっちに行って」という"排他のゲーム"にある、という点においてだ。」(p. 212)

最新の画像もっと見る