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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「タスクと相対性理論」

2009年08月07日 | 極私的ベスト5
「相対性理論、今年に入ってリリースした『ハイファイ新書』が売れに売れた4人組バンド。相対性理論にはタスクの要素が強いと感じる。というよりも前作『シフォン主義』よりも更に『ハイファイ新書』がより、相対性理論の方向性を強く示すことに成功した=タスクの要素を増した作品である。というのもまずパッと魅きつけるのはよりその声質を巧みに使い、お人形さんのようなキャラクターを定着させ、そして昨今の初音ミクやPerfumeを彷彿させるvo.やくしまるえつこの機械ボイス的甘い歌声、そして狙ったような歌詞。要するに加工/装い感が否めない程のどこかアニメ的な声なのである。
 そんな歌声のやくしまるえつこが歌う歌詞を抜粋してみると、「ああ先生 フルネームで呼ばないで 下の名前で呼んで お願い お願いよ先生」「年下じゃいけないの? 答えて 答えて 先生 先生 卒業式近づいて サヨナラも言えないで いやだな わたし まだ女子高生でいたいよ」(「地獄先生」)「愛してルンルン 恋してルーレット 恋してるんだ 愛のメッセージ」(「品川ナンバー」)…等のくすぐったくなるほどの甘い言葉である。
 そんな歌詞だからこそもちろん作詞の制作を行っているのはやくしまるえつこだろうと思ってしまいたくなるが、相対性理論で作詞作曲を手掛けるのはba.真部脩一である。相対性理論においてやくしまるえつこはお人形さんである。” 先生”や”会社員”等が登場し、彼らに対して歌われる言葉は、思春期以降の男子の”一度でいいからこのシチュエーションでこんなこと言われてみたい!”という妄想=男性の作成した歌詞に従い、甘い歌声で、男子からすればくすぐったい妄想の中のセリフ、女子にすれば今時そんな言葉なかなか言わないわよ!といいたくなってしまうような妄想内の出来事/言葉ををそのまま体現するためのお人形さんなのだ。
 ”お人形さん”という言葉は、どんなアイドルよりもどんなキャラクターよりもやくしまるえつこにぴったりである。彼女はライブではマイクに対してまっすぐに棒立ちをして、加えて無表情で男性の淡い欲望の詰まった歌詞をさらっと掬い上げるように歌い上げる。
 他のアイドルはどうだろうか。ステージ衣装はまるでお人形のようではあるが、たいていのアイドルはかわいらしい表情をくるくると変えながらダンスをし、パフォーマンスをする。これはそういった風潮や流れをひっくるめて体現化されたゲーム、アイドルマスターも然りである。男性の妄想を完全に意識したゲームの中のキャラクターであるからもちろん、彼女たちはそういったシチュエーションに身を置き、紆余曲折を経て最終的には着せ替え人形のように様々なコスチュームに着替えさせ、ダンスをさせられるのだ。アイドルマスターのキャラクターは操り人形のように男性の欲望を叶えるためにコントロールされてしまう。男性的視線はその過程の出来事に対しての対応に見ることができる相手の感情すらも妄想中で楽しむ事が可能である。そういった点で彼女たちは実に”秋葉原のメイドさん”的である。
 ところがやくしまるえつこは彼女たちとは全くの別物なのだ。彼女たちをフィギアだとしたらやくしまるえつこはフランス人形や日本人形といったようなお人形さんなのだ。フィギアはパーツを自在にチェンジし、自分好みのルックスを完成させ、間接も自由に曲げ、表情すらも望まれたままに、本当に自在に操る事が可能である。
 だがしかしお人形さんはそのようにはいかない。彼女はクラシカルで表情の変化のないお人形さんとして、けれど現代のアキバ的性感覚をすくいあげる要素をしっかりと持ち合わせたお人形さんとして、観客の前に登場させられる。やくしまるえつこは彼女がお人形さんであることを望む観客の前に、アキバ的要素の前に、男性的妄想の前に、そして何よりも相対性理論の前に立たされ、それらの、言うなれば半ば思うがままに飾り付けられているのだ。彼女をがっちりと縛り付け、お人形さんに仕立て上げているのだ。やくしまるえつこを仕立て上げ、そう演じさせる相対性理論であるのだ。」

これは、ぼくが前期に行ったダンス史の講義の学期末レポートの一本。二年(20才くらい)の学生が書いた。「タスクと相対性理論」というタイトルは、「優美という問題と○○」「タスクと○○」「手塚夏子WSについて」(2回にわたって手塚さんに来ていただいたのだ)のなかからひとつ選んで論述せよという課題を出したことから。若干ダンス史における「タスク」概念とはぴったりきていないかもしれない。けれども、タスクの遂行者として「やくしまるえつこ」を考えるというのは、興味深い。タスクの指令者は誰か、ということをクールに考える機会になるからだ。そしてまた、このレポートを読んで、女性からの視点で相対性理論を考えると、例えばこういうことになるわけか、と考えさせられた。

と、採点地獄の最中に読んだこのレポートにひっかかっていて、採点が終了した後数日たってから(昨日)、メール出してレポートをデータでもらったのだった(許可は得てアップしてます)。で、しばらく机の上でほったらかしにして置いた「SV」の相対性理論特集を、ようやくぺらぺらしてみる(いま「ぺらぺら」中)。冒頭が大林宣彦へのインタビュー。なんだか、痛い。サブカル(『SV』的世界)ってオタクとは別角度とはいえ結局美少女へのコンプレックスに大きな重心のある世界だよな、、、と80年代論文献を読みながら考えていた矢先、そうか、大林と80年代とサブカル、、、痛い。大林曰く相対性理論とは「「我思うゆえにわれあり」ではなく「我あなたがいるがゆえに我あり」なんです」と。痛い。

レポートにはこうある。「彼女たちをフィギアだとしたらやくしまるえつこはフランス人形や日本人形といったようなお人形さんなのだ。」この水準の議論に匹敵する文章を探そうとすると、例えば、平田俊子の「ほらほら、そっちじゃなくてこっちだよって、お兄ちゃんたちが楽器の音でやくしまるさんを優しく操っている気がする。やっぱりこのバンドは頭のいい男の子たちのバンドじゃないのかな」(『SV』2009.7 p. 35)

「天使かつアンドロイド」(p. 37)と評するリーダー真部脩一は、そうしたあり方に自覚的なのだと思う。こうしたやくしまるえつこがいま抱えることになった役割に対して、どういうことが言いうるのか。「お人形さん」=「アンドロイド」=「天使」をひとが今後どう解釈していくのか。

あっと、そもそもぼくがこの記事を書こうとした動機というのは、『SV』が休刊になったという事態を自分はどれだけまじめに考えられるのかと、最近自分に問いかけていまして。別に『SV』に連載していたような人間でもなく、以前はちょこちょこ書く機会はもらっていたものの、最近はすっかりで、ほとんど書き手として無視されていると思っていて、それで仕方ないので架空の『SV』特集を妄想したりしてひとり盛り上がっていたりしたのですが、そんなぼくとは縁遠い『SV』が、しかし休刊するとなっては大問題。大袈裟に言うといままで漠然と「サブカル」と呼んでいたものの多くについて、機能不全に陥っているということが明らかになったということなのではないでしょうか。なんとなくそうだったけれど決定的にそうなった。言いかえれば、ぼくたちが「サブカル」という世界やあり方について、信用を与えていたOSがもう使い物にならない状態になっているのかもしれない、そんな危惧を抱かせるのです。

そんで、例えば、「相対性理論」を特集することで、ここにサブカル(『SV』的なもの)健在といった感じになるだろうと、そうしようとしてたのではと思うのですが、それは一体、どんな事態なのだろうとまじめに考えたくなったわけです。考えないとまずいんじゃないかな、と。やっぱり「パフューム」でも「アイマス」でもなく、ましてや「アゲ嬢」でも「女装する女たち」でもなく、「やくしまるえつこ」に行ってしまう心性とは何か?そして、それを「サブカル」サークルの外側のひとはどう見るか?ということを、考えるべきですよね。ある時期の日本映画が誰も彼も宮凬あおいに救いを求めたような、またある時期の日本映画が薬師丸ひろ子や原田知世に救いを求めたような、そんな自分たちの自助行為に熱心でどうしたものかな、と思ってしまうのですよ。つーか、サブカルって昔も今もきわめて男の子的な世界なんですよね。(一方、レポート書いた20才頃の女性たちは大方無視されてますよね。)いやいや、心地いいですよ。相対性理論、「男の子」として魅了されます。が、そんなこと無邪気にのたまえば、しらーっと蹴り飛ばされる環境(女子大学という)に生きている身としては、「理論」で癒されててどうすんだろ(俺)、と思ってしまうのです。

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