Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

PME(カナダ)『生殖行為によって家族は作られる』(@東京キネマ倶楽部)

2006年03月11日 | Weblog
を見た。

「おばさん」と「女の子」と「おじさん」の三人が、Tシャツにジーンズ姿で、ときどきマイクに向かいながら、個人的な考えを語るといった形式。背は高いけれど、三人とも小太りで体型が似ている。テーマは家族。で、恐らく三人は家族で、いやそうでもないように見えるときもあり、あまり役者としてもダンサーとしてもパフォーマーとしても鍛え上げられていない身体が、ぶらぶらと呟く、そこに案外引きつけられる。

ともかくも、「家族」というテーマは新鮮だ。劇中に親子や家族が表象されることは珍しくないけれども、家族とは何か、生殖(子作り)とは何か、とメタレヴェルで語りかけるものは、あまり見たことがない(あ、でもチェルフィッチュ『目的地』には「子供が出来ない」という話題が出てきたか)。本気かどうかが定かではないのだが、「メッセージ」として上がってくるのは、「子供は産まない方がよい」ということ。今のこの世の中に新たに子供が生まれて何になるんだ、親の理想なんて絶対引き受けるわけないし、くだらないものに手を染めるに違いないし、そんなんだったら生まれない方が子供にとっても幸福なはずだ、と。レイプや近親相姦、無意味な日常、それらを通して語られるこういったメッセージには、真理が含まれているとは思う。とはいえ、この結論は、あまりにニヒリスティックで自己完結的で、知的で、完璧主義的だ。この思想の背景にあるのは、理想主義の裏返しに生まれる恐怖や不安だ。何か、この恐怖や不安から絶対的な結論が導き出されちゃう感じ、中間で起きることが省かれてしまっている感じが、(いまの日本のメンタリティにも通じる)現代的な何かなのかな、とは思うけれど。

ともあれ、こうした言葉レヴェルはともかくとして、三人の少しむちむちした体が絡み合うといったシーンが最初の方と最後の方にあったのだけれど、そこがよかった。「ラオコーン像」みたいというか、クロソフスキーのデッサン画みたいな、妙な絡まり感があって、互いに生っぽいからだに触れながら性的な力のバランスが次第に変化していくところに引きつけられた(どうもぼくは最近、何かを彫刻として見てしまう傾向があるのですが、まさにこれも)。

鶯谷の会場で20時開演だったので、その前にお腹を満たそうと新大久保のサムゲタンの店へ。一週間くらい前に、ラジオで紹介していた「新大久保駅歩いて五分」というまったくもって頼りない情報だけを頼りに、小雨の中。それでも、見つかるもんだ、そして実に美味だった。一杯2500円は正直思わぬ出費になってしまったけれど、ミョンドンで食べた1000円の「百済サムゲタン」のサムゲタンより倍くらい美味かった。店のオジサンも、「百済~」より美味しいよ、だってトリとは別にスープを作っているからスープ白濁していないでしょ、と自信有り。「高麗漢方サムゲタン」美味かったです。

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