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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

福住廉さんの発言

2008年03月31日 | Weblog
土曜日のイベント「ダダをこねる」についての追記として。

Command Nのイベント「オルタナティブ東京 ダダをこねる/01」にて自分の批評観についてプレゼンテーションをしていた福住廉(ふくずみ・れん)さんは、ぼくが美術出版社主催の「第12回 芸術評論募集」でともに入選したことで、個人的にはずっと気にしてきている文筆家(評論家)である。最近では、Chim↑Pomをいち早く評価したこと、六本木クロッシング2007をいち早く批判したことで、有名な存在だとぼくは認識している。意見の細かいところは違いがあるのだろうけれど、注目する対象は、ぼくと重なるところがあり、いつかちゃんと話をする機会があればと思っているのだけれど、そんな福住くんの10分間のプレゼンテーションは、当然のことながら興味深いものだった。
彼の主張は、いま批評家(彼の主眼は「美術批評家」に向けられている)と称する者はあまたいるとしても、実際、批評的な仕事をしているのは、ほとんど皆無であり、そんななか、いわゆる素人のひとのレポートの方が率直で内容豊富で、実際、経済的に豊かな点もあるから海外の展覧会もチェックしていたりするので、いわゆる「批評家」に期待するものは、もうそうしたひとたちの仕事で十分なはずである、というものだった。
「批評的な仕事をしているのは、ほとんど皆無」という例に、彼は、2006年の横浜トリエンナーレをあげた。「批評家と称する者」が新聞や雑誌で書いたのは、結局のところ、「川俣正よくやった」という美術関係者の内輪でしか機能しないことがらに過ぎず、外に向けて明確な評価(批判も含めて)を表現することはなかった。その一方で、「学園祭みたいだったね」といった批判的な意見が、業界内のうわさ話として耳に入ってくる。新聞・雑誌での文章が、批評家の表現する場だとすれば、「批評家と称する者」は、その名に値する仕事をやっていない、というのが福住くんの具体的な批判の内実だった。
こうした問題は、ぼくも強く感じていることだった。批評家とは何をするひとなんだろうか。名称に「家」がつくから、なんだか「そういうポジションを得た人」だと思われがちだけれど、そうではないはずで、というか批評家は「批評」を生業とする人(「家」)ということであるはず。批評を書かなければ、批評家を名のる意味がない。けれども、、、
このことは、ぼくの現場でも同様のことが言えるだろう。ぼくは「ダンス批評」としばしば名のっている。「家」を付ける自信も必要もない気がして、それは付けないようにしているのだけれど。そうした肩書きの人物が行うべき、ダンスの「批評」とは何だろう。それは、ダンス公演を高みから評価することなのだろうか。それは、ダンス公演に前宣伝記事を書くことなのだろうか。それは、ダンス公演を未知の観客に向けて紹介し業界を応援することなのだろうか。
ぼくはこれまで、とくに2005年に「美術手帖」でのダンス特集を組むという仕事の辺りでは、「脆弱なしかし可能性があると思うコンテンポラリー・ダンスという存在を紹介し、応援したい」という気持ちで、しばしば批評文を書いたり、インタビューや雑誌の特集企画に携わったりしてきた。しかし、その後辺りから、そうすることが批評の仕事なのだろうか、とか、そうした応援団的な仕事がそれだけが批評の仕事なのだろうか、と疑問をもつようになった。逡巡しながら、いつかダンスへの興味が、コンテンポラリー・ダンス業界全体にではなく、本当に自分がユニークだと思える作家たちに限定されるようになった。そして、そうした視点の移行は、単に上演された作品について言葉を費やすという以上に、観客とパフォーマー(振付家・演出家)の関係とか、上演をめぐる環境自体へと批評的な言葉を紡ぐ必要があるのでは、と思わせることとなった。しかし、そうした文章を載せる媒体など、どこにもない。前宣伝記事の依頼はあっても、そうした記事をあるヴォリュームをもって書く、という場はなかった。ないから書かなかった、という怠慢があった。
福住くんに戻ると、彼はプレゼンの冒頭、このイベントのタイトルにかけて「だだをこねる」ことが批評だろうと漏らした。そうだ、本当にそうだ、と思った。批評の仕事は、嫌われる仕事である。多分、嫌われないでこの活動は出来ない。けれども、たいていの場合、業界関係者のなかの自分のポジションとか、均衡関係とかを意識しながら文章が書かれていたりする。それは、何となく、今日の永田町演劇に似ている。本当に何か価値あることをしようとか、価値あるものを讃えそうでないものには過大評価をしない、という気運が希薄な場所は、何も生産的なものを生み出さないだろう。政治の停滞を模倣する必要はないはずなのに、多くの場合、そうした反復を気づけばしてしまう。そうした無反省な場所に対して、「だだをこねる」(自らのパフォーマンスを通して反省を促す)ことこそ、批評の仕事なのではないか。
それは、傲慢と称されることも、スタンド・プレーと揶揄されることもあるだろう。でも、多分、そうすることへとコミットすることなく、自称「ダンス批評」「舞踊批評」「舞踏批評」、、、を名のることには、ほとんど意味がない。ただ「批評」という地位をほしがる権威主義に他ならないだろう。
こうして目深にニット帽を被った福住くんから、結構な刺激を受け取った。ただ、ぼくは福住くんの主張の後半は、あまり賛同出来なかった。つまり、批評家の名に値しない人ばかりが批評家ならば、素人の書き手に期待した方がいい、という発言。ぼくは、福住くんの言う「だだをこねる」ことが出来るのは、やっぱり批評家以外にはいないと思うのだ。正当に誠実に辛辣に「だだをこねる」才能と経験と知識が批評家というひとには必要である。少なくとも統整的理念としては。その使命を自ら負うエネルギーとそれを支える対象への強烈な愛情を携えたひとを、「批評家」と呼ぶのだろうし、才能のみならずひとはそうした勇気と愛情を期待してそうした名を使用しているのだと思う。

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