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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「大丈夫」と現代日本のポップス

2010年10月10日 | Weblog
昨日の上智大のワークショップで伊藤が「ヒルクライム問題」「レミオロメン問題」と口にしましたが、このテーマはぼくも気になっていて、今年の頭に出産後産婦人科を毎日通っていたとき、J-WAVEであまりに頻繁にレミオロメンの「花鳥風月」がかかるので、そしてその歌詞があまりに貧しいので、二人で「問題」と呼んで笑っていたのに端を発するものです。

それ以来ずっとになっていた「問題」ですが、あらためて考えてみようかなと思って、いまヒルクライムの「大丈夫」の歌詞ってどんなだったっけと調べていると、歌詞の情報の脇に「大丈夫」というタイトルの別の歌手、別の曲のリストが出てきて、こんなに多いのかと驚きました。夏川りみ、古内東子、斉藤和義、ウルフルズ、たむらぱん、その他にも何曲かある。さらに、You Tubeで「大丈夫」と検索してみるとあるある。(「大丈夫だよ」というタイトルの曲もたくさんある)

気になる点は二つで、
ひとつは、描写が貧しくなる傾向と貧しいことの効果
ひとつは、三人称から一人称/二人称で語りかける「大丈夫」へ
ということ。

描写が貧しくなるといわゆる芸術性(作家の技量の呈示)は低下する。また、表現の個性が減少する(表現が陳腐化する)。その一方で、それは敷居が低くなりまたある特定の状況が歌われるという限定性が減るから聴き手がアクセスしやすくなり、また聴き手の勝手な解釈が可能になる。

それはまた、曲中で展開される物語を聴くという傾向が減る分、聴き手各人が求める欲求に応えやすくなっているということでもある。音楽のドラッグ化なんて話がここにある。

そして、それはまた、物語をある情景の描写を通して堪能させるのではなく、むしろ聴き手を登場人物の一人にして--聴き手を「あなた」と呼びかけて--送り手と受け手のダイレクトなコンタクトを生むことを目指すということにもつながってゆく。

じっくり考えてみたいテーマ。でも、正直、そんな暇はない。誰かやってくれないだろうか。ゼミの学生でもいいんだけど。

それにしても、聴き手(歌詞のなかの「君」)に「大丈夫」と語りかける歌い手は、一体どんな存在なんだろう。なんで「大丈夫」なんて言えるんだろう、ちょっと尊大すぎやしないか。普通、そんな批判なり警戒なりが起こると思うのだけれど、それどころじゃなく、ともかく誰かに「大丈夫」といって欲しいのがいまのこの世ということなのだろうか。だとすると、宗教の時代あるいは絶対者を希求する時代ということ、なの、か。

ヒルクライム「大丈夫」

「俺が大丈夫っていえば、きみはきっと大丈夫で」「そして世界は君に告げる/「あなたはきっと大丈夫」って/心を開いた君に世界中が愛をくれる」

FUNKY MONKY BABYS「大丈夫だよ」

「君が今 夢を目の前に立ち尽くしていても/大丈夫 大丈夫 みんなが君の努力を分かってるから/今日はゆっくり休んで 明日頑張りなよ/大丈夫 大丈夫 明日がやさしく君を迎えてくれるから」


ところで、こういう批評っていまとても少ないと思うんだけれど、ぼくの勉強不足でしょうか。音楽批評って、自分たちの好きな音楽を理屈でを作って好きだというものになっていませんか?時代が要請する問題を設定するというよりは、自分の属する趣味の共同体の枠のなかで言葉を生成している気がして、ぼくは行かないつもりなのですが、明日のエクス・ポナイトではそうした点は話題にならないのでしょうか。

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