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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

梅津×森

2010年10月10日 | 美術
アラタニウラノで10/16まで行われている梅津庸一と森千裕の展覧会を見てきた。タイトルは「cosmetic girl and tired boy」。

狭くてワンルームみたいな空間。壁面がレモン色に塗られている。同じ色のカラーボックスがぽつんと置いてあったり、ピンクのスリッパが何足も連ねられて円になっているのが床にあったり、彼らの部屋に訪問したかのよう。梅津の油絵は、点描を効果的に用いる。点たちは絵画空間をときにノイジーに、ときに柔らかく暖かさや湿度の伴ったものにしている。街中の植栽、バスマットに触れた片足、ぽつんと一個ポンデリング、ふいにフォーカスしてしまった「なんてことのないけれどもなんだか気になってしまった対象」が一枚一枚の絵のなかで見つめられている。ドローイングもあった。もじゃもじゃと線は毛というか陰毛というか、独特のうざったくもひきつけられる感触があって、ちよっと面白かった。森千裕は「瞬間」を描く。「あっ」とか「ギャッ」とか、聞こえてきそうな、なんてことないけど平衡感覚がさっと奪われた瞬間。その運動感が画布に凝固している。ふざけているようで、そんな感覚あるある、分かる分かると納得させられる、そんな瞬間を拾ってくる器用さが、一見ラフで不器用に見えるドローイングに透けている。

と、とても個性的で魅力ある二人の展示だったのだけれど、その個性や魅力がややもすれば「そういうのが好きなひとの趣味」という話で完結してしまうような気がして、いや、完結できる魅力があるならばそれで十分ともいえなくもないのだけれど、それだけに、なんとなく「停滞」として感じられなくもないところが気になった。

その最たる部分が「彼らの部屋に訪問したかの」という印象だったように思う。二人はまるで「無防備にも自分の部屋を鍵なしで開放してありますので勝手に見て下さい」みたいに展示している。その無防備さは「わたしは裸で寝ていますので、どうぞご自由に」と言われているようでもあり、見ている側としては、「裸で寝ていられても、、、ちょっと困るな」なんて思うところが出てくる。見る者に対して無防備で、率直で、おそれがない、ということは、見る者を自由にするというより、むしろ無防備なひとを前にどうすればいいと緊張を強いるところがある。友だちの家は、必ずしもコージーとは限らない、という感じ?緊張を強いるという束縛性がなんらか意図的なものであったらいいと思う。けれど、そこはやや曖昧だと思った。

「マイクロポップ」な作家が、日常というか、プライベートというか、身の回りを出発点にしているとすれば、その振る舞いがどういった展開を今後見せうるのかといった興味は、おそらく多くのひとがもっていることと思う。その点で、泉の最近の傾向に注目している。ぼくは来月行われる「こねる」展のカタログに泉=野生の小動物と書き、彼の展示の仕方を「巣」と捉えてみたのだけれど、泉の「巣」=展示空間(とくに「こねる」展で示される最新の泉の展示)が「友だちの部屋」とどう違うのか、なんてことが気になるのだ。

その後、上智大学で林道郎、鈴木雅雄、近藤学さんと妻が行ったワークショップへ。「関係の美学」の問題圏が話題に。なんでもつながってしまうのがよかれ悪しかれ現代的な状況だ、という認識から出発すること。ちょうどぼくが8月に「美術手帖」に書いた、遠藤一郎や快快について「彼らの活動には外部が設定されていない」と考えていることと関連しているな、と思った。

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