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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

永松左知「~大橋可也&ダンサーズについて」(第二席:大谷、木村)

2008年12月15日 | DIRECT CONTACT
二本目です。ちなみに、第二席は三名おりますが、アップの順番は、そのなかの優劣をあらわすものではありません。


永松左知「Direct Contact Vol.2 大橋可也&ダンサーズについて」

講評
大谷能生
 自身の感想をはっきり文章にしていて、また、ステージの描写とそこからの想像力が言葉の中で緊密に結びつけられており、ああ、あの公演がこの人にはこのように見えたのだな、ということが一番伝わってきた批評でした。ただ、自分の作品の捉え方をほとんど疑っていない、まったく感覚にブレのない文章なので、たとえば「無表情での痙攣」または「不安を噛み締めて体を震わせる」という動きが、本当にあの公演の中にあったのか? そのように見えてしまっただけで、実はそこで振り付けされているものは、そういった「都会の実写」とはまったく関係のないものなのでは? といった可能性に対する不安が足りないように思います。こういった感想を抱くことになった自分が、実際には何を見たのかを、自分から離れて、構造的な側面からその設計図を描写してみるという作業がもっとあった方がいいと思います。そうすると、多分文章が歪んでしまうと思いますが、できればそっちのほうが読みたい。公募作品のなかで手を加える部分がなさそうな唯一の作品でした。

木村覚☆☆☆☆
ぼくがこの批評文を評価するのは、作品と永松氏との距離が丁寧に測定されながら文が進んでいくところ。「無表情での痙攣には、少し飽きたというところがある」と始まるとき、舞台上で何が起きていたのか、それに対して自分がどう感じているのか、さらにダンス公演が近年どういうものであるのか(筆者にとってどう映っているのか)があっという間に明瞭になっていく。「不気味さとわかりやすさを抱えている」という表現などで、作品を簡単によいともわるいとも言わない筆者の慎重さ頑固さが示される。世代の違いも意識している。小林嵯峨、中西夏之、寺山修司という参照項は、筆者のキャラクターを明かすものだが、出来れば、なぜ彼らと大橋作品を比較するのかが、客観的に説明されていると、よりよいはず。筆者の認識が、個人のではなくより大きな集団の知となることが示せるだろうから。出来ることなら、もっと作品を描写するべきだったろう。公演を経験しなかった人も読んで批評に参加できる空間を生み出す唯一の手段が描写だろうから。とはいえ、ひとつひとつの言葉は、かなり正確で、リライトすれば、より一層筆者の正確さは、明確になってくるだろう。

本文 永松左知「Direct Contact Vol.2 大橋可也&ダンサーズについて」
無表情での痙攣には、少し飽きたというところがある。
舞踏では、痙攣に対置されるものは優雅やポエジーのようなものであったかも知れない。
大橋可也&ダンサーズの痙攣の前と後には、無気力さや悲嘆のような沈黙を感じる。
無言の(無表情の)言葉は、壁に突き当たって消滅していくか、突発的な暴力に転じるか。
自殺や無差別殺人へ走るような、不気味さとわかりやすさを抱えている。

今夏、神楽坂ディープラッツの小林嵯峨は、踊りの表情の豊かさと、恐いくらいの情感、情景が圧巻だった。
中西夏之は、「土方さんの舞踏は、涙が出るようなもの」だったと語る。
現実から遠いはるかなイメージと、そこへの憧憬や幻想は、ひとに勇気を与える。
ロマンティックということだけではなくて、繊細に走る痛覚や、情熱や冷静は、
無表情の現代人が不可思議な感受と、可能性を感じるべきところだ。
古いものとして懐しむのではなく、決まりきった感じ方しか出来ない現在の感覚に、対して。

本公演の、ダンサーたちが、不安を噛み締めて体を震わせるのは、現代の都会人の実写だろうか。
筆者より年上の世代の実写だと感情移入すれば、痛々しい。
と同時に、普段自分の周りに溢れすぎている感覚なので、なんだか既視感にシラけてしまうところがある。
それは、笑えもしないのだけれど、小さく収束してゆく、ものの見方・感じ方の反映である。

グレーの床と蛍光灯の白い光に挟まれて、ひらべったい女と焦る男が2人ずつ、4つのステンレス製パイプ椅子を転がす。
ここにテレビのノイズなどが流れていてもきっと、既視感の強い情景としての無機質な世界だろう。
打ち放しの天井と白い壁が人間を囲んで、緑灰色の海面の下のような空気をつくりだす。

空気をつくっているのは、一個ずつの身体ではない。もっとばらばらのパーツのような何かだ。
コンクリートの素材や洋服の布地や無表情な眼や、白い光。無言の苦しさ。
光源は動かず影を圴一におとして、何の象徴も救いも示さず一方的に明滅する。
観客席の前列の足下におかれた白熱蛍光灯はわずかな温度と振動を伝えてくる。

ダンサーたちは、何度も、飛び起きては走り、もつれて転び、後ずさり前につんのめる。
この日本で、いくつもの部屋の中で、同時に
多くの女がぼーっと身体感覚を失って部屋を眺め
多くの男が焦って身震いしていることを考えると
彼等が息を吸える酸素ボンベは、TVや、ネットに繋がれた画面でしかないようにも思えてくる。
何をそんなに恐がっているの、とふと問いかけたくなる。
先の見えない不安や、被害者意識は、生きている若さの現在から短い将来を思うことから出来する。

寺山修司は、ひとは不完全な屍体で生まれて、完全な屍体に還ると言った。
何も人生を虚構とおもう必要はないけれど、
生を死のほうから見つめれば、そこに残るのは生活への不安よりも、仕事も想いも残せないような生き方ではないか。
しかし、ある種の暴力や、自他の抱える闇や傷には、共通の哀しさへ同調出来てしまうのも事実で、
だがそれを描いて人に勇気や温かさを与えられるのかと気になってみたりもする。

体は健康に硬直したまま、すれ違ったり突き放したりを繰り返す。
柔らかい、溶けていくような流動感や 震えるほどの陶酔は、彼女たちをおとずれない。
外に出て強い日射しや猥雑な感性に触れるエネルギーは、彼らにはほとんど無いし、欲しいとも思わない。

向かい合った者たちの綺麗な足の間でひかる
緑の「→出口」の表示、転がるオレンジのスナック菓子袋。
それを見つめた果てに生まれるものは、なんだろうか。
わたしたちの求めるものが変質してはじめて、こちらの身体感覚を変えるようになるのだろうか。
フィクションの積み上げや、カタルシスのないダンスは、続く電子音の超高音演奏に繋がれていった。


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