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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

Ko & Edge『D膜』(@麻布die pratze)

2007年01月30日 | Weblog
1/27『D膜』見る。
Aの記事(グビグビ)を読んだ後なので、あらためて全体を概観するような文は書かないことにしました、そちらを一読して頂ければ大枠は分かると思います。

あの透き通る薄いアルミの帯が誰もがそう思うように『美貌の青空』などで用いられた真鍮板の延長上にあるものだとすれば、それは、きっと、68年までのアヴァンギャルドでマッチョで硬い土方から70年以降の薄い細い柔らかい土方への移行であり、その移行をしかもマッチョな身体のままで遂行しようとする試みだった、と言えるだろう。即ち、男ぶりを発揮することも、女性的ないし脆弱な身体の魅力をあらわにすることも禁じ、そして、そこでなお男としてどうすんのか、というわけだ。それが、そして室伏鴻のありったけの誠実さ、倫理性の表明だった、と言うべきなのかもしれない。しかし、そうした途端にあまりに厳しい誠実さ故に、出す手が見出せなくなってしまった、ということだったのではないか。

正直残念な公演だった。まずもって室伏に元気がなかった。「元気がない」という評価もないと思うが、そうした一ダンサーの実存が気になる舞台こそ、室伏の舞台であり今回もそうだったということだ。それにしても音はどうにかならないか。音響のアイディアが希薄。真鍮板(アルミ帯)のリフレクションは、音響においても行われていていいのではないか。効果音としての音響など、必要ないはずだ。

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