東アジア歴史文化研究会

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「人民の本当の幸福の姿」を実現した村落共同体 米国初代領事ハリスが賛嘆した「人民の本当の幸福の姿」を実現したのは、高度な自治と助け合いの村落共同体だった(国際派日本人養成講座)

2022-06-07 | 日本の素晴らしい文化

■1.米国初代領事ハリスのみた農民の暮らし

渡辺京二氏の名著『逝きし世の面影』を読むと、幕末から明治初年のかけて来日した欧米人たちが、我々の先人たちの暮らしを見て驚いている様に、我々がかえって驚かされてしまいます。たとえば幕末、米国の初代駐日領事として伊豆下田に領事館を構えたタウンゼント・ハリスは、その地の住民が貧しく、生活するだけで精一杯だと述べた後、こう記しています。

それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当りもよくて気持がよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい。[渡辺京、p96]

ハリスは貿易商としてインド、東南アジア、中国を6年も渡り歩いて来た人物ですから、「世界のいかなる地方においても」という比較は、実際の見聞に基づいた信頼できる証言でしょう。

■2.土地は村のもの

ハリスがこの幸福な光景がどのように生み出されたのかを知ったら、もっと驚いたはずです。その背景には、高度な自治で助け合いを実現していた村落共同体があったのです。

日本近世史専攻の渡辺尚志(たかし)一橋大学教授の著書『百姓の力 江戸時代から見える日本』では、江戸時代の村落がどのように高度な自治を行っていたのかを活写しています。

まず江戸時代後期の平均的な村は人口およそ400人規模でした。このぐらいの規模ですと、お互いに顔も名前も素性も知り合っていたことでしょう。広い田畑と豊かな財産を持った豪農から、限られた田畑を耕す小農、さらには他人の田畑を耕す小作人と、貧富の差はありましたが、興味深いのは 田畑は完全に個人の所有ではなく最終的には村の共同財産という考えがあったことです。

渡辺教授は、こんな興味深い事例を紹介しています。上総国(かずさのくに、今の千葉県中央部)のある村で、長左衛門という農民が、村を離れて江戸に移住することになりました。その際、彼はもっていた屋敷地や山を、庄屋や村人たちに返して村を去っていったのです。

ここからも、当時の村人にとって、その所持地は現代的な意味での私有地ではなく、一面では村の土地という性格をもっており、利用しなくなったら村へ返すべきものだと考えられていたことがわかります。[渡辺尚、p61]

現代流に言えば、各農民は田畑の使用権は持っているが、所有権は村に帰属するという原則があったようです。土地は本来、大自然が生み出したものなのに、早い者勝ちで所有を宣言したり、先住民を駆逐して自分の専有物とする、という近代的な土地所有権の考え方よりも、こちらのほうがよほど合理的かつ公正に見えます。

■3.土地利用も村の自治

また土地に関しては「割地」という仕組みがありました。これは何年かに一度、くじ引きなどによって、村人たちが所持地を交換するのです。

同じ面積の耕地でも、川沿いの耕地のほうが洪水に遭う危険度が高く、それだけ相対的に負担も重くなります。こうした不公平をなくすために、割地によって所持する耕地の場所を取り替えたのです。村人たちが考え出した、危険負担均等化のための知恵(リスクマネージメント)といえるでしょう。[渡辺尚、p57]

また、ある農家が困窮して、現代なら土地を売却するような時にも、土地を質入れする、すなわち、土地を形(かた)に金を借りることが行われていました。その場合でも、自村の土地は自村の者が所有すべきだという原則が、次のような方法で守られていました。

 (1)村議定(村の自主的な取り決め)で、村人が村の土地を他村の者に質入れ・売却・譲渡することを禁止する。

(2)村が、土地を質入れしたい村人に取引相手の斡旋を行ない、どうしても村内で取引相手が見つからないときには、村が金を出して土地を質に取る。[渡辺尚、p60]

このようなことが行われていた根底には、土地は村のものという大原則があったからでしょう。

田畑の外側に広がる山野は材木や薪、木の実や山菜、堆肥としての枝葉を得る必要不可欠の土地でしたが、ここは入会地(いりあいち)として共同利用されていました。他村との境界にある山野は複数の村で共同利用する「村々入会」として、入山期間、使用する道具の種類、採取する枝葉の量などを細かくとり決めていました。

■4.手厚い困窮者救済の仕組み

村は、村人たちがお互いに生活を支え合う組織でもありました。

村は、老人・病人・孤児・寡婦など、社会的弱者・困窮者に対する保護・救済機能をもっていました。疾病・傷害・老齢などにより村人の生活が困窮したときは、まず家族・親族が扶養します。しかし経済的理由などから、それだけでは扶養が困難という場合もあるでしょう。そのときは、同族団や五人組、さらには村が援助の手をさしのべました。[渡辺尚、p106]

「五人組」とは近隣の5戸前後で作られた地縁集団です。このような地縁集団と、家族・親族・同族という血縁集団で重層的な相互扶助を実現していたのです。

また、貧窮困窮者救済のために無尽(むじん)や頼母子講(たのもしこう)が作られることもありました。参加者は定期的に一定額の掛け金を積み立てておき、困窮者がそのお金を受け取る、という相互金融組織です。

また城下町に住む領主も、百姓の生活が成り立つよう保障する役割を果たしていました。

・・・年貢を徴収する前提として、領主には一定の責務が求められました。大河川の治水工事など農業基盤の整備に努めたり、不作のときには困窮百姓に米や金を支給して助けたりしました(「お救い」)。もちろん、武力を背景に平和を維持することも領主の責務です。

領主は百姓に「仁政」を施し、「百姓成立(なりたち)」を支えるべき責任を負っていたのです。財政難などにより「仁政」を施せなくなった領主は、百姓から厳しく批判されました。[渡辺尚、p91]

領主に収める年貢は「百姓成立」「お救い」の対価であり、その額は領主と村との合意が必要とされていました。それに不満があれば、百姓側は「一揆」という集団交渉で、異議申し立てを行うことができたのです。そして決められた年貢は村として責任をもって納め、村内部での各戸への負担配分は村の中の話し合いで決められていました。[JOG(1214)]

■5.子供は「家の子」だけでなく「村の子」

子供たちも村で力を合わせて育てていました。

子供は村の未来を担う宝であり、その成長には村も責任を負っていました。子供は「家の子」として育てられると同時に、「村の子」としても育てられるべき存在だったのです。村による産育・教育の基本目的は、子供が無事に育つことと、一人前の村人として必要な、生活のルールや知識を身につけることでした。[渡辺尚、p101]

お七夜(子供が生まれて七日目の祝い)、宮参り(はじめての産土神(うぶすながみ)参詣)、食い初(ぞ)め、初節句、誕生祝い、七五三などは両親や祖父母だけでなく、多くの村人も集まって共に祝われました。家の行事であるとともに村の行事でもあったのです。

また寺子屋の支援も村が行いました。適当な師匠がいない場合は、村で費用をもって外部から招く、ということが行われていました。

七歳を過ぎた子供たちは「子供組」という集団を組み、大人の指導下にさまざまな行事を行ないました。たとえば天神講をつくって学問の神様・菅原道真を祀り、学問の上達を祈るとともに、共同飲食して楽しむ、などの慣習は、多くの村で見られます。

子供は一五歳になれば、一人前の村人と認められました。そこで男は「若者組(若者仲間)」、女は「娘組」に属し、それぞれに仲間の交流を深め、また集団の規律を学びました。[渡辺尚、p102]

村の神社の祭礼も、若者組が中心となって行いました。さらに若者組は村の消防や警察、あるいは、台風や大雨による河川氾濫防止のための土嚢積みなど防災の中心でした。現在でも全国の市町村に本業を別に持つ希望者からなる消防団が設置されて、地域の消火防災の中心となっていますが、こうした組織も若者組の伝統を基盤としているのでしょう。

このように幼い頃からの集団教育が、村人としての社会性を育む重要な仕組みでした。現代の教育制度が個人としての知識や能力を偏重しているのに比べれば、はるかに本質的な全人教育がなされていたのです。

物質的にはそれほど豊かではなくとも、ハリスが観察した村人たちの幸せぶりは、このように村として互いに助け合う共同体精神の賜でしょう。

■6.全国的な商業・観光のネットワーク

このように各村は、緊密に助け合う村落共同体として維持運営されていましたが、江戸時代後期には、全国的な商品流通経済の発達によって、各村は経済的ネットワークで結ばれるようになりました。

各地域の地形・気候・文化を活用した特産品が生まれ、全国的な流通網によって交易がなされました。例えば、上総の東部地方では丈夫な綿布が作られ、「上総木綿」として、江戸でも重宝されました。出羽国村山郡(山形県の村山地方)の紅花、河内国(大阪府)の木綿、阿波国(徳島県)の藍などが全国的なブランドを確立していました。

このような商業的農業の発達、農作物の多様化、林業や水産業の兼業などによって、百姓たちの生活水準は大きく向上し、遠地への観光旅行も普及しました。上総の国からも多くの人々が伊勢神宮や出羽三山、富士山などへ出かけていきました。東海道53次などの浮世絵が流行したのも、旅行ガイドブックとしての需要があったからです。

こうした旅の盛行にともない、地域にある神社仏閣や霊山を名所化して広く宣伝し、全国各地から旅行者を呼びこむことによって、地域の活性化を図ったところもありました。[渡辺尚、p170]

我が国土の特徴は、地域ごとに地形・気候・歴史・文化が多様性に富んでいるということです。 それによって、さまざまな特産物を他地域に売り込んだり、観光客の呼び込みをしたり、というのは、国土の特徴を生かした経済的発展の姿です。

■7.学問や芸術の全国的ネットワーク

交易や観光ばかりでなく、文化的ネットワークも発達していました。農民層に幅広く普及していたのは、俳諧、書道、生け花などでした。特に俳諧は、同好者が「連」というサークルを作って定期的に集まって句を詠み交わしていました。

現在の千葉県茂原市のあたりで、代々名主を勤めていた藤乗(とうじょう)家の幕末期の当主で勘左衛門(かんざえもん)という人がいました。勘左衛門は名主として村運営を担い、寺子屋の師匠を務めるかたわら、俳諧にも親しみました。

やがてその実力が広く認められるところとなり。周辺十数キロの30か村の連から、採点依頼が毎月に2,3度も、寄せられるようになりました。こうした地域的ネットワークを通じて、俳諧ばかりでなく、様々な情報交換も行われていました。

また、江戸からも 頻繁に俳人が訪れ、勘左衛門のもとに数日逗留しては句会を催したり、句の指導をしました。勘左衛門も所用で江戸にでた時には、俳諧関係の書籍を買ってくるなどしていました。こういう形で全国的な文化交流が図られたのです。

■8.「人民の本当の幸福の姿」を目指すべき時

このように江戸時代の農村はそれぞれが自己完結的な村落共同体として緊密な助け合いを実現しつつ、全国的な交易・観光・文化・芸術のネットワークで他地域と結ばれていました。こうした政治的、経済的、文化的インフラが、江戸時代の百姓たちの幸福な生活を支えていたと考えられます。

これに比べると現代日本の政治、経済、文化が大都市に吸い取られ、地方は疲弊と衰退の極みにあるという姿が、いかに歪んだものであるかということが、改めて感じられます。

現代日本のこの歪みは明治以降、我が国が大車輪で取り入れた西洋の近代物質文明の結果ですが、冒頭で紹介した米国初代領事ハリスは、この問題を予見していたようです。こう言っています。

これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。[渡辺京、p116]

我が国は明治以降、都市化とグローバル化を二本柱とする近代化路線を全速力で走ってきました。それは西洋諸国の侵略から国を守るために、やむなくとった道でした。そのお陰で独立維持という課題を達成した現代においては、再び「人民の本当の幸福の姿」を追求すべき時です。 それは今となっては「逝きし世の面影」ではありますが、我々の先人たちの知恵と経験は遺されています。

我々はこの先祖の智慧と経験をもとに、新技術も活用して、「人民の本当の幸福の姿」を再建すべき時でしょう。

(文責 伊勢雅臣)


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