伝堀越御所跡に建つ、堀越御所跡の説明図。
伊豆の堀越御所跡は、かつては堀越公方住居していた屋敷跡です。堀越公方の存在は知っていたものの、堀越御所跡を訪れるのは今回が初めてです。
元々足利幕府の関東の出先機関だった鎌倉公方(足利尊氏次男の家系)が、幕府の意に従わない事から、八代将軍義政が新たに関東に派遣した兄弟の政知が、伊豆堀越の地に屋敷を構えたのが堀越公方の始まりです。本来は元々鎌倉に居た、鎌倉公方を鎌倉から追い出して、その鎌倉に入るのを望んでいた政知だったものの、関東武士の反対に阻まれて、相模にも入れず伊豆の堀越に屋敷を構えたと伝えられます。
堀越御所跡。発掘調査では堀や池の跡などが確認されたらしいですが、現在は保存の為に埋め立てられています。
そんな堀越公方ですが、政知の死後に家督をクーデターを起こして継いだ利茶々丸が、当時まだ今川家の客将であり、北条姓も名乗っていなかった北条早雲に攻められて没落した事は有名だと思います。今回実際に堀越御所跡を訪れて驚いたのが、その堀越公方を滅ぼした早雲が居城とした韮山城が、堀越御所と目と鼻の先の近さに位置していた事です(地域的には堀越も韮山の一部みたいです)。
今まで早雲が韮山城を居城にしたのは、単に軍事的な判断かと思っていましたが、わざわざ自分が滅ぼした堀越公方御所の近くを選んだとなると、韮山城を居城にしたのは政治的な判断が大きかった感じがしますね。
その政治的判断の根拠になったと思われるのが、同じく今回現地を訪れて初めて知った事として、そもそも伊豆韮山は鎌倉執権北条氏の発祥の地だったと言う事です。韮山西部に位置する守山は麓に狩野川が流れているのですが、堀越御所跡はこの守山北側の麓に位置しているのに対して、鎌倉執権北条氏(以降は前北条氏と呼称します)の屋敷跡は、何とこの守山西部の麓に位置していました。先程韮山城と堀越御所は目と鼻の先と書きましたが、堀越御所と前北条氏の屋敷跡は隣接していると言って良い程の近さだったので驚きました。
守山の麓に位置する北条氏邸跡。奥の人工的な盛り土と思われる場所に屋敷が建っていたのでしょうか?。
鎌倉時代の屋敷跡なので、本格的な築城はされていませんが、堀と思われる痕跡がありました(発掘調査の際に掘られた物かもしれませんが)。
前北条氏発祥の地と言うだけあって、北条政子が産湯とした井戸跡と言う物も、守山の麓には在ります。もっとも鎌倉時代の井戸跡とは思えないしっかりした石造りですが...(汗)。
こうして今回、堀越御所跡と北条氏邸跡を訪れてみると、伊豆韮山と言う土地は鎌倉執権を務めた前北条氏、足利幕府から関東支配を命じられた堀越公方、そして後北条氏の祖となる早雲と言う、三つの権力が居を構えた由緒正しい土地と言うのを実感しました。史料的根拠があるわけではない単なる思いつきに過ぎませんが、早雲が韮山を居城としたのは、堀越公方を滅ぼした事に正当性を持たせる為に、堀越公方の足利氏が滅ぼした鎌倉執権の前北条氏の発祥の地である韮山をわざわざ選んだのかもしれませんね。そして後に早雲の子である氏綱が後北条氏を名乗った根拠も、この韮山を居城にしていたからではないかと思ってしまいました。氏綱が後北条氏を名乗った事については、鎌倉執権北条氏を次ぐと言うのを自称していたと言うのが通説ですが、今までその根拠については考えた事がなかったものの、この韮山を居城にした事が根拠だったのかもしれませんね。
今回の堀越御所跡と北条氏邸跡訪問は、そのような思わぬ空想が出来た楽しい史跡訪問でした。
守山の近くには、鎌倉時代の下田街道も通り、鎌倉時代から交通の要所だった事が窺えます。
守山の付近には、堀越御所跡と北条氏邸跡以外にも、多くの史跡や寺社が存在します。
最後に余談ながら、鎌倉を追い出された元鎌倉公方が、下総古河に居を構えたのが古河公方の始まりで、この古河公方の方は戦国時代になっても存続します。そして関東支配を狙う後北条氏は、後にこの古河公方と血縁関係となり、関東支配の正当性とする事になります。堀越公方を滅ぼした早雲の子や孫が、大義名分を得るために古河公方を担ぎ上げたと言うのは、歴史は面白いなとつくづく思ってしまいます。
訪問日:2013年12月05日
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