越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

会津蘆名氏四代(盛舜・盛氏・盛興・盛隆)重臣の鵜浦左衛門尉と佐瀬大和守・同中務丞について

2017-06-21 15:07:08 | 雑考

 このたび、会津蘆名氏について造詣が深い三浦介さんとネット上でやり取りしていたところ、三浦介さんが、伊佐早謙氏による『奥羽編年史料』に載録されている天文21年5月9日付白川晴綱宛「左衛門尉盛起」書状写には、発給者の蘆名氏関係者である「左衛門尉盛起」の苗字が「鵜浦」と補記されており、永禄11年4月20日付「鵜浦左衛門入道」宛武田信玄書状(『戦国遺文 武田氏編』)の受給者である「鵜浦左衛門入道」の実名は「盛起」の可能性が考えられること、それから、天正10年4月13日付遠藤山城守基信宛「佐 中 氏常」書状(『遠藤家文書』)の発給者は蘆名氏重臣の「佐瀬中務丞氏常」と比定されており、天正6年9月14日付「佐瀬中務丞」宛上杉景虎書状(『上越市史 別編』)の受給者である「佐瀬中務丞」とは、その年次の近さから、同一人物の可能性が高いこと、さらに、この「佐瀬中務丞氏常」の花押形は、永禄5年2月3日付「佐 大 常藤・佐 平 氏意」連署寄進状(『会津高田町史 資料編』)と永禄9年正月10日付中野宗時・牧野久仲・浜田宗景宛松本氏輔・富田滋実・「佐瀬常藤」・平田実範連署血判起請文(『福島県史 資料編』)の署判者のひとりである「佐瀬(大和守)常藤」のものと酷似しており、両者は親子か兄弟の可能性が高いこと、以上の事柄に気が付かれました。

 このように、越後国上杉家と友好関係にある会津蘆名家の側の取次を務める佐瀬中務丞のような人物の実名が判明したりすることは、大変ありがたいものでした。そこで、僭越ながら、三浦介さんにお願いしまして、これらを代わりに述べさせてもらいました。

◆ 『白河市史 第五巻 資料編2 古代・中世』によると、「左衛門尉盛起」書状の原本の上包みには「会津盛起状」と記されているらしい。
◆ 『遠藤家文書』が「佐 中 氏常」書状の年次を天正10年に比定したのは、『伊達治家記録』の天正10年4月13日条に関連記事があることによる。
◆ 「佐 中 氏常」書状と「佐 大 常藤・佐 平 氏意」連署寄進状は、それぞれ『遠藤家文書』と『会津高田町史』に鮮明な写真が掲載されているが、「佐瀬常藤」ほか三名連署血判起請文については、『会津若松市史 歴史編3 中世2 会津葦名氏の時代 -戦乱、合戦とその興亡-』(会津若松市史編纂室編)に掲載されている写真が鮮明とのこと。


『奥羽編年史料 三十一』33冊目14コマ(市立米沢図書館デジタルライブラリー) 『戦国遺文 武田氏編 第二巻』1263号 武田信玄書状写 『伊達氏重臣 遠藤家文書・中島家文書 ~戦国編~』遠藤家文書3号 佐瀬氏常書状(白石市教育委員会編) 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』1657号 上杉景虎書状 『会津高田町史 2巻 資料編1』仁王寺文書2号 某連署寄進状 『福島県史 第七巻 資料編2 古代・中世資料』99-102号 富田滋実等四人連署起請文
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上杉謙信(輝虎)期における越後衆の仮名事情

2017-06-13 20:45:02 | 雑考

 上杉謙信(輝虎)期の越後衆には仮名で通した大身の者たちが少なからず存在しており、これらは類別できることから、こうした一群がそれぞれ仮名で通すに至った事情を考えてみたい。

 先ず、謙信の一家衆といえば、上杉三郎景虎・上杉弾正少弼景勝・上杉十郎(実名は信虎か)・山浦源五国清・上条弥五郎政繁・琵琶嶋弥七郎(実名は政勝か)・山本寺伊予守定長であり、仮名で通した人物たちが目立つ。

 これら仮名で通した人物のうち、上杉三郎景虎は、相州北条氏康の末男であり、越・相同盟が成立したのに伴い、輝虎の養子として迎えられた。上杉十郎は、輝虎にとって別格の縁者である古志長尾右京亮景信の世子であり、越後国長尾景虎が山内上杉家の名跡を継いで上杉政虎(輝虎)となったのち、当時は空席であったらしい上条上杉十郎家の名跡を与えられた。山浦源五国清は、甲州武田信玄によって本領を逐われて越後国に亡命した信濃国衆・村上義清の世子であり、同じく空席であったらしい山浦上杉家の名跡を与えられた。ただし、村上苗字を名乗っていた頃から源五を称している。上条弥五郎政繁は、年寄衆によって領国を逐われて近江国へ逃れた能州畠山義綱(老父(義続。号徳祐)は共に追放され、若年の嫡男(義慶)は年寄衆に推戴された)の末男であり、ひとりだけ越後国に亡命したのち、やはり空席であったらしい上条上杉弥五郎家の名跡を与えられた。琵琶嶋弥七郎は、相州北条氏康・同氏政父子によって本領を逐われて越後国に亡命した上野国衆・白井長尾憲景の一族と伝わり、越後国衆・琵琶嶋柏崎弥七郎(実名は広員か)の遺跡をもって、輝虎が新設した琵琶嶋上杉家(かつて琵琶嶋には八条上杉氏がおり、名家を再興したともいえるか)の当主に充てられた。それから、上杉一族の血筋を唯一繋いでいる山本寺伊予守定長の嫡男である山本寺松三景長がおり、この仮名・実名は謙信から与えられた可能性が高い。

 謙信は敢えて他家から入嗣した者ばかりの一家衆に由緒ある仮名で通させることにより、彼らにあくまでも越後国上杉家の一員であるとの意識付けと、彼らとそれぞれの家中が馴染みやすくするための標章化を図ったのではないだろうか。それから、謙信の養子であり、他家から入嗣した者のなかで、ひとりだけ官途名を称しており、しかも謙信が称していた弾正少弼を与えられている上杉景勝(上田長尾喜平次顕景。母は謙信の姉)は、天正三年の上杉家軍役帳にひとりだけ「御中城様」と尊称されていることからも別格の縁者であり、ほかの一家衆と後継者候補である弾正少弼景勝との差別化を図る意味もあったか。ただし、越・相同盟の締結により、輝虎の養子として関東管領山内上杉家の名跡を継ぐことが内定していた上杉景虎(妻は謙信の姪)については、関東管領山内上杉家十代目の四郎顕定(号可諄。越後守護上杉房定(号常泰)の末男)からは、四郎顕実(古河公方足利成氏の次男。顕定の養子)、五郎憲房(山内上杉憲実の三男である僧周清の子。顕定の養子)、四郎憲寛(古河公方足利高基の次男。憲房の養子)、五郎憲政(号光徹。憲房の実子。輝虎の養父)のように仮名で通しており、これは、将軍から鎌倉公方の補佐役に任命された関東管領山内上杉氏(当初は犬懸上杉氏と交代で務めていたりしたが、犬懸上杉氏は主家に背いて滅亡した)が主家と対立するようになり、永享の乱による鎌倉公方の滅亡と再興、享徳の乱による鎌倉の地を失陥した公方の古河の地への定着を経て、将軍から古河公方討伐のための軍事指揮権を与えられ、天皇から綸旨による関東管領職補任と御旗の下賜を受け、関東の「副将軍」・「天子之旗本」という政治的立場が世間に認められたことから、職名が官途名と同等の意味を持つようになったので、もはや山内上杉家の当主は官途名を称する必要がなかったことと、景虎の名が軍役帳に記載されていない立場であることを重視し、三郎景虎もまた別格の縁者であり、後継者候補のひとりであったという考えがある。


◆ 長尾一族ではあるが、謙信譜代の長尾小四郎景直(謙信実父である長尾為景の弟と娘の間に生まれた子らしい。越中国東郡の椎名康胤の養子となった)も仮名で通しており、謙信は越後国上杉家の一家衆と同じように、敢えて近親者の長尾景直に由緒ある御屋敷長尾小四郎の仮名で通させたのであろう。
◆ 謙信(上杉輝虎)も関東管領山内上杉家の名跡を継いだのち、長尾景虎期に得た弾正少弼以上の官途・受領名を自ら率先して得ようとはしなかったと考えられている。
◆ 謙信没後の家督を巡る内乱で上杉景勝に味方し、その勝利に貢献した山浦源五国清・上条弥五郎政繁・山本寺松三景長らは、謙信期に引き続き景勝期も仮名で通している。


 続いて、越後奥郡国衆のうち、本庄弥次郎繁長(雨順斎全長)・色部弥三郎顕長(虎黒丸)・鮎川孫次郎盛長(市黒丸)・大川三郎次郎長秀の秩父一族が揃って仮名で通しているのも際立つ。

 彼らの親である本庄大和守房長(対馬守)・色部修理進勝長(弥三郎)・鮎川摂津守清長(岳椿斎元張)は、いずれも官途・受領名を称している(大川長秀の先代は駿河守忠秀を名乗ったと伝わっているが確証はない)。これは本庄繁長の反乱以前に色部顕長が上杉輝虎から山内上杉家にゆかりの「顕」の一字を付与されていることからすると、官途・受領名を称するには年若だったり、それらを与えられるには軍功が足りなかったりしたというよりも、秩父一族の不安定な状況と本庄繁長の反乱による混迷が理由ではないだろうか。本庄繁長は言うまでもなく、色部顕長は越後国上杉家の分国内における支城での在番中に失火したり、鮎川盛長は本庄と不仲で乱以前も乱後も争い続け、特に乱後には無用な手出しをしており、さらには後年、越府へ差し出した証人が密通騒動を起こしたり、大川長秀は本庄の乱が起こると、繁長に味方した弟たちに居城を奪われたり、やはり後年、謙信が総力を結して北陸で一向一揆と戦おうとしていた矢先に、あろうことか隣国出羽へ攻め込んでしまったり、といった具合に謙信を困らせ続けていたので、こうした彼らの通称について、わざわざ謙信の方から配慮を示すようなことはなかったのではないだろうか。一方、彼らの側としても、自称するのも、通称の授与を求めるのも憚られたのかもしれない。気の毒なのは、父である色部勝長の代から、むしろ功績の方が多かった色部顕長であり、父が本庄の乱で陣没したのち、修理進の官途名を継承しても良さそうなものだが、そうはなっておらず、連帯責任でとばっちりにあったような感さえある。また、本庄繁長の嫡男である新六郎顕長は、実名こそ色部顕長と同様に謙信から「顕」の一字を付与されたものの、本庄氏の歴代が称したであろう弥次郎の仮名を称することはできなかった。

 同じく三浦和田一族の黒川四郎次郎平政(竹福丸)も仮名で通している。先代の黒川下野守(実名は平実か。四郎次郎)は、長尾景虎期に同族の中条越前守(実名は房資か。弥三郎)との領界相論における景虎の調停結果に不満を募らせていたからか、越後国長尾家の年寄衆の大熊備前守朝秀が甲州武田信玄と通じて起こした反乱への与同が不調に終わると、当主の座から降ろされてしまったらしく、幼年の竹福丸が当主の座に就いていたこと、本庄の乱では家中から本庄方への内通者を出してしまったこと、四郎次郎平政もまた中条越前守と領界相論をしたこと、こうした事情が影響したのかもしれない。


◆ 本庄繁長(雨順斎全長)は、御館の乱における功績が多大であったことから、上杉景勝から越前守の受領名を与えられたようであり、これを機会として俗名に復したのち、さらに義兄弟(繁長の妻は古志長尾景信の娘と伝わる)の上杉十郎の席次と名跡を与えられている。この越前守は、景勝の実父である上田長尾政景が称した受領名を選んで与えられたものか、それとも、揚北衆における最有力者の中条氏が称していた受領名(中条越前守景泰の戦死により、揚北衆中に越前守を称する者は当時いなかった)を与えられたことにより、繁長が揚北衆の最有力者に位置付けられたということか。色部顕長は謙信晩年に弟の惣七郎長真(初めは長実を名乗った)に家督を譲り、その長真は景勝期に修理大夫を称している。
◆ 謙信没後の内乱では上杉景虎に味方し、のちには新発田重家の乱でも上杉景勝に敵対した鮎川盛長は、最後まで官途・受領名を称することはなかった。新発田の乱後には当主の座から降ろされてしまい、与五郎秀定なる秩父一族らしからぬ実名を持つ者に代えられている。大川長秀も最後まで官途・受領名を称することはなかったが、景勝期の動向はほとんど知れない。


 そして最後は、謙信の譜代衆、旗本衆の安田惣八郎顕元、山吉孫次郎豊守・本庄清七郎(実名は綱秀か)である。彼らはいずれも次男(長尾景虎の近習を務めていたらしい)であり、本来はそれぞれの家名を継ぐ立場にはなかった。

 彼らの親である安田越中守景元(百丸。弥八郎)、山吉丹波守政久(孫四郎。恕称軒政応)・本庄新左衛門尉実乃(新左衛門入道宗緩。美作入道)は、いずれも謙信の実父である越後守護代長尾為景の戦いに味方し、その忠功を認められた人物たちであり、長尾景虎期の功臣でもあった。それらの嫡男である安田和泉守景広(この受領名・実名は系図以外では確認されていない。松若丸。仮名は弥九郎か)、山吉孫四郎(実名は景久か)・本庄新左衛門尉(玖介)は、安田が出奔、山吉・本庄が早世してしまい、いずれも後継者たる男子を残さなかったので、それぞれの家が改易に処されてもおかしくなかったところ、先代の功績を鑑み、次男たちが家名を継ぐことが認められたのであろう。しかしながら、これは特例であり、安田顕元のように忠功を認められれば「顕」の一字を与えられたりはしたものの、彼らにはけじめとして官途・受領名が与えられることはなかったのではないだろうか。

 また、これらとは逆に、古志長尾氏を継いでいたこともある長尾景虎にとって別格の縁者であった古志長尾右京亮景信(古志長尾豊前守房景の子。仮名は十郎か)と謙信の譜代衆である柿崎左衛門大夫(長尾景虎期からの功臣である柿崎和泉守景家の子で、実名は晴家と伝わるが確証はない。仮名は平三郎か)は、やはり兄たちが後継者たる男子を残さずに早世したらしく、彼らがそれぞれの家名を継ぎ、官途名を称するのは許されているが、仮にも一時は古志長尾氏の当主であった長尾景信が最後まで実名に「景」の一字を冠していたように、輝虎から偏諱を付与されることはなかったような事例もある。

 それから、仮名で通した旗本衆のなかには、その事情を判断するのが難しい者たちもいる。謙信晩年の最側近である吉江喜四郎信景(資賢。初めは苗字不詳の孫八郎)は、越後国上杉家の越中国東郡代官の河田豊前守長親(九郎左衛門尉)や能登国代官の鰺坂備中守長実(清介)らと同じく近江国出身の中途採用者であり、謙信(長尾景虎)側近である吉江織部佑景資(長資)の一族に列し、景資から一字を付与されて喜四郎資賢を名乗った。正確性に欠ける吉江氏系図によると、景資の叔父である佐渡守信清の名跡を継いでいるが、佐渡守といえば、吉江氏の本流にあたる佐渡守忠景(中務丞)であり、謙信最晩年に忠景は所見されなくなるので、資賢改め信景は後継者たる男子がいなかった忠景の名跡を継いだと考えられており、安田・山吉・本庄と同じく特例の部類に入るのかもしれない。ただし、文禄三年定納員数目録に「吉江中書(中務丞)」が載っており、この人物が吉江忠景の後継者であるとしたら、吉江信景は吉江景資の一族のままなので、謙信晩年の最側近であるばかりか、「信景」という最上級の実名を与えられているわけであり、謙信が他者とのバランスを考慮した結果、仮名で通させることにした可能性もあるだろうか。よく使者を務めた大石惣介芳綱は、大石氏系図によると、武蔵国出身の大石氏二流のうち、藤右衛門尉家の三男であり、長男(源三郎綱頼か)が早世し、次男(与三郎綱高か)が藤右衛門尉を称しているので、この次男が藤右衛門尉家の名跡を継いだように見える。しかしながら、四人兄弟のうち、ひとり綱の字を下に置いている三男の惣介芳綱が藤右衛門尉家の当主のように見えなくもないので、もしも後者である場合は、やはり特例の部類に入るのかもしれない。同じく使者を務めた長与一景連は、弟の与次(実名は盛連・弘連と定まらない)がいたことは確かであるが、弟の系譜以外は分からなかった。


◆ 山吉豊守の後継者である米房丸(元服前ではあるが、重病であった豊守に代わり、家名を継ぐことを認められたらしい)は急逝したようであり、当然ながら後継者たる男子はおらず、豊守の弟である孫五郎(実名は景長か)が家名を継ぐことは認められるも、居城の三条城を没収されたうえ、所領も半減されている。それから、山吉豊守の実名については、山吉氏の通字のひとつは「盛」であり、上杉輝虎(長尾景虎)が敢えて「豊」と「守」の字を選んで名付けたのではないだろうか。
◆ 謙信没後の家督を巡る内乱で上杉景勝に味方し、その勝利に貢献した安田顕元・吉江信景・大石芳綱・長景連は、謙信期に引き続き景勝期も仮名で通している。


 こうして示したように、越後国上杉家の一家衆・外様衆・譜代衆・旗本衆、すべての階層のなかに仮名で通した者たちが少なからず存在しており、それには、謙信による、一家衆のうちで他家から入嗣した者たちへの縁引きと足かせ、外様衆のうちで不祥事を起こした者たちへの戒め、譜代・旗本衆のうちで正統が絶えても、それぞれの先代たちの忠功を鑑み、特例によって家名の継承を認めた者たちへのけじめ、といったような、おおよそ三つの事情があったのではないだろうか。


『上杉家御年譜 謙信公 一』 『上杉家御年譜 二十三 外姻譜略 御家中諸士略系譜一』 『上杉家御年譜 二十四 御家中諸士略系譜ニ』 『越佐史料 巻六』 『新潟県史 通史編2 中世』 『新潟県史 資料編3 中世一』 『新潟県史 資料編4 中世二』 『新潟県史 資料編5 中世三』 『新潟県史 別編3 人物編』 『三条市史 資料編第二巻 古代中世編』 『上越市史 通史編2 中世』 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』 関 久『越後毛利氏の研究』(上越郷土研究会) 阿部洋輔(編)『上杉氏の研究 戦国大名論集9』(吉川弘文館) 池 享・矢田俊文(編)『定本 上杉謙信』(高志書院) 栗原修「上杉氏の領国支配機構と奏者 ―吉江喜四郎信景の態様を通して―」(駒澤大学『史学論集』26号) 片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」(『上越市史研究』第10号) 木下聡「山内上杉氏における官途と関東管領の問題」(『日本歴史』685号) 山本隆志「高野山清浄心院 越後過去名簿(写本)」(『新潟県立歴史博物館研究紀要』第9巻) 『戦国人名辞典』(吉川弘文館)
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越後国上杉家と佐渡国本間一族

2017-03-24 22:25:30 | 雑考

【史料1】
芳書殊更太刀一腰面一枚給候、快然之至候、猶河田豊前守可申送候、恐々謹言、
      七月廿日         輝虎(花押a影)
         本間下野守殿

 越後国上杉輝虎(号謙信)は、永禄6年7月18日に書き表した願文のなかで、「殊能・越・佐三箇国手裡同前」と述べており、能登・越中・佐渡の三ヶ国は分国同前と認識していたらしい。当時、佐渡国を実効支配する本間一族は、相模国愛甲郡依知郷を本貫とした武蔵七党の横山党海老名氏流の鎌倉御家人に始まり、佐渡守護大仏北条氏の被官となった一族が承久の乱後に守護代・地頭職を得ると、文永・弘安の役の混乱を経たのち、生活の安定を求めて佐渡国雑太郡に入部し、そこから国内に広く分派したものである(苗字を与えられて一族に列した在地の者もいる)。かつて輝虎の実父である越後守護代長尾為景が、越後国へ攻め込んできた関東管領山内上杉顕定(号可諄)に敗れると、佐渡国へ逃れて再起を図ったが、その際に本間一族(羽茂本間一族の三河守高信の妻は為景の妹という伝承がある)が援助していたり、大永4年に羽茂本間氏(雑太本間氏から分かれたという)と久知本間氏(河原田本間氏から分かれたという)の間で激しい抗争が起こると、同7年4月に越後守護上杉家の一族である上条播磨守憲定(定憲)が仲裁に入ったりしている(その後、久知本間氏の勢力が弱まり、国仲の河原田本間氏と南部の羽茂本間氏の勢力が強まったという)。よって、輝虎と本間一族の関係が気になるところであるが、残念ながらほとんど見出せない。ここに掲げた【史料1】の通り、永禄5年から元亀元年の間に輝虎と本間下野守が音信を交わしているのが唯一である。天正10年4月24日に越後国上杉景勝は、江(尾)州織田信長との対決を前に、佐渡国本間一族の対馬守(羽茂本間高季)・但馬守(新穂本間氏か)・山城守(河原田本間氏。実名は高統と伝わるが確証はない)・下野守(不明)・帰本斎(潟上本間氏)らと交信して提携を結んでおり、ここに所見される下野守は、恐らく輝虎と交信した下野守本人か後継者であろう。


【史料2】
御使札之趣、令拝領忝奉存候、仍当春越中口御出馬、万方御静謐之儀、於吾等大慶不可之候、随馬介一下被懸御意候、外聞実儀歓悦無極奉存候、即従是真羽十尻串貝三千奉進上之候、於巨細、御使者申達候、此旨御披露所仰候、恐惶謹言、
      五月九日          為直(花押)
      屋形様
           参御尊報


【史料3】
如仰未申通候処、預御珍簡、恐悦至極候、随今度越中表有御出馬、過半被属御存分、先以御帰陣之由、太慶不斜候、殊当国珍畳之虎皮送給候、則拝領此御事候、雖微少之至候、巻物竹柄二百挺致返進候、向後互可申談候、御啐啄所希候、心緒御使者可有演説候、恐々謹言、
      五月十日          信濃守泰高居判
        宛所ナシ


 この【史料2・3】は、『上越市史 別編1』が元亀4年にそれぞれ仮定・比定している文書であり、日付と内容からして発給者の両名は近しい関係にあると思われる。【史料2】の「為直」は人物が特定されておらず、【史料3】の「信濃守泰高」は〔謙信公御書集〕に倣って大宝寺氏と特定されている。しかしながら、出羽国の大宝寺氏の一族に「信濃守泰高」を名乗る人物は見当たらない。そこで越後国上杉家と交流のある両名に該当する人物を他家に探してみたところ、「為直」と一致する人物は探し出せなかったが、「信濃守泰高」については、天正10年6月12日に上杉景勝が、織田信長横死の情報を伝えるため、本間一族の山城守・対馬守・但馬守・信濃守(雑太本間氏)・弥太郎(季直。泉本間氏か)・下総守(久知本間時泰)・帰本斎へ宛てて書状を送っており、ここに信濃守として所見される雑太本間氏は、系譜類では実名が泰高と記されていた。これに従って「信濃守泰高」を本間氏と考えるならば、長尾景虎(上杉輝虎・謙信)が史上に現れる直前、天文12年7月20日に本間貞直なる人物が朝廷から佐渡守の受領名を与えられており、この本間佐渡守貞直の系譜に連なる河原田本間氏(かなり前から惣領家の雑太本間氏を凌いでいた)の通字は「直」の字であることから、いずれの人物も本間氏である可能性が高いのではないか。ところで【史料2・3】は、謙信が越中国から帰陣したことに祝意を表している内容により、それぞれ仮定・比定されたものと思われるが、果たして妥当であろうか。【史料2】には「当春越中口御出馬」とあるが、元亀4年の謙信は前年の初秋に越中国へ出陣すると、粘る敵軍を前にして越年するほかなく、ようやく初夏に帰陣したのであり、初秋に出陣した謙信の行動とは一致していないことになる。


【史料4】
雖不能書面、令馳一翰候、疾可令返答之処、万方取篭、殊当春、越中就出馬、弥延引本意之外候、今般以村松平右衛門令申候、為一儀巻物進之候、恐々謹言、
      卯月廿日          景勝御居判
        本間帰本斎


 戦国期には例に漏れることなく起こっていた佐渡国の内乱も、どうやら謙信の一世中は鳴りを潜めていたようであるが、次代の上杉景勝期に入ると再び活発となり(いずれも惣領家を凌ぐ、国仲の河原田本間氏と南部の羽茂本間氏の対立が主因であった)、なかなか収まらなかったので、景勝は何度か調停を試みていた。よって、前述したように本間一族との交信がほとんど確認できなかった謙信期に比べ、景勝期の方が本間一族と交信している機会が圧倒的に多いことから、むしろ【史料2・3】は景勝期に発給された文書のように思われたので、【史料2】の「当春越中口御出馬」と同じ状況を探してみたところ、ここに掲げた【史料4】の通り、天正9年に景勝が潟上本間帰本斎へ送った書状の「当春、越中就出馬」が一致していたことから、【史料2・3】は天正9年に比定するべきであろう。こうなると、【史料2・3】を発給した両名は本間氏と考えても良いのではないだろうか。
 天正17年の晩夏から初秋に掛けて、前年の上洛時に関白羽柴秀吉から佐渡経略の認可を受けていた景勝は、自ら渡海して違背者たちを滅ぼすと、協力者の潟上・沢根本間氏でさえも越後国へ移し、家宰の直江山城守兼続に代官支配させた(与板衆の河村彦左衛門尉吉久が代官を務め、上田衆の黒金安芸守尚信・清水内蔵助、もとは謙信旗本であった富所伯耆守、同じく謙信旗本であった小中彦右兵衛尉(上野国沼田城衆)の与力に配されていた鳥羽十左衛門尉らが各郷の拠点に在番した。のちに在番衆は数名が入れ替わっている)。


※ 『上杉家御年譜』の天正5年4月条には、佐渡国において反逆者が各所で蜂起すると、所司代の蓼沼右京亮は越府へ急報を発したのち、防戦むなしく敗死してしまったので、越後国神洞城主の甘粕藤右衛門尉景継を指揮官とする軍勢が派遣されて一揆を鎮圧したとあるが、そうした事実は今のところ確認できない。そもそも甘糟景継は景勝の直臣であり、当時は蒲原郡菅名荘の神洞城主を務める立場にも、謙信の部将として軍勢を指揮する立場にもなかった。


『上越市史別編1 上杉氏文書集一』 344号 上杉輝虎願文、995号 上杉輝虎書状(影写)、1155号 為直書状、1156号 大宝寺泰高書状  『上越市史別編2 上杉氏文書集二』 1890号 武田勝頼朱印状、2117・2037号 上杉景勝書状(写) 2360号 上杉景勝書状 2362号 上杉景勝起請文 2363号 上杉景勝起請文(写) 2393号 上杉景勝書状(写)、2985号 本間季直書状(写)、2997号 本間高秀書状(写)、3281・3283・3284・3286号 上杉景勝書状(写)、3306~3311号 上杉景勝朱印状(写)  『新潟県史 資料編5 中世三』 3096号 大般若波羅密多経奥書 3134号 後奈良天皇口宣案  『上杉家御年譜一 謙信公』  『新潟県史 通史編2 中世』  『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』
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上杉謙信期の戦歴 【下】

2016-11-23 15:19:24 | 上杉謙信期の戦歴

【23】(85) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月上旬、武蔵国鉢形城を攻め囲み、鉢形領を焼き払う。

 天正2年11月上旬、相州北条軍の攻撃を受ける下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)の救援のために関東へ出陣すると、常陸国衆・佐竹義重(常陸国太田城主)を初めとする東方衆の参陣を待つ間の軍事行動として、相州北条陣営に属する国衆領を攻めるため、7日に利根川を渡り、まず相州北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦が拠る武蔵国鉢形城(男衾郡)を攻め囲むと、鉢形領を焼き払った。


 【24】(86) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月上旬から同中旬に掛けて、武蔵国忍城を攻め囲み、忍領を焼き払う。

 天正2年11月上旬から同中旬に掛けて、相州北条陣営に属する武蔵国衆・成田氏長が拠る武蔵国忍城(埼西郡)を攻め囲むと、忍領を焼き払った。12日に成田氏長は、家中の小倉図書助が敵兵ひとりを討ち取ったので、その戦功を称えている。


 【25】(87) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、武蔵国松山領を焼き払う。

 天正2年11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆・上田長則が拠る武蔵国松山城(比企郡)を攻め囲むと、松山領を焼き払った。その後、越後衆だけを率いて下総国関宿城の救援に向かおうとしたところ、関東味方中の深谷上杉氏憲(憲盛の世子。武蔵国深谷城主)から相州北条軍が関宿陣を撤収したとの連絡が寄せられたので利根川を渡り返し、上野国新田領へ進攻した。


 【26】(88) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、上野国金山城を攻め囲み、新田領を焼き払う。

 天正2年11月中旬、相州北条陣営に属する上野国衆・由良成繁父子(子は由良国繁)が拠る上野国金山城(新田郡新田荘)を攻め囲んだところ、下総国関宿城の簗田晴助(号道忠)から相州北条軍が撤収した事実はないとの連絡が寄せられる。その一方で、東方衆の佐竹義重から間もなく合流するとの連絡が寄せられたので、下野国小山(都賀郡小山荘)の地で佐竹軍と合流することを決め、まずは金山城を攻めを続行し、外周部の田嶋・太田戸張際、淵名・金谷(金井ヵ)・湯ノ入寄居を攻めた。上野国女淵城将の後藤左京亮勝元(旗本衆)の寄子である北爪大学助がそれぞれの地で敵首一つを取る高名を挙げたといい、なかでも、敵兵を追い落とした湯ノ入寄居からの去り際に残党が追撃してきた時、名のある者を討ち取ったという。


 【27】(89) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、下野国足利城を攻め囲み、足利領を焼き払う。

 天正2年11月中旬、東方衆の佐竹軍と合流するべく、下野国小山の地へ向けて進軍中、相州北条陣営に属する上野国衆・足利長尾顕長由良成繁の次男で、足利長尾景長の名跡を継いだ)の支城である下野国足利城(足利郡足利荘)を攻め囲むと、足利領を焼き払った。その直後の20日には足利と佐野境の多田木山(只木山)に陣取り、人馬を休めた。この攻城戦において、女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)は、謙信の指示に従わず、配下に小旗をたたませたままで東戸張に攻めかかると、寄子の北爪大学助が同僚の樋口主計助親子と協力して敵首一つを取ったところで、配下に小旗を広げさせたという。


 【28】(90) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月22日、下野国佐野の鯉名沼(越名沼)に陣取り、佐野領を焼き払う。

 天正2年11月22日、相州北条陣営に属する下野国衆・佐野昌綱の領内である鯉名沼(安蘇郡佐野荘)に陣取ると、佐野領を焼き払った。その直後には、下総国関宿城を攻囲中の相州北条軍が構える塀門を備えた陣城から十五里足らずに位置する下野国沼尻(都賀郡)の地へ移陣し、関宿城救援作戦を練るために呼び寄せた関東味方中の小山秀綱(号孝哲。下野国衆)と簗田晴助(号道忠。下総国衆)の参着を待った。24日、あまりに悠長な佐竹義重の許へ萩原主膳允(旗本衆)に、わざわざ山崎専柳斎秀仙(儒者上がりの側近)を添えて派遣し、もはやいつ戦端が開かれてもおかしくない状況であり、この一戦を見過ごすことは、佐竹名字中の沽券に関わるとして、なりふり構わず合流するように求めた。その後、26日までに坂本(小山領か)の地に在陣して佐竹軍の合流を待ったが、一向に合流してくる気配がないので、27日、同陣の条件として謙信との誓詞の交換を求めてきた佐竹義重に対し、佐竹陣に滞在中の萩原主膳允と山崎専柳斎秀仙を通じて説得に努め、誓詞の交換については、時間を無駄にしないためにも同陣した上で、どのようにでも望み通りに誓詞を交換したいと考えていること、すでに長々と使者を往来させてやり取りしており、無事に誓詞を取り交わしたところで、その間に関宿が落城してしまっては、全くの徒労に終わってしまうこと、そもそも敵を前にしながら、いかに謙信が愚かであったとしても、どうして味方同士でありながら、好き好んで揉めたりするわけがないであろうこと、いささかなりとも悪意を抱いてはいないにもかかわらず、義重家中衆が謙信に疑心を抱いているのは、まさに天魔のなせる業としか思えず、このまま関東の諸士が衰亡する前兆であろうか、簗田持助の滅亡への始まりであろうか、ついに敵の計略に乗せられたしまったのは、無念極まりないこと、あまりにも関宿の状況が心配であり、簗田持助が不憫で仕方ないので、明日にも沼尻へ進陣すること、謙信が関東へ出陣してこないため、義重ばかりに負担がかかっているように見えるというのは、どうしたものであろうか、謙信が自分だけのために戦っていると思われるのならば、今後もそのように見えるであろうこと、そうなると謙信は、くみし易い国との対戦を優先し、関東の責務を果たすのは後回しにならざるを得ないこと、このような事態にでもなれば、そうこうしているうちに、簗田父子は言うに及ばず、小山・宇都宮は滅亡してしまい、佐竹は家政を取りさばけず、太田父子などは断罪されてしまうであろうこと、簗田父子の進退を軽く捉えられているようで、ただひたすら口惜しいこと、このように言い募ったが佐竹と謙信が同陣すれば、この実績が今後の敵味方の動向に強く作用するはずであり、これから味方中の戦線を構築するとともに、このたびの戦いで敵を容易に打倒するための秘策を用意していることなどを伝え、とにかく一刻も早く合流するように説得を尽くした。また、荻原と山崎に対し、これらを佐竹(北)義斯・同(東)義久・梶原政景・岡本禅哲・小貫頼安にも言い聞かせるべきことを伝えている。さらには、先年(永禄13年)の佐野陣のように、挙句の果て同陣しないのであれば、早々に交渉を切り上げて帰陣するべきこと、この上は越後衆だけで関宿救援に向かうこと、これだけ理を分けて誓詞を取り交わしたところで、佐竹義重が同陣してこないのであれば、もはや精根が尽きて言葉もないことを伝えた。28日、いよいよ関宿城の状況が窮迫しているため、再び沼尻へ単独で移陣した。


 【29】(91) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月29日、下野国関宿城を攻め囲んでいる相州北条軍に攻撃を仕掛ける。

 天正2年11月29日、下野国沼尻陣から下総国関宿城を攻囲中の相州北条軍が拠る陣城へ向けて足軽部隊を派遣し、攪乱攻撃を仕掛けさせた。こうしたなか、29日までに下野国三宮(芳賀郡益子)を経て同宇都宮城(河内郡)に着陣した佐竹義重が、近日中に合流することを知らせてきたので、再び佐竹陣へ山崎専柳斎秀仙を派遣して返答し、梶原政景と河合忠兼を陣下へ招き寄せ、その眼前で誓詞に血判を捺すので、一刻も早く対応するように求めるとともに、何度も知らせているように、関宿の落城の時は間近に迫っており、当陣は今日も彼の地へ足軽部隊を派遣し、敵の陣城に攪乱攻撃を仕掛けているので、油断なく行動してほしいことを伝えた。しかし、閏11月に入っても佐竹軍は合流しなかったので(佐竹義重は11月上旬から秘かに甲州武田勝頼を通じて相州北条氏政と和睦交渉を重ねていた)、謙信は、年若い佐竹義重が、いつものように言行不一致で利己的な佐竹家中にたぶらかされて、つまりは自分の意向に従うつもりはないものと判断し、佐竹側に関宿の進退を委ねることと、これから謙信独自の戦いに臨むことを通告したところ、佐竹義重が関宿の進退に責任を負うことを受け入れたので、下野国沼尻の地を発して下総国古河領(葛飾郡)・同栗橋領(同前)・上野国館林領(邑楽郡佐貫荘)を押し通り、利根川を渡って武蔵国へ進攻した。


 【30】(92) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国埼西城を攻め囲み、埼西領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆・成田氏長が拠る武蔵国忍城(埼西郡)を再び攻め囲むと、忍領を焼き払った。


 【31】(93) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国菖蒲城を攻め囲み、菖蒲領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆・金田佐々木信濃守が拠る武蔵国菖蒲城(埼玉郡)を攻め囲むと、菖蒲領を焼き払った。


 【32】(94) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国岩付城を攻め囲み、岩付領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆・太田氏が拠る武蔵国岩付城(埼玉郡)を攻め囲むと、岩付領(太田氏資が永禄10年に戦死して以降、相州北条氏政が当分の間、自ら管掌した)を焼き払った。


 【33】(95) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月18日、武蔵国羽生城を破却して羽生衆を引き取った際、相州北条陣営の軍勢と戦う。

 天正2年閏11月18日、武蔵国で唯一の味方中である菅原左衛門佐為繁・木戸伊豆守忠朝・同右衛門大夫(実名は重朝か)一族が拠る羽生城(埼玉郡太田荘)の保持が難しくなってきたことから、城を破却して羽生衆を引き取った際、相州北条陣営の軍勢と戦った。19日に上野国厩橋城まで戻ったのち、ついに相州北条軍と一戦を交えることなく帰国の途に就いた。これより前に相州北条氏政と常陸国衆・佐竹義重の間で和睦が成立し、16日の夕刻前に佐竹軍が帰国の途に就くと、19日に関宿は開城している。この羽生撤収時に、いいの入小屋衆が追撃してきたので、謙信自ら女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)の部隊を指揮して撃退したといい、なかでも後藤勝元の寄子である北爪大学助が敵の采配持ちを討ち取ったので、謙信から羽織を拝領したという。


 【34】(96) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年5月から同6月に掛けて、越中国の西郡へ出陣して寺島某の反乱を鎮圧する。

 天正3年5月中、越中国で寺島某(越中増山の神保氏の旧臣)が反乱を起こしたので、越中国の西郡へ急行して鎮圧すると、すぐさま帰国の途に就いた。この4月末に、東海遠征中の甲州武田勝頼加賀一向一揆に対し、この夏秋に越後国上杉軍が越中国へ侵攻するようであれば、越後国へ向けて出陣するので、越中一向一揆と共に越中国で再蜂起するように勧めており、寺島某の反乱もこれに関連するものか。


 【35】(97) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年7月から同8月に掛けて、再び越中国へ出陣し、改めて中郡を制圧する。

 天正3年7月から同8月に掛けて、再び越中国へ出陣すると、数ヶ所の要地を焼き払い、改めて中郡を制圧した。これにより、加賀国への通路が開けたので、長駆して加賀国へ進んだ。


 【36】(98) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年8月中、加賀国へ進んで各所を焼き払う。

 天正3年8月中、越中国の中郡を制圧したのち、加賀一向一揆を打倒するため、長駆して加賀国へ進むと、数ヶ所の要地を焼き払った。


 【37】(99) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年9月下旬、北陸から関東へ直行し、上野国新田領を焼き払う。

 天正3年8月21日に越後府城の春日山城に帰着すると、そのままの軍勢で関東へ直行した。こうしたなか、9月5日に相州北条陣営に属する上野国衆・由良氏の軍勢により、上野国勢多郡黒川谷における自陣営の寄居二ヶ所が攻撃を受けたので、上野国沼田城将の河田伯耆守重親が同地域へ出撃し、8日に由良氏の支城である上野国五覧田城(由良氏が再興して重臣の藤生紀伊守を配置した)を攻めたところ、五覧田城と周辺の寄居二ヶ所の城衆による連携攻撃を受け、多数の戦死者(由良側は三百余名を討ち取ったとしている)を出して敗れた。11日、上野・越後国境の越後国塩沢(魚沼郡上田荘)の近辺まで進軍してきた謙信は、5日以降、河田重親から連絡がこないことを案ずるなか、先遣軍の本庄清七郎(実名は綱秀か。旗本衆)・河田対馬守吉久(同前)・新保清右衛門尉秀種(同前)・松本衆(幼主の松本鶴松丸に代わって陣代が率いる。旗本衆)と上田衆(上田長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)に対し、明日には塩沢の地に至ること、これまでの指示通り沼田城へ急行するべきこと、一騎一丁も人数を欠いてはならないこと、もし、黒川谷へ進陣するような状況になり、それで敵軍が退散するようであれば、越後国浅貝(魚沼郡上田荘)か、上野国猿京(吾妻郡)の地で待機して本軍と合流するべきこと、また、黒川谷へ進軍しても敵軍が退散しなかった場合は、予定通り沼田城へ入るべきことなどを伝えた。9月下旬、相州北条陣営に属する上野国衆・由良成繁父子が拠る上野国金山城を攻め囲むと、新田領を焼き払った。


 【38】(100) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年10月15日、上野国仁田山城に対する向城の谷山・皿窪城を攻め落とす。

 天正3年10月13日、上野国沼田城の管区である上野国仁田山城(勢多郡)に対して上野国衆・由良氏が構えた向城の谷山・皿窪城を攻め囲むと、15日までに両城を攻め落とし、男女の区別なく総勢をなで斬りにした。この皿窪城攻略において、謙信の見守るなか、近習衆の多功勘之丞(実名は清綱か)が高名を挙げ、脇差と朽葉色の袷着物を拝領したという。また、攻め口に鉄炮の弾除けの竹束を設置する任務を仰せ付けられた者のうち、女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)の寄子である北爪大学助・今井助之丞・同与兵衛尉が任務遂行中に敵方の妨害に合って応戦したが、やはり謙信の見守るなか、今井両名は戦死し、北爪大学助は敵兵ひとりを討ち取るも瀕死の重傷を負い、謙信の指示を受けた者たちによって救い出されたという。


 【39】(101) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年10月下旬、上野国五覧田城を攻め落とす。

 天正3年10月下旬、上野国衆・由良氏が再興した上野国五覧田城を再び攻め落とした。この攻城戦において、近習衆の多功勘之丞が一日のうちに敵首三つを取る高名を挙げたので、御前に召し出されると、謙信側近の吉江織部佑景資を通じて金子を拝領したという。


 【40】(102) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、上野国伊勢崎城下の赤石の地を荒らす。

 旧冬に関東味方中の小山秀綱の本拠地と支城である下野国祇園城(都賀郡小山荘)と榎本城(同中泉荘)が相州北条軍によって攻略されてしまい(小山秀綱は佐竹氏を頼って常陸国那珂西郡の古内に移った)、東方衆が榎本城を奪還するも、相州北条氏政の兄弟衆である北条氏照(武蔵国滝山城主)が祇園城へ入って榎本城を圧迫したことから、彼の要害を守る太田道誉・梶原政景父子からの救援要請と、相州北条家上野国衆・由良氏の支城である上野国伊勢崎城(佐位郡)を増強していることへの対応を求められたことに加え、天正4年2月上旬に由良軍の攻撃を受けて上野国善城が多大な損害(由良側は百余名を討ち取ったとしている)を被った報復のため、5月に入って関東へ出陣すると、上野国伊勢崎城下の赤石の地を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。


 【41】(103) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、上野国金山城下の新田領を荒らす。

 天正4年5月中旬、上野国衆・由良成繁父子の上野国新田領を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。


 【42】(104) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、下野国足利城下の足利領を荒らす。

 天正4年5月中旬、相州北条陣営に属する下野国衆・長尾顕長由良成繁の次男)の下野国足利城下の足利領を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。その後、足利と新田の間に位置する新田荘の金井宿に陣取ると、渡良瀬川から新田と足利を流れる用水路を断ち切った。赤石・新田・足利、いずれの領内の給人と地下人は田畑を失ったので、妻子を引き連れて利根川以南へ逃げ去っていった。


 【43】(105) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月晦日、上野国桐生城下の桐生領を荒らす。

 天正4年5月晦日、上野国衆・由良氏の支城である上野国桐生城下の広沢(山田郡)の地にすると、桐生領を蹂躙した。同日、越後府城の春日山城に留守居する直江大和守景綱に対し、上方の状況が気になっていたところ、またしても大坂(石山本願寺)が勝利し、織田信長が敗北したと聞いて、実に爽快で満足しており、何と言っても、この春に加賀一向一揆との一和がまとまっているわけで、名実を得られたこと、今次の関東遠征における赤石・新田・足利での成果は、数年に亘る関東遠征のなかでも、これほどまでに敵方を追い詰めたことはないとして、諸将が沸き立ち、取り分け北条丹後守父子(北条安芸守高広・同丹後守景広父子)が喜んでおり、今日も桐生を蹂躙し、田畑を深々と掘り返したこと、この6・7月には北陸へ出陣しなければならないので、近日中に帰国の途に就くこと、甲・南の凶徒とは一騎一人たりとも出くわさなかったので、安心してほしいこと、東方衆も類を見ないほどに後援してくれたので、これまた安心してほしいこと、昨日は新田衆が追いすがってくるも、厩橋衆が迎え撃って二十余の敵兵を討ち取ったこと、言い表しようがないほど新田衆は戦技に劣り、間違いなく烏合の衆なので、厩橋衆ばかりで軽くあしらえたこと、こうしたところから、新田衆が無力であると見立てたことなどを伝えた。


 【44】(106) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年8月中、越中増山の神保長城の支城である栂尾城を攻め落とす。

 備後国鞆の浦に寓居する将軍足利義昭の呼び掛けにより、天正4年春に成立した芸州毛利家と摂州石山本願寺との軍事連合の盟約に従って尾(江)州織田家と戦うため、まずは北陸平定を目指し、同年8月中に越中国へ出陣すると、越中増山の神保長城の支城である越中国栂尾城(飛騨・越中国境の新川郡猿倉山の猿倉城か、同じく船倉の船倉城と考えられているが、婦負郡般若荘の増山城近くに位置する要害の可能性もあるか)を攻め落とした。


 【45】(107) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年8月中、越中増山の神保長城の拠る越中国増山城を攻め落とした。

 天正4年8月中、越中国増山城(砺波郡般若荘)に拠る神保長城を攻め滅ぼした。その後、飛騨口の二ヶ所に城郭を築き、城衆を配備して統治体制を整えると、9月9日には越中国の西郡奥部へ進攻した。この攻城戦において、越後国上杉軍が二の丸まで攻め上った際、近習衆の多功勘之丞が鑓先の高名を挙げ、謙信から盃を賜ったという。


 【46】(108) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年9月中、越中国湯山城を攻め落とす。

 天正4年9月中、越中国の西郡奥部に位置する湯山城(射水郡氷見)を攻め落とした。これにより、越中国の全土を平定した。


 【47】(109) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年11月から同12月に掛けて、能登国を席巻する。

 天正4年11月中、越中国の西郡奥部の支配体制を整えたのち、能登国へ進攻すると、能州畠山家の本拠地である能登国七尾城(鹿島郡)を除いた要地を制圧して守将を配備した。この間、七尾城の向城として石動山城を築いた。


 【48】(110) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年12月28日、能登国七尾城下の大寧寺口で戦う。

 天正4年12月28日、能州畠山家の年寄衆(これ以前に当主の畠山義慶は病死したとも暗殺されたとも伝わり、その跡に担ぎ出された弟の義隆も病死したとも暗殺されたとも伝わる。また、両人は同一人ともいわれる)が拠る能登国鹿島郡の七尾城下の大寧寺で能州畠山軍と戦った。その後、七尾城の向城である石動山城に旗本衆の直江大和守景綱・山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久・船見衆(当主に代わって陣代が率いる)を籠めると、自身は越中国で越年する。この大寧寺口の戦いにおいて、近習衆の多功勘之丞が高名を挙げたので、謙信側近の吉江織部佑景資を通じて小袖を拝領したという。


 【49】(111) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年春、能登国七尾城下で戦う。

 天正5年春、奥能登衆が七尾城に入城するとの情報を得たので、「ミかさ」の鳥井小屋に草の者を主体とする軍勢を配置し、待ち伏せ攻撃をさせた。この戦いにおいて、近習衆の多功勘之丞が草の者に交じって多数の敵兵を討ち取る高名を挙げ、謙信から盃を賜ったという。


 【50】(112) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年8月上旬、能登国末守城を攻め囲む。

 天正5年閏7月上旬、尾(江)州織田軍と戦うにあたり、越中国に続いて能登国の平定を目指して、尾(江)州織田陣営に属する能州畠山家の能登国七尾城を攻めるために出陣し、閏7月8日に越中国魚津城(新川郡)に着陣して軍勢を整えていたところ、尾(江)州織田信長が北陸へ出陣してくるとの情報を聞き、ついに待望していた織田信長との対戦が実現することを喜び、類まれな決着をつける覚悟で臨む。一方、織田信長は、同10日、北陸を管掌させている柴田勝家(越前国北ノ庄城代)の与力である前田利家に対し、来月8日に加賀国へ向けて進発することを伝え、同23日には、羽州米沢の伊達輝宗に対し、越後奥郡国衆の本庄繁長(号全長)と協力して越後国へ進攻するように求めている(実際に信長が本庄繁長と連絡が取れていたのかは分からない)。8月に入り、加賀・能登国境に位置する能登国末守城(羽咋郡)を攻め囲んだ。こうしたなか、8月8日に尾(江)州織田家の宿老衆である柴田勝家が率いる尾(江)州織田軍瀧川一益・羽柴秀吉・惟住(丹羽)長秀・武藤舜秀・斎藤利治・氏家直通・伊賀(安藤)守就・稲葉良通(号一鉄)・不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近・若狭衆で構成された)が加賀国に侵攻し、小松・本折・安宅・富樫の各所を焼き払ったので、賀州金沢御堂の七里頼周から出馬要請を受けると、織田信長が加賀国へ侵攻してくるようであれば、何度も伝えているように、北国の防衛といい、大坂(石山本願寺)への覚えといい、決して見放したりはしないこと、急報が寄せられ次第、末守城の攻略を後回しにしてでも攻め上るので、それまでは、加賀国御幸塚城(能美郡)の普請は万全なのだから、国衆・同心が奮起して堅持するべきこと、御幸塚城を敵に明け渡すような不甲斐ない真似をしてはならず、謙信が着陣するまでの間、防備に油断があってはならないことなどを伝えた。一方、能州畠山軍と合流するために末守城を目指している尾(江)州織田軍は、能登への通路が難所ばかりなので、行軍に適した浜手を進もうとしたが、石川郡の宮越までは不通であったことから、同郡の松任の城際を通って山手の通路を進むほかなく、まずは松任城を奪取したところ、松任近辺もかなりの難路で見通しが悪く、そればかりか、末守城からの連絡によると、七手組を頭とする三千ほどの越後国上杉軍と一揆勢が加賀・能登国境の加賀国高松城(河北郡)に配備されてしまい、また、能登国の全百姓が上杉方となり、七尾と末守の間が不通であるために七尾からの飛脚が行き来できず、情報不足が著しいことから、松任城での滞陣を余儀なくされた。それでも9月10日には、翌日に宮越川(犀川)辺りまで進出して支配域を伸ばすことを決めたが、昨日の降雨によって川が増水していたので、更に一両日の滞陣を余儀なくされている。


 【51】(113) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月15日、能登国七尾城を攻め落とす。

 天正5年9月11日、数千の能州畠山軍が越前(能登か)・加賀国境へ赴いて、尾(江)州織田軍を招き寄せたので、加賀国高松城へ進出させていた七手組で構成された三千ほどの越後衆と越中衆に加賀一向一揆を加えた軍勢を差し向けると、その軍勢が敵軍(能州畠山軍織田・畠山方の加賀衆)を打ち破った(石山本願寺の内衆・下間頼廉は上杉方が八百ばかりの敵兵を討ち取ったとしている)。そして謙信自身は、末守城の攻略を後回しにすると、「馬廻・越中手飼之者」を率いて七尾城を朝から晩まで激しく攻め立てた。同15日、遊佐続光が年来の奏者の交誼をもって内通し、自分の曲輪に越後衆を引入れたので、そこから更に自ら軍勢を率いて実城へ攻め込み、首魁の長続連・同綱連・同連常・同連盛・杉山則直一類一族を初めとして百余名を討ち取ると、若年で実権を有していなかった当主の畠山次郎(実名は義春か)とその母(三条氏)を保護し、温井景隆・三宅長盛・同藤王丸父子・平堯知ら、長一族以外の年寄衆については助命した。その日のうちに要害の応急補修を済ませ、実城に「手飼之者」を配備すると、再び末守城の攻略に向かった。


 【52】(114) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月17日、能登国末守城を攻め落とす。

 天正5年9月17日、能登国末守城(羽咋郡)を攻め落とすと、一家衆の山浦源五国清と譜代衆の斎藤下野守朝信を守将として配備した。


 【53】(115) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月23日、尾(江)州織田軍を加賀国湊川(手取川)流域で打ち破る。

 天正5年9月18日、未だ能登国が一変したことを知らない尾(江)州織田軍(謙信は信長も出張っていると認識していた)の加賀国松任陣を目掛け、先鋭の越後・越中・能登衆の諸勢を繰り出し、後から旗本も続いたところ、尾(江)州織田軍は謙信の着陣を知ってか、同23日の夜中に後退し始めた。これに乗じて尾(江)州織田軍を追い崩し、数多くの敵兵を討ち取り(謙信は千余人と言っている)、それ以外の敗残兵を湊川(手取川)へ追い落とすと、折からの増水で人馬は押し流された。翌24日、湊川以西の地で態勢を立て直した尾(江)州織田軍が再戦を挑む様子を見せているようだと知り、最前線の城砦で敵軍の動きを注視させている旗本衆の河田窓隣軒喜楽と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)に対し、敵との一戦は、これをこそ願うものであるとして、しっかりと敵に実否を確認し、敵にその気があるならば日取りの交渉をするべきことと、敵がその地へ攻めかけてきたとしても、決して取り合ってはならず、対策は講じているので、勝利は眼前であることを伝えた。結局、尾(江)州織田軍と一戦するには至らなかった。

※ この間に、謙信は加賀国松任城(城主の鏑木頼信は加賀一向一揆の旗本衆。尾(江)州織田軍に攻められた際に従属したらしい)を攻め落としているかもしれない。この攻城戦において、近習衆の多功勘之丞が大手の堀際で高名を挙げた際、鑓で膝を貫かれたが、何とか無事に後退すると、謙信から越中国新庄城将の鰺坂備中守長実を通じて酒と薬を賜ったという。


 【54】(116) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月25日、能登国松波城を攻め落とす。

 天正5年9月25日、ついに尾(江)州織田軍は一戦に応じなかったので、能登国七尾城へ戻ったところ、奥能登で畠山遺臣の松波義親(かつての能登守護畠山義続(号悳佑)の次男と伝わる)が反抗したので、能登国へ取って返し、松波城(珠洲郡)を攻め落とした。松波義親は自害したという。吉日の26日、再び七尾に登城して要害の普請を指図した。同29日には、北陸経略の様子を案じて連絡を寄越してきた関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子に返書を送り、今般の北陸経略では全て思い通りの成果を挙げられたこと、今後に迎えるであろう織田信長との天下を掛けた決戦への手応えを得られたこと、このたびの北陸経略で獲得した能登国七尾城は、加賀・能登・越中三国の要の地形であり、要害は山と海とが調和し、海面と島々の様相は絵像に写し難いほどの景勝であること、同じく獲得した越中・能登両国の城々は名地ばかりであり、これらに「手飼之者」を配備したので、敵味方の覚えもめでたく、老後の面目を施したこと、どれもが吾分父子にも見せたいほどであること、七尾城は要害としての機能も見事に備わっており、普請の手間は掛からないので、やがて帰府したのち、来る関東計略について相談したいことなどを伝えた。それから暫く北陸に在陣して新領の統治を施したのち、11月22日に帰府した。12月23日には、来春予定の関東大遠征に動員する分国中の侍衆を名簿にまとめた。
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上杉謙信期の戦歴 【上】

2016-11-09 08:43:18 | 上杉謙信期の戦歴
 
 【1】(63) 越後国(山内)上杉謙信、元亀2年3月中旬、越中味方中の神保長職からの懇願を受け、越中国へ出陣して中郡を制圧する。

 元亀2年3月中旬、相州北条氏との盟約に基づき、駿河国在陣中の甲州武田軍を挟撃するために関東へ出陣する予定であったが、甲州武田軍が帰陣したことと、越中一向一揆の攻勢に押されている越中味方中の神保長職(越中国増山城主)から救援要請を受けたことにより、関東出陣を取り止めて越中国へ出陣し、17日に神通川を渡ると、19日までに中郡を制圧した(十数ヶ所の敵城を攻め落としたという)。更に六渡寺川(小矢部川)を渡って越中国の奥郡に位置する守山・湯山城を攻略するつもりでいたが、大河の増水によって断念した。


 【2】(64) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年正月3日、上野国石倉城を攻め落とす。

 元亀2年11月に関東へ出陣すると、関東味方中の小田氏治(常陸国木田余城主)からの要請を受け、年明け早々に甲州武田信玄と連帯している常陸国衆・佐竹義重(常陸国太田城主)を攻めるつもりでいたところ、12月に越・相同盟が破談したので、甲州武田家に同盟を持ち掛けるも、相州北条家との同盟を復活させた甲州武田家相州北条家を含めた三和ならば考えるとの返答を寄せてきたので、甲州武田家との同盟を諦めた。これにより、予定を変更して利根川を渡ると、甲州武田領の西上野へ進攻し、正月3日、越後国上杉家の関東における拠点の上野国群馬郡の厩橋城に対向する同郡の石倉城を攻め落とした。それから三日かけて石倉城を破却すると、6日、小田氏治との盟約に従って常陸・下野国境辺りを目指して進攻するため、一旦、厩橋城へ帰還した。


 【3】(65) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年正月上旬から閏正月上旬の間、甲州武田軍と利根川を挟んで駆け引きする。

 元亀3年正月上旬、甲州武田軍が西上野に現れて群馬郡の石倉付近に布陣したことから、利根川を挟んで対陣し、閏正月上旬まで駆け引きした。この間、相州北条氏政の兄弟衆である北条氏照(武蔵国滝山城主)と宿老衆の大道寺政繁(武蔵国河越城代)を主力とする相州北条軍が、甲州武田軍と共闘するために進陣してきたので、関東味方中の深谷上杉憲盛(武蔵国深谷城主)の許へ加勢を派遣して対応させると、上野国倉賀野表において相州北条軍を打ち破っている。10日以前には利根川端を引き払うと、東方へ進陣することなく、閏正月下旬から2月上旬に掛けて帰国の途に就いた。


 【4】(66) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年8月上旬、加賀・越中一向一揆が拠る越中国富山城を攻め囲む。

 元亀3年5月に甲州武田家と提携する加賀一向一揆(加賀国四郡のうち河北・石川郡一揆)が越中国の中郡に進出して越中一向一揆勝興寺・瑞泉寺越中惣国衆を率いる)と合流し、越後上杉陣営に属する越中増山の神保氏の家臣団(当主の神保長職(号宗昌)・同長城父子とそれに従う家臣団は越中一向一揆に味方している)が拠る越中国射水郡の火宮城(日宮城)を攻め囲んだので、火宮衆からの救援要請を受けた越後国上杉家の越中駐留軍(一家衆の山本寺伊予守定長、譜代衆の長尾小四郎景直、旗本衆の河田豊前守長親・鰺坂清介長実)は、越府へ援軍を要請する一方、鰺坂清介長実と山本寺伊予守定長らが火宮城の救援に向かい、越中国婦負郡御服荘の五福山(呉服山)に布陣した。ところが、6月14日に加賀・越中一向一揆が大挙して押し寄せてきたので、たまらず後退すると、神通川の渡し場で大敗してしまった(山上に布陣した山本寺定長は後退が遅れて二十余名の戦死者を出した)。これにより、火宮城衆は加賀・越中一向一揆と和睦して火宮城を明け渡すと、越中・能登国境の石動山へ避難した。そして、加賀・越中一向一揆は越中国新川郡の富山城に拠った。先の援軍要請を受けた謙信は、秋に予定していた関東遠征を取り止め、まず6月中旬に先遣軍と後続の直江大和守景綱を越中国へ向かわせてから、甥の上田長尾喜平次顕景(配下の軍勢は越中・越後国境に在陣している)、旗本衆の山吉孫次郎豊守(配下の軍勢は謙信の許にある)・河田対馬守吉久・北条下総守高定、儒者上がりの側近である山崎専柳斎秀仙を越府の留守居に定め、8月上旬に自身が出馬し、加賀・越中一向一揆が拠る越中国富山城に攻め寄せると、直江景綱を本国防衛のために越府へ戻した。


 【5】(67) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年8月29日から晦日に掛けて、加賀・越中一向一揆と激しく戦う。

 元亀3年8月29日に越中国富山城に攻めかかると、翌日の晩には加賀・越中一向一揆と激しく鉄炮を撃ち交わした。


 【6】(68) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年9月8日から翌9日に掛けて、加賀・越中一向一揆と激しく戦う。

 元亀3年9月8日の昼頃から加賀・越中一向一揆と激戦となり、馬上の者が討ち取られた。翌9日には反撃に転じ、水橋某ら十余名の敵将を追い落とした。同10日、上野・越後国境の越後国上田口と信濃・越後国境の越後国祢知口における防備の不安が解消されたので、越中・越後国境付近に在陣している旗本衆の本庄清七郎(実名は綱秀か)・後藤左京亮勝元と上田衆(上田長尾顕景の同名・同心・被官集団)のうち、上田衆を越中国富山陣に呼び寄せるため、統率者の栗林次郎左衛門尉房頼へ指示を送り、小旗をたたんで夜間に前進し、新川郡布施保の石田の地に着いてから小旗を開くべきこと、同じく京田(経田)の地に着いたら、そこで待機し、連絡を入れるべきこと、当陣から鑓と小旗を送るので、前進を再開して椎名康胤の金山(松倉)領を通過する際には軍勢が多く見えるように努めるべきことなどを指示した。13日、富山陣の間近まで進んできた上田衆に対し、明日の夜中に通るべき道筋と、敵陣からの銃撃を覚悟しておくべきことを伝えるとともに、迎えの人数を向かわせるので、敵陣からは大軍が到着したと見えるように努めるべきことを指示した。


 【7】(69) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年9月中旬から同下旬に掛けて、加賀・越中一向一揆の惣軍と対峙する。

 元亀3年9月17日の晩に飛騨国の味方中である江馬輝盛(飛騨国諏訪高原城主)が参陣してきたので、信濃衆の村上源五国清を迎えに出したところ、敵陣が割って入ってくるように見えたことから、自陣を前進させて対応した。すると、展開させた物見衆に敵勢が襲い掛かったので、物見衆は河田豊前守長親の人衆と助け合って迎撃し、十数名の敵兵を討ち取った。その勢いに乗じて全軍を押し出すと、敵陣は後退したので、そのまま追撃して富山城に迫ったところ、加賀・越中一向一揆の惣軍が姿を現した。この総勢三万とも四万とも噂される加賀・越中一向一揆と対峙すると、実際は自軍の半数である四千と見積もった。未明には、どうしたわけか多数の敵兵が火宮筋へ落ちて行った。これについては、近江国で江北浅井軍と連合して尾(濃)州織田軍と戦っていた越前国朝倉軍が敗退したからであるとか、増山衆(神保勢)が戦線離脱したからであるとか、能州畠山家が謙信と接触したからであるとかいった風説が流れている。翌18日、越府に残留させている甥の上田長尾喜平次顕景、旗本衆の山吉孫次郎豊守・河田対馬守吉久・北条下総守高定、儒者上がりの側近である山崎専柳斎秀仙に対し、富山陣の戦況を伝えるとともに、当月中に越後府城の春日山城の大手口に甲州武田軍が侵攻してくるとの情報を得たので、留守衆は春日山城(旗本衆の直江大和守景綱が守っている)へ移るべきこと、勝手に参陣してはならないこと、本国に何事もなければ、来月10日頃には富山陣の決着がつくはずであること、本国に危機が迫った際に、要地へ配置する部将は手配済みであることなどを伝えた。22日には、甲州武田信玄が信濃国の奥郡に出陣してきたとの急報を得て、自身の馬廻衆を越府へ戻した。10月3日、上田長尾顕景に対し、適当な時期になったら、先月末に帰府させた自身の馬廻衆と一緒に呼び寄せることを伝えた。その一方で、6日には、越後・出羽国境を警戒させている外様衆の鮎川孫次郎盛長(謙信出馬の直前、外様衆の大川三郎次郎長秀が、勝手に出羽国の味方中である大宝寺氏の領内に攻め入っていた)に対し、加賀・越中一向一揆を陣城に追い詰めたので、彼らが越前国朝倉義景を頼んで和睦を懇願しており、これを取りまとめて中旬には帰陣するつもりであることを伝えていた。結局、10日までに富山陣での越年を決めると、降雪期を迎えて信濃・越後国境が深雪に閉ざされるのを見越して、上田長尾顕景と山吉豊守に対し、自身の馬廻衆を引き連れて参陣するように伝えた。23日に上田長尾顕景・山吉豊守らが到着して軍勢が増し、富山城と椎名康胤が立て籠もる東郡の松倉城を圧迫するかたわら、鷹狩などを催して過ごし、やがて年越しを迎えた。


 【8】(70) 越後国(山内)上杉謙信、元亀4年正月下旬、甲州武田、加賀・越中一向一揆陣営に属する越中金山(松倉)の椎名康胤を滅ぼす。

 元亀4年正月中旬、加賀・越中一向一揆からの和睦要請を受け入れたのち、彼らが立ち去った富山城を接収すると、20日に甲州武田、加賀・越中一向一揆陣営に属する椎名康胤が、甥の上田長尾喜平次顕景を通じて和睦を懇願してくるも、これを拒否して越中国松倉城を攻め取った。その後、甲州武田信玄の策謀に従った加賀・越中一向一揆が富山城を奪還したので、取って返して再び富山城を攻め囲んだ。


 【9】(71) 越後国(山内)上杉謙信、元亀4年正月下旬から同年3月上旬に掛けて、再び越中国富山城を攻め囲み、富山城に対する向城を築く。

 元亀4年正月下旬、加賀・越中一向一揆と和睦して越中国富山城を接収したのち、帰陣の途中で椎名康胤を滅ぼしたところ、甲州武田信玄の策謀により、加賀・越中一向一揆が富山城を奪還したので、取って返して再び富山城を攻め囲むと、まず2月下旬までに稲荷山の地に向城を築き、新庄城に駐留させていた越後衆を配備し、続いて3月上旬までに岩瀬・本郷・二宮・押上の地にも向城を築いた。


 【10】(72) 越後国(山内)上杉謙信、元亀4年3月18日、越中国富山城下のいたち川流域で加賀・越中一向一揆と戦う。

 元亀4年3月18日、陣城から出撃してきた加賀・越中一向一揆と富山城下のいたち川流域で戦った。近習衆の多功勘之丞(実名は清綱か。当時は14歳と伝わる)が鑓下の高名を挙げ、金襴の羽織を拝領したという。その後、旗本衆の河田豊前守長親・鰺坂清介長実、信濃衆の村上源五国清を初めとする越中駐留軍のほかに、一家衆の上杉十郎(実名は信虎か)・上条弥五郎政繁・山本寺伊予守定長・琵琶嶋弥七郎(実名は政勝か)、譜代衆の石川中務少輔・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信、外様衆の新津大膳亮(実名は資相か)・加地彦次郎(実名は知綱か)・平賀左京亮重資、旗本衆の船見宮内少輔(実名は規泰か)・本庄清七郎(実名は綱秀か)・吉江織部佑景資、外様衆の本庄弥次郎繁長陣代、旗本衆の松本鶴松丸陣代を、今しばらく越中国に留まらせた上で、4月中旬に帰国の途に就き、21日に越後府城の春日山城に帰着した。5月中旬には、旗本衆の庄田隼人佑(実名は秀直か)と河隅三郎左衛門尉忠清を在番させている越中国宮崎城(新川郡)へ、越中・越後国境の海岸線に出没する海賊化した椎名牢人衆の襲撃に備えさせるための増援として、大身の直江大和守景綱と山吉孫次郎豊守を派遣した。


 【11】(73) 越後国(山内)上杉謙信、天正元年8月上旬、予定していた関東遠征を延期して越中国へ出陣し、加賀・越中一向一揆の番手衆が立て籠もる富山城を攻め囲むと、9月に攻め落とす。

 天正元年8月上旬、先月下旬以来、越中国富山城の向城に拠る越中駐留軍に対し、加賀・越中一向一揆の番手衆が攻勢に出ているため、予定していた関東遠征を延期して越中国へ出陣し、富山城を攻囲すると、9月中旬までに攻め落とした。


 【12】(74) 越後国(山内)上杉謙信、天正元年9月中旬、加賀・越中一向一揆の残党を撃破する。

 天正元年9月中旬、越中国富山城を失った加賀・越中一向一揆の残党が蜂起したので、何度も追い崩して敗走させると、富山城近郊の安養寺(新川郡宮保の安養寺であり、婦負郡末友の安養寺城郭伽藍ではない)に逃げ込んだ残党を一掃し、神通川以東から加賀・越中一向一揆を駆逐した。


 【13】(75) 越後国(山内)上杉謙信、天正元年9月23日、越中国滝山城を攻め落として破却する。

 天正元年9月18日、神通川以東から加賀・越中一向一揆を逐った余勢を駆って越中国婦負郡の滝山城に攻め寄せると、越後衆が奮戦して二日間で裸城にした。そして、加賀国から送り込まれていた本願寺門徒衆を戸張際で捕縛するなか、城将の水越某(増山神保氏の重臣)が、越中代官の河田豊前守長親の役所に逃げ込んできたので、その身命ばかりは助けると、城内を焼き尽くし、23日には跡形もなく破却した。


 【14】(76) 越後国(山内)上杉謙信、ようやく関東へ出陣すると、天正2年2月下旬、上野国赤堀城を攻め落とす。

 天正2年正月18日、相州北条軍に圧迫されている関東味方中の簗田道忠(晴助)・同持助父子(下総国関宿城主)の救援に加え、尾(濃)州織田信長・三(遠)州徳川家康と連携して甲州武田領へ攻め入るため(本来は旧冬の約束であったが、謙信は関東味方中との調整がつかずに遅れた)、関東へ向けて出陣し、2月5日に上野国利根郡沼田荘の沼田城まで着陣すると、織田・徳川連合軍が甲州武田領へ攻め入るのを待つ間の軍事行動として、相州北条陣営に属する上野国衆・由良成繁父子(子は由良国繁)の領域を攻撃目標と定め、上野国赤石口に布陣した。2月下旬に北上して佐位・勢多郡の粕川東岸地域へ進み、由良父子の同心である上野国衆・赤堀上野介(実名は景秀か)が拠る上野国佐位郡の赤堀城を攻め囲み、これを降した。赤堀氏は、山内上杉憲政(号光徹)の没落以来、その立場を変転とさせていたが、越・相同盟成立後の永禄13年に、山内上杉家の譜代家臣としての筋目に則り、上杉輝虎(謙信)に忠節を誓うと、関東代官の北条丹後守高広・同弥五郎景広父子の同心に配された。越・相同盟破談後は相州北条陣営からの圧迫によって苦境に立たされるところとなり、天正元年の秋以降に屈していた。


 【15】(77) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年2月下旬、上野国善城を攻め落とす。

 天正2年2月下旬、やはり由良氏の同心である上野国衆・善越前守が拠る上野国勢多郡の善城を攻め囲んだところ、善越前守が弟を越陣へ寄越し、和睦を懇望してきた。当初は滅亡させるつもりでいたが、最終的に帰属を認めた。


 【16】(78) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年2月下旬、上野国山上城を攻め落とす。

 天正2年2月下旬、これまた由良氏の同心である山上某が拠る上野国勢多郡の山上城を攻め囲み、これを降した。


 【17】(79) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年3月上旬、上野国女淵城を攻め落とす。

 天正3年3月上旬、上野国勢多郡の女淵城に拠る沼田平八郎(上野国沼田領の旧主であった沼田中務大輔(実名は顕泰か)の末子と伝わる)は一旦は帰属してきたにもかかわらず、由良氏に再び同心したので、粕川を渡って西岸に位置する要害を強襲し、沼田平八郎を追放すると、ここにも一部の越後衆を配備した。


 【18】(80) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年3月中旬、上野国深沢城を攻め落とす。

 天正2年3月10日、更に北上して勢多郡の渡良瀬川の西岸地域へ進み、相州北条陣営に属する上野国衆・阿久沢左馬助が拠る上野国勢多郡の深沢城を攻め囲んだところ、阿久沢兄弟が帰属を懇願してきたので、これを認めたが、念を入れて一部の越後衆を配備した。


 【19】(81) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年3月13日、上野国五覧田城を攻め落とす。

 天正3年3月13日、上野国衆・阿久沢氏の支城である上野国勢多郡の五覧田城を攻め落としたが、無用の地であったので放置した。


 【20】(82) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年3月26日、上野国金山城を攻め囲む。

 天正2年3月26日、軍勢を転じて南下すると、上野国新田領の藤阿久に布陣し、上野国衆・由良成繁父子が拠る上野国新田郡新田荘の金山城を攻め囲むと、新田領を焼き払った。


 【21】(83) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年4月10日から同年4月16日に掛けて、上野国羽生城を巡って相州北条軍と利根川を挟んで対峙する。

 天正2年4月10日、関東味方中の菅原為繁・木戸忠朝・同右衛門大夫(実名は重朝か)一族(菅原為繁は、木戸忠朝の兄であった広田直繁の子、木戸右衛門大夫は忠朝の子)が拠る上野国埼玉郡の羽生城を支援するために進陣したが、利根川の増水によって渡河できなかったので、上野国邑楽郡の大輪の地に布陣したところ、相州北条軍も羽生城の対岸に位置する武蔵国児玉郡の本庄の地に陣城を築いて対向してきた。13日、羽生城に来秋までの兵糧・弾薬を搬入しようとしたが、案内者である羽生衆・佐藤筑前守の不調法によって失敗した。15日には相州北条軍が羽生城から荒川の対岸に位置する武蔵国男衾郡の本田の地へ去ったようで、翌日に物見を出しても敵の姿は見えず、尾(濃)州織田・三(遠)州徳川連合軍が甲州武田領に攻め入る様子もなく、再三に渡って参陣を要請していた常陸国衆・佐竹氏ら東方衆(越・相同盟破談後、旧交が復活していた)の参陣もなかったので、上野国沼田城へ向かって撤収し、その後、帰国の途に就いた。この間、上野国西荘(佐位郡淵名荘)赤石の伊勢崎城に対する向城として、関東味方中の那波顕宗(上野国堀口城主)の領内である利根川の東岸流域と広瀬川の西岸流域の間に位置する那波郡の地に今村城を築いた。このたびの関東遠征では、ここ数年の間に相次いで他界した北条氏康武田信玄を意識した言説が目立った。


 【22】(84) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年8月中、北陸の「あさひ」城を攻め囲む。

 天正2年7月26日、これより前、関東味方中の羽生衆から、度重なる出陣要請と相州北条氏政が上野国厩橋城を攻めるとの情報が寄せられたので、すぐさま陣触れをしたところ、この日、相州北条軍の厩橋城攻めが事実と確認されたので、半途の先遣軍に対し、直ちに国境を越えて上野国沼田城へ急行するように指示する一方、自身も関東へ出陣しようとしたが、北陸で異変が起こったことから、関東出陣を取り止めて北陸へ出陣した。8月上旬、「あさひ」城を攻め囲んだ。敵軍から激しい砲火を浴びせられるなか、譜代衆の柿崎源三(柿崎和泉守景家の一族か)は腿を撃ち抜かれて重傷を負い、中間の孫四郎は撃ち殺されている。また、外様衆の中条与次景泰(旗本衆の吉江織部佑景資の次男。謙信の近習を務めていたが、この6月に中条越前守の名跡を継いだ)が、謙信の制止を聞き入れず、無謀にも鉄炮玉の飛び交うなかをひとり駆け歩くので、強者の小嶋某に頼んで引きずり返し、後方に拘禁した。7日に本国の吉江夫妻へ宛てて書状を送り、こうした事情を説明し、与次を無駄死にさせないためのやむを得ない措置であることへの理解を求めるとともに、いくら自分が言って聞かせても行状を改めないので、帰陣後に与次の身柄を両親に預けるほかないことを伝えている。9月には越中国に在陣して新領の統治に取り掛かった。

※ この時、越後国上杉軍が攻撃した「あさひ」城は、加賀・越中国境の加賀国河北郡五箇荘の朝日山城と越中・能登国境の越中国射水郡氷見の朝日山城が考えられる。前者であれば、またしても越中国で蜂起した加賀一向一揆を撃破し、敗走した敵が逃げ込んだ朝日山城を攻めたものか、後者であれば、永禄9年に年寄衆の総意によって能登国から追放されてしまい、近江在国を余儀なくされた畠山義綱(義胤)が、永禄11年、元亀4年に引き続き、天正2年秋にも軍勢を催して能登復帰を図っていたらしく、また、同じ頃、義綱の追放後に代わって擁立された能州畠山義慶(義綱の子)が、やはり年寄衆によって暗殺されたという伝承もあるので、これらに関係して能登国に近い氷見の朝日山城を攻めたものか。或いは、『三州志』などによると、天正年間に謙信が砺波郡の浅井城(赤丸城)を攻め落としたと伝わっており、この要衝である可能性も考えられるか(『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』新人物往来社)。
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