越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉謙信期の戦歴 【下】

2016-11-23 15:19:24 | 上杉謙信期の戦歴

【23】(85) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月上旬、武蔵国鉢形城を攻め囲み、鉢形領を焼き払う。

 天正2年11月上旬、相州北条軍の攻撃を受ける下総国関宿城(葛飾郡下河辺荘)の救援のために関東へ出陣すると、常陸国衆・佐竹義重(常陸国太田城主)を初めとする東方衆の参陣を待つ間の軍事行動として、相州北条陣営に属する国衆領を攻めるため、7日に利根川を渡り、まず相州北条氏政の兄弟衆である藤田氏邦が拠る武蔵国鉢形城(男衾郡)を攻め囲むと、鉢形領焼き払った。


 【24】(86) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月上旬から同中旬に掛けて、武蔵国忍城を攻め囲み、忍領を焼き払う。

 天正2年11月上旬から同中旬に掛けて、相州北条陣営に属する武蔵国衆・成田氏長が拠る武蔵国忍城(埼西郡)を攻め囲むと、忍領を焼き払った。12日に成田氏長は、家中の小倉図書助が敵兵ひとりを討ち取ったので、その戦功を称えている。


 【25】(87) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、武蔵国松山領を焼き払う。

天正2年11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆・上田長則が拠る武蔵国松山城(比企郡)を攻め囲むと、松山領を焼き払った。その後、越後衆だけを率いて下総国関宿城の救援に向かおうとしたところ、関東味方中の深谷上杉氏憲(憲盛の世子。武蔵国深谷城主)から相州北条軍が関宿陣を撤収したとの連絡が寄せられたので利根川を渡り返し、上野国新田領へ進攻した。


 【26】(88) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、上野国金山城を攻め囲み、新田領を焼き払う。

 天正2年11月中旬、相州北条陣営に属する上野国衆の由良成繁・同国繁父子が拠る上野国金山城(新田郡新田荘)を攻め囲んだところ、下総国関宿城の簗田晴助(号道忠)から相州北条軍が撤収した事実はないとの連絡が寄せらる。その一方で、東方衆の佐竹義重から間もなく合流するとの連絡が寄せられたので、下野国小山(都賀郡小山荘)の地で合流するべく、まずは金山城を攻めを続行し、外周部の田嶋・太田戸張際、淵名・金谷(金井ヵ)・湯ノ入寄居を攻めた。上野国女淵城将の後藤左京亮勝元(旗本衆)の寄子である北爪大学助がそれぞれの地で敵首一つを取る高名を挙げたといい、なかでも、敵兵を追い落とした湯ノ入寄居からの去り際に残党が追撃してきた時、名のある者を討ち取ったという。


 【27】(89) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月中旬、下野国足利城を攻め囲み、足利領を焼き払う。

 天正2年11月中旬、東方衆の佐竹軍と合流するべく、下野国小山の地へ向けて進軍中、相州北条陣営に属する上野国衆・足利長尾顕長(由良成繁の次男で、足利長尾景長の名跡を継いだ)の支城である下野国足利城(足利郡足利荘)を攻め囲むと、足利領を焼き払った。その直後の20日には足利と佐野境の多田木山(只木山)に陣取り、人馬を休めた。この攻城戦において、女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)は、謙信の指示に従わず、配下に小旗をたたませたままで東戸張に攻めかかると、寄子の北爪大学助が同僚の樋口主計助親子と協力して敵首一つを取ったところで、配下に小旗を広げさせたという。


 【28】(90) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月22日、下野国佐野の鯉名沼(越名沼)に陣取り、佐野領を焼き払う。

 天正2年11月22日、相州北条陣営に属する下野国衆・佐野昌綱の領内である鯉名沼(安蘇郡佐野荘)に陣取ると、佐野領を焼き払った。その直後には、下総国関宿城を攻囲中の相州北条軍が構える塀門を備えた陣城から十五里足らずに位置する下野国沼尻(都賀郡)の地へ移陣し、関宿城救援作戦を練るために呼び寄せた関東味方中の小山秀綱(号孝哲。下野国衆)と簗田晴助(号道忠。下総国衆)の参着を待った。24日、あまりに悠長な佐竹義重の許へ萩原主膳允(旗本衆)に、わざわざ山崎専柳斎秀仙(儒者上がりの側近)を添えて派遣し、もはやいつ戦端が開かれてもおかしくない状況であり、この一戦を見過ごすことは、佐竹名字中の沽券に関わるとして、なりふり構わず合流するように求めた。その後、26日までに坂本(小山領か)の地に在陣して佐竹軍の合流を待つも、それでもまだ合流しないので、27日、同陣の条件として謙信との誓詞の交換を求めてきた佐竹義重に対し、改めて佐竹陣中の萩原主膳允と山崎専柳斎秀仙を通じ、誓詞の交換については、時間を無駄にしないためにも同陣した上で、どのようにでも望み通りに誓詞を交換したいと考えていること、すでに長々と使者を往来させてやり取りしており、無事に誓詞を取り交わしたところで、その間に関宿が落城してしまっては、徒労に終わってしまうこと、そもそも敵を前にしながら、いかに謙信が愚かであったとしても、どうして味方同士でありながら、好き好んで揉めたりするわけがないであろうこと、いささかなりとも悪意を抱いてはいないにもかかわらず、義重家中衆が謙信に疑心を抱いているのは、まさに天魔のなせる業としか思えず、このまま関東の諸士が衰亡する前兆であろうか、簗田持助の滅亡への始まりであろうか、ついに敵の計略に乗せられたしまったのは、無念極まりないこと、あまりにも関宿の状況が心配であり、簗田持助が不憫で仕方ないので、明日にも沼尻へ進陣すること、謙信が関東へ出陣してこないため、義重ばかりに負担がかかっているように見えるというのは、どうしたものであろうか、謙信が自分だけのために戦っていると思われるのならば、今後もそのように見えるであろうこと、そうなると謙信は、くみし易い国との対戦を優先し、関東の責務を果たすのは後回しにならざるを得ないこと、このような事態にでもなれば、そうこうしているうちに、簗田父子は言うに及ばず、小山・宇都宮は滅亡してしまい、佐竹は家政を取りさばけず、太田父子などは断罪されてしまうであろうこと、簗田父子の進退を軽く捉えられているようで、ただひたすら口惜しいこと、このように言い募ったが佐竹と謙信が同陣すれば、この実績が今後の敵味方の動向に強く作用するはずであり、これから味方中の戦線を構築するとともに、このたびの戦いで敵を容易に打倒するための秘策を用意していることなどを伝え、とにかく一刻も早く合流するように説得を尽くした。また、荻原と山崎に対し、これらを佐竹(北)義斯・同(東)義久・梶原政景・岡本禅哲・小貫頼安にも言い聞かせるべきことを伝えている。さらには、先年(永禄13年)の佐野陣のように、挙句の果て同陣しないのであれば、早々に交渉を切り上げて帰陣するべきこと、この上は越後衆だけで関宿救援に向かうこと、これだけ理を分けて誓詞を取り交わしたところで、佐竹義重が同陣してこないのであれば、もはや精根が尽きて言葉もないことを伝えた。28日、いよいよ関宿城の状況が窮迫しているため、再び沼尻へ単独で移陣した。


 【29】(91) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年11月29日、下野国関宿城を攻め囲んでいる相州北条軍に攻撃を仕掛ける。

天正2年11月29日、下野国沼尻陣から下総国関宿城を攻囲中の相州北条軍が拠る陣城へ向けて足軽部隊を派遣し、攪乱攻撃を仕掛けさせた。こうしたなか、29日までに下野国三宮(芳賀郡益子)を経て同宇都宮城(河内郡)に着陣した佐竹義重が、近日中に合流することを知らせてきたので、再び佐竹陣へ山崎専柳斎秀仙を派遣して返答し、梶原政景と河合忠兼を陣下へ招き寄せ、その眼前で誓詞に血判を捺すので、一刻も早く対応するように求めるとともに、何度も知らせているように、関宿の落城の時は間近に迫っており、当陣は今日も彼の地へ足軽部隊を派遣し、敵の陣城に攪乱攻撃を仕掛けているので、油断なく行動してほしいことを伝えた。しかし、閏11月に入っても佐竹軍は合流しなかったので(佐竹義重は11月上旬から秘かに甲州武田勝頼を通じて相州北条氏政と和睦交渉を重ねていた)、謙信は、年若い佐竹義重が、いつものように言行不一致で利己的な佐竹家中にたぶらかされて、つまりは自分の意向に従うつもりはないものと判断し、佐竹側に関宿の進退を委ねることと、これから謙信独自の戦いに臨むことを通告したところ、佐竹義重が関宿の進退に責任を負うことを受け入れたので、下野国沼尻の地を発して下総国古河領(葛飾郡)・同栗橋領(同前)・上野国館林領(邑楽郡佐貫荘)を押し通り、利根川を渡って武蔵国へ進攻した。


 【30】(92) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国埼西城を攻め囲み、埼西領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆・成田氏長が拠る武蔵国忍城(埼西郡)を再び攻め囲むと、忍領を焼き払った。


 【31】(93) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国菖蒲城を攻め囲み、菖蒲領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆・金田佐々木信濃守が拠る武蔵国菖蒲城(埼玉郡)を攻め囲むと、菖蒲領を焼き払った。


 【32】(94) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月中旬、武蔵国岩付城を攻め囲み、岩付領を焼き払う。

 天正2年閏11月中旬、相州北条陣営に属する武蔵国衆・太田氏が拠る武蔵国岩付城(埼玉郡)を攻め囲むと、岩付領(太田氏資が永禄10年に戦死して以降、相州北条氏政が当分の間、自ら管掌した)を焼き払った。


 【33】(95) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年閏11月18日、武蔵国羽生城を破却して羽生衆を引き取った際、相州北条陣営の軍勢と戦う。

 天正2年閏11月18日、武蔵国で唯一の味方中である菅原左衛門佐為繁・木戸伊豆守忠朝・同右衛門大夫(実名は重朝か)一族が拠る羽生城(埼玉郡太田荘)の保持が難しくなってきたことから、城を破却して羽生衆を引き取った際、相州北条陣営の軍勢と戦った。19日に上野国厩橋城まで戻ったのち、ついに相州北条軍と一戦を交えることなく帰国の途に就いた。これより前に相州北条氏政と常陸国衆・佐竹義重の間で和睦が成立し、16日の夕刻前に佐竹軍が帰国の途に就くと、19日に関宿は開城している。この羽生撤収時に、いいの入小屋衆が追撃してきたので、謙信自ら女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)の部隊を指揮して撃退したといい、なかでも後藤勝元の寄子である北爪大学助が敵の采配持ちを討ち取ったので、謙信から羽織を拝領したという。


 【34】(96) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年5月から同6月に掛けて、越中国の西郡へ出陣して寺島某の反乱を鎮圧する。

 天正3年5月中、越中国で寺島某(越中増山の神保氏の旧臣)が反乱を起こしたので、越中国の西郡へ急行して鎮圧すると、すぐさま帰国の途に就いた。この4月末に、東海遠征中の甲州武田勝頼加賀一向一揆に対し、この夏秋に越後国上杉軍が越中国へ侵攻するようであれば、越後国へ向けて出陣するので、越中一向一揆と共に越中国で再蜂起するように勧めており、寺島某の反乱もこれに関連するものか。


 【35】(97) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年7月から同8月に掛けて、再び越中国へ出陣し、改めて中郡を制圧する。

 天正3年7月から同8月に掛けて、再び越中国へ出陣すると、数ヶ所の要地を焼き払い、改めて中郡を制圧した。これにより、加賀国への通路が開けたので、長駆して加賀国へ進んだ。


 【36】(98) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年8月中、加賀国へ進んで各所を焼き払う。

 天正3年8月中、越中国の中郡を制圧したのち、加賀一向一揆を打倒するため、長駆して加賀国へ進むと、数ヶ所の要地を焼き払った。


 【37】(99) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年9月下旬、北陸から関東へ直行し、上野国新田領を焼き払う。

 天正3年8月21日に越後府城の春日山城に帰着すると、そのままの軍勢で関東へ直行した。こうしたなか、9月5日に相州北条陣営に属する上野国衆の由良成繁・同国繁父子により、上野国勢多郡黒川谷における自陣営の寄居二ヶ所が攻撃を受けたので、上野国沼田城将の河田伯耆守重親が同地域へ出撃し、8日に由良氏の支城である上野国五覧田城(由良氏が再興して重臣の藤生紀伊守を配置した)を攻めたところ、五覧田城と周辺の寄居二ヶ所の城衆による連携攻撃を受け、多数の戦死者(由良側は三百余名を討ち取ったとしている)を出して敗れた。11日、上野・越後国境の越後国塩沢(魚沼郡上田荘)の近辺まで進軍してきた謙信は、5日以降、河田重親から連絡がこないことを案ずるなか、先遣軍の本庄清七郎(実名は綱秀か。旗本衆)・河田対馬守吉久(同前)・新保清右衛門尉秀種(同前)・松本衆(幼主の松本鶴松丸に代わって陣代が率いる。旗本衆)と上田衆(上田長尾喜平次顕景の同名・同心・被官集団)に対し、明日には塩沢の地に至ること、これまでの指示通り沼田城へ急行するべきこと、一騎一丁も人数を欠いてはならないこと、もし、黒川谷へ進陣するような状況になり、それで敵軍が退散するようであれば、越後国浅貝(魚沼郡上田荘)か、上野国猿京(吾妻郡)の地で待機して本軍と合流するべきこと、また、黒川谷へ進軍しても敵軍が退散しなかった場合は、予定通り沼田城へ入るべきことなどを伝えた。9月下旬、相州北条陣営に属する上野国衆の由良成繁・同国繁父子が拠る上野国金山城を攻め囲むと、新田領を焼き払った。


 【38】(100) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年10月15日、上野国仁田山城に対する向城の谷山・皿窪城を攻め落とす。

 天正3年10月13日、上野国沼田城の管区である上野国仁田山城(勢多郡)に対して上野国衆の由良成繁・同国繁父子が構えた向城の谷山・皿窪城を攻め囲むと、15日までに両城を攻め落とし、男女の区別なく総勢をなで斬りにした。この皿窪城攻略において、謙信の見守るなか、近習衆の多功勘之丞(実名は清綱か)が高名を挙げ、脇差と朽葉色の袷着物を拝領したという。また、攻め口に鉄炮の弾除けの竹束を設置する任務を仰せ付けられた者のうち、女淵衆の後藤左京亮勝元(旗本衆)の寄子である北爪大学助・今井助之丞・同与兵衛尉が任務遂行中に敵方の妨害に合って応戦したが、やはり謙信の見守るなか、今井両名は戦死し、北爪大学助は敵兵ひとりを討ち取るも瀕死の重傷を負い、謙信の指示を受けた者たちによって救い出されたという。


 【39】(101) 越後国(山内)上杉謙信、天正3年10月下旬、上野国五覧田城を攻め落とす。

 天正3年10月下旬、上野国衆の由良成繁・同国繁父子が再興した上野国五覧田城を再び攻め落とした。この攻城戦において、近習衆の多功勘之丞が一日のうちに敵首三つを取る高名を挙げたので、御前に召し出されると、謙信側近の吉江織部佑景資を通じて金子を拝領したという。


 【40】(102) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、上野国伊勢崎城下の赤石の地を荒らす。

 旧冬に関東味方中の小山秀綱の本拠地と支城である下野国祇園城(都賀郡小山荘)と榎本城(同中泉荘)が相州北条軍によって攻略されてしまい(小山秀綱は佐竹氏を頼って常陸国那珂西郡の古内に移った)、東方衆が榎本城を奪還するも、相州北条氏政の兄弟衆である北条氏照(武蔵国滝山城主)が祇園城へ入って榎本城を圧迫したことから、彼の要害を守る太田道誉・梶原政景父子からの救援要請と、相州北条家上野国衆の由良成繁・同国繁父子の支城である上野国伊勢崎城(佐位郡)を増強していることへの対応を求められたことに加え、天正4年2月上旬に由良軍の攻撃を受けて上野国善城が多大な損害(由良側は百余名を討ち取ったとしている)を被った報復のため、5月に入って関東へ出陣すると、上野国伊勢崎城下の赤石の地を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。


 【41】(103) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、上野国金山城下の新田領を荒らす。

 天正4年5月中旬、由良成繁・同国繁父子の上野国新田領を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。


 【42】(104) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月中旬、下野国足利城下の足利領を荒らす。


 天正4年5月中旬、相州北条陣営に属する下野国衆・長尾顕長(由良成繁の次男)の下野国足利城下の足利領を蹂躙し、田畑を深々と掘り返した。その後、足利と新田の間に位置する新田荘の金井宿に陣取ると、渡良瀬川から新田と足利を流れる用水路を断ち切った。赤石・新田・足利、いずれの領内の給人と地下人は田畑を失ったので、妻子を引き連れて利根川以南へ逃げ去っていった。


 【43】(105) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年5月晦日、上野国桐生城下の桐生領を荒らす。

 天正4年5月晦日、由良氏の支城である上野国桐生城下の広沢(山田郡)の地にすると、桐生領を蹂躙した。同日、越後府城の春日山城に留守居する直江大和守景綱に対し、上方の状況が気になっていたところ、またしても大坂(石山本願寺)が勝利し、織田信長が敗北したと聞いて、実に爽快で満足しており、何と言っても、この春に加賀一向一揆との一和がまとまっているわけで、名実を得られたこと、今次の関東遠征における赤石・新田・足利での成果は、数年に亘る関東遠征のなかでも、これほどまでに敵方を追い詰めたことはないとして、諸将が沸き立ち、取り分け北条丹後守父子(北条安芸守高広・同丹後守景広父子)が喜んでおり、今日も桐生を蹂躙し、田畑を深々と掘り返したこと、この6・7月には北陸へ出陣しなければならないので、近日中に帰国の途に就くこと、甲・南の凶徒とは一騎一人たりとも出くわさなかったので、安心してほしいこと、東方衆も類を見ないほどに後援してくれたので、これまた安心してほしいこと、昨日は新田衆が追いすがってくるも、厩橋衆が迎え撃って二十余の敵兵を討ち取ったこと、言い表しようがないほど新田衆は戦技に劣り、間違いなく烏合の衆なので、厩橋衆ばかりで軽くあしらえたこと、こうしたところから、新田衆が無力であると見立てたことなどを伝えた。


 【44】(106) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年8月中、越中増山の神保長城の支城である栂尾城を攻め落とす。

 備後国鞆の浦に寓居する将軍足利義昭の呼び掛けにより、天正4年春に成立した芸州毛利家と摂州石山本願寺との軍事連合の盟約に従って尾(江)州織田家と戦うため、まずは北陸平定を目指し、同年8月中に越中国へ出陣すると、越中増山の神保長城の支城である越中国栂尾城(飛騨・越中国境の新川郡猿倉山の猿倉城か、同じく船倉の船倉城と考えられているが、婦負郡般若荘の増山城近くに位置する要害の可能性もあるか)を攻め落とした。


 【45】(107) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年8月中、越中増山の神保長城の拠る越中国増山城を攻め落とした。

 天正4年8月中、越中国増山城(砺波郡般若荘)に拠る神保長城を攻め滅ぼした。その後、飛騨口の二ヶ所に城郭を築き、城衆を配備して統治体制を整えると、9月9日には越中国の西郡奥部へ進攻した。この攻城戦において、越後国上杉軍が二の丸まで攻め上った際、近習衆の多功勘之丞が鑓先の高名を挙げ、謙信から盃を賜ったという。


 【46】(108) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年9月中、越中国湯山城を攻め落とす。

 天正4年9月中、越中国の西郡奥部に位置する湯山城(射水郡氷見)を攻め落とした。これにより、越中国の全土を平定した。


 【47】(109) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年11月から同12月に掛けて、能登国を席巻する。

 天正4年11月中、越中国の西郡奥部の支配体制を整えたのち、能登国へ進攻すると、能州畠山家の本拠地である能登国七尾城(鹿島郡)を除いた要地を制圧して守将を配備した。この間、七尾城の向城として石動山城を築いた。


 【48】(110) 越後国(山内)上杉謙信、天正4年12月28日、能登国七尾城下の大寧寺口で戦う。

 天正4年12月28日、能州畠山家の年寄衆(これ以前に当主の畠山義慶(或いは義隆か)は病死したとも暗殺されたとも伝わる)が拠る能登国鹿島郡の七尾城下の大寧寺で畠山軍と戦った。その後、七尾城の向城である石動山城に旗本衆の直江大和守景綱・山吉米房丸・吉江喜四郎資賢・河田対馬守吉久・船見衆(当主に代わって陣代が率いる)を籠めると、自身は越中国で越年する。この大寧寺口の戦いにおいて、近習衆の多功勘之丞が高名を挙げたので、謙信側近の吉江織部佑景資を通じて小袖を拝領したという。


 【49】(111) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年春、能登国七尾城下で戦う。

 天正5年春、奥能登衆が七尾城に入城するとの情報を得たので、「ミかさ」の鳥井小屋に草の者を主体とする軍勢を配置し、待ち伏せ攻撃をさせた。この戦いにおいて、近習衆の多功勘之丞が草の者に交じって多数の敵兵を討ち取る高名を挙げ、謙信から盃を賜ったという。


 【50】(112) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年8月上旬、能登国末守城を攻め囲む。

 天正5年閏7月上旬、尾(江)州織田軍と戦うにあたり、越中国に続いて能登国の平定を目指して、尾(江)州織田陣営に属する能州畠山家の能登国七尾城を攻めるために出陣し、閏7月8日に越中国魚津城(新川郡)に着陣して軍勢を整えていたところ、尾(江)州織田信長が北陸へ出陣してくるとの情報を聞き、ついに待望していた織田信長との対戦が実現することを喜び、類まれな決着をつける覚悟で臨む。一方、織田信長は、同10日、北陸を管掌させている柴田勝家(越前国北ノ庄城代)の与力である前田利家に対し、来月8日に加賀国へ向けて進発することを伝え、同23日には、羽州米沢の伊達輝宗に対し、越後奥郡国衆の本庄繁長(号全長)と協力して越後国へ進攻するように求めている(実際に信長が本庄繁長と連絡が取れていたのかは分からない)。8月に入り、加賀・能登国境に位置する能登国末守城(羽咋郡)を攻め囲んだ。こうしたなか、8月8日に尾(江)州織田家の宿老衆である柴田勝家が率いる尾(江)州織田軍瀧川一益・羽柴秀吉・惟住(丹羽)長秀・武藤舜秀・斎藤利治・氏家直通・伊賀(安藤)守就・稲葉良通(号一鉄)・不破光治・前田利家・佐々成政・原政茂・金森長近・若狭衆で構成された)が加賀国に侵攻し、小松・本折・安宅・富樫の各所を焼き払ったので、賀州金沢御堂の七里頼周から出馬要請を受けると、織田信長が加賀国へ侵攻してくるようであれば、何度も伝えているように、北国の防衛といい、大坂(石山本願寺)への覚えといい、決して見放したりはしないこと、急報が寄せられ次第、末守城の攻略を後回しにしてでも攻め上るので、それまでは、加賀国御幸塚城(能美郡)の普請は万全ということだから、国衆・同心が奮起して堅持するべきこと、御幸塚城を敵に明け渡すような不甲斐ない真似をしてはならず、謙信が着陣するまでの間、防備に油断があってはならないことなどを伝えた。一方、畠山軍と合流するために末守城を目指す織田軍は、能登への通路が難所ばかりなので、行軍に適した浜手を進もうとしたが、石川郡の宮越までは不通であったことから、同郡の松任の城際を通って山手の通路を進むほかなく、まずは松任城を奪取したところ、松任近辺もかなりの難路で見通しが悪く、そればかりか、末守城からの連絡によると、七手組を頭とする三千ほどの越後国上杉軍と一揆勢が加賀・能登国境の加賀国高松城(河北郡)に配備されてしまい、また、能登国の全百姓が上杉方となり、七尾と末守の間が不通であるために七尾からの飛脚が行き来できず、情報不足が著しいことから、松任城での滞陣を余儀なくされた。それでも9月10日には、翌日に宮越川(犀川)辺りまで進出して支配域を伸ばすことを決めたが、昨日の降雨によって川が増水していたので、更に一両日の滞陣を余儀なくされている。


 【51】(113) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月15日、能登国七尾城を攻め落とす。

 天正5年9月11日、数千の能州畠山軍が越前(能登か)・加賀国境へ赴いて、織田軍を招き寄せたので、加賀国高松城へ進出させていた七手組で構成された三千ほどの越後衆と越中衆に加賀一向一揆を加えた軍勢を差し向けると、その軍勢が敵軍(能州畠山軍織田・畠山方の加賀衆)を打ち破った(石山本願寺の内衆・下間頼廉は上杉方が八百ばかりの敵兵を討ち取ったとしている)。そして謙信自身は、末守城の攻略を後回しにすると、「馬廻・越中手飼之者」を率いて七尾城を朝から晩まで激しく攻め立てた。同15日、遊佐続光が年来の奏者の交誼をもって内通し、自分の曲輪に越後衆を引入れたので、そこから更に自ら軍勢を率いて実城へ攻め込み、首魁の長続連・同綱連・同連常・同連盛・杉山則直一類一族を初めとして百余名を討ち取ると、若年で実権を有していなかった当主の畠山次郎(実名は義春か)とその母(三条氏)を保護し、温井景隆・三宅長盛・同藤王丸父子・平堯知ら、長一族以外の年寄衆については助命した。その日のうちに要害の応急補修を済ませ、実城に「手飼之者」を配備すると、再び末守城の攻略に向かった。


 【52】(114) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月17日、能登国末守城を攻め落とす。

 天正5年9月17日、能登国末守城(羽咋郡)を攻め落とすと、一家衆の山浦源五国清と譜代衆の斎藤下野守朝信を守将として配備した。


 【53】(115) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月23日、尾(江)州織田軍を加賀国湊川(手取川)流域で打ち破る。

 天正5年9月18日、未だ能登国が一変したことを知らない織田軍(謙信は信長も出張っていると認識していた)の加賀国松任陣を目掛け、先鋭の越後・越中・能登衆の諸勢を繰り出し、後から旗本も続いたところ、織田軍は謙信の着陣を知ってか、同23日の夜中に後退し始めた。これに乗じて織田軍を追い崩し、数多くの敵兵を討ち取り(謙信は千余人と言っている)、それ以外の敗残兵を湊川(手取川)へ追い落とすと、折からの増水で人馬は押し流された。翌24日、湊川以西の地で態勢を立て直した織田軍が再戦を挑む様子を見せているようだと知り、最前線の城砦で敵軍の動きを注視させている旗本衆の河田窓隣軒喜楽と岩船藤左衛門尉(実名は忠秀か)に対し、敵との一戦は、これをこそ願うものであるとして、しっかりと敵に実否を確認し、敵にその気があるならば日取りの交渉をするべきことと、敵がその地へ攻めかけてきたとしても、決して取り合ってはならず、対策は講じているので、勝利は眼前であることを伝えた。結局、織田軍と一戦するには至らなかった。

※ この間に、謙信は加賀国松任城(城主の鏑木頼信は加賀一向一揆の旗本衆。織田軍に攻められた際に従属したらしい)を攻め落としているかもしれない。この攻城戦において、近習衆の多功勘之丞が大手の堀際で高名を挙げた際、鑓で膝を貫かれたが、何とか無事に後退すると、謙信から越中国新庄城将の鰺坂備中守長実を通じて酒と薬を賜ったという。


 【54】(116) 越後国(山内)上杉謙信、天正5年9月25日、能登国松波城を攻め落とす。

 天正5年9月25日、ついに尾(江)州織田軍は一戦に応じなかったので、能登国七尾城へ戻ったところ、奥能登で畠山遺臣の松波義親(かつての能登守護畠山義続(号悳佑)の次男と伝わる)が反抗したので、能登国へ取って返し、松波城(珠洲郡)を攻め落とした。松波義親は自害したという。吉日の26日、再び七尾に登城して要害の普請を指図した。同29日には、北陸経略の様子を案じて連絡を寄越してきた関東代官の北条安芸守高広・同丹後守景広父子に返書を送り、今般の北陸経略では全て思い通りの成果を挙げられたこと、今後に迎えるであろう織田信長との天下を掛けた決戦への手応えを得られたこと、このたびの北陸経略で獲得した能登国七尾城は、加賀・能登・越中三国の要の地形であり、要害は山と海とが調和し、海面と島々の様相は絵像に写し難いほどの景勝であること、同じく獲得した越中・能登両国の城々は名地ばかりであり、これらに「手飼之者」を配備したので、敵味方の覚えもめでたく、老後の面目を施したこと、どれもが吾分父子にも見せたいほどであること、七尾城は要害としての機能も見事に備わっており、普請の手間は掛からないので、やがて帰府したのち、来る関東計略について相談したいことなどを伝えた。それから暫く北陸に在陣して新領の統治を施したのち、11月22日に帰府した。12月23日には、来春予定の関東大遠征に動員する分国中の侍衆を名簿にまとめた。
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上杉謙信期の戦歴 【上】

2016-11-09 08:43:18 | 上杉謙信期の戦歴
 
 【1】(63) 越後国(山内)上杉謙信、元亀2年3月中旬、越中味方中の神保長職からの懇願を受け、越中国へ出陣して中郡を制圧する。

 元亀2年3月中旬、相州北条氏との盟約に基づき、駿河国在陣中の甲州武田軍を挟撃するために関東へ出陣する予定であったが、甲州武田軍が帰陣したことと、越中一向一揆の攻勢に押されている越中味方中の神保長職(越中国増山城主)から救援要請を受けたことにより、関東出陣を取り止めて越中国へ出陣し、17日に神通川を渡ると、19日までに中郡を制圧した(十数ヶ所の敵城を攻め落としたという)。更に六渡寺川(小矢部川)を渡って越中国の奥郡に位置する守山・湯山城を攻略するつもりでいたが、大河の増水によって断念した。


 【2】(64) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年正月3日、上野国石倉城を攻め落とす。

 元亀2年11月に関東へ出陣すると、関東味方中の小田氏治(常陸国木田余城主)からの要請を受け、年明け早々に甲州武田信玄と連帯している常陸国衆・佐竹義重(常陸国太田城主)を攻めるつもりでいたところ、12月に越・相同盟が破談したので、甲州武田家に同盟を持ち掛けるも、相州北条家との同盟を復活させた甲州武田家相州北条家を含めた三和ならば考えるとの返答を寄せてきたので、甲州武田家との同盟を諦めた。これにより、予定を変更して利根川を渡ると、甲州武田領の西上野へ進攻し、正月3日、越後国上杉家の関東における拠点の上野国群馬郡の厩橋城に対向する同郡の石倉城を攻め落とした。それから三日かけて石倉城を破却すると、6日、小田氏治との盟約に従って常陸・下野国境辺りを目指して進攻するため、一旦、厩橋城へ帰還した。


 【3】(65) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年正月上旬から閏正月上旬の間、甲州武田軍と利根川を挟んで駆け引きする。

 元亀3年正月上旬、甲州武田軍が西上野に現れて群馬郡の石倉付近に布陣したことから、利根川を挟んで対陣し、閏正月上旬まで駆け引きした。この間、相州北条氏政の兄弟衆である北条氏照(武蔵国滝山城主)と宿老衆の大道寺政繁(武蔵国河越城代)を主力とする相州北条軍が、甲州武田軍と共闘するために進陣してきたので、関東味方中の深谷上杉憲盛(武蔵国深谷城主)の許へ加勢を派遣して対応させると、上野国倉賀野表において相州北条軍を打ち破っている。10日以前には利根川端を引き払うと、東方へ進陣することなく、閏正月下旬から2月上旬に掛けて帰国の途に就いた。


 【4】(66) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年8月上旬、加賀・越中一向一揆が拠る越中国富山城を攻め囲む。

 元亀3年5月に甲州武田家と提携する加賀一向一揆(加賀国四郡のうち河北・石川郡一揆)が越中国の中郡に進出して越中一向一揆(勝興寺・瑞泉寺が越中惣国衆を率いる)と合流し、越後上杉陣営に属する越中増山の神保氏の家臣団(当主の神保長職(号宗昌)・同長城とそれに従う家臣団は越中一向一揆に味方している)が拠る越中国射水郡の火宮城(日宮城)を攻め囲んだので、火宮衆からの救援要請を受けた越後国上杉家の越中駐留軍(一家衆の山本寺伊予守定長、譜代衆の長尾小四郎景直、旗本衆の河田豊前守長親・鰺坂清介長実)は、越府へ援軍を要請する一方、鰺坂清介長実と山本寺伊予守定長らが火宮城の救援に向かい、越中国婦負郡御服荘の五福山(呉服山)に布陣した。ところが、6月14日に加賀・越中一向一揆が大挙して押し寄せてきたので、たまらず後退すると、神通川の渡し場で大敗してしまった(山上に布陣した山本寺定長は後退が遅れて二十余名の戦死者を出した)。これにより、火宮城衆は加賀・越中一向一揆と和睦して火宮城を明け渡すと、越中・能登国境の石動山へ避難した。そして、加賀・越中一向一揆は越中国新川郡の富山城に拠った。先の援軍要請を受けた謙信は、秋に予定していた関東遠征を取り止め、まず6月中旬に先遣軍と後続の直江大和守景綱を越中国へ向かわせてから、甥の上田長尾喜平次顕景(配下の軍勢は越中・越後国境に在陣している)、旗本衆の山吉孫次郎豊守(配下の軍勢は謙信の許にある)・河田対馬守吉久・北条下総守高定、儒者上がりの側近である山崎専柳斎秀仙を越府の留守居に定め、8月上旬に自身が出馬し、加賀・越中一向一揆が拠る越中国富山城に攻め寄せると、直江景綱を本国防衛のために越府へ戻した。


 【5】(67) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年8月29日から晦日に掛けて、加賀・越中一向一揆と激しく戦う。

 元亀3年8月29日に越中国富山城に攻めかかると、翌日の晩には加賀・越中一向一揆と激しく鉄炮を撃ち交わした。


 【6】(68) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年9月8日から翌9日に掛けて、加賀・越中一向一揆と激しく戦う。

 元亀3年9月8日の昼頃から加賀・越中一向一揆と激戦となり、馬上の者が討ち取られた。翌9日には反撃に転じ、水橋某ら十余名の敵将を追い落とした。同10日、上野・越後国境の越後国上田口と信濃・越後国境の越後国祢知口における防備の不安が解消されたので、越中・越後国境付近に在陣している旗本衆の本庄清七郎(実名は綱秀か)・後藤左京亮勝元と上田衆(上田長尾顕景の同名・同心・被官集団)のうち、上田衆を越中国富山陣に呼び寄せるため、統率者の栗林次郎左衛門尉房頼へ指示を送り、小旗をたたんで夜間に前進し、新川郡布施保の石田の地に着いてから小旗を開くべきこと、同じく京田(経田)の地に着いたら、そこで待機し、連絡を入れるべきこと、当陣から鑓と小旗を送るので、前進を再開して椎名康胤の金山(松倉)領を通過する際には軍勢が多く見えるように努めるべきことなどを指示した。13日、富山陣の間近まで進んできた上田衆に対し、明日の夜中に通るべき道筋と、敵陣からの銃撃を覚悟しておくべきことを伝えるとともに、迎えの人数を向かわせるので、敵陣からは大軍が到着したと見えるように努めるべきことを指示した。


 【7】(69) 越後国(山内)上杉謙信、元亀3年9月中旬から同下旬に掛けて、加賀・越中一向一揆の惣軍と対峙する。

 元亀3年9月17日の晩に飛騨国の味方中である江馬輝盛(飛騨国諏訪高原城主)が参陣してきたので、信濃衆の村上源五国清を迎えに出したところ、敵陣が割って入ってくるように見えたことから、自陣を前進させて対応した。すると、展開させた物見衆に敵勢が襲い掛かったので、物見衆は河田豊前守長親の人衆と助け合って迎撃し、十数名の敵兵を討ち取った。その勢いに乗じて全軍を押し出すと、敵陣は後退したので、そのまま追撃して富山城に迫ったところ、加賀・越中一向一揆の惣軍が姿を現した。この総勢三万とも四万とも噂される加賀・越中一向一揆と対峙すると、実際は自軍の半数である四千と見積もった。未明には、どうしたわけか多数の敵兵が火宮筋へ落ちて行った。これについては、近江国で江北浅井軍と連合して尾(濃)州織田軍と戦っていた越前国朝倉軍が敗退したからであるとか、増山衆(神保勢)が戦線離脱したからであるとか、能州畠山家が謙信と接触したからであるとかいった風説が流れている。翌18日、越府に残留させている甥の上田長尾喜平次顕景、旗本衆の山吉孫次郎豊守・河田対馬守吉久・北条下総守高定、儒者上がりの側近である山崎専柳斎秀仙に対し、富山陣の戦況を伝えるとともに、当月中に越後府城の春日山城の大手口に甲州武田軍が侵攻してくるとの情報を得たので、留守衆は春日山城(旗本衆の直江大和守景綱が守っている)へ移るべきこと、勝手に参陣してはならないこと、本国に何事もなければ、来月10日頃には富山陣の決着がつくはずであること、本国に危機が迫った際に、要地へ配置する部将は手配済みであることなどを伝えた。22日には、甲州武田信玄が信濃国の奥郡に出陣してきたとの急報を得て、自身の馬廻衆を越府へ戻した。10月3日、上田長尾顕景に対し、適当な時期になったら、先月末に帰府させた自身の馬廻衆と一緒に呼び寄せることを伝えた。その一方で、6日には、越後・出羽国境を警戒させている外様衆の鮎川孫次郎盛長(謙信出馬の直前、外様衆の大川三郎次郎長秀が、勝手に出羽国の味方中である大宝寺氏の領内に攻め入っていた)に対し、加賀・越中一向一揆を陣城に追い詰めたので、彼らが越前国朝倉義景を頼んで和睦を懇願しており、これを取りまとめて中旬には帰陣するつもりであることを伝えていた。結局、10日までに富山陣での越年を決めると、降雪期を迎えて信濃・越後国境が深雪に閉ざされるのを見越して、上田長尾顕景と山吉豊守に対し、自身の馬廻衆を引き連れて参陣するように伝えた。23日に上田長尾顕景・山吉豊守らが到着して軍勢が増し、富山城と椎名康胤が立て籠もる東郡の松倉城を圧迫するかたわら、鷹狩などを催して過ごし、やがて年越しを迎えた。


 【8】(70) 越後国(山内)上杉謙信、元亀4年正月下旬、甲州武田、加賀・越中一向一揆陣営に属する越中金山(松倉)の椎名康胤を滅ぼす。

 元亀4年正月中旬、加賀・越中一向一揆からの和睦要請を受け入れたのち、彼らが立ち去った富山城を接収すると、20日に甲州武田、加賀・越中一向一揆陣営に属する椎名康胤が、甥の上田長尾喜平次顕景を通じて和睦を懇願してくるも、これを拒否して越中国松倉城を攻め取った。その後、甲州武田信玄の策謀に従った加賀・越中一向一揆が富山城を奪還したので、取って返して再び富山城を攻め囲んだ。


 【9】(71) 越後国(山内)上杉謙信、元亀4年正月下旬から同年3月上旬に掛けて、再び越中国富山城を攻め囲み、富山城に対する向城を築く。

 元亀4年正月下旬、加賀・越中一向一揆と和睦して越中国富山城を接収したのち、帰陣の途中で椎名康胤を滅ぼしたところ、甲州武田信玄の策謀により、加賀・越中一向一揆が富山城を奪還したので、取って返して再び富山城を攻め囲むと、まず2月下旬までに稲荷山の地に向城を築き、新庄城に駐留させていた越後衆を配備し、続いて3月上旬までに岩瀬・本郷・二宮・押上の地にも向城を築いた。


 【10】(72) 越後国(山内)上杉謙信、元亀4年3月18日、越中国富山城下のいたち川流域で加賀・越中一向一揆と戦う。

 元亀4年3月18日、陣城から出撃してきた加賀・越中一向一揆と富山城下のいたち川流域で戦った。近習衆の多功勘之丞(実名は清綱か。当時は14歳と伝わる)が鑓下の高名を挙げ、金襴の羽織を拝領したという。その後、旗本衆の河田豊前守長親・鰺坂清介長実、信濃衆の村上源五国清を初めとする越中駐留軍のほかに、一家衆の上杉十郎(実名は信虎か)・上条弥五郎政繁・山本寺伊予守定長・琵琶嶋弥七郎(実名は政勝か)、譜代衆の石川中務少輔・柿崎和泉守景家・斎藤下野守朝信、外様衆の新津大膳亮(実名は資相か)・加地彦次郎(実名は知綱か)・平賀左京亮重資、旗本衆の船見宮内少輔(実名は規泰か)・本庄清七郎(実名は綱秀か)・吉江織部佑景資、外様衆の本庄弥次郎繁長陣代、旗本衆の松本鶴松丸陣代を、今しばらく越中国に留まらせた上で、4月中旬に帰国の途に就き、21日に越後府城の春日山城に帰着した。5月中旬には、旗本衆の庄田隼人佑(実名は秀直か)と河隅三郎左衛門尉忠清に在番させている越中国宮崎城(新川郡)へ、海賊化した椎名牢人衆の襲撃に備えさせるための増援として、大身の直江大和守景綱と山吉孫次郎豊守を派遣した。


 【11】(73) 越後国(山内)上杉謙信、天正元年8月上旬、予定していた関東遠征を延期して越中国へ出陣し、加賀・越中一向一揆の番手衆が立て籠もる富山城を攻め囲むと、9月に攻め落とす。

 天正元年8月上旬、先月下旬以来、越中国富山城の向城に拠る越中駐留軍に対し、加賀・越中一向一揆の番手衆が攻勢に出ているため、予定していた関東遠征を延期して越中国へ出陣し、富山城を攻囲すると、9月中旬までに攻め落とした。


 【12】(74) 越後国(山内)上杉謙信、天正元年9月中旬、加賀・越中一向一揆の残党を撃破する。

 天正元年9月中旬、越中国富山城を失った加賀・越中一向一揆の残党が蜂起したので、何度も追い崩して敗走させると、富山城近郊の安養寺(新川郡宮保の安養寺であり、婦負郡末友の安養寺城郭伽藍ではない)に逃げ込んだ残党を一掃し、神通川以東から加賀・越中一向一揆を駆逐した。


 【13】(75) 越後国(山内)上杉謙信、天正元年9月23日、越中国滝山城を攻め落として破却する。

 天正元年9月18日、神通川以東から加賀・越中一向一揆を逐った余勢を駆って越中国婦負郡の滝山城に攻め寄せると、越後衆が奮戦して二日間で裸城にした。そして、加賀国から送り込まれていた本願寺門徒衆を戸張際で捕縛するなか、城将の水越某(増山神保氏の重臣)が、越中代官の河田豊前守長親の役所に逃げ込んできたので、その身命ばかりは助けると、城内を焼き尽くし、23日には跡形もなく破却した。


 【14】(76) 越後国(山内)上杉謙信、ようやく関東へ出陣すると、天正2年2月下旬、上野国赤堀城を攻め落とす。

 天正2年正月18日、相州北条軍に圧迫されている関東味方中の簗田道忠(晴助)・同持助父子(下総国関宿城主)の救援に加え、尾(濃)州織田信長・三(遠)州徳川家康と連携して甲州武田領へ攻め入るため(本来は旧冬の約束であったが、謙信は関東味方中との調整がつかずに遅れた)、関東へ向けて出陣し、2月5日に上野国利根郡沼田荘の沼田城まで着陣すると、織田・徳川連合軍が甲州武田領へ攻め入るのを待つ間の軍事行動として、相州北条陣営に属する上野国衆の由良成繁・同国繁父子の領域を攻撃目標と定め、上野国赤石口に布陣した。2月下旬に北上して佐位・勢多郡の粕川東岸地域へ進み、由良父子の同心である上野国衆・赤堀上野介(実名は景秀か)が拠る上野国佐位郡の赤堀城を攻め囲み、これを降した。赤堀氏は、山内上杉憲政(号光徹)の没落以来、その立場を変転とさせていたが、越・相同盟成立後の永禄13年に、山内上杉家の譜代家臣としての筋目に則り、上杉輝虎(謙信)に忠節を誓うと、関東代官の北条丹後守高広・同弥五郎景広父子の同心に配された。越・相同盟破談後は相州北条陣営からの圧迫によって苦境に立たされるところとなり、天正元年の秋以降に屈していた。


 【15】(77) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年2月下旬、上野国善城を攻め落とす。

 天正2年2月下旬、やはり由良成繁・国繁父子の同心である上野国衆・善越前守が拠る上野国勢多郡の善城を攻め囲んだところ、善越前守が弟を越陣へ寄越し、和睦を懇望してきた。当初は滅亡させるつもりでいたが、最終的に帰属を認めた。


 【16】(78) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年2月下旬、上野国山上城を攻め落とす。

 天正2年2月下旬、これまた由良成繁・国繁父子の同心である山上某が拠る上野国勢多郡の山上城を攻め囲み、これを降した。


 【17】(79) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年3月上旬、上野国女淵城を攻め落とす。

 天正3年3月上旬、上野国勢多郡の女淵城に拠る沼田平八郎(上野国沼田領の旧主であった沼田中務大輔(実名は顕泰か)の末子と伝わる)は一旦は帰属してきたにもかかわらず、由良成繁・同国繁父子に再び同心したので、粕川を渡って西岸に位置する要害を強襲し、沼田平八郎を追放すると、ここにも一部の越後衆を配備した。


 【18】(80) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年3月中旬、上野国深沢城を攻め落とす。

 天正2年3月10日、更に北上して勢多郡の渡良瀬川の西岸地域へ進み、相州北条陣営に属する上野国衆・阿久沢左馬助が拠る上野国勢多郡の深沢城を攻め囲んだところ、阿久沢兄弟が帰属を懇願してきたので、これを認めたが、念を入れて一部の越後衆を配備した。


 【19】(81) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年3月13日、上野国五覧田城を攻め落とす。

 天正3年3月13日、上野国衆・阿久沢氏の支城である上野国勢多郡の五覧田城を攻め落としたが、無用の地であったので放置した。


 【20】(82) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年3月26日、上野国金山城を攻め囲む。

 天正2年3月26日、軍勢を転じて南下すると、上野国新田領の藤阿久に布陣し、上野国衆の由良成繁・国繁父子が拠る上野国新田郡新田荘の金山城を攻め囲むと、新田領を焼き払った。


 【21】(83) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年4月10日から同年4月16日に掛けて、上野国羽生城を巡って相州北条軍と利根川を挟んで対峙する。

 天正2年4月10日、関東味方中の菅原為繁・木戸忠朝・同右衛門大夫(実名は重朝か)一族(菅原為繁は、木戸忠朝の兄であった広田直繁の子、木戸右衛門大夫は忠朝の子)が拠る上野国埼玉郡の羽生城を支援するために進陣したが、利根川の増水によって渡河できなかったので、上野国邑楽郡の大輪の地に布陣したところ、相州北条軍も羽生城の対岸に位置する武蔵国児玉郡の本庄の地に陣城を築いて対向してきた。13日、羽生城に来秋までの兵糧・弾薬を搬入しようとしたが、案内者である羽生衆・佐藤筑前守の不調法によって失敗した。15日には相州北条軍が羽生城から荒川の対岸に位置する武蔵国男衾郡の本田の地へ去ったようで、翌日に物見を出しても敵の姿は見えず、尾(濃)州織田・三(遠)州徳川連合軍が甲州武田領に攻め入る様子もなく、再三に渡って参陣を要請していた常陸国衆・佐竹氏ら東方衆(越・相同盟破談後、旧交が復活していた)の参陣もなかったので、上野国沼田城へ向かって撤収し、その後、帰国の途に就いた。この間、上野国西荘(佐位郡淵名荘)赤石の伊勢崎城に対する向城として、関東味方中の那波顕宗(上野国堀口城主)の領内である利根川の東岸流域と広瀬川の西岸流域の間に位置する那波郡の地に今村城を築いた。このたびの関東遠征では、ここ数年の間に相次いで他界した北条氏康と武田信玄を意識した言説が目立った。


 【22】(84) 越後国(山内)上杉謙信、天正2年8月中、北陸の「あさひ」城を攻め囲む。

 天正2年7月26日、これより前、関東味方中の羽生衆から、度重なる出陣要請と相州北条氏政が上野国厩橋城を攻めるとの情報が寄せられたので、すぐさま陣触れをしたところ、この日、相州北条軍の厩橋城攻めが事実と確認されたので、半途の先遣軍に対し、直ちに国境を越えて上野国沼田城へ急行するように指示する一方、自身も関東へ出陣しようとしたが、北陸で異変が起こったことから、関東出陣を取り止めて北陸へ出陣した。8月上旬、「あさひ」城を攻め囲んだ。敵軍から激しい砲火を浴びせられるなか、譜代衆の柿崎源三(柿崎和泉守景家の一族か)は腿を撃ち抜かれて重傷を負い、中間の孫四郎は撃ち殺されている。また、外様衆の中条与次景泰(旗本衆の吉江織部佑景資の次男。謙信の近習を務めていたが、この6月に中条越前守の名跡を継いだ)が、謙信の制止を聞き入れず、無謀にも鉄炮玉の飛び交うなかをひとり駆け歩くので、強者の小嶋某に頼んで引きずり返し、後方に拘禁した。7日に本国の吉江夫妻へ宛てて書状を送り、こうした事情を説明し、与次を無駄死にさせないためのやむを得ない措置であることへの理解を求めるとともに、いくら自分が言って聞かせても行状を改めないので、帰陣後に与次の身柄を両親に預けるほかないことを伝えている。9月には越中国に在陣して新領の統治に取り掛かった。

※ この時、越後国上杉軍が攻撃した「あさひ」城は、加賀・越中国境の加賀国河北郡五箇荘の朝日山城と越中・能登国境の越中国射水郡氷見の朝日山城が考えられる。前者であれば、またしても越中国で蜂起した加賀一向一揆を撃破し、敗走した敵が逃げ込んだ朝日山城を攻めたものか、後者であれば、永禄9年に年寄衆の総意によって能登国から追放されてしまい、近江在国を余儀なくされた畠山義綱(義胤)が、永禄11年、元亀4年に引き続き、天正2年秋にも軍勢を催して能登復帰を図っていたらしく、また、同じ頃、義綱の追放後に代わって擁立された能州畠山義慶(義綱の子)が、やはり年寄衆によって暗殺されたという伝承もあるので、これらに関係して能登国に近い氷見の朝日山城を攻めたものか。或いは、『三州志』などによると、天正年間に謙信が砺波郡の浅井城(赤丸城)を攻め落としたと伝わっており、この要衝である可能性も考えられるか(『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』新人物往来社)。
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上杉輝虎・謙信期の名字 ・一字書出、名字 ・一字状について

2016-09-16 20:54:33 | 雑考

 ここで上杉輝虎・謙信期に発給された名字・一字書出、名字・一字状について考えてみたい。
       
 
〔上杉輝虎期の名字書出、一字状〕

【史料1】 色部顕長宛上杉輝虎名字書出(折紙)

           顕長
   永禄七年十二月十九日
         輝虎(花押a)
          色部弥三郎殿


【史料2】 安田顕元宛上杉輝虎一字状(折紙)

今度隠遁之供神妙候、依之、一字望候間、顕出候、当家有謂字之由、仰出候也、仍如件、         
      七月二十三日        輝虎(花押a)
         安田惣八郎殿


〔上杉謙信期の一字書出、名字状〕

【史料3】 長尾顕景宛上杉謙信書状〈名字・官途状〉(竪紙)

撰吉日良辰、改名字官途、上椙弾正少弼成之候、彼官途者、先 公方様深忠信之心馳依有之、被仰立被下候条、不安可被思事、目出度候、恐々謹言、
      正月拾一日        謙信(花押a影)
        長尾喜平次殿


【史料4】 上杉景勝宛上杉謙信書状〈名字状〉(折紙)

任今日吉日、改名乗、景勝可然候、恐々謹言、
      正月拾一日        謙信(花押a影)
        上椙弾正少弼殿 


【史料5】 新保孫六(景之ヵ)宛上杉謙信名字状

依仮名之儀望、孫六成之候、謹言、
      六月十六日         謙信御居判
              新保長松丸殿


【史料6】 新保孫六宛上杉謙信一字書出

依一字之儀望、景出之候、可存其旨候、謹言、
      六月十六日        謙信御居判
              新保孫六殿


【史料7】 安田能元(初名は元兼らしい)宛上杉謙信名字状(竪紙)

仮名依望、弥九郎出之候、謹言
       正月廿八日       謙信(花押a)
            安田久千代丸殿


【史料8】 吉江長資(寺嶋長資)宛上杉謙信一字書出(折紙)

就一字望、長出之候、謹言、
       正月廿八日       謙信(花押a)
             吉江亀千代丸殿
(宛所の書き始めの位置は『上越市史』に従った。『新潟県史』では書き始めは廿の位置から)


【史料9】 吉江景泰(中条景泰)宛上杉謙信名字状

吉江杢(木工)助好付而、任望景出之候、仮名者与次可然候、謹言、
(日付・宛所を欠く)


【史料10】 荻田長繁宛上杉謙信一字書出

依一字望、長出之候、謹言、
   天正五年丁丑
      弐月十七日        謙信(花押a)
        荻田孫十郎殿


【史料11】 本田孫七郎(長信ヵ)宛上杉謙信一字書出(折紙)

依一字望、長出之候、亦仮名者孫七郎尤候、謹言
   天正五年
      五月十二日        謙信(花押a)
            本田弁丸殿


【史料12】 嶋倉泰忠宛上杉謙信名字状(折紙)

仮名依望、吉三出候、謹言、
      十二月十三日       謙信(花押a)
        嶋倉次郎丸殿
(原本の写真では宛所の書き始めは二と月の間の位置から)


【参考史料】 二宮左衛門大夫(長恒ヵ)宛上杉謙信一字状(竪紙)

一字之義、依望長出之候、其旨可被心得候、恐々謹言、
      三月十二日          謙信(花押a)
            二宮左衛門大夫殿


 まずは上杉輝虎・謙信が一族・家臣に与えた名字・一字書出、名字・一字状を、輝虎期と謙信期では書式が異なるため、二期に分けて家柄が高い順に挙げたので、これから検討を進める。

 【史料1】の色部弥三郎顕長は、外様衆(越後奥郡国衆)・色部修理進勝長の嫡男である。永正10年に山内上杉憲房が、色部顕長の祖父にあたる色部弥三郎憲長(遠江守)に与えた名字書出と同じ形式である。こうした名字書出の形式はよくみられるものであり、顕長が元服した際のものと考えられている。そして、永禄9年に顕長自身が実弟の色部惣七郎長実(のち長真)に「長」の一字を付与した際の名字書出も同じような形式(書下年号ではなくて付年号であるが干支が付く)である。

 輝虎期の永禄5年頃に発給されたと考えられる【史料2】の安田毛利惣八郎顕元は、譜代衆(越後中郡国衆)・安田毛利越中守景元の次男であったが、兄(弥九郎・和泉守景広と伝わる)の廃嫡に伴って安田毛利氏を継いだとされる。よくみられるような元服時のものではなく、輝虎が隠遁を図った際、これに随従した安田顕元の忠節に報いたものである。ここに挙げた【史料】の中で唯一、書止文言が「仍如件」である。こうした形式は、天正3年に謙信側近の吉江織部佑景資が、謙信譜代の上野中務丞家成の一族である上野彦九郎に「資」の一字を付与した際の名字状(発給者の「景資」は中条氏に比定されているが、花押形は吉江景資のものである)にもみられる。

 謙信期の天正3年に発給された【史料3・4】の上田長尾喜平次顕景・上杉弾正少弼景勝は、永禄7年に横死した譜代衆・上田長尾越前守政景と謙信の姉(仙洞院)との間に生まれた次男の卯松丸で、謙信にとっては甥にあたる。長尾政景在世時から嫡男として扱われていた時宗丸がいるにもかかわらず、政景の没後には次男の卯松丸(長尾顕景)が上田長尾家を継いだ。そして、天正3年に謙信の養子として迎えられた長尾顕景は上杉景勝を名乗る。この書状(名字・官途状)の書止文言は「恐々謹言」であるが、現存する長尾顕景・上杉景勝宛謙信書状(写しを含む)の書止文言は基本的に「謹言」なので、この名字・官途状が写し取られた際に「恐々謹言」と書き替えられた可能性がある。

 元亀2年から天正3年の間にかけて発給された【史料5・6】の新保孫六は、譜代衆(越後中郡、或いは奥郡の国衆)に属していた。名字状によって新保孫六が元服した際のものと分かる。実名の一字(偏諱)だけではなく、仮名(輩行名)も付与されている。

 元亀2年から天正元年の間にかけて発給されたであろう【史料7】の安田毛利弥九郎能元は、譜代衆(越後中郡国衆)・安田毛利惣八郎顕元の弟であり、名字状によって元服した際のものであることが分かる。もしかしたら、本来は新保孫六のように名字状と一字書出がセットで与えられていたのかもしれないので、一字書出の方は失われてしまった可能性がある。但し、安田能元の初名は元兼と伝わっており、その場合は「元」の一字は毛利安田氏の通字なので、謙信が「元」の一字を付与したものとは考え難い。

 同じく【史料8】の吉江六三長資(寺嶋長資)は、旗本衆・吉江織部佑景資(初名は長資。どちらの実名も長尾景虎(上杉輝虎・謙信)から一字を付与された)の長男であり、のちに越中味方中の神保惣右衛門尉長職(号宗昌)の重臣である寺嶋氏に入嗣したとされる。宛所から吉江長資が元服した際のものであることが分かる。やはり、本来は新保孫六のように名字状と一字書出がセットで与えられていたのかもしれないので、安田能元とは逆に名字状が失われてしまった可能性がある。但し、一字書出の宛所が「吉江六三殿」と書かれていないのが気になる。

 天正元年から同2年の前半までの間に発給されたと考えられる【史料9】の吉江与次景泰(中条景泰)は、旗本衆・吉江織部佑景資の次男であり、外様衆(越後国郡国衆)・中条家に入嗣した。兄の吉江長資と同じく吉江景泰が元服した際のものであることが分かる。但し、天正2年に中条氏を継ぐことを仰せ付けられた文書があるので、この時点では吉江氏であったろう。そして、これまでみてきたものとは異なり、名字状と一字書出が一紙にまとめられている。

 【史料10】の荻田長繁は、旗本衆・荻田与三左衛門尉の次男であり、謙信没後に起こった御館の乱の最中、天正7年2月に上杉景虎方の最有力者である北条毛利丹後守景広に致命傷を与えた際の年齢が17歳であったと伝わっているから、この一字書出を賜ったのは元服時である可能性が高い。やはり名字状が失われたのかもしれない。

 【史料11】の本田孫七郎は、旗本衆・本田右近允(実名は長定か)の嫡男である。中条景泰と同じく名字状と一字書出が一紙にまとめられており、本田孫七郎が元服した際のものであることが分かる。

 天正5年に発給されたであろう【史料12】の嶋倉吉三泰忠は、旗本衆・嶋倉孫左衛門尉泰明(能州畠山家の旧臣とされる)の嫡男である。宛所から嶋倉泰忠が元服した際のものであることが分かる。やはり安田能元と同じように一字書出が失われた可能性がある。但し、「泰」の一字は嶋倉氏の通字のようなので、やはり謙信が嶋倉泰忠に「泰」の一字を付与したものとは考え難い。

天正元年頃に発給されたと考えられる【参考史料】の二宮左衛門大夫は、越中味方中の神保惣右衛門尉長職(号宗昌)に従属する越中国衆なので、この一字状の書き止め文言は恐々謹言である。謙信は複数の他国衆に偏諱を付与しているとみられるが、これが現存する唯一のものである。


 以上、それぞれの名字・一字書出、名字・一字状について検討してみた。これらは、何れも判物であり、丁重な書式といえるだろう。輝虎期のもの二点については、かなり書式が異なる。これは元服時と忠賞時の違いだろうか。輝虎期から大きく変容した謙信期のものについては、家柄によって文言と用紙の形態に格差が認められる。受給者のうちの安田兄弟、吉江兄弟、荻田、本田、嶋倉は謙信の近習であったと思われ、そのうちでも名字状と一字書出が一紙にまとめられたものを与えられた者とそうではない者がいる。残念ながら、どうして両方に違いがあるのかは分からない。それから、実名(諱)に加えて仮名(輩行名)も付与された者がいるのは特徴的であり、もしも安田能元と嶋倉泰忠が仮名(輩行名)のみを付与されたのであれば、珍しい事例となる。最後に、まだ輝虎・謙信期ほど強大な権力を有していなかったとはいえ、長尾景虎期にも吉江兄弟の父である吉江景資などの近臣が偏諱を付与されているにもかかわらず、その名字・一字書出、名字・一字状が現存していないのが気になる。これは、たまたま全てが散逸してしまったのかもしれないが、他家では家臣に官途名が口頭で付与されている事例があったというから、もしも偏諱が口頭で付与される場合もあったのならば、それほど家柄の高い越後国衆に偏諱を付与する機会はなかったであろう景虎期には、ほとんどの場合が近臣に口頭で付与していたからではないだろうか。


※ 謙信の後継者の地位を勝ち取った上杉景勝(越後時代)は、おおむね謙信期の書式に則って一字書出、名字状を発給している。謙信が発給したものとの違いといえば、景勝のものには全て付年号が記されていることである。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 445号 上杉輝虎名字書出、996号 上杉輝虎一字状、1211号 上杉謙信軍役状、1241・1242号 上杉謙信書状(写)、1243号 中条景資名字状、1321・1334・1398号 上杉謙信一字書出(影写)、1399号 上杉謙信名字状、1433号 上杉謙信名字状、1434号 上杉謙信一字書出、1464・1470号 上杉謙信名字状  『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』 2142号 上杉景勝名字状、2253号 上杉景勝一字書出(影写)、2253・2963・2964・3273号 上杉景勝一字書出(写)  『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』別冊  『新潟県史 資料編3 中世一』 890・891号上杉謙信書状写  『新潟県史 資料編4 中世二』 2041号 上杉憲房名字状写、2052号 色部顕長名字状写  『中世のなかに生まれた近世』(山室恭子 講談社学術文庫)  『武田信玄と勝頼 -文書にみる戦国大名の実像』(鴨川辰夫 岩波新書)  『真実の戦国時代』(渡邊大門[編] 柏書房)
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芸州毛利家からの使者

2016-08-03 16:42:38 | 雑考

 『陰徳太平記』巻第四十九の「吉川元春被発使於武田上杉 佐々木定綱 信玄、謙信話之事」によると、元亀3年春、芸州毛利家は甲州武田信玄と越後国上杉謙信のそれぞれから、昨年と一昨年に使者が到来したにもかかわらず、当主の毛利元就の病中と病死によって返礼が先延ばしになっていたことから、このたび、現当主の毛利輝元(元就の嫡孫)の叔父である吉川駿河守元春が、返礼は勿論のこと、甲・越両国の政道と軍略の実態を知るため、佐々木源兵衛定綱を召し出し、使者として両国へ派遣したという。

 この佐々木源兵衛定綱は、甲斐国で山縣三郎兵衛(昌景)を奏者として武田信玄と対面したのち、越後国に到来すると、河田豊前守(長親)の取次をもって上杉謙信と対面した。その時の様子については、「時節、看経シテ御座シ、檀上ヨリ直ニ出逢ヒ給ヒケルガ、如何思ヒケン、山伏ノ躰相ニテ、大禅門頭巾篠懸ケニ太刀シツカト差堅メテ、立チ出ラレタル形勢ヲ見レバ、音ニ聞コエシ大峰(大和国大峰山)ノ五鬼、葛城高天(同金剛山の高天原)ノ大天狗ニヤト、寒毛卓竪スル許リ也(身の毛もよだつ思いをした)」といい、また、謙信から二尺七寸はある青江(備中青江派)の太刀を賜ったという。

 元亀3年春には『陰徳太平記』がいうような芸州毛利家と越後国上杉家が交信した事実は認められないが、天正4年春に謙信が加賀一向一揆と和睦し、更に今夏には濃(尾)州織田信長との対立の末に備後国鞆へ御座を移した将軍足利義昭を支援する芸州毛利家・摂州石山本願寺らと結んで信長包囲網が形成されると、天正5年4月下旬、芸州毛利輝元は謙信との連携を図るため、叔父の吉川駿河守元春と小早川左衛門督隆景の連署書状を携えた使節を加賀一向一揆の許へ派遣し、このたび毛利軍が播磨国へ攻め入ったところ、当国諸士が味方に属してきたこと、帰服してこない諸士の城を取り囲んでおり、間もなく決着がつくこと、そうした一方で、諸軍勢を摂津国大坂表へ攻め上らせて津々浦々を焼き払ったところ、信長父子三人が立ち向かってきたことから、これを迎え撃った諸軍勢は昼も夜も戦い続け、ことごとく大勝したこと、釣り出した信長を摂・播両国の間に釘付けにするので、謙信と御相談し、その方面から織田領へ攻め上られるべきこと、この好機を逃しては気勢がそがれること、本来ならば公儀(足利義昭)が仰せになるところ、御座所からは程遠いので、両人が申し述べること、これらを加賀一向一揆の旗本中に詳しく口述した使節のひとりが佐木(ママ)源兵衛尉である。

 この佐木源兵衛尉は、『陰徳太平記』の佐々木源兵衛定綱と同一人物であろうことと、その後、加賀国から越後国へ向かったであろうことは想像に難くない。

※ 佐々木源兵衛尉は、必ずしも毛利氏、或いは吉川氏の家臣とは限らない。


『戦国遺文 瀬戸内水軍編』508号 小早川隆景・吉川元春連署書状  『上杉謙信ものしり史伝 孤高の戦国武将の謎と実像』(桑田忠親 廣済堂)  国立国会図書館デジタルコレクション『陰徳太平記』合本 三
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越後国頸城郡五十公郷と柿崎氏

2016-05-14 00:51:02 | 雑考
 
 『米沢柿崎系譜』によると、越後国上杉家の譜代衆(国衆)である柿崎和泉守景家(仮名は弥次郎と伝わる)は、越後天文の乱において、惣領の柿崎三郎左衛門尉に従い、上杉一家衆の上条播磨守定憲(憲定。定兼)に味方して越後守護代の長尾信濃守為景と戦っていたが、越後国頸城郡三分一原の戦いの最中、長尾為景方に寝返り、その勝利に貢献したので、為景から柿崎一門の所領と五十公野城を与えられたほか、雷城の守衛を任されたのを契機として、五十公野弥次郎を名乗ったという。

 これは系譜の作成者が、享禄4年正月 日付越後衆連判軍陣壁書の署判者のひとりである越後奥郡国衆の五十公野弥三郎景家(なぜか花押は据えられていない)と柿崎弥次郎景家を結び付けたことによるものであり、実際には柿崎景家が五十公野氏を名乗ったという事実は確認されていない。


【史料】
態申遣候、仍諸越彦七郎知行小黒村令入部之由、彼地之儀諸越四、五代持来候条、柿崎本祖にて、努々有之間敷之由申事候、往古之儀兎角候、近代当知行之間、其分別可返付事、専用候、穴賢/\、

      十月十六日                       景勝御朱印
          林部三郎左衛門尉とのへ
          富所大炊助とのへ
          上野九兵衛とのへ
          遠藤宗左衛門尉とのへ
          長福寺



 天正6年3月13日に上杉謙信が急逝し、その遺言により、ふたりの養子(後継者候補)のうち、甥である上杉弾正少弼景勝(謙信の姉を妻とした上田長尾越前守政景の次男)が名跡を継ぐと、もうひとりの養子である上杉三郎景虎(相州北条氏康の末子)と関わりが深かった柿崎左衛門大夫(晴家か。景家の世子)は、同年4月中に上杉景勝と対立し、越後府城の春日山城において敗死したことから、柿崎家は越後国上杉家の譜代家臣としての名跡と春日山城における屋敷(郭)を失った。それから間もなくして、上杉景勝と上杉景虎の間で抗争が始まると、同年6月中旬、柿崎左衛門大夫の遺児・千熊丸を擁する遺臣団は、上杉景勝の意を受けた二位(福寿軒か)の勧誘に応じ、上杉景虎の直臣団が拠る旧柿崎領内の越後国猿毛城(謙信在世時に柿崎領の一部は上杉景虎の基盤として分与されていたらしい)を乗っ取ると、越後上郡における上杉景勝方の重要な戦力として働いた。同年8月22日、上杉景勝は、こうした柿崎家中衆の忠功に報い、柿崎千熊丸に名跡の復活を認めている。

 このようにして、ようやく本領が安定した柿崎家は、内乱のどさくさに紛れて越後国頸城郡五十公郷小黒保(村)における諸越彦七郎分の所領を横領した。

 これを受けて上杉景勝は、天正6年10月3日、まず上杉一家衆の山浦(村上)源五国清を通じて柿崎家中衆に対し、「小黒ほんけ(本家)もろこし分」については、柿崎本領の内ではなく、「泉州(柿崎和泉守景家)」の代にも知行していた事実はないはずであるとして、引付・証文の有無を尋ねている。そして、【史料】の通り、同年10月16日、小黒村は諸越が四・五代に亘って知行しており、決して柿崎の本領ではなく、往古はさて置き、近代は諸越が知行していたことは明白であるため、分別を弁えて返還するように促している。

 こうした柿崎家と越後国頸城郡五十公郷小黒保(村)に関する一連の文書を目にした『米沢柿崎系譜』の作成者が、やはり目にした享禄4年正月 日付越後衆連判軍陣壁書の署判者のひとりである五十公野弥三郎景家と結び付け、柿崎景家の事績を創作したのであろう。

 ちなみに、上杉景勝から小黒村の領有を認められなかった柿崎家ではあるが、天正8年頃の8月13日、どうしたわけか、景勝の直臣として奉公することになった諸越彦七郎が納得したらしく、一転して領有を認められている。


※ 上杉景虎の直臣団は、謙信から分け与えられた柿崎領の一部を基盤として構成されていたようであり、柿崎家の要害であった越後国頸城郡佐味荘の猿毛城や米山寺城には、上杉景虎に従って相模国から来越した篠窪出羽守が置かれたとも、上杉景虎から猿毛城を任された上杉宗四郎憲藤(もと関東管領山内上杉憲政(号光徹。謙信の養父)の家臣である篠宮出羽守が置かれたとも伝わっている。恐らく、篠窪出羽守は越・相同盟の交渉に携わった篠窪治部の後身であり、窪と宮を読み違えられたのではないだろうか。
※ 謙信の権力が強大化したのに伴い、その重臣たちに中・小規模の国衆などが同心や家臣として配されると、柿崎家には中郡国衆(譜代衆)・上野中務丞家成の一族である上野九兵衛尉(資家か)が配されたらしい。また、林部三郎兵衛尉・富所大炊助は、その苗字からして、もとは謙信旗本であったと考えられる。上野九兵衛尉には米山寺城を務めたという伝承があるので、柿崎左衛門大夫の敗死後、その遺臣団は米山寺城に拠り、上杉景勝方に転身すると、そこから猿毛城を乗っ取ったものか。


『新潟県史 資料編3 中世一』 269号 越後衆連判軍陣壁書写  『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 1544・1545号 上杉景勝感状(写)、1551号 山浦国清判物(写)、1552号 山浦国清判書(写)、1615号 上杉景勝判物、1680号 上杉景勝朱印状、1681号 山浦国清書状、1688・1692号 山浦国清書状(写)、1705号 上杉景勝書状(写)、1832号 山崎秀仙書状(写)、2027号 泉澤信秀書状  『越佐史料 巻五』(高橋義彦 編)   『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)  『中世越後の歴史―武将と古城をさぐる―』(花ヶ崎盛明 著 新人物往来社)
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