越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

上杉輝虎・謙信期の名字 ・一字書出、名字 ・一字状について

2016-09-16 20:54:33 | 雑考

 ここで上杉輝虎・謙信期に発給された名字・一字書出、名字・一字状について考えてみたい。
       
 
〔上杉輝虎期の名字書出、一字状〕

【史料1】 色部顕長宛上杉輝虎名字書出(折紙)

           顕長
   永禄七年十二月十九日
         輝虎(花押a)
          色部弥三郎殿


【史料2】 安田顕元宛上杉輝虎一字状(折紙)

今度隠遁之供神妙候、依之、一字望候間、顕出候、当家有謂字之由、仰出候也、仍如件、         
      七月二十三日        輝虎(花押a)
         安田惣八郎殿


〔上杉謙信期の一字書出、名字状〕

【史料3】 長尾顕景宛上杉謙信書状〈名字・官途状〉(竪紙)

撰吉日良辰、改名字官途、上椙弾正少弼成之候、彼官途者、先 公方様深忠信之心馳依有之、被仰立被下候条、不安可被思事、目出度候、恐々謹言、
      正月拾一日        謙信(花押a影)
        長尾喜平次殿


【史料4】 上杉景勝宛上杉謙信書状〈名字状〉(折紙)

任今日吉日、改名乗、景勝可然候、恐々謹言、
      正月拾一日        謙信(花押a影)
        上椙弾正少弼殿 


【史料5】 新保孫六(景之ヵ)宛上杉謙信名字状

依仮名之儀望、孫六成之候、謹言、
      六月十六日         謙信御居判
              新保長松丸殿


【史料6】 新保孫六宛上杉謙信一字書出

依一字之儀望、景出之候、可存其旨候、謹言、
      六月十六日        謙信御居判
              新保孫六殿


【史料7】 安田能元(初名は元兼らしい)宛上杉謙信名字状(竪紙)

仮名依望、弥九郎出之候、謹言
       正月廿八日       謙信(花押a)
            安田久千代丸殿


【史料8】 吉江長資(寺嶋長資)宛上杉謙信一字書出(折紙)

就一字望、長出之候、謹言、
       正月廿八日       謙信(花押a)
             吉江亀千代丸殿
(宛所の書き始めの位置は『上越市史』に従った。『新潟県史』では書き始めは廿の位置から)


【史料9】 吉江景泰(中条景泰)宛上杉謙信名字状

吉江杢(木工)助好付而、任望景出之候、仮名者与次可然候、謹言、
(日付・宛所を欠く)


【史料10】 荻田長繁宛上杉謙信一字書出

依一字望、長出之候、謹言、
   天正五年丁丑
      弐月十七日        謙信(花押a)
        荻田孫十郎殿


【史料11】 本田孫七郎(長信ヵ)宛上杉謙信一字書出(折紙)

依一字望、長出之候、亦仮名者孫七郎尤候、謹言
   天正五年
      五月十二日        謙信(花押a)
            本田弁丸殿


【史料12】 嶋倉泰忠宛上杉謙信名字状(折紙)

仮名依望、吉三出候、謹言、
      十二月十三日       謙信(花押a)
        嶋倉次郎丸殿
(原本の写真では宛所の書き始めは二と月の間の位置から)


【参考史料】 二宮左衛門大夫(長恒ヵ)宛上杉謙信一字状(竪紙)

一字之義、依望長出之候、其旨可被心得候、恐々謹言、
      三月十二日          謙信(花押a)
            二宮左衛門大夫殿


 まずは上杉輝虎・謙信が一族・家臣に与えた名字・一字書出、名字・一字状を、輝虎期と謙信期では書式が異なるため、二期に分けて家柄が高い順に挙げたので、これから検討を進める。

 【史料1】の色部弥三郎顕長は、外様衆(越後奥郡国衆)・色部修理進勝長の嫡男である。永正10年に山内上杉憲房が、色部顕長の祖父にあたる色部弥三郎憲長(遠江守)に与えた名字書出と同じ形式である。こうした名字書出の形式はよくみられるものであり、顕長が元服した際のものと考えられている。そして、永禄9年に顕長自身が実弟の色部惣七郎長実(のち長真)に「長」の一字を付与した際の名字書出も同じような形式(書下年号ではなくて付年号であるが干支が付く)である。

 輝虎期の永禄5年頃に発給されたと考えられる【史料2】の安田毛利惣八郎顕元は、譜代衆(越後中郡国衆)・安田毛利越中守景元の次男であったが、兄(弥九郎・和泉守景広と伝わる)の廃嫡に伴って安田毛利氏を継いだとされる。よくみられるような元服時のものではなく、輝虎が隠遁を図った際、これに随従した安田顕元の忠節に報いたものである。ここに挙げた【史料】の中で唯一、書止文言が「仍如件」である。こうした形式は、天正3年に謙信側近の吉江織部佑景資が、謙信譜代の上野中務丞家成の一族である上野彦九郎に「資」の一字を付与した際の名字状(発給者の「景資」は中条氏に比定されているが、花押形は吉江景資のものである)にもみられる。

 謙信期の天正3年に発給された【史料3・4】の上田長尾喜平次顕景・上杉弾正少弼景勝は、永禄7年に横死した譜代衆・上田長尾越前守政景と謙信の姉(仙洞院)との間に生まれた次男の卯松丸で、謙信にとっては甥にあたる。長尾政景在世時から嫡男として扱われていた時宗丸がいるにもかかわらず、政景の没後には次男の卯松丸(長尾顕景)が上田長尾家を継いだ。そして、天正3年に謙信の養子として迎えられた長尾顕景は上杉景勝を名乗る。この書状(名字・官途状)の書止文言は「恐々謹言」であるが、現存する長尾顕景・上杉景勝宛謙信書状(写しを含む)の書止文言は基本的に「謹言」なので、この名字・官途状が写し取られた際に「恐々謹言」と書き替えられた可能性がある。

 元亀2年から天正3年の間にかけて発給された【史料5・6】の新保孫六は、譜代衆(越後中郡、或いは奥郡の国衆)に属していた。名字状によって新保孫六が元服した際のものと分かる。実名の一字(偏諱)だけではなく、仮名(輩行名)も付与されている。

 元亀2年から天正元年の間にかけて発給されたであろう【史料7】の安田毛利弥九郎能元は、譜代衆(越後中郡国衆)・安田毛利惣八郎顕元の弟であり、名字状によって元服した際のものであることが分かる。もしかしたら、本来は新保孫六のように名字状と一字書出がセットで与えられていたのかもしれないので、一字書出の方は失われてしまった可能性がある。但し、安田能元の初名は元兼と伝わっており、その場合は「元」の一字は毛利安田氏の通字なので、謙信が「元」の一字を付与したものとは考え難い。

 同じく【史料8】の吉江六三長資(寺嶋長資)は、旗本衆・吉江織部佑景資(初名は長資。どちらの実名も長尾景虎(上杉輝虎・謙信)から一字を付与された)の長男であり、のちに越中味方中の神保惣右衛門尉長職(号宗昌)の重臣である寺嶋氏に入嗣したとされる。宛所から吉江長資が元服した際のものであることが分かる。やはり、本来は新保孫六のように名字状と一字書出がセットで与えられていたのかもしれないので、安田能元とは逆に名字状が失われてしまった可能性がある。但し、一字書出の宛所が「吉江六三殿」と書かれていないのが気になる。

 天正元年から同2年の前半までの間に発給されたと考えられる【史料9】の吉江与次景泰(中条景泰)は、旗本衆・吉江織部佑景資の次男であり、外様衆(越後国郡国衆)・中条家に入嗣した。兄の吉江長資と同じく吉江景泰が元服した際のものであることが分かる。但し、天正2年に中条氏を継ぐことを仰せ付けられた文書があるので、この時点では吉江氏であったろう。そして、これまでみてきたものとは異なり、名字状と一字書出が一紙にまとめられている。

 【史料10】の荻田長繁は、旗本衆・荻田与三左衛門尉の次男であり、謙信没後に起こった御館の乱の最中、天正7年2月に上杉景虎方の最有力者である北条毛利丹後守景広に致命傷を与えた際の年齢が17歳であったと伝わっているから、この一字書出を賜ったのは元服時である可能性が高い。やはり名字状が失われたのかもしれない。

 【史料11】の本田孫七郎は、旗本衆・本田右近允(実名は長定か)の嫡男である。中条景泰と同じく名字状と一字書出が一紙にまとめられており、本田孫七郎が元服した際のものであることが分かる。

 天正5年に発給されたであろう【史料12】の嶋倉吉三泰忠は、旗本衆・嶋倉孫左衛門尉泰明(能州畠山家の旧臣とされる)の嫡男である。宛所から嶋倉泰忠が元服した際のものであることが分かる。やはり安田能元と同じように一字書出が失われた可能性がある。但し、「泰」の一字は嶋倉氏の通字のようなので、やはり謙信が嶋倉泰忠に「泰」の一字を付与したものとは考え難い。

天正元年頃に発給されたと考えられる【参考史料】の二宮左衛門大夫は、越中味方中の神保惣右衛門尉長職(号宗昌)に従属する越中国衆なので、この一字状の書き止め文言は恐々謹言である。謙信は複数の他国衆に偏諱を付与しているとみられるが、これが現存する唯一のものである。


 以上、それぞれの名字・一字書出、名字・一字状について検討してみた。これらは、何れも判物であり、丁重な書式といえるだろう。輝虎期のもの二点については、かなり書式が異なる。これは元服時と忠賞時の違いだろうか。輝虎期から大きく変容した謙信期のものについては、家柄によって文言と用紙の形態に格差が認められる。受給者のうちの安田兄弟、吉江兄弟、荻田、本田、嶋倉は謙信の近習であったと思われ、そのうちでも名字状と一字書出が一紙にまとめられたものを与えられた者とそうではない者がいる。残念ながら、どうして両方に違いがあるのかは分からない。それから、実名(諱)に加えて仮名(輩行名)も付与された者がいるのは特徴的であり、もしも安田能元と嶋倉泰忠が仮名(輩行名)のみを付与されたのであれば、珍しい事例となる。最後に、まだ輝虎・謙信期ほど強大な権力を有していなかったとはいえ、長尾景虎期にも吉江兄弟の父である吉江景資などの近臣が偏諱を付与されているにもかかわらず、その名字・一字書出、名字・一字状が現存していないのが気になる。これは、たまたま全てが散逸してしまったのかもしれないが、他家では家臣に官途名が口頭で付与されている事例があったというから、もしも偏諱が口頭で付与される場合もあったのならば、それほど家柄の高い越後国衆に偏諱を付与する機会はなかったであろう景虎期には、ほとんどの場合が近臣に口頭で付与していたからではないだろうか。


※ 謙信の後継者の地位を勝ち取った上杉景勝(越後時代)は、おおむね謙信期の書式に則って一字書出、名字状を発給している。謙信が発給したものとの違いといえば、景勝のものには全て付年号が記されていることである。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 445号 上杉輝虎名字書出、996号 上杉輝虎一字状、1211号 上杉謙信軍役状、1241・1242号 上杉謙信書状(写)、1243号 中条景資名字状、1321・1334・1398号 上杉謙信一字書出(影写)、1399号 上杉謙信名字状、1433号 上杉謙信名字状、1434号 上杉謙信一字書出、1464・1470号 上杉謙信名字状  『上越市史 別編2 上杉氏文書集二』 2142号 上杉景勝名字状、2253号 上杉景勝一字書出(影写)、2253・2963・2964・3273号 上杉景勝一字書出(写)  『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』別冊  『新潟県史 資料編3 中世一』 890・891号上杉謙信書状写  『新潟県史 資料編4 中世二』 2041号 上杉憲房名字状写、2052号 色部顕長名字状写  『中世のなかに生まれた近世』(山室恭子 講談社学術文庫)  『武田信玄と勝頼 -文書にみる戦国大名の実像』(鴨川辰夫 岩波新書)  『真実の戦国時代』(渡邊大門[編] 柏書房)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

芸州毛利家からの使者

2016-08-03 16:42:38 | 雑考

 『陰徳太平記』巻第四十九の「吉川元春被発使於武田上杉 佐々木定綱 信玄、謙信話之事」によると、元亀3年春、芸州毛利家は甲州武田信玄と越後国上杉謙信のそれぞれから、昨年と一昨年に使者が到来したにもかかわらず、当主の毛利元就の病中と病死によって返礼が先延ばしになっていたことから、このたび、現当主の毛利輝元(元就の嫡孫)の叔父である吉川駿河守元春が、返礼は勿論のこと、甲・越両国の政道と軍略の実態を知るため、佐々木源兵衛定綱を召し出し、使者として両国へ派遣したという。

 この佐々木源兵衛定綱は、甲斐国で山縣三郎兵衛(昌景)を奏者として武田信玄と対面したのち、越後国に到来すると、河田豊前守(長親)の取次をもって上杉謙信と対面した。その時の様子については、「時節、看経シテ御座シ、檀上ヨリ直ニ出逢ヒ給ヒケルガ、如何思ヒケン、山伏ノ躰相ニテ、大禅門頭巾篠懸ケニ太刀シツカト差堅メテ、立チ出ラレタル形勢ヲ見レバ、音ニ聞コエシ大峰(大和国大峰山)ノ五鬼、葛城高天(同金剛山の高天原)ノ大天狗ニヤト、寒毛卓竪スル許リ也(身の毛もよだつ思いをした)」といい、また、謙信から二尺七寸はある青江(備中青江派)の太刀を賜ったという。

 元亀3年春には『陰徳太平記』がいうような芸州毛利家と越後国上杉家が交信した事実は認められないが、天正4年春に謙信が加賀一向一揆と和睦し、更に今夏には濃(尾)州織田信長との対立の末に備後国鞆へ御座を移した将軍足利義昭を支援する芸州毛利家・摂州石山本願寺らと結んで信長包囲網が形成されると、天正5年4月下旬、芸州毛利輝元は謙信との連携を図るため、叔父の吉川駿河守元春と小早川左衛門督隆景の連署書状を携えた使節を加賀一向一揆の許へ派遣し、このたび毛利軍が播磨国へ攻め入ったところ、当国諸士が味方に属してきたこと、帰服してこない諸士の城を取り囲んでおり、間もなく決着がつくこと、そうした一方で、諸軍勢を摂津国大坂表へ攻め上らせて津々浦々を焼き払ったところ、信長父子三人が立ち向かってきたことから、これを迎え撃った諸軍勢は昼も夜も戦い続け、ことごとく大勝したこと、釣り出した信長を摂・播両国の間に釘付けにするので、謙信と御相談し、その方面から織田領へ攻め上られるべきこと、この好機を逃しては気勢がそがれること、本来ならば公儀(足利義昭)が仰せになるところ、御座所からは程遠いので、両人が申し述べること、これらを加賀一向一揆の旗本中に詳しく口述した使節のひとりが佐木(ママ)源兵衛尉である。

 この佐木源兵衛尉は、『陰徳太平記』の佐々木源兵衛定綱と同一人物であろうことと、その後、加賀国から越後国へ向かったであろうことは想像に難くない。

※ 佐々木源兵衛尉は、必ずしも毛利氏、或いは吉川氏の家臣とは限らない。


『戦国遺文 瀬戸内水軍編』508号 小早川隆景・吉川元春連署書状  『上杉謙信ものしり史伝 孤高の戦国武将の謎と実像』(桑田忠親 廣済堂)  国立国会図書館デジタルコレクション『陰徳太平記』合本 三
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

越後国頸城郡五十公郷と柿崎氏

2016-05-14 00:51:02 | 雑考
 
 『米沢柿崎系譜』によると、越後国上杉家の譜代衆(国衆)である柿崎和泉守景家(仮名は弥次郎と伝わる)は、越後天文の乱において、惣領の柿崎三郎左衛門尉に従い、上杉一家衆の上条播磨守定憲(憲定。定兼)に味方して越後守護代の長尾信濃守為景と戦っていたが、越後国頸城郡三分一原の戦いの最中、長尾為景方に寝返り、その勝利に貢献したので、為景から柿崎一門の所領と五十公野城を与えられたほか、雷城の守衛を任されたのを契機として、五十公野弥次郎を名乗ったという。

 これは系譜の作成者が、享禄4年正月 日付越後衆連判軍陣壁書の署判者のひとりである越後奥郡国衆の五十公野弥三郎景家(なぜか花押は据えられていない)と柿崎弥次郎景家を結び付けたことによるものであり、実際には柿崎景家が五十公野氏を名乗ったという事実は確認されていない。


【史料】
態申遣候、仍諸越彦七郎知行小黒村令入部之由、彼地之儀諸越四、五代持来候条、柿崎本祖にて、努々有之間敷之由申事候、往古之儀兎角候、近代当知行之間、其分別可返付事、専用候、穴賢/\、

      十月十六日                       景勝御朱印
          林部三郎左衛門尉とのへ
          富所大炊助とのへ
          上野九兵衛とのへ
          遠藤宗左衛門尉とのへ
          長福寺



 天正6年3月13日に上杉謙信が急逝し、その遺言により、ふたりの養子(後継者候補)のうち、甥である上杉弾正少弼景勝(謙信の姉を妻とした上田長尾越前守政景の次男)が名跡を継ぐと、もうひとりの養子である上杉三郎景虎(相州北条氏康の末子)と関わりが深かった柿崎左衛門大夫(晴家か。景家の世子)は、同年4月中に上杉景勝と対立し、越後府城の春日山城において敗死したことから、柿崎家は越後国上杉家の譜代家臣としての名跡と春日山城における屋敷(郭)を失った。それから間もなくして、上杉景勝と上杉景虎の間で抗争が始まると、同年6月中旬、柿崎左衛門大夫の遺児・千熊丸を擁する遺臣団は、上杉景勝の意を受けた二位(福寿軒か)の勧誘に応じ、上杉景虎の直臣団が拠る旧柿崎領内の越後国猿毛城(謙信在世時に柿崎領の一部は上杉景虎の基盤として分与されていたらしい)を乗っ取ると、越後上郡における上杉景勝方の重要な戦力として働いた。同年8月22日、上杉景勝は、こうした柿崎家中衆の忠功に報い、柿崎千熊丸に名跡の復活を認めている。

 このようにして、ようやく本領が安定した柿崎家は、内乱のどさくさに紛れて越後国頸城郡五十公郷小黒保(村)における諸越彦七郎分の所領を横領した。

 これを受けて上杉景勝は、天正6年10月3日、まず上杉一家衆の山浦(村上)源五国清を通じて柿崎家中衆に対し、「小黒ほんけ(本家)もろこし分」については、柿崎本領の内ではなく、「泉州(柿崎和泉守景家)」の代にも知行していた事実はないはずであるとして、引付・証文の有無を尋ねている。そして、【史料】の通り、同年10月16日、小黒村は諸越が四・五代に亘って知行しており、決して柿崎の本領ではなく、往古はさて置き、近代は諸越が知行していたことは明白であるため、分別を弁えて返還するように促している。

 こうした柿崎家と越後国頸城郡五十公郷小黒保(村)に関する一連の文書を目にした『米沢柿崎系譜』の作成者が、やはり目にした享禄4年正月 日付越後衆連判軍陣壁書の署判者のひとりである五十公野弥三郎景家と結び付け、柿崎景家の事績を創作したのであろう。

 ちなみに、上杉景勝から小黒村の領有を認められなかった柿崎家ではあるが、天正8年頃の8月13日、どうしたわけか、景勝の直臣として奉公することになった諸越彦七郎が納得したらしく、一転して領有を認められている。


※ 上杉景虎の直臣団は、謙信から分け与えられた柿崎領の一部を基盤として構成されていたようであり、柿崎家の要害であった越後国頸城郡佐味荘の猿毛城や米山寺城には、上杉景虎に従って相模国から来越した篠窪出羽守が置かれたとも、上杉景虎から猿毛城を任された上杉宗四郎憲藤(もと関東管領山内上杉憲政(号光徹。謙信の養父)の家臣である篠宮出羽守が置かれたとも伝わっている。恐らく、篠窪出羽守は越・相同盟の交渉に携わった篠窪治部の後身であり、窪と宮を読み違えられたのではないだろうか。
※ 謙信の権力が強大化したのに伴い、その重臣たちに中・小規模の国衆などが同心や家臣として配されると、柿崎家には中郡国衆(譜代衆)・上野中務丞家成の一族である上野九兵衛尉(資家か)が配されたらしい。また、林部三郎兵衛尉・富所大炊助は、その苗字からして、もとは謙信旗本であったと考えられる。上野九兵衛尉には米山寺城を務めたという伝承があるので、柿崎左衛門大夫の敗死後、その遺臣団は米山寺城に拠り、上杉景勝方に転身すると、そこから猿毛城を乗っ取ったものか。


『新潟県史 資料編3 中世一』 269号 越後衆連判軍陣壁書写  『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』 1544・1545号 上杉景勝感状(写)、1551号 山浦国清判物(写)、1552号 山浦国清判書(写)、1615号 上杉景勝判物、1680号 上杉景勝朱印状、1681号 山浦国清書状、1688・1692号 山浦国清書状(写)、1705号 上杉景勝書状(写)、1832号 山崎秀仙書状(写)、2027号 泉澤信秀書状  『越佐史料 巻五』(高橋義彦 編)   『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)  『中世越後の歴史―武将と古城をさぐる―』(花ヶ崎盛明 著 新人物往来社)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

上杉輝虎(政虎)期の戦歴【3】

2016-01-14 17:30:09 | 上杉輝虎(政虎)期の戦歴

【1】(49) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年3月18日、甲州武田軍に奪われた信濃国野尻城を取り返す。

永禄10年の年明け早々、昨年の11月から滞在している下野国安蘇郡佐野荘の唐沢山城において、当陣営と相州北条陣営にあって態度を明らかにしない常陸国衆・佐竹義重(常陸国久慈郡太田城主)や河南(利根川以南)にあって当陣営に唯一留まる武蔵国衆・広田直繁(武蔵国羽生城主)を初めとした関東味方中の参陣を待つなか、越府から一千人ほどの増援軍を呼び寄せると、佐野陣と越府の間に在陣させている遊軍の水原蔵人丞・竹俣慶綱・加地彦次郎(いずれも外様衆)、遊軍の軍監である富所隼人佐・松木内匠助(ともに旗本衆)に対し、増援軍の進軍を支援するように命じる。9日には参陣の呼び掛けに応じない下総国衆・結城晴朝が拠る下総国結城郡の結城城攻略を期したところ、下野国衆・宇都宮広綱(下野国河内郡宇都宮城主)とその宿老衆(一族)である塩谷義孝(下野国塩谷郡川崎城主)が参陣の意向を示してくる(結局のところ結城攻めは挙行されなかったようである)。その後、相州北条方の上野国衆・由良成繁が拠る上野国新田郡新田荘の金山城攻略を期して上野国利根郡沼田荘の沼田城に移るも、佐竹軍は河西(鬼怒川以西)に滞陣したまま動かなかったので、越後衆の吉江忠景(旗本衆)と五十公野玄蕃允(外様衆)からなる唐沢山城衆の増員として色部勝長(外様衆)と荻原伊賀守(旗本衆)を加えたのち、3月初め頃に帰国の途に就く。そこへ輝虎の留守を狙って越府の攻略を期する甲州武田信玄が、3月18日に信・越国境の信濃国水内郡芋河荘の野尻城を攻め落とし、国境を越えて付近の郷村を荒らし回ったので、休む間もなく信・越国境へ向かい、即日、野尻城を取り返した。また、4月上旬から中旬に掛けて、甲州武田軍と連動して越後に攻め入るはずだった奥州黒川の蘆名氏の一軍が一月遅れで越後に侵攻すると、越・奥国境の越後国蒲原郡菅名庄の雷城と神洞城を攻め落としたので、上田衆(甥である上田長尾顕景の同名・同心・被官集団)を初めとする軍勢を派遣し、下旬には蘆名軍の多数を討ち取って追い払うと、慌てて詫びを入れてきた蘆名盛氏(止々斎)・同盛興父子と和解した。


【2】(50) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年7月中、信濃奥郡に在陣して武田方の国衆に圧力を掛ける。

永禄10年7月、信濃奥郡に出陣し、甲州武田方の信濃国衆・市川信房が拠る信濃国水内郡の野沢要害などを威圧し、自陣営の拠点である信濃国水内郡の飯山城に改修を施すと、8月初めには帰府した。


【3】(51) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄10年10月27日、下野国唐沢山城下で相州北条軍と戦う。

永禄10年10月中旬、下野国唐沢山城の主郭に拠る唐沢山城衆(越後衆)と各所からの急報によって、唐沢山城衆が相州北条氏の先遣軍及び、佐野地衆に手引きされて反逆した佐野昌綱(本来の唐沢山城主。当時は副郭に居住していたか)の攻撃を受けて窮迫していることと、相州北条氏の増援軍が利根川に船橋を渡して上野国邑楽郡佐貫荘の赤岩の地から唐沢山城に向かっていることを知り、直ちに関東へ向けて出陣し、24日には上野国利根郡沼田荘の沼田城に着陣する。翌25日には上野国中央部に進み、27日までの間に、上野国群馬郡の厩橋城、同じく新田郡新田荘の金山城、下野国足利郡足利荘の足利城を初めとした二十ヶ所の敵地を突っ切り、利根川を渡って赤岩の船橋を切り落とすと、唐沢山城を取り巻く相州北条軍に突撃し、本営に肉迫するほどの勢いで敵陣を蹴散らしたところ、相州北条軍は総大将の相州北条氏政が在陣する武蔵国埼玉郡の岩付城へ、唐沢山城の主郭を攻め立てていた佐野軍は下野国都賀郡の藤岡城へと、いずれも真夜中に逃げ去った。その後、佐野昌綱を降伏させて戦後処理を行い、佐野は越後から遠隔地であることから、唐沢山城の番城体制を諦め、昌綱の懇願を受け入れて城主に復帰させると、色部・吉江・荻原ら在城衆はもちろん、昌綱の子である虎房丸と佐野家中からも差し出させた三十余名の証人を伴い、11月12日に上野国沼田城へ戻り、21日に帰国の途に就いた。


【4】(52) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年3月中旬、越中国守山(二上山)城を攻める。

永禄11年3月上旬から中旬に掛けて、年寄衆に逐われて近江国に流寓中の畠山悳佑(義続)・同義綱父子の能登国への復帰支援と称して越中国へ出陣し、15日に中郡まで進陣すると、神保氏の拠点である越中国射水郡の守山(二上山)城攻略のために放生津に布陣する。その攻囲中、密かに甲州武田信玄と内通していた越後奥郡国衆の本庄繁長が、輝虎に遺恨の一理があると称して、13日に留守居していた越府から本拠地の越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の村上城に戻って挙兵したばかりか、越中国新川郡の金山(松倉)城に拠る椎名康胤甲州武田信玄と結んで、越後国上杉軍の帰路を断つ形で挙兵したとの凶報を受けると、急遽、25日の未明に放生津陣を撤収した。この本庄繁長の反乱には、越後奥郡国衆・大川長秀(本庄氏の庶族)の弟である孫太郎・藤七郎兄弟が荷担し、兄の長秀を居城(越後国瀬波(岩船)郡小泉荘藤懸(府屋)城)から追い出している。


【5】(53) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年4月中、越中国金山(松倉)城を攻める。

永禄11年3月25日に越中放生津陣を引き払ったのち、椎名康胤が立て籠もる越中国金山(松倉)城を取り囲んだが、ひと月ほどして攻略を諦め、5月の初め頃には帰府した。


【6】(54) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年8月中旬、信濃奥郡に出陣してきた甲州武田信玄と駆け引きする。

永禄11年4月の終わりから5月初めに掛けて、越中松倉陣を引き払って帰府すると、自身は越府防衛のため、まだ越後奥郡へは下れないことから、5月4日前後に、譜代衆の柿崎景家と旗本衆の直江政綱を主将とした軍勢を、本庄繁長が拠る越後国村上城へ派遣する。この間、本庄繁長は、同族の鮎川盛長の居城である越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の大場沢城を攻め落とす一方、外様衆の同輩である中条越前守らに密書を届けて味方に誘う。しかし、中条越前守は密書の封を切らずに輝虎へ差し出している。その後、柿崎・直江両名を主将とした派遣軍と鮎川盛長をもって、6月中旬までに村上城の付城である下渡嶋城の整備と庄厳城の再興を完了させる。7月中旬、敵領の信濃国水内郡太田荘の長沼境に軍勢を派遣したところ、甲州武田信玄が信濃奥郡に出陣してくるも、連雨による増水のために千曲川と犀川を渡れず、滞陣を余儀なくされている。8月中旬、甲州武田軍が長沼に現れたので、自ら出陣して信・越国境まで進むも、敵軍は逃げ去ってしまったので、やむなく後退したところ、敵軍が押し出してきたことから、再び前進するも、またもや敵軍は逃げ去ってしまったので、越府に帰還した。


【7】(55) 越後国(山内)上杉輝虎、永禄11年11月7日、越後国村上城を攻める。

永禄11年8月中旬、越中金山の椎名康胤が攻勢に出てきたことから、越後村上陣の柿崎景家・直江政綱に対し、山浦某(一家衆)・色部勝長(外様衆)・北条景広(譜代衆)・新発田衆(外様衆・新発田忠敦の軍勢。忠敦自身は信濃国飯山城の守備に就いている)らを越府に寄越すように指示する。この頃までに、信濃・越後国境の手当てとして、信濃衆(外様平衆)が守る信濃国水内郡の飯山城へ新発田忠敦・五十公野某(玄蕃允か。外様衆)・吉江忠景(旗本衆)と十騎から十五騎の旗本衆(横目)を、信濃衆の須田順渡斎・同左衛門大夫、越後衆の平子若狭守・宇佐美平八郎(ともに譜代衆)・越後関山宝蔵院の衆徒が守る越後国頸城郡の関山城へ上杉十郎(景満か。一家衆)・山本寺定長(同前)・竹俣慶綱(外様衆)・山岸隼人佑(光重か。譜代衆)・下田衆(譜代衆・下田長尾氏の同名・同心・被官集団)と十騎から十五騎の旗本衆を増援に向かわせ、越中・越後国境の手当てとして、越後西浜の根知城と不動山城にも多数の旗本衆を派遣する。そのため、自分の手許には河田長親の率いる軍勢、山吉豊守の率いる三条衆と本庄清七郎の率いる栃尾衆が半数づつしか残らず、地下鑓を召集して軍勢を補い、信濃・越中との両国境が積雪で閉ざされる時期を待つ。9月中には、本庄繁長の反乱への荷担が疑われる出羽国衆・大宝寺義増(出羽国田川郡大泉荘大浦城主)に対し、その嫌疑を晴らすように迫る。同月22日に、村上城の付城である下渡嶋城を城衆が放棄したとの急報を受け、もうひとつの付城である庄厳城を守る鮎川盛長(外様衆)と三潴左近大夫(旗本衆・三潴長政の嫡男)に城の堅持を命じ、10月上旬には鉄炮の玉薬を補給するとともに、いよいよ来る17日に本庄口に出陣することを伝える。20日以前に出府すると、11月の初めには村上の地に着陣し、7日に督戦を開始した。同月下旬、陣衆の中条越前守から、同族である黒川平政の被官・石塚玄蕃允が敵方に内通しているとの情報を寄せてきたので、石塚を取り調べて不義の事実を自供させると、中条に血判起請文を与えて、その忠節に報いることを約束した。


【8】(56) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年正月9日、夜襲を仕掛けてきた本庄繁長を退ける。

永禄12年正月9日未明に本庄繁長が夜襲を仕掛けてくるも、上田衆らの奮闘によって撃退した。陣衆のうち色部勝長(外様衆。村上本庄氏とは同族)は、この戦いにおける傷がもとで10日に死去したともいわれる。一方、13日に越・羽国境の越後国瀬波(岩船)郡小泉荘の燕倉城に在陣する大川長秀に対し、その大川の許に軍監として派遣した三潴長政(旗本衆)を通じて藤懸(府屋)城奪還を励ますと、ちょうどその日に大川が大宝寺衆の加勢と内通者を得て奪還作戦を実行に移し、二昼夜に亘って攻め立てるも、城方に内通者が摘発されてしまい、あえなく失敗に終わっている。それでも大川は攻囲を続けるつもりでいたが、軍監の三潴らの反対に遭うと、若輩の身であることを弁えて反対意見に従い、16日に燕倉城へと後退している。


【9】(57) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年正月中旬、越後国村上城の外郭を焼き払う。

永禄12年正月中旬、先の本庄繁長による夜襲を受けて、村上城への攻勢を強めようとするも、外様衆を初めとする在陣衆が攻撃に身を入れないため、自ら旗本衆を率いて村上城の外郭を焼き討ちした。2月から3月に掛けて、羽州米沢(置賜郡長井荘)の伊達輝宗と奥州黒川(会津郡門田荘)の蘆名盛氏の仲介により、本庄繁長の赦免に傾く一方、村上城の攻撃に身の入らない在陣衆から証人を徴集する。それから3月下旬までには交渉がまとまり、本庄繁長が僧体となって詫びを入れるとともに、嫡男の千代丸を証人として差し出し、藤懸城も自落して大川長秀が城主に返り咲いたので、本庄繁長の降伏を認めて帰途に就くと、4月2日に着府した。


【10】(58) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年8月20日、越中国堀切城を攻め落とす。

永禄12年6月に同盟が成立した相州北条氏と連携するため、7月下旬に信州へ出陣しようとしたところ、甲州武田信玄が講和を打診してきたことから、とりあえず信州出陣を延期する。それでも、信濃・越中両国境の状況が案じられたので、両口に軍勢を展開するため、関東から味方中や上野国沼田城衆を呼び寄せる。8月に入ると、改めて相州北条氏と連携するため、直江景綱に留守を任せ、今度は関東へ向けて出陣したところ、甲州武田氏と連携する越中国金山の椎名康胤が攻勢に出てきたことから、柏崎の地から反転して越中に向かう。20日に国境を越えると、各所を焼き討ちしながら進み、その日のうちに新川郡布施保の堀切城を攻め崩した。翌日は堀切から程近い石田の地で人馬を休ませた。


【11】(59) 越後国上杉(山内)輝虎(旱虎)、永禄12年8月23日、越中国金山(松倉)城を攻める。

永禄12年8月22日、自身は金山(松倉城)に押し寄せて要害際に陣取る一方、別働隊をもって新川郡太田保の新庄城を乗っ取らせると、それを堅持させている。23日の夕刻には金山根小屋を焼き討ちし、松倉城を丸裸にして椎名康胤を追い詰めた。


【12】(60) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年9月中、越中国森尻荘を押さえる。

永禄12年9月下旬までに、金山(松倉城)に押さえの軍勢を残した上で、自らは新川郡森尻荘に進陣して要所を制圧した。それに伴い、従軍した年寄衆のうち柿崎景家・山吉豊守・河田長親を奉者として制札を掲げ、森尻荘内における諸軍勢の濫妨狼藉を停止している。


【13】(61) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄12年10月中、神保家中の反乱を鎮める。

永禄12年10月上旬、越中味方中である神保長職(これより前に甲州武田方から転じていた。越中国砺波郡増山城主)の家中の一部が造反したことを受け、神通川を越えて越中西郡に進陣する。これを前に、越中国新川郡の魚津城の城代に任命した河田長親(旗本衆)の家中衆である長尾紀伊守と小越平左衛門尉に対し、越中西郡に伴った河田長親の不在中、椎名方が魚津城に攻め寄せてきても、城に籠って取り合わないように厳命している。下旬までに事態を収めると、金山(松倉城)の押さえとして河田長親を残して帰国の途に就いた。


【14】(62) 越後国(山内)上杉輝虎(旱虎)、永禄13年正月から同年3月の間、下野国唐沢山城を攻める。

越中陣を終えて永禄12年10月28日に帰府したのもつかの間、ほとんど休むことなく明後日には関東へ向けて進軍する。その進軍中、越・相同盟に反対している味方中の太田道誉(資正。常陸国衆・佐竹氏の客将。常陸国北郡片野城主)を通じて佐竹義重(常陸国久慈郡太田城主)・宇都宮広綱(下野国河内郡宇都宮城主)ら東方衆の参陣を求める。そして、11月20日に上野国利根郡沼田荘の沼田城に到着すると、そこでまた関東味方中に参陣を呼び掛けた。相州北条氏との盟約に従って12月24日に西上州へ攻め込むことを表明したにもかかわらず、相州北条氏と同盟を結んだ一方で、内密に甲州武田氏とも和睦をしていたことから、年明けの永禄13年正月には、参陣に応じない下野国衆・佐野昌綱が拠る下野国唐沢山城を取り囲む。これには、速やかに味方中の広田直繁(武蔵国羽生城主)が参陣してくる。ここでもまた東方衆に参陣を呼び掛けるなか、2月2日に唐沢山城を激しく攻め立てると、甥の上田長尾顕景の被官である広居忠家・下平右近允・小山弥兵衛尉らが戦功を挙げたので、甥とは別で彼らに感状を与えた。3月に入ると、上野国沼田城に戻り、相州北条氏と同盟を結び直し、甲州武田氏との和睦を破棄することや、初秋に共同で大軍事作戦を挙行することなどを約束する一方、ついに参陣しなかった東方衆とは交渉を絶った。4月11日、養子に迎えた、相州北条氏康の末子である三郎(上杉景虎)と沼田城で対面すると、そのまま帰国の途に就き、18日に着府した。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

越後国上杉氏における家中序列の一例

2015-12-29 18:33:39 | 雑考
【史料】
直和飛脚一書進之候、仍昨十五、沼田之地迄路次中無煩罷着候、可御心安候、殊一段達者耳も聞得申候条、可有御悦喜候、随、 屋形様御威光有難奉存之候、其故、従柿崎始、各々賄以下可申由、頻被申候得共、従 屋形様路銭過分被下候間、努々賄之儀、御無用之由申払候、雖然、柿崎ニ而鶴久尾、北条ニ而二か、馬之飼料給候間、五郎殿忝由、被仰可給候、上田ニ而栗林方鶴久尾一双、持参候、蔵田兵部方白布一端、両金一懸、蘇合圓三貝、沼田之地ニ而請取申候、是御礼頼入候、当地沼田ニ而、各河伯光清石見方之儀不及申、何懇意馳走、不及是非候、将亦、進隼方 御諚乍申、弥々懇切候、可御心安候、如此趣、山吉殿直江殿鯵清、各々御雑談頼入候、御失念有間敷候、一、南方之儀、氏政于今在陣之由申来候、愈勝事、明日爰元を罷立可申候間、帰寺之上、目出可申承候、恐々謹言、
                 広泰寺
      閏五月十六日      昌派(花押)
      本庄美作入道殿
                 
御宿所


この書状は、永禄12年閏5月16日に、越後国上杉輝虎から使僧として重用された広泰寺昌派が、輝虎の老臣である本庄宗緩(実乃。新左衛門尉。新左衛門入道。美作入道。輝虎(当時は長尾景虎)が旗揚げした頃からの功臣)に宛てたもので、文中に記された上杉家中の重要人物たちの序列が書き分けられていることから、それを示してみたい。

 まず、最も序列が高いのは、紫字五郎殿(北条景広。弥五郎。丹後守。越後国北条城主)と直江殿(直江景綱。実綱。政綱。神五郎。与右兵衛尉。大和守。同与板城主)・山吉殿(山吉豊守。孫次郎。同三条城主)の三名で、いずれも殿の敬称が付され、城持ち衆でありながらも、その身分は譜代衆(国衆)と旗本衆の差がある。輩行名書きされた北条弥五郎景広は、越後国上杉氏譜代の重臣である北条丹後守高広(弥五郎。安芸守。謙信没後に芳林と号する)の嫡男だが、当時、父の北条高広は関東代官として上野国厩橋城代を任されていたにもかかわらず、越後国上杉氏から離反して相州北条氏に従っていた。苗字書きされた直江大和守景綱は、もとは越後守護上杉氏の譜代衆であったが、後継者を立てられなかった上杉定実(号玄清)の死去によって越後守護上杉氏が断絶し、越後守護代長尾景虎(のちの上杉輝虎)が事実上の越後国主になると、その直臣に転じた。越後国長尾氏の奉行衆を経て越後国上杉氏の年寄衆に列した。同じく山吉孫次郎豊守は、もとは越後守護代長尾氏譜代の重臣であり、越後守護上杉氏の蒲原郡司代官(守護代長尾氏の前身である三条長尾氏から引き継いだという)を務めた山吉氏の系譜に連なる。輝虎の小姓を経て年寄衆に列した。直江・山吉は越後に由緒ある家柄ゆえ、旗本衆のうちで最も勢力を誇り、輝虎が最も頼みとした。

 次いで序列が高いのは、青字石見方(松本景繁。石見守。越後国小木(荻)城主)、栗林方(栗林房頼。次郎左衛門尉。上田長尾氏の重臣。越後国樺沢城主か)、蔵田兵部方(兵部左衛門尉)、進隼方(進藤家清。隼人佑)の四名で、いずれも方の敬称が付されており、その身分は栗林を除いて旗本衆だが、それぞれの身代には差がある。官途書きされた松本石見守景繁は、もとは越後守護長尾氏譜代の重臣である。直江景綱や山吉豊守のように政務を担った形跡は、松本景繁には認められないが、輝虎から上野国沼田城将に任じられるほどである。苗字書きされた栗林次郎左衛門尉房頼は、上田長尾氏譜代の重臣であり、当時、輝虎の甥である上田長尾喜平次顕景(卯松丸。のちの上杉弾正少弼景勝)が若年なので、その陣代を務めていた。苗字、官途書きされた蔵田兵部左衛門尉は、越後国府内町の代官を務めた蔵田五郎左衛門尉(秀家か。もとは伊勢神宮の御師で、越後守護上杉氏の御用商人を務めた。府城における蔵の管理、青苧座の統轄なども任された)の一族であり、旗本衆に属している。略称された進藤隼人佑家清は、他国の出身者かも知れない。旗本衆に属し、他国への使者をよく務める。

 ここからは、敬称の付されない赤字鯵清(鰺坂長実。清介。備中守)と河伯(河田重親。伯耆守)の二名で、いずれも略称されており、その身分は旗本衆である。江州六角佐々木氏の旧臣である鰺坂清介長実は、直江景綱・山吉豊守と並ぶ、輝虎の側近中の側近である河田豊前守長親(岩鶴丸か。九郎左衛門尉。小姓から年寄衆に列し、のちに越中代官として越中国魚津城代、次いで松倉城代を務める。謙信没後に禅忠と号する)や吉江喜四郎資賢(輝虎の側近である吉江織部佑景資(長資。与橘か。のちに越中国西郡の代官として越中国増山城代を務める。謙信没後に常陸入道宗と号する)の一族に列した。前姓は伝わらない。のちに別系の吉江佐渡守忠景(中務丞。越後国吉江城主か)の名跡を継いで信景を名乗る)と共に、永禄2年の長尾景虎上洛時に召し出されて越後国に下ると、鰺坂氏の名跡を与えられた。吉江資賢と同様に前姓は伝わらない。やがて年寄衆の列に加えられた。その時期は、河田長親より遅く吉江資賢より早い。同じく河田伯耆守重親は、河田長親の叔父であり、甥の長親を頼って輝虎に仕えたという。河田長親や鰺坂長実のように輝虎の側近としての活動は、河田重親には認められないが、松本景繁を主将とする上野国沼田城衆の一員に加えられた。

 そして最後は、緑字光清(小中大蔵丞であろう)で、実名書きされている。小中大蔵丞は、もとは上野国勢多郡小中の地衆であり、関東に進出した輝虎に仕えたという。これから間もなくして病に倒れ、弟の彦右兵衛尉(実名は清職であろう)が名跡を継いでいる。

 このように、越後由来の家柄を持つ者と、上杉輝虎の近臣といえども新参者では、当然ながら峻別されていたことが分かる。


※ 広泰寺昌派の花押形は、上杉輝虎のそれと似ている。
※ 高齢の本庄美作入道宗緩は、当時、すでに一線を退いているが、五日か六日に一度ほど出仕していた。
※ 当時、松本景繁・河田重親と共に沼田三人衆と呼び称された上野中務丞家成(源六。譜代衆(国衆)。越後国節黒城主)の名が記されていない理由は不明である。


『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』  746号 広泰寺昌派書状、783号 本庄宗緩書状  『新潟県史 資料編3 中世一 文書編Ⅰ 付録』  『新修七尾市史14 通史編1 原始・古代・中世』  『永原慶二著作選集 第六巻 戦国期の政治経済構造 戦国大名と都市』(吉川弘文館)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加