歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

12月15日(日)のつぶやき

2013年12月16日 01時10分32秒 | twitterまとめ

昨日は、あさくらゆう氏の講演会に行ってきました。色々新発見があるようですが、特に芹沢鴨に関する通説が一転しそうなのが興味深かったです。芹沢と土方は暗殺の直前まで行動を共にしていたとの記述は興味深かったです。 


@itaru_ohyama ご武運をお祈りしています!


少し前にTLで兵站について盛り上がっていましたが、鬼怒川渓谷戦線での大鳥軍の兵站について、一部だけ書かせて頂きます。まず食料から、主食の米味噌醤油等は会津領田島宿から馬で運んでいたみたい。副食は基本的に豆の味噌煮、たまに現地調達した魚やキノコ・卵等を食していたみたいですね(続く)


江戸から干魚が届いた時は、兵士は大喜びだったそうです。またこの干魚と共に後装銃や軍服も届けられたそうです。しかし前装滑腔銃のゲベールやヤーゲルの弾丸は会津藩から補給されたでしょうが、後装銃の弾丸が会津藩が供給出来ないでしょうから、後装銃の弾丸は江戸から届けられた分のみでしょうね。


そして気になる人員補充ですが、『南柯紀行』によれば、人員補充の為に会津藩内で農兵を募兵しようとしたみたいですね。ただ実際に募兵された記述はありませんが...。結局は8個小隊だった伝習第二大隊を、4個小隊に再編成して鬼怒川渓谷の戦った模様ですね。


この人員を消耗した部隊同士を合併して、人員補充をするやり方は長州藩兵でも見られますが、人員不足になった部隊に、新兵を補充したと言う話は戊辰戦争では聞いた事がなかったりします。


@itaru_ohyama 人員補充の記述の後に、会津藩の事を因循姑息と書かれていましたが、てっきり農兵募集の話が駄目になった事を指していたかと思いましたが、それだけではなかったのですね。


『南柯紀行』に、大鳥軍が大原宿の「曠原」に陣地を構築したとの記述があったので、地図とにらめっこをしていたら、「曠原」って地名では無くて高原って意味だったのですね。高原と言うざっくりとした言われてしまっては、場所を特定するのはとても無理ですね(^^;)。


さっきの呟きに訂正。「高原」ではなくて「広原」です。当時の大原宿は、現在の鬼怒川温泉街。つまり当時の広原に構築した大鳥軍の陣地が、現在残っている可能性は100%ないですね(汗)。