歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

2017年のフィールドワークを振り返って

2017年12月03日 16時59分28秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 少し早いですが、今年のフィールドワークについて振り返りたいと思います。
 今までも古戦場巡りはしてましたが、正直観光の延長でしか無く、ただうろついているに過ぎませんでした。ですが昨年辺りから、実際にフィールドワークをされて各地で調査をしている方達から色々アドバイスを頂けたので、今年は昨年までとは違った活動が出来たと思います。
 ここでは、今年のフィールドワークで見つけた(同行者の方が見つけたのも含めて)遺構・遺物を紹介したいと思います。
 *尚、発見場所を曖昧にしているのは、後日正式に発表する際には書かせて頂きます(^^;)

①ミニエー弾
 立石山で発見。着弾時の衝撃で潰れたと思われます。潰れている事から不発弾ではなく、この山に撃ち込まれた物と考えています。

②石仏に残る弾痕
 棚倉のお寺の境内で発見。棚倉戦争では、具体的な戦闘場所は伝わっておらず、この寺の付近で戦いが行なわれたとの物証になると思います。


③石灯籠に残る弾痕
 同じく棚倉のお寺で発見。弾痕の場所から推測して、「参道から攻め寄せる新政府軍(板垣隊)を、寺に籠もる同盟軍が迎撃した」か、「同盟軍が宿陣していた寺を占領した板垣隊が、敗走する同盟軍を追撃した際の弾痕」のどちらかと思われます。


④歩兵台場
 個人的には今年一番の成果。街道を見下ろす位置に築かれた、2~4人が籠もれる陣地。高橋信武氏著の『西南戦争の考古学的研究』よれば、西南戦争の歩兵陣地(歩兵台場)では弧状の塹壕が主流との事ですが、この陣地の塹壕は直線状なのが特徴です(見つけた時は弧状陣地かと勘違いしましたが)。



 以上となります。今年は積雪により、もうオフシーズンになってしまいますが、雪解けしたらまた白河と棚倉のフィールドワークをしたいと思います。遅ればせながらも金属探知機を購入したいので、早く実践投入したいですね。特に山入村と母成峠辺りで活躍してくれると期待しています(^^;)

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「戊辰白河戦争史跡巡り 新選組斎藤一の戦跡を追う」のお知らせ

2017年06月12日 23時06分03秒 | 戊辰戦争・幕末維新史



 日野新選組同好会様の主催により、白河戊辰戦争と新選組関連の地巡りを、07月23日(日)に、福島県白河市にて実施します。

日時 :2017年07月23日(日) 東北新幹線 新白河駅にて10:00までに集合
講師 :安司弘子氏(前全国歴史研究会白河支部長)、大塚進也(三十一人会、軍事史学会)
参加費:4000円(マイクロバス代、資料代込み)*廻る範囲が広いので、マイクロバスの移動とさせて頂きました。

主な訪問場所
 白河小峰城跡、柳屋脇本陣、菊地央墓所(皇徳寺)、稲荷山古戦場、天神山古戦場、女石古戦場
 *戊辰戦争で使用された銃弾・砲弾の展示を交えながら、二ヶ月に渡った白河戊辰戦争の各地の戦闘と、戦況の推移をお話しさせて頂きたいと思います。

 参加希望の方は、日野新選組同好会の峯岸様か、私宛にご連絡下さい。

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箱根戊辰戦争の記事をアップしました

2015年08月02日 18時46分51秒 | 戊辰戦争・幕末維新史



 箱根戊辰戦争の記事をアップしました。河田左久馬率いる新政府軍と、伊庭八郎の率いる遊撃隊が箱根の地で激突。そして不本意ながらも、両陣営の激突に巻き込まれた小田原藩の苦悩と、戦況の推移を描いてます。

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野州戦争第五章「鬼怒川渓谷の戦い」を更新しました。

2014年05月05日 12時59分55秒 | 戊辰戦争・幕末維新史


 
 野州戦争第五章 「鬼怒川渓谷の戦い 会津西街道の隘路を巡る攻防戦」を更新しました。上記のとおり、今回は地図作成に力を入れたつもりです。カラーの地図や画像の多用が出来るのは、webサイトの利点なので、少しでも判り易い記事になっていれば幸いです。詳しい内容は本文を参照下さい。

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右松十郎太について②

2013年09月07日 21時02分00秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 先日話題にした薩摩藩士右松十郎太についてですが、ツイッターにてマンチカン 帝國様から『西南の役薩軍口供書』に、右松の証言が掲載されていると教えて頂いたので早速入手しました。西南戦争での薩軍の記録で右松の名は見た事がなかったので、どこに参加していたのかと思ったら、実戦部隊では無く、県令大山綱良の指示で後方勤務で参加した模様です。尚、右松は元々県の職員だったらしく、ここから維新後の右松が軍人の道は歩まなかった事が察せられます。薩軍に対しての協力では、もっぱら補充兵の徴募の任に当たったらしく、中々の辣腕を振るったみたいですね。戊辰北越戦争 羽越国境の戦いの際にも、高鍋藩兵や村上藩兵の記録を読む限り、右松は各藩兵の移動や意思疎通に携や連絡に携わっていたのが書かれているので、元々後方勤務に優れた手腕を持っていた人物だったのかもしれません。
 ところで個人的に、今回『西南の役薩軍口供書』を読んで印象的だったのは右松の年齢です。右松の口供書を信じれば、西南戦争当時の右松の年齢は二十九歳と八ヶ月となっていますので、戊辰戦争の際の右松の年齢は二十歳そこそこになります。そして戊辰戦争時に二十歳そこそことなると、薩摩藩が実戦を経験した薩英戦争と禁門の変の時は十代半ばとなりますので、この両戦争に参加した経験があったとしても、幾ら右松が禄高100石の中級藩士の身分だったとしても、十代半ばでは士官に抜擢されたとは思えないので、右松が戊辰戦争までに士官としての実戦経験があったとは思えません。また鳥羽伏見の戦いの記録でも、右松の名は見た事がないので(これは私が勉強不足だからかもしれませんが)、右松が北越戦争まで士官としての実戦経験を積んでいた可能性は少ないと思っています。
 しかし、そのような士官経験の無い二十歳そこそこ、しかも西郷隆盛の子飼いとも呼べる精忠組にも参加していない右松が、一挙新政府の村上・庄内方面軍の軍監に抜擢されたのは、右松が藩内で高い評価を得ていたからではないでしょうか。或いは久光のラインに繋がった人材だったのでしょうか、この辺は今後の課題にしたいと思います。
 以上の事から、戊辰戦争時に四十歳で、馬関攘夷戦争・幕長戦争・鳥羽伏見と実戦経験の豊富な福田侠平よりも、右松の方が実戦経験が豊富だった可能性は低いと思います。私が主張したいのは村上・庄内方面軍を率いる四人の軍監の中で最も実戦経験が豊富だったのが福田で、故に軍事指導は福田を中心に行われたと言う事で、福田が最高指揮官だったと主張する訳ではありません。あくまで軍議の際に中心人物なったと考えていると思って頂ければ幸いです。
 今後も右松を調べるのは続けたいと思いますが、何はともあれ、これで村上・庄内方面の中心人物が福田だったと言う論調で、羽越国境の戦いの記事を作成していきたいと思います。ただ実際に作成する前には、念の為に残りの二人の軍監の一人だった二見一鴎斎の経歴も調べたいと思います。尊攘派の僧侶と言う事で、単なるアジテーターとの認識をしていますが、念の為に裏付けを取っておきたいなと。
 最後になりますが、今回の件で福田が村上・庄内方面軍の中心人物だった事に自信が出ましたので、貴重な情報を教えて頂きましたマンチカン 帝國様には、改めて感謝させて頂きたいと思います。

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右松十郎太と言う人物

2013年09月01日 19時20分16秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 薩摩藩士右松十郎太と言う人物の経歴が知りたくて、本日は都立中央図書館に行ってきました。先日ツイッターで書いたとおり、戊辰北越戦争 羽越国境の戦いに参加した新政府の村上・庄内軍は、『復古記』では長州藩士の福田侠平伊藤伝之助、長崎出身の二見一鴎斎、そして薩摩藩士の右松十郎太の四人が合議制で指揮していたと書かれています。しかし私は合議制と言えども、実質この方面の新政府軍を率いたのは福田侠平だと思っています。これは福田が奇兵隊軍監の地位におり、馬関攘夷戦争・幕長戦争・鳥羽伏見の戦いで活躍した歴戦の指揮官なので、軍歴の有る福田が実質率いたと思っています。この仮説を立てるのは、他の三人が福田より軍歴がなかったと説明出来れば一応良いかなと思っています。
 まずこの内伊藤は福田より格下だったと言うのが、一番簡単に説明出来ると思います。前述のとおり福田は奇兵隊の軍監ですが、伊藤は同じく奇兵隊の輜重担当で、元々福田の部下でした。元々福田の部下で、輜重担当だったと言う事は、伊藤はこの方面の新政府軍の輜重担当として任命されたと考えるのが自然で、奇兵隊時代の関係から伊藤が福田を差し置いて軍事指導したとは思えません。続いて二見は長崎出身の僧で、元々は攘夷を唱えていたと伝えられます。大村益次郎や大鳥圭介のような例外は居るものの、そうそう僧が軍事知識を持っているとは考えられないので、二見も福田より軍事知識があるとは思えません。
 と言うわけで、この村上・庄内方面軍を率いた四人の軍監の中で、唯一福田に対抗出来る軍歴の持ち主がある可能性があるのが右松なので、右松がどのような経歴の持ち主なのかを調べに行った次第です。これで右松の軍歴が、福田と比べると見劣りするものだったら、福田が実質指揮したと言えるかなと思っていたのですが...。
 右松について書かれた本が全く見つかりませんでした(汗)。『幕末維新大人名辞典』や鹿児島県出身著名人の人名辞典、『鹿児島県史』などを読んだのですが、右松の名は見つかりませんでした(汗)。ネットで右松の名を検索しても、一件もヒットしなかったので不安に思っていたのですが、まさか本当に見つからないとは...(汗)。でもこれって戊辰戦争では村上・庄内方面軍の軍監を勤めたとしても、それ以外では歴史上の表舞台には出てこなかったと言う事ですかね。一応村上藩士や高鍋藩士の記録によれば、右松の名が頻繁に出てくるので、軍の運営に関わっていたのは間違いないと思うのですが、右松の経歴が判らない以上、軍事指導に関わっていたのか、単なる連絡将校だったのか判断が出来ません(二見は連絡将校だったと思いますが)。
 そんな訳で、福田が実質村上・庄内方面軍を率いた仮説の為に都立中央図書館に行ったのに、右松十郎太と言う人間への謎が深まる結果となりました(汗)。せめて幕末の薩摩藩士の分限帳があれば経歴の手がかりになると思うのですが、薩摩藩の分限帳って資料集か何かに入っていないのかしら?。う~んこれは鹿児島県立図書館に質問のメールを出すしかないのでしょうか。
 

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右松十郎太と言う人物

2013年09月01日 19時20分16秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 薩摩藩士右松十郎太と言う人物の経歴が知りたくて、本日は都立中央図書館に行ってきました。先日ツイッターで書いたとおり、戊辰北越戦争 羽越国境の戦いに参加した新政府の村上・庄内軍は、『復古記』では長州藩士の福田侠平伊藤伝之助、長崎出身の二見一鴎斎、そして薩摩藩士の右松十郎太の四人が合議制で指揮していたと書かれています。しかし私は合議制と言えども、実質この方面の新政府軍を率いたのは福田侠平だと思っています。これは福田が奇兵隊軍監の地位におり、馬関攘夷戦争・幕長戦争・鳥羽伏見の戦いで活躍した歴戦の指揮官なので、軍歴の有る福田が実質率いたと思っています。この仮説を立てるのは、他の三人が福田より軍歴がなかったと説明出来れば一応良いかなと思っています。
 まずこの内伊藤は福田より格下だったと言うのが、一番簡単に説明出来ると思います。前述のとおり福田は奇兵隊の軍監ですが、伊藤は同じく奇兵隊の輜重担当で、元々福田の部下でした。元々福田の部下で、輜重担当だったと言う事は、伊藤はこの方面の新政府軍の輜重担当として任命されたと考えるのが自然で、奇兵隊時代の関係から伊藤が福田を差し置いて軍事指導したとは思えません。続いて二見は長崎出身の僧で、元々は攘夷を唱えていたと伝えられます。大村益次郎や大鳥圭介のような例外は居るものの、そうそう僧が軍事知識を持っているとは考えられないので、二見も福田より軍事知識があるとは思えません。
 と言うわけで、この村上・庄内方面軍を率いた四人の軍監の中で、唯一福田に対抗出来る軍歴の持ち主がある可能性があるのが右松なので、右松がどのような経歴の持ち主なのかを調べに行った次第です。これで右松の軍歴が、福田と比べると見劣りするものだったら、福田が実質指揮したと言えるかなと思っていたのですが...。
 右松について書かれた本が全く見つかりませんでした(汗)。『幕末維新大人名辞典』や鹿児島県出身著名人の人名辞典、『鹿児島県史』などを読んだのですが、右松の名は見つかりませんでした(汗)。ネットで右松の名を検索しても、一件もヒットしなかったので不安に思っていたのですが、まさか本当に見つからないとは...(汗)。でもこれって戊辰戦争では村上・庄内方面軍の軍監を勤めたとしても、それ以外では歴史上の表舞台には出てこなかったと言う事ですかね。一応村上藩士や高鍋藩士の記録によれば、右松の名が頻繁に出てくるので、軍の運営に関わっていたのは間違いないと思うのですが、右松の経歴が判らない以上、軍事指導に関わっていたのか、単なる連絡将校だったのか判断が出来ません(二見は連絡将校だったと思いますが)。
 そんな訳で、福田が実質村上・庄内方面軍を率いた仮説の為に都立中央図書館に行ったのに、右松十郎太と言う人間への謎が深まる結果となりました(汗)。せめて幕末の薩摩藩士の分限帳があれば経歴の手がかりになると思うのですが、薩摩藩の分限帳って資料集か何かに入っていないのかしら?。う~んこれは鹿児島県立図書館に質問のメールを出すしかないのでしょうか。
 

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「野州戦争第四章」の記事完成しました。

2013年08月16日 17時30分14秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 二年ぶりの更新となる、戊辰野州戦争那須山麓の戦いの記事をアップしました。 http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/utunomiya/nasu.htm
 会津田島宿で会幕連合軍が結成され、大鳥圭介率いる主力部隊が南下し、今市宿で新政府軍と激突する一方で、会幕連合軍第一大隊と第四大隊半大隊は那須山麓に進出、板室宿・大田原宿を巡り新政府軍と激突します。久々の純粋なミリタリーの記事になっているので、宜しくお願いします。
 それにしても、この野州戦争については最初は宇都宮戦までしか書かない予定だったのが、日光・今市戦に続いて、今回の板室・大田原戦まで記事を作る事になるとは思いませんでした。特に今回の板室・大田原戦は大鳥圭介が関係していない戦いなので、よもや調べる事になるとは思いませんでした。ある意味人生ってどうなるか判らないな~と思っている次第です(^^;)。ここまで来たら、一旦間を置きますが、いずれ藤原戦までは必ず調べてみたいと思っています。ただ野州戦争は藤原戦で終了したいと思います。三斗小屋宿戦もありますが、流石に三斗小屋宿は再訪問するのは辛いので、三斗小屋宿戦は無理かな...。

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『歴史REAL』V0L7収録 中村彰彦著「病死説と毒殺説、孝明天皇死因の真相は?」について

2012年06月10日 16時09分27秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 現在でも会津ファンや新撰組ファン、また陰謀論好きから人気がある「孝明天皇暗殺説」について、小説家の中村彰彦が雑誌『歴史REAL』の最新号で書いています。以前同じく小説家の星亮一が、『偽りの明治維新』で孝明天皇暗殺説を強弁した時に、私は「学会では歴史研究家の原口清氏が、平成元年に発表した「孝明天皇の死因について」「孝明天皇は暗殺されたのか」の二つの論文によて病死説が主流になったのに、その原口説に触れずに暗殺説を強弁するのはおかしい」と書きました。実際、暗殺論者は原口説に触れずに、自分の都合の良い資料のみを持ち出して暗殺説を強弁するばかりでした。
 そのような中、小説家の中村彰彦が雑誌『歴史REAL』上で、原口説に批判して暗殺説を書くと言う事で読んでみました。しかしいざ読んでみたら、原口説を批判すると言いながら、実際に原口説の引用は無く、原口説の主幹である中山慶子の日記の記述は無視して、原口説を否定すると言う体たらくな物でした。しかも中村彰彦が暗殺説の根拠としているねずまさしの暗殺説は、そもそも原口説の前に書かれている物です。つまり中村は時系列を入れ替えて、既に原口説に否定されている論文を持ち出して、原口説を否定しているのです。これは後述しますが、引用史料名だけを書いておけば、多くの人は引用元までを読まないだろうと言う、陰謀論者お得意の手法であり、読者を馬鹿にした行為と言わざるを得ません。更に中村はこの時系列の矛盾を突かれるのを警戒したのか、自分の暗殺説に詳しくは別の本に掲載した自分の論文を読んで欲しいと逃げを打っています。結局は偉そうな事を書いておきながら、本雑誌では自説の根拠は述べず、責任をねずまさしに転換出来るように巧妙に書かれた物です。秦郁彦著『陰謀史観』に陰謀論者の特徴として、「問題提起者は挙証責任を放棄し、受け手に転換してしまう仕掛けにしているのである(P247)」と書かれていますが、中村の責任転換の手法は正しく陰謀論者の特徴と言えましょう。
 この原口説を論破したと勝ち誇っていながらも、実際には何の反論になっていないだけでも、中村の主張は荒唐無稽なのですけれども、今回の中村の記事最大の問題は、原口説が間違っているから自分の暗殺説が正しいと結論している事です。百歩譲って原口説が間違っていたとしても、それが暗殺説を証明するものではありません。それを「原口病死説が誤り=中村暗殺説が正しい」と言う中村の主張は議論のすり替えに過ぎなく、学問ではなく陰謀論だと言うのを如実に表していると言えましょう。

 こう書いても、未だ「暗殺説は正しい」との想いを捨てきれない人は多いでしょう。私としては暗殺説の支持を続けるのは構わないものの、一度原口氏の二つの論文を読んで頂きたいとお願いです。原口説を読めば孝明天皇の容態が急変したと言うのは誤りで、それを根拠とした暗殺説に疑問を持って頂けると思います。何より中村のような陰謀論者が一番恐れるのは、自分が引用した史料や文献そのものを読者に読まれる事です。前述の秦郁彦著『陰謀史観』にも書かれていますが、陰謀論者は引用史料を持ち出せば多くの人が信じて、引用史料その物は読まないと、言わば見下して陰謀論を振りかざすのです。ですので暗殺説を支持する人にも、中村の陰謀論を鵜呑みにせずに、自分自身の目で原口氏の論文を読んで判断して頂く事を切に望みます。
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北総史学舎 寺子屋歴史講座

2011年08月07日 14時15分19秒 | 戊辰戦争・幕末維新史



講座名:北総史学舎 寺子屋歴史講座
講師:大山格氏
日時会場:2011年6月25日、7月9日同16日、同23日、同30日、8月6日(赤字は欠席)
        千葉県流山市:えんま堂 
講座内容
 第一回:「世界史のなかの幕末」・「聞き書き記事を読む」
 第二回:「30分でわかる明治維新」・「風刺画を読み解く」
 第三回:「八月十八日政変の諸史料を読む」
 第四回:「薩長同盟実歴談を読む」
 第五回:「寺田屋伊助申立書を読む」
 第六回:「明治元年の政権構想」

 歴史家の大山格さんと、流山市の観光案内NPO団体北総新撰組さんとの合同企画である勉強会「北総史学舎 寺子屋歴史講座」が6月から8月まで全六回の日程で実施されました。初級・中級・上級が各ニ回のスケジュールで実施され、私はその内四回参加させて頂いたので感想を書かせて頂きます。
 まず第一回の「世界史のなかの幕末」は、世界史の流れと幕末史を同列の時系列で解説して頂いたものでしたが、知っているようで勘違いしている事が多かったですね。戊辰戦争の際、米国から南北戦争終結により過剰在庫になった小銃が大量に輸入されたので、てっきりペリー来航は南北戦争終結後と思っていたら、ペリーが来た後に南北戦争が勃発したと言うのは知りませんでした。確かに戊辰戦時に日本に影響力を持っていた外国の双璧は英と仏で、米国が一歩遅れていたのは知っていたものの、それが南北戦争の影響とは知らなかったので勉強になりました。また米国と同じように英仏よりも日本に対するアプローチは早かったものの、その後の進出が遅れてしまったロシアの原因はクリミア戦争だったというのもビックリ。クリミア戦争その物は知っていたものの、日本の幕末維新史との関連は考えていなかったので新鮮でした。
 また日本では俗説の為にあまり人気の無いハリスですが、清とは違い日本にアヘンが入って来なかったのは潔癖症のハリスのおかげと言うのは、もっと広めるべき話だと思います。
 「聞き書き記事を読む」は二本松戦争の事を、後年の昭和に元二本松藩家老の娘さんが語ったインタビューを読むものでした。講座の主眼としては、戦前の国民の士気を煽った記事だと判って読んで欲しいとの事でしょうが、それはそれとしてあまりにも事実誤認が酷すぎ(汗) もはや捏造と言って良いレベルで、何でこの人は昔を語る前に、歴史書を読んで自分の記憶との矛盾を解消しなかったのかと思ってしまったりして。

 第四回は薩長同盟における坂本竜馬の功績についての話との印象が強かったです。どうも坂本はフィクションの虚像が強すぎて。英雄詩された人物像と、「美化されているだけで、所詮は薩摩の小間使いに過ぎなかったのでは?」との批判的な認識の間で、自分の評価も揺れていました。ですので今回の講座での大山氏の「行動力に関しては長けていた人物」と言う評価は、「英雄」と「実は大した事の無い人物」との両極端な評価の中で揺れていた私にとって、すんなり入る物でした。
 このように自分の中で評価が上がった坂本ですが、本来機密同盟の筈の薩長同盟の存在が、坂本が自分の同行を知人に誇ろうとした書面が幕府の見回組によって押収された為、薩長同盟の存在を幕府に察知されてしまったと言うのには笑ってしまいました。坂本は行動力に長けた非凡な人物だったのでしょうが、過剰な自己顕示欲とずぼらな機密管理から考えると、司馬遼太郎が言うような英雄とはとても思えません(汗)
 尚、そんな坂本に薩長同盟の承認の役を頼んだ桂小五郎も問題があるとは大山氏の弁ですが、世良修蔵の一件を考えると、機密情報を迂闊に他人に預けてしまうのは長州人の共通した欠点だと思う(汗)

 第五回は、そのような坂本竜馬の伝説がどのように作られたについてです。坂本竜馬伝説が日露戦争の開戦時に明治天皇の皇后の夢に出た話が始まりと言うのは知っていましたが、そのフレームアップに香川敬三が関わっていたと言うのは驚きです。坂本の英雄化は単なる土佐派の影響力回復と言うのはまだ判るものの、宮内省の閑職に追いやられた土佐派が、天皇の影響力を利用して権力を掌握しようとしたと言うのは本当に驚きです。
 ちなみに個人的には、香川が単に岩倉具視のお気に入りと言うだけで出世した人間との認識しか無かったのですが、その香川も後年の岩倉使節団に入れて貰えなかった事を考えると(私費で参加)、後年は岩倉の信頼も失っただろうと言うのは驚きでした。そして岩倉の信頼すら失った香川が、最後に権力の拠り所にしようとしたのが坂本なのでしょうか。・・・それにしても香川と言い、陸奥と言い、藩閥すら無い藩の出身者の吹き溜まりみたい感じですね、晩年の土佐派って。
 尚、香川が岩倉の信頼を失ったと思われる、戊辰野州戦争での香川の失態はこちらこちらを参照下さい。

 最後の第六回は明治新政府がどのような政権構想を持っていたかについてです。五箇条のご誓文が発布されるまでの意見の変異を通じて、明治新政府内の意見の移り変わりを説明して頂きましたが、個人的に印象に残ったのは、明治新政府発足時は各省の長官(卿)が公卿や諸侯だったのに、やがて諸藩の藩士に取って代われた事の説明です。実は今までこのような公議政体派の諸侯が権力から追い落とされたのは、鳥羽伏見の戦い時に徳川慶喜を支持しようとした公議政体派を、あくまで討幕を主張して鳥羽伏見の軍事的勝利によって権力を得た討幕派の藩士達が追いやった、一種のクーデターと思っていました。そして鳥羽伏見の戦いを、単に旧幕府だけで無く、公議政体派の諸侯まで、つまり討幕派の諸藩士達が大名と言う権力を打ち破った戦いと言う認識を持っていました。しかし今回大山さんに、そんな大層な物でなく、単に温室育ちの大名が激務に耐え切れずに逃げ出しただけと教えられ拍子抜けしてしまいました(汗) 何と言うか私も陰謀論に毒されていたのだと反省です(汗)

 以上が、今回の勉強会の感想です。知っているようで知らなかった事、また自分が無意識に持っていた誤った歴史観を正せれる機会を得れたので勉強になりました。またこのような機会があったら参加したいですね。例えば今回は坂本の英雄化がテーマになりましたが、それと対照的に実務的に有能な人物としてマニアからの評価が高い中岡は、何故坂本のように偶像化されなかったのかなんて面白いような気がするのですが。

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米沢藩の戊辰戦争における参戦理由 その4

2011年05月07日 18時51分49秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

一年ぶり以上の更新になりましたが、箇条書きの形で私なりにまとめた米沢藩の参戦過程を書いてみました。清書は自サイトの方で公開させて頂きますので、今回は備忘録代わりとご理解下さい。文末の( )内は、その根拠となる史料です。

 奥羽鎮撫総督府が仙台藩に訪れるまでの経緯は飛ばします。
 ①奥羽鎮撫総督府から会津征討の命が下る(御年譜・戊辰紀事、他多数)
 ②会津藩に同情的な藩論から会津救済の周旋活動行う(御年譜・戊辰紀事、他多数)
 ③しかし総督府参謀世良修蔵に悉く建白を却下される(御年譜・戊辰紀事、他多数)
 ④この時点で、消極的とは言え新政府との交戦を覚悟するようになる(戊辰紀事・木滑要人日記)
 ⑤閏四月十八日、広沢真臣の言質を得た宮島誠一郎が京から帰国。宮島の報告を受けて、一時的に米沢藩が和平路線に戻る?(宮島誠一郎日記)
 ⑥米沢藩政府宮島を白石に派遣して、新政府軍との開戦を踏み止ませようとする(宮島誠一郎日記)
 ⑦宮島白石に到着する、しかし時既に遅し、仙台藩が暴走して世良を謀殺(史料多数)
 ⑧なし崩し的に対新政府軍への軍事同盟となる奥羽列藩同盟が発足。米沢藩は越後と出羽方面の担当になる(戊辰紀事・会津戊辰戦史・奥羽越列藩同盟の基礎的研究、他多数)
 ⑨閏四月二十九日、家老竹俣久綱、軍務総督千坂高雅が不在時にも関わらず、越後出兵が決定される。会議参加者は色部久長・甘粕継成・若林秀秋・斉藤篤信・中条明資・小林五兵衛。この内甘粕・斉藤・中条が主戦派と推測(甘粕備後継成遺文・史談会速記録の千坂高雅の口述筆記)
 ⑩五月一日、中条明資大隊が越後に向け出陣。ただしこの時点での任務は越後鎮撫と藩境防衛(甘粕備後継成遺文)
 ⑪越後内の諸藩が列藩同盟に参加したのを受けて、中条大隊越後に進入。そのままどんどん中越地方に進軍する(中条が主戦派だからでは?)。五月十三日色部率いる本隊も出陣(恐らく中条や甘粕等主戦派のお目付け役として)(甘粕備後継成遺文・越後戦争日記、他多数)
 ⑫五月二十一日、津宿にて主戦派の甘粕・大井田修平等、非戦派の色部・若林・小林等の意見が激突。激論の末、甘粕達の主張が通り、越後派遣軍は新政府軍と交戦するのが決定(甘粕備後継成遺文)
 ⑬五月二十二日、加茂宿にて同盟軍の軍議が行われ、甘粕が米沢藩代表として参加。そして二十四日から同盟軍と新政府軍の戦いが繰り広げられる事になる(史料多数)

 上記の流れとと推測します。基本的な流れは今までと同じですが、甘粕が単独で決めたと言うより、斉藤篤信など主戦派の同志も多く、何より米沢藩の世論が会津に同情的で新政府軍との交戦を欲していたのが、甘粕・斉藤等の主戦派の意見を後押ししたと言う感じだと思います。
 とは言え、藩首脳部が危険な新政府軍との交戦を認めたのが納得出来ないと思う方が多いかと思います。何故、藩首脳部が甘粕・斉藤等主戦派の暴走を追認したかを示す明確な史料はまだ見ていませんが、和平派と言ってもやはり米沢藩の人間にとっては「かつての故郷である越後の地を回復出来る」と言うのは、何物にも変えれない想いだったのではないでしょうか。
 上記のとおり、今回はあくまで備忘録代わりの箇条書きで、清書はサイト上で公開させて頂きたいと思います。

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香坂勘解由について

2011年04月09日 19時42分42秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 戊辰戦争に参加した米沢藩兵の将兵の中で気になる人物の一人として、香坂勘解由と言う人が居ます。多分苗字からして信濃香坂氏の系列だと思いますが、開戦当時は数多い小隊長の一人だった香坂勘解由は、戦争後期には仮参謀に昇進した斉藤篤信の後を継いで、第二次長岡城攻防戦の際には、八丁沖西部戦線を攻撃する三個大隊を率いる大隊長の一人にまで出世します。
 しかし香坂勘解由が活躍するのは、第三次長岡城攻防戦で敗北して、同盟軍が総崩れになった後でした。長岡城が再落城すると、千坂高雅・甘粕継成・斉藤篤信と言った首脳部は、逸早く米沢本国に撤退します。しかし大多数の米沢藩兵が未だ長岡城周辺に居る中で、米沢藩兵の撤退にて香坂勘解由はその手腕を発揮します。大隊長なので自分の大隊を率いて撤退するのは当然ながら、香坂勘解由は他の大隊所属の小隊も収容しながら撤退しているのが記録されています。大津英助の日記から、大井田修平大隊所属の小隊を収容したのは間違いないのですが、凄いのは四散した大井田修平大隊所属の小隊をバラバラに収容しています。これは単に近くの大隊を収容するのは困難でしょう。
 そんな健闘をして無事米沢本国への撤退に成功した香坂勘解由は、休む間もなく新政府軍の侵攻に備えて米沢藩境に出兵しますが、現地の陣地を視察した際、こんな陣地では新政府軍を支えきれないと軍政府に上申するなど(米沢藩戊辰文書)、その識見を披露しますが、残念ながら戊辰戦争関連の記録からは、この後香坂勘解由の名は見れなくなります。米沢藩が新政府に降伏した後、会津方面と庄内方面にそれぞれ出兵するので、どちらかの軍には所属していると思うものの、残念ながら今のところは香坂勘解由の名が書かれた史料は見た事がありません。
 そんな戊辰で活躍した香坂勘解由が維新後どのような人生を歩んだかが全く判らないのですよね。新政府に出仕したかもしれませんが、千坂高雅・甘粕継成・斉藤篤信・宮島誠一郎のように高官になった訳でなければ、中々記録には残っていませんし、ましてや米沢の故郷で尽力したのなら、それこそ中々維新後は判りません。まあ戊辰当時にまだ34歳の若さなので、大井田修平のように隠居した訳でなく、その後に第二の人生を歩んだと思いますが、現在の私には判りません。ただ確かに戊辰で花開いた香坂勘解由のその後は気になるものの、戦術指揮官としては優れているものの、戦略には関わっている訳ではないので、米沢藩の戦略を担当した千坂や甘粕や斉藤に比べると、興味は弱いかな。でも香坂勘解由や柿崎家教や横山与一と言った大隊長についても、いつかは調べてみたいですね。

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備忘録:現在所有の米沢藩戊辰戦争関連史料 その1

2011年02月22日 22時12分45秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 今日は半ば防備録代わりに、現在所有している米沢藩の戊辰戦争関連史料を挙げて、今後の活用に繋げたいのと、今後米沢藩の戊辰戦争を調べたい人の役に立てば良いと思い書きたいと思います。

「上杉家御年譜」
「米沢藩戊辰文書」
「戊辰紀事」:上杉文書収録


 まずこの三つが基礎史料ですね。「上杉家御年譜」と「米沢藩戊辰文書」は有名なので説明は省きますが、お勧めなのが「戊辰紀事」。これは昭和初期に完成した二次史料ながら、郷土史家の故伊佐早謙(旧上杉家家臣)が多数の史料をまとめて時系列で書かれた物ですので、非常に参考になり米沢藩の戊辰戦争を調べるには基礎史料にすべきと思っています。難点は「御年譜」や「戊辰文書」のように活字印刷ではないので、読むのに苦労する事ですが、筆ではなくペンで書かれているので、頑張れば専門教育を受けていない私でも読めていますので、専門教育を受けて無くても十分読めます。この史料がもっと世間に広まれば、米沢藩の戊辰戦争史研究はもっと進むのではと思っています。

「史談会速記録」の千坂高雅の供述
「甘粕備後継成異聞」

 上記二つは米沢藩総督の千坂高雅と、参謀の甘粕継成のそれぞれの記録です。それぞれ後世読まれるのを意識しているので、自己弁護の感は強いものの、戊辰戦争時の米沢藩の軍政府上層部の任にあった者の証言ですので、こちらもやはり必読かと。総督と参謀と言う米沢藩兵のNo1とNo2にも関わらず、両者で微妙に考えが違うのが伝わって来るのが興味深いです。難点は前述のとおり、両者とも自己弁護が激しい事。特に甘粕の方は日記を丸々書き換えたのか、7月以降は自分が指揮した越後線戦についての供述がないので、肝心の第二次長岡城攻防戦から、その後の第三次長岡城攻防戦、そして同盟軍の戦線崩壊時の参考には使えません。

「越後之略記」:家老色部久長家来の日記
「越後出陣日記」:小隊長徳間久三郎の日記
「越後戦争日記」:半隊司令(大津英助小隊)丸山亭四郎の日記

 上記三点は実際に戊辰戦争に参加した藩士の日記、家老色部の家来から、実際に小隊を率いた小隊長や半隊長のの日記で、特に後者二点は前線の様子が描かれている貴重な史料です。しかも凄いのが、このような貴重な史料が活字化されて誰でも読める事。上級士官から前線指揮官の供述が活字で読めるのは、他藩を調べている人に比べれば恵まれていると思います。
 他にも小隊長松木幾之進の日記もありますが、こちらは活字化されていなく、しかも「戊辰紀事」のようにペンではなく、筆で書かれているので、読む事自体が困難なので参考資料には出来ていません。

 他にも参考史料や先行研究はたくさんありますが、自分が調べる時に基礎史料としているのはこの八点です。米沢藩は他藩に比べて史料が豊富だと思うので、もっと調べる仲間が増えれば嬉しいなと思っています。
 ちなみに私自身は現在「御年譜」「戊辰紀事」「史談会速記録」、他には木滑要人の日記から、米沢藩が戊辰戦争に参戦した経緯を纏めています。何とか今年中にはまとめたいのですが・・・。また「戊辰紀事」のテキスト化をライフワークに出来れば良いなとも思っていたりします。

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木滑要人日記

2010年08月08日 21時25分12秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 この週末は都立中央図書館に、米沢藩士木滑要人日記が収録されていると言う事で、古い『山形縣史』の第四巻をコピーしてきました。期待していた木滑要人の日記はコピー出来たのですけれども、てっきり纏まった期間の日記が収録されていると思ったら、例えるなら『復古記』のように時系列上で書かれている中に、時々該当分の日記が引用されている形でした。まあ確かに資料編ならいざ知らず、通史編では纏まった引用はされないと、少し考えれば判る所なのですが、纏まった機関の日記が読めると期待していただけにショックです。まあ、断片的とは言え、戊辰戦争中は年寄と、米沢藩の要職に就いていた木滑の日記を入手出来たのはありがたいので、これから読み込みたいと思います。
 ただ、出来れば木滑の日記の全文を読んでみたいですね。また今回の山形縣史を読んで、米沢藩家老竹俣久綱の日記と言うのもあると言うのも知りました。う~ん甘粕継成に木滑要人に竹俣久綱・・・、まだまだ読みたい日記がたくさんありますけれども、どこに行けば読めるのでしょう? 米沢市立図書館にあるのならまだ読めますけれども、東京大学史料編纂所に所蔵されているのならば手も足も出ません(涙)
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朝廷下賜の大隊旗

2010年07月24日 22時43分29秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 戊辰北越戦争で、明治新政府軍に属した草莽諸隊の方義隊(居之隊)が、朝廷から大隊旗を下賜されたものの、北陸道先鋒総督府参謀だった山県有朋に睨まれて、結局その大隊旗を返上させられたのは有名な話です。勉強不足な身の為、他にこの大隊旗を下賜された話を聞かないので、この朝廷から下賜された大隊旗が余程貴重な物かと思っていたら、何と米沢藩もこの大隊旗を下賜されたそうです。何でも京で情報収集に当っていた米沢藩家老千坂高雅(後の米沢藩軍政府の軍務総督)が、三月に朝廷から会津藩征討を命じられた際に下賜されたそうなのですけれども、正直現時点ではこの話は、千坂の証言しかないので史料の裏付けが取れない状況です。当時千坂の部下だった宮島誠一郎の日記には、この大隊旗の事が書かれていませんし。
 もし千坂の話が本当なら、思っているより大隊旗は乱発されていたのかしらと思う今日この頃です。もっとも個人的には、この話は千坂が自分が以前より尊王の志を持っていたと事を主張する意図があったのではと言う気がするのですよね。

 何はともあれ目下の悩みは千坂が、米沢藩が新政府軍との開戦に踏み切った最終決断に関わっていたか、関わっていないか未だに見極めが出来ていない事です。う~ん軍政府の甘粕継成と斉藤篤信の二人が関わっていたのは間違いないと思うのだが・・・。

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