歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

甲斐:笹尾城(塁)址

2014年09月23日 17時24分58秒 | 登城記・史跡訪問


 笹尾城址入り口に建つ解説版。

 甲斐笹尾城(塁)は、新府城若神子城が築かれたのと同じ七里岩台地上に位置します。七里岩台地の北端に近い、南側の釜無川に突き出た、いわゆる舌状台地部に、武田氏により対諏訪氏向けに築かれたと伝えられます。
 笹尾城址は一の郭から六の郭で構成されたと伝えられますが、現在整備化されているのは一の郭と二の郭のみ。三の郭は駐車場にされ、四の郭から六の郭までは宅地化や雑木林とされています。探せば四の郭跡から六の郭跡にも遺構が残っているかもしれませんが、今回は整備されている一の郭跡と二の郭跡のみを訪問しました。
 笹尾城址に訪問した日は雨が降っていた為、ガスにより笹尾城址より眼下が見えず、折角の笹尾城址の地理的重要性が分り難かったので、再度訪問してからアップしようと思っていました。しかし半年経っても未だに訪問出来なかったので、とりあえず半年前に撮影した画像のみで記事をアップさせて頂きました。


 笹尾城址から見下ろして、天気が良ければ対岸に南アルプスも望めるのですが、ガスにより麓すら見えません。


 同じく笹尾城址から見下ろして。断崖絶壁上に築かれているのが実感出来ると思います。


 駐車場化され削平された三の郭跡から、四の郭跡を望んで。


 三の郭~二の郭間の空堀跡。


 二の郭跡に残る空堀跡。雪が残っているおかげで、地面に凹凸があるのが確認出来ます。


 二の郭跡の土塁跡。


 土塁跡。


 切り通し跡。

 武田信玄が甲斐を平定し、信濃への侵攻を始めると、しばらくの間は笹尾城は歴史の表舞台から姿を消します。しかし武田氏が織田氏に滅ぼされ、その織田信長も明智光秀に討たれて、甲斐への織田政権の支配権が揺らぐと、笹尾城は再び歴史の表舞台に現れます。
 武蔵・上野の国境である神流川で、織田氏の重臣である滝川一益を撃破した相模の北条氏直は、上野を占領後、そのまま余勢を駆って信濃に侵攻しました。一方越後の上杉景勝も、信長の横死を知ると信濃に侵攻を開始します。上杉勢と北条勢は信濃川中島で対陣するものの、川中島で両軍が対陣する間に、駿河の徳川家康が甲斐に侵攻を開始します。家康の甲斐侵攻を知った氏直は、慌てて川中島から撤収、そのまま南下して甲斐に侵入し、自らは七里岩台地上の若神子城に本陣を置きます。甲斐侵攻後氏直は甲斐北部の諸城を改築して、自軍を入城させますが、平山優氏著の『天正壬午の乱』によれば、その際に笹尾城も後北条勢に接収され、拠点の一つとなったと言います。


 土塁跡


 一の郭跡と土塁跡。


 一の郭跡。

 天正壬午の乱後、甲斐は正式に徳川氏の所領となりますが、笹尾城址は徳川氏の支配では使われる事は無く、そのまま廃城になったと思われます。

 訪問日:2014年03月18日


伊豆:狩野城址

2014年09月06日 14時10分06秒 | 登城記・史跡訪問


 駐車場に建てられた説明板に描かれた狩野城址の地図

 伊豆狩野城は、北条早雲(伊勢宗瑞)が居城とした韮山城や、堀越(公方)御所の南、伊豆中部に位置しています。狩野川と柿木川が合流する地点に築かれており、またその眼下には下田街道も通っているなど、陸上交通と河川交通の両方を押さえられる戦略上の要所に築かれています。


 狩野城址から柿木川を見下ろして。


 同じく狩野城址から麓を見下ろして。

 明応二年(1493年)に駿河に居た北条早雲が伊豆に討ち入りし、堀越御所を襲撃すると、堀越御所の足利茶々丸は堀越御所を脱出、伊豆南部の国人衆を頼って落ち延びます。この足利茶々丸の呼び掛けに応じた国人衆の中に、狩野城を居城とする狩野氏も含まれていました。かくして早雲と狩野氏は交戦状態に突入します。しかし五年後の明応七年、早雲の攻勢の前に狩野氏は降伏開城し、狩野城は後北条氏に接収されます。尚、狩野氏はその後後北条氏に従う事になり、後の豊臣秀吉による小田原討伐の際に、八王子城に籠もった北条家臣団の中に狩野氏の名が見られます。


 城西部に残る空堀跡


 城西部の削平地、遺構の一部でしょうか?。


 西郭横の空堀跡。


 西郭跡。十人も籠もれば一杯になってしまう程、空間は狭いです。


 二重堀跡。風雨による損壊が大きく、あまり二重堀らしくはありませんでした。


 本郭跡。こちらも面積が狭く、とても本丸とは思えないのですが…。


 中郭跡、奥に見える土塁上の南郭跡と繋がっているので、狩野城址内で面積が一番広く、本陣跡(?)の石碑や神社なども建っています。


 南郭跡から見下ろした中郭跡。やはりこの中郭と南郭の方が本丸っぽい気がします。尚、中郭上に建てられた建物は神社です。


 山頂から南側を見下ろして。断崖絶壁上に築かれているのが実感出来ます。


 東郭跡。やはり中郭と南郭以外はどれも狭いです。


 本郭と東郭間の空堀跡。


 出丸跡。2~3人位しか籠もれるスペースしかなく、出丸と言うより見張小屋っぽいです。

 以上のように狩野城は地形を活かした天然の要害でしたが、一つ一つの曲輪の面積は狭く、大軍が籠もるような城ではありませんでした。そのような意味では戦国時代中後期の城とは違う、室町時代から戦国時代前期までの中世の城らしさを確認出来る城址と思われます。
 尚、後北条氏に接収後に狩野城は廃城になった訳では無く、秀吉による小田原討伐の際にも合戦が行われたそうですが、詳細は不勉強の為に判らないので、今後の課題とさせて頂きます。

訪問日:2014年08月05日


甲斐:郡内勝山城址

2014年05月10日 21時43分32秒 | 登城記・史跡訪問



 郡内勝山城址の遠景。

 前々から気になっていた、郡内勝山城址に行ってきました。実際に訪れて一番驚いたのが、この郡内勝山城が郡内小山田氏の居城だったと言う事です。郡内小山田氏と言えば小山田信茂が有名ですが、武田家滅亡の際にこの信茂が、勝頼に岩殿城に退避するのを勧めたと言う逸話から、岩殿城が小山田氏の居城だと長年思っていたら、この郡内勝山城が小山田氏の居城だったと書かれていて驚きました。確かに言われてみたら、岩殿城は郡内地方の北端に位置していて、郡内地方を支配するには不便そうですものね。郡内地方の中央に位置する郡内勝山城の方が、郡内地方の支配には適していると思いました。


 郡内勝山城址登山口に建つ、郡内勝山城址の地図。


 郡内勝山城は、郡内地方と桂川を隔てた山頂に築かれています。深い谷底を流れる桂川を越えないと、郡内勝山城にはたどり着けないので、この郡内勝山城もまた岩殿城と同じく要害だったと思われます。


 川棚見張り台跡。郡内勝山城の東端に位置して、上記の画像はここから撮影しています。


 土塁跡。


 三の丸跡。



 同じく三の丸跡。

 前述したように郡内勝山城が小山田氏の居城だったと言う事ですが、武田家滅亡後に小山田信茂は嫡子と共に織田信長に処刑されたので、郡内小山田氏もまた滅亡する事になります。その後の小山田氏家臣の詳しい動向は分りませんが、信長横死後の天正壬午の乱では、郡内地方には後北条氏の軍勢が進駐し、郡内勝山城もまた後北条氏に接収されたと思われます。


 三の丸の上に位置する二の丸跡。


 二の丸上の本丸の東側には帯曲輪が築かれています。


 帯曲輪付近の土塁跡の突端。


 本丸跡。

 天正壬午の乱後の徳川家康と北条氏直の和睦により、後北条氏に占領されていた郡内地方は、徳川氏に引き渡され、郡内勝山城には鳥井元忠が入城したそうです。
 更に、豊臣秀吉による後北条氏討伐後、家康が旧後北条領に転封されると、甲斐には秀吉の重臣である浅野長政が入封します。郡内勝山城には長政の重臣である浅野氏重が入城する事になり、この鳥居元忠と浅野氏重により郡内勝山城は改修される事になりました。


 本丸跡の土塁に残る石垣跡。鳥井元忠時代か浅野氏重時代に築かれたと思われます。


 本丸跡から見下ろした、郡内地方の現況。

 更に関ヶ原後に浅野氏が紀伊に転封になると、以降の甲斐は複数の大名家を経て天領となり、郡内勝山城も廃城となりました。


 廃城後の郡内勝山城の本丸跡には、家康を祀る東照宮が建てられました。

 以上となります。今回は行けませんでしたが、本丸と北側と西側にも遺構が在るらしいので、今度また訪れたいと思っています。

 訪問日:2014年04月24日


伊豆:堀越御所跡・北条氏邸跡

2013年12月07日 21時10分00秒 | 登城記・史跡訪問


伝堀越御所跡に建つ、堀越御所跡の説明図。

 伊豆の堀越御所跡は、かつては堀越公方住居していた屋敷跡です。堀越公方の存在は知っていたものの、堀越御所跡を訪れるのは今回が初めてです。
 元々足利幕府の関東の出先機関だった鎌倉公方(足利尊氏次男の家系)が、幕府の意に従わない事から、八代将軍義政が新たに関東に派遣した兄弟の政知が、伊豆堀越の地に屋敷を構えたのが堀越公方の始まりです。本来は元々鎌倉に居た、鎌倉公方を鎌倉から追い出して、その鎌倉に入るのを望んでいた政知だったものの、関東武士の反対に阻まれて、相模にも入れず伊豆の堀越に屋敷を構えたと伝えられます。


 堀越御所跡。発掘調査では堀や池の跡などが確認されたらしいですが、現在は保存の為に埋め立てられています。

 そんな堀越公方ですが、政知の死後に家督をクーデターを起こして継いだ利茶々丸が、当時まだ今川家の客将であり、北条姓も名乗っていなかった北条早雲に攻められて没落した事は有名だと思います。今回実際に堀越御所跡を訪れて驚いたのが、その堀越公方を滅ぼした早雲が居城とした韮山城が、堀越御所と目と鼻の先の近さに位置していた事です(地域的には堀越も韮山の一部みたいです)。
 今まで早雲が韮山城を居城にしたのは、単に軍事的な判断かと思っていましたが、わざわざ自分が滅ぼした堀越公方御所の近くを選んだとなると、韮山城を居城にしたのは政治的な判断が大きかった感じがしますね。
 その政治的判断の根拠になったと思われるのが、同じく今回現地を訪れて初めて知った事として、そもそも伊豆韮山は鎌倉執権北条氏の発祥の地だったと言う事です。韮山西部に位置する守山は麓に狩野川が流れているのですが、堀越御所跡はこの守山北側の麓に位置しているのに対して、鎌倉執権北条氏(以降は前北条氏と呼称します)の屋敷跡は、何とこの守山西部の麓に位置していました。先程韮山城と堀越御所は目と鼻の先と書きましたが、堀越御所と前北条氏の屋敷跡は隣接していると言って良い程の近さだったので驚きました。


 守山の麓に位置する北条氏邸跡。奥の人工的な盛り土と思われる場所に屋敷が建っていたのでしょうか?。


 鎌倉時代の屋敷跡なので、本格的な築城はされていませんが、堀と思われる痕跡がありました(発掘調査の際に掘られた物かもしれませんが)。


 前北条氏発祥の地と言うだけあって、北条政子が産湯とした井戸跡と言う物も、守山の麓には在ります。もっとも鎌倉時代の井戸跡とは思えないしっかりした石造りですが...(汗)。

  こうして今回、堀越御所跡と北条氏邸跡を訪れてみると、伊豆韮山と言う土地は鎌倉執権を務めた前北条氏、足利幕府から関東支配を命じられた堀越公方、そして後北条氏の祖となる早雲と言う、三つの権力が居を構えた由緒正しい土地と言うのを実感しました。史料的根拠があるわけではない単なる思いつきに過ぎませんが、早雲が韮山を居城としたのは、堀越公方を滅ぼした事に正当性を持たせる為に、堀越公方の足利氏が滅ぼした鎌倉執権の前北条氏の発祥の地である韮山をわざわざ選んだのかもしれませんね。そして後に早雲の子である氏綱が後北条氏を名乗った根拠も、この韮山を居城にしていたからではないかと思ってしまいました。氏綱が後北条氏を名乗った事については、鎌倉執権北条氏を次ぐと言うのを自称していたと言うのが通説ですが、今までその根拠については考えた事がなかったものの、この韮山を居城にした事が根拠だったのかもしれませんね。
 今回の堀越御所跡と北条氏邸跡訪問は、そのような思わぬ空想が出来た楽しい史跡訪問でした。


 守山の近くには、鎌倉時代の下田街道も通り、鎌倉時代から交通の要所だった事が窺えます。


 守山の付近には、堀越御所跡と北条氏邸跡以外にも、多くの史跡や寺社が存在します。

 最後に余談ながら、鎌倉を追い出された元鎌倉公方が、下総古河に居を構えたのが古河公方の始まりで、この古河公方の方は戦国時代になっても存続します。そして関東支配を狙う後北条氏は、後にこの古河公方と血縁関係となり、関東支配の正当性とする事になります。堀越公方を滅ぼした早雲の子や孫が、大義名分を得るために古河公方を担ぎ上げたと言うのは、歴史は面白いなとつくづく思ってしまいます。

訪問日:2013年12月05日


遠江:横須賀城址

2013年10月19日 13時35分15秒 | 登城記・史跡訪問


 本丸天守台跡に建つ、横須賀城址の石碑。


 城址公園の駐車場に建つ案内板。


 本丸跡に設けられた横須賀城の模型。

 横須賀城は元々は徳川家康が、武田勝頼の東遠江支配の拠点である高天神城を包囲する為に築いた付城の一つにすぎませんでした。しかし天正九年(1581年)に高天神城が落城すると、家康は高天神城を廃城にしてしまい、付城に過ぎなかった横須賀城をこの付近の支配の拠点にしたのです。こうして付城に過ぎなかった横須賀城は次第に整備拡張され、石垣も備えた近代城郭となり、明治維新まで存続する事になります。


 本丸外郭の土塁跡。土塁下の現在道路になっている道は、外堀を埋め立てた物と思われます。


 本丸跡の石垣。横須賀城址の石垣は、天竜川の河原から運ばれた丸石によって積み上げられているのが特徴です。


 本丸跡から見た、西の丸跡の土塁。


 本丸の三日月堀跡。


 本丸天守台跡。


 本丸跡から南方面を見て。現在の横須賀城址からは海は殆ど見えませんが、横須賀城址を整備拡張した頃は、この眼下まで遠州灘が迫っており、船着き場も設けられていたそうです。家康が堅城の高天神城を捨てて、この横須賀城を拠点支配の城としたのは、この海上流通の拠点としての価値を重視してとも言われています。


 西の丸跡の現況。


 北の丸跡から見た本丸跡。


 北の丸跡と松尾山。高天神城包囲時の、元々の横須賀城はこの松尾山に築かれて、高天神城廃城後に次第に麓に整備拡張されたと伝えられます。


 松尾山山頂の現況。奥のビニールシートの辺りに池が在ったともと伝えられます。


 現在史跡として整備されているのは本丸跡だけで、二の丸跡や三の丸跡は大半が宅地化されているか、農地化されています。この東大手門跡が設けられた、江戸時代は藩庁が在った三の丸跡も現在は宅地化されています。



 同じく宅地化された二の丸跡に残る土塁跡(?)。


 同じく農地化された二の丸跡に残る土塁跡(?)。


 二の丸西側の不開門跡。


 上記の不開門は、横須賀城址北西の撰要寺に移築されて現在に残ります。

 以上となります。純粋な軍事価値としては、横須賀城よりも高天神城の方が高いと思いますが、高天神城攻略後に家康が高天神城を廃城にして、横須賀城を地域支配の拠点としたのは、戦国時代も終盤になり城に対して軍事的価値だけではなく、政治的価値を求められる時代になった事を表わしているのかもしれませんね。

 訪問日:2013年10月10日
 


茨城県:大洗町の歴史めぐり その1

2013年05月12日 17時50分18秒 | 登城記・史跡訪問

大洗と河川流通について
 今回は『ガルパン』を離れて、純粋に大洗町の歴史めぐりをしたいと思います。現在の大洗の主要産業は漁業と観光業ですが、江戸時代は漁業と共に河川流通で繁栄した町でした。江戸時代の奥州諸藩が江戸に米や特産品を送る際は、太平洋上を海岸沿いに南下しながら那珂湊で川船に積み替えて、涸沼川を進み途中陸送して巴川まで運び、そこから北浦を経て利根川に入って江戸に至ると言うのが一般的なルートでした(江戸時代当時は房総半島周りのルートは技術的に使えませんでした)。
 この当時の奥州から江戸に至る物流ルート沿いに位置する大洗の町は、河川流通の拠点としても栄えました。特筆すべきは『ガルパン』最終話の優勝パレードを通った県道106号線は、元々運河だったのを埋め立てて作られた道でした。この大貫運河は涸沼川から分岐されて掘られており、奥州から運ばれた物資を大洗で卸すのにも、大洗の名産物を江戸に荷揚げするのにも最適な河岸でした。大洗を聖地巡礼した方ならば判ると思いますが、町内の道でこの県道106号だけやけに道幅が広いのは、かつては運河だった名残です。今でこそこの県道106号の周辺は住宅地になっていますが、江戸時代はこの運河周辺が大洗の中では磯前神社周辺と並んで栄えていました。もっとも現在の大洗の町自身が江戸時代は大貫・磯浜・祝町に分かれており、大貫は大貫運河を中心に商業で栄え、磯浜は磯前神社への参拝客相手で栄えた町と表現するのが正しいかもしれません。


 現県道106号


 同じ県道106号線、右奥に現存している運河との合流点が見えます。


 現存している大貫運河。奥に涸沼川が見えます。

 
 涸沼川の現況。

 今でも旧大貫運河の県道106号線沿いに若干の米屋や寿司屋がありますが、江戸時代に運河から荷揚げ荷卸しして商売していた頃からの老舗の可能性が高いです。よそ者からするとこの県道106号線が、大洗の商店街の終点との印象がありますが、この県道106号線の南に「上宿」「中宿」「下宿」と言う地名が在るのを考えると、当時はこの運河(106号線)の南側に、大貫の宿場町が形成されていたと考えられます。ある意味運河の北側が商業街で、南側が宿場町と分かれていたのかもしれません。




 バス停の標識から、かつてここが宿場町だったのを偲ぶ事が出来ます。

大洗の台場(砲台跡) 
 幾ら河川流通で栄えたと言っても、大洗の特徴は太平洋に面している事。この為に幕末には幕府から命じられて、異国船を砲撃する砲台(台場)が、大洗の中に二つ(磯浜海防陣屋と祝町向洲台場)築かれます。この内、磯浜海防陣屋は『ガルパン』四話で一年生チームが木登りして戦況を見ていた小山と言えば判るでしょうか。元々は日下ヶ塚古墳と呼ばれる前方後円墳の上に築かれており、そのような意味では第四話で一年生チームが登っていたのは小山では無く、古墳と呼ぶべきでしょうか。
 大洗沖に出現する異国船を砲撃する為に築かれただけあって、見晴らしは良いです。しかしこの砲台が異国船相手に砲撃をする事は無く、皮肉にも水戸藩内の内戦である天狗党の乱にて実戦を経験する事になります。

 
 海防陣屋跡。


 海防陣屋跡からは大洗沖が一望出来ます。


 ここは陣屋跡なのか、古墳跡のどっちなのでしょう。


 日下ヶ塚古墳の碑。

大洗と天狗党の乱
 水戸藩の内訌については、大洗の歴史とは直接関係ないので割愛させて頂きます。幕末に多くの藩で起きた尊王派と保守派の権力闘争が、特に激しくなったものと考えて頂ければ結構です。
 元治元年(1864年)の水戸藩の藩政は保守派である諸生派が握っていました。一方の尊皇派である天狗党は、幕府の対外姿勢に不満を持ち、藤田小四郎を盟主として筑波山にて挙兵します。この反幕姿勢を取る天狗党に対して、藩の存続を危ぶんだ諸生派が天狗党への弾圧を開始したので、水戸藩内は内戦状態になりました。自藩の内戦状態を知った江戸在府の水戸藩主徳川慶篤は、水戸藩支藩の宍戸藩(現笠間市、大野さんの出身地)主である松平頼徳に、水戸藩内の鎮静を依頼して出兵させます。こうして頼徳は宍戸藩兵を率いて水戸を目指しましたが、その中には天狗党の武田耕雲斎も含まれていました。
 水戸城下に八月十日に到着した頼徳勢でしたが、諸生派との交渉に失敗すると一旦那珂湊に後退するものの、既にこの時点で諸生派の軍勢と交戦し、なし崩し的に反諸生派となってしまいます。頼徳は更に那珂湊から後退し大洗に入り、前述の海防陣屋を拠点とします。大洗内では祝町の願入寺が諸生派の拠点になっていましたが、頼徳勢は十二日に願入寺を攻撃して諸生派を追い払った為、大洗は一時的に頼徳勢に占拠されます。
 翌十三日、那珂湊の諸生派と大洗の頼徳勢の間で砲撃戦が行われます。頼徳勢は祝町向洲台場から那珂湊の諸生派を砲撃した為、遂に諸生派も水戸に後退したので、頼徳勢は那珂湊の占拠にも成功します。頼徳は拠点を那珂湊に移して、再度水戸に侵攻を開始するものの、水戸城下の戦いでは諸生党の守りを破る事は出来ずに、結局再び那珂湊に後退します。尚、諸生派と交戦する頼徳の元には次第に天狗党や湖来勢等が集まった為、実質頼徳は天狗党との認識をされるようになります。
 九月までは頼徳勢と諸生派との戦線は膠着状態だったものの、九月中旬になると正式に幕府が天狗党討伐の為に出兵させた、幕府陸軍と諸藩兵による追討軍が大洗にも到着します。十九日には頼徳勢が大貫運河を越えて、大貫町の浅間神社に陣する幕府軍を攻撃するなど攻勢に出る場面もありましたが、基本的には大貫運河を挟んで両軍が睨み合う戦況が続きました。しかし二十二日に幕府軍の総攻撃が行われると、遂に頼徳勢の防衛ラインも破られ、、大貫運河の突破を許す事になります。大貫運河を突破した幕府軍は、更に海防陣屋にも迫った為、頼徳勢は海防陣屋を放棄、西福寺(肴屋旅館さん北東、月の井酒造さんの裏手)まで戦線を後退させます。しかしこれ以上戦線を保持するのは無理と判断した頼徳勢は、磯浜町と祝町に火を放ち那珂湊に後退したので、この日をもって大洗の天狗党の乱は終わりを告げました。




 天狗党の乱で、幕府軍の本営となった西光院。

 こうして大洗の天狗党の乱は終わりましたが、その後の天狗党に着いて簡単に説明させて頂きます。頼徳は最終的に幕府に謝罪降伏するものの、幕府から切腹を命じられて、宍戸藩もとり潰しとなってしまいます。一方の天狗党は常陸から離れて、尊皇派に理解があると言われる京の一橋慶喜(水戸藩主慶篤の弟、後の最後の将軍徳川慶喜)に陳情しようと、京を目指して行軍を始めました。しかし目指した慶喜自身が天狗党討伐の兵を率いて来た事を知ると、進路を北に取り絶望の逃避行の末に越前敦賀で降伏します。ここで武田や藤田を始め多くの者が処刑されると言う悲劇を生みます。
 余談ですが、諸生派により徹底的に粛清された天狗党と言えども生き残りは居て、天狗党の乱から四年後の戊辰戦争では、武田の孫が明治新政府から諸生派を討伐する許可を得て水戸に進駐。今度は逆に諸生派関係者の粛清を行います。これを知った水戸を離れていた諸生派は、戦況も何も関係なく水戸を目指し、水戸城下で再び諸生派と天狗党は激突するものの、もはやこれは「戦争」ではなく、「殺し合い」に過ぎませんでした。こうして明治維新・戊辰戦争の大事な時期に身内同士の殺し合いに狂奔した水戸藩は、明治新政府に優位な人材を送る事が出来ず、かつては尊王思想の総本山だった水戸藩は時代の流れに取り残されてしまったのです。

 このような身内・近隣同士の殺し合いとなった天狗党の乱については、特に水戸の方はあまり話したがらないと聞きます。しかし大洗は天狗党の乱の舞台にはなったものの、大洗の住民が諸生派と天狗党に分かれて争った訳ではないので、地元の方もフラットな視点で天狗党の乱についての話を聞かせてくれたのが印象的でした。その一方で「天狗党」の事を「天狗」と呼ぶなど、この町には天狗党の乱と言う歴史が息づいているのが実感出来ました。
 さて今回の記事では大貫運河と河川流通、天狗党の乱の際の大洗南部の戦いについてを中心に書かせて頂きましたが、後日作成する予定の、その2では大洗磯前神社と祝町向洲台場についての歴史、そして天狗党の乱での大洗北部の戦況について書かせて頂きたいと思います。

 訪問日:2013年05月05、06日


下総:小金城址 その1

2013年05月04日 23時31分12秒 | 登城記・史跡訪問

 後北条氏から見れば、陪臣の城に過ぎない筈の小金城。しかし、その規模は下総の城の中でも屈指な物でした。かの上杉謙信公ですら落とせなかった城、そんな小金城址に行ってきました。


 馬場曲輪跡に建つ、小金城趾の碑。


 馬場曲輪小金口の説明版

 新撰組で有名な流山を目指して、橋駅から流鉄線で流山駅に向かう途中に小金城趾と言う駅が在ります。小金城趾と言うのだから、近くに城跡があるのだろうと思って駅に降りたら、駅から10分ほど歩くと小金城趾の遺構が見えてきます。しかし今や跡形もありませんが、当時の小金城趾は駅前辺りに本丸があり、そこから東南方向に縄張りが広がる規模の大きな城でした。


 小金城趾駅前から東方向を見て。左奥の山が馬場曲輪跡ですが、当時は駅前の辺りまで舌状台地が迫り、この舌状台地の先端に本丸が在りました。

 ただ前述のとおり、この小金城の城主は、下総の国人衆である千葉氏(ただし元々は下総の守護)の被官である高城氏でした。後北条氏から見れば、従属した千葉氏の被官、つまり陪臣の城に過ぎません。では何故そのような陪臣の城が、規模が大きいかと言えば、大山師匠がブログでも述べていましたが、後北条氏がこの城を重視して、後北条氏の援軍が籠れるように規模を拡張したのでしょう。実際に前述のとおり、謙信公が遠路はるばるこの城を攻撃していますからね。
 そして本来城の中央部に在りそうな本丸が、実際の城の端っこに位置するのは、中央部の曲輪には後北条氏の援軍が入る縄張りだったからではないでしょうか。今回はそんな小金城趾の現存する遺構の中で、馬場曲輪周辺を訪れてみました。


 馬場曲輪南東に位置する馬屋敷跡。実際の馬屋敷は斜面の上で、画像の広場は帯曲輪でしょうか?。


 馬場屋敷が建っていた斜面を見て、こうして見れば判るとおり、斜面の傾斜は急になっています。


 金杉口の解説版。


 障子堀跡。私が訪れた際は、障子堀は保存の為に埋められてしまい、普通の空堀にしか見えませんでした(涙)


 畝掘跡。こつらも保存の為に埋められてしまっています(^^;)。


 馬場曲輪跡の土塁跡。


 馬場曲輪跡。


 馬場曲輪に隣接した大勝院。秀吉による北条攻めの際は、豊臣方の武将の浅野長政によって焼かれてしまったそうです。この逸話により、小金城は北条攻めの際に、浅野長政率いる軍勢に攻められたのが察せられます。

 本丸を含め、小金城の遺構は宅地化により殆ど残っていないそうで、現存する遺構は金杉口と達摩口だけだそうです。今回は金杉口の馬場曲輪跡しか訪れる事が出来なかったので、流山には今後も行く予定があると思いますので、その際は達摩口を訪れたいと思っています。

訪問日
2013年04月28日


神奈川県横浜市:東海道品濃一里塚

2013年04月13日 20時24分50秒 | 登城記・史跡訪問


 品濃一里塚の説明版。
 
 東海道品濃一里塚は、先日紹介した原宿一里塚から、江戸に向かって二つ目の一里塚になります。原宿一里塚が道路拡張工事により消失してしまったのに対して、今回訪れた品濃一里塚は塚も現存しており、当時を偲ぶ事が出来ます。


 一里塚を東海道旧道から見て。実は今まで一里塚を盛り土程度の高さしかないと思っていましたが、二階以上の高さがあると実感して驚きました。確かにこれだけ高ければ、風や日光を防ぐ事が出来ますね。


 一里塚の反対側の山の麓には、近代に設けられた物でしょうが、道標が在りました。


 道標の隣には標柱も建っていました。


 一里塚の反対側は公園になっていました。

 品濃一里塚の特徴は、旧街道両側の塚が現存している事です。両側の塚が健在な為に、両塚に挟まれた旧街道の道幅は当時と同じであり、横浜市内では珍しく、当時の道幅を実感出来る場所でもありました。

 訪問日:2013年04月11日


甲斐:中牧(浄古寺)城址

2013年03月30日 22時48分55秒 | 登城記・史跡訪問

 元々は武田信玄によって、甲斐・武蔵間の国境防衛の為に作られた中牧城。しかし歴史の表舞台に表れたのは、皮肉にも武田氏滅亡後の天正壬午の乱で、旧武田家家臣同士が戦う舞台になった事からでした。


 本丸天守台跡に建つ、中牧城址の碑。


 中牧城址近くの八幡神社に建つ案内板。

 中牧城は武田信玄によって、武蔵から雁坂峠を越えて甲斐に至る秩父往還を監視する為に、大野砦と合わせて築かれたと伝わります。しかし武田氏が健在時は、秩父往還からの敵の侵攻は無く、存在感を発揮する事はありませんでした。中牧城と大野砦が歴史の表舞台に表れるのは、武田氏が織田信長によって滅ぼされ、その信長も本能寺の変によって横死し、権力の空白地となった旧武田領に徳川・後北条・上杉の各勢力が侵攻して激突した天正壬午の乱の時です。
 武田氏によって中牧城と大野砦を任されていた、国人衆の大村氏とその一党は信長による武田氏の残党狩りからも逃れる事が出来たらしく、本能寺の変の報が伝わると後北条氏の要請を受けて蜂起します。元々後北条氏を仮想敵としていた大村勢ですが、武田氏が滅ぶと後北条氏に早々と従属したの事は、当時の国人衆の立場を察する事が出来ます。
 一方徳川家康も甲斐を手に入れる為に画策を開始するものの、この時点では中央の動向を見定めるまでは動けない状態だったので、穴山勢を中牧城と大野砦に向かわせます。穴山家の当主だった梅雪は、本能寺の変を受けての逃避行の際に命を失ってしまった為、穴山家の家臣達は幼少の勝千代を新しい当主とします。しかし幼少の勝千代では混迷の世を単独で生き残るのは困難な為、穴山勢は徳川家に従属して生き残る道を選びました。穴山勢を指揮下に置いた家康は、自身が動けない間に旧武田家臣の岡部正綱や曾根昌世と共に、穴山勢を甲斐に向かわせます。かくして中牧城と大野砦で、後北条氏に従属した大野勢と、徳川家に従属した穴山勢の旧武田家臣同士が激突したのです。


 秩父往還を見下ろす台地上に築かれた中牧城址ですが、この台地は現在は畑化、及び墓地化されています。しかし意外にも土塁はたくさん現存しており結構見応えがあります。逆に大野砦の方は、現在遺構らしい遺構は何も残っていないそうです。




 本丸の天守台跡。


 本丸北の土塁跡。


 二の丸の土塁跡。


 現在は墓地となっている三の丸の土塁跡。


 三の丸と雁坂峠方面を見て、難所の雁坂峠は大軍を移動させるのは困難な地形でした。


 西側の外堀跡。


 東側の土塁と外堀跡。遠くに見える山々の向こうは武蔵の国です。

 武田家旧臣同士が戦った中牧城と大野砦でしたが、穴山勢の猛攻により両城ともあっけなく陥落し、大村氏は滅亡したと伝わります。武田氏が健在の際に、穴山勢がそれほど精強だったとは聞いた事がありません。しかしこの中牧城と大野砦の戦いを始め、天正壬午の乱では穴山勢の活躍が目立ちます。これは信長による武田氏討伐の際、武田氏の一門衆や譜代家臣は残党狩りにより徹底的に根絶やしにされた為、寄親・寄子によって構成された武田氏の軍事システムは解体され、大村勢のような小規模の国人衆しか軍事力として存在していませんでした。
 しかし穴山勢だけは、梅雪が信長に武田領に侵攻する前から臣従していた為に旧領と勢力が安堵されていました。この為に武田氏時代と代わらない陣容を有する穴山勢は強力で、重臣有泉大学助率いる穴山勢は中牧城と大野勢を陥落させたのです。両城の奪取後に家康は中牧城と大野砦に徳川勢を入れて守らせますが、後に後北条勢が雁坂峠を越えて侵攻した際に、見事両城で後北条氏の侵攻を防ぐ事に成功します。
 かくして信玄が、雁坂峠からの侵攻に備えて築かせた中牧城と大野砦は、皮肉にも家康によって本来の任務を果たすことになったのです。

 訪問日:2013年03月27日


神奈川県伊勢原市:太田道灌墓所(胴塚・首塚)、上杉氏糟谷館跡

2013年03月24日 23時26分15秒 | 登城記・史跡訪問


 洞昌院に建つ、太田道灌墓所の標識

 太田道灌と言えば、扇谷上杉家の家宰として有名なものの、戦国時代前期の人物な為、個人的には「長尾景春の乱」の際に、近所の小机城を攻略した人物くらいの認識しかありませんでした。しかし先日、仕事で神奈川県伊勢原市を訪れる機会があったので、前から存在は知っていた太田道灌墓所と、その道灌が殺された上杉氏糟谷館跡を訪れてきました。

 長尾景春の乱の鎮圧で多大な功績を挙げた道灌ですが、その手腕を主君である扇谷上杉定正に警戒されたのか、定正の居館である糟谷館に文明18年(1486年)に招かれた時に入浴後に刺客に襲われて横死します。道灌が主君定正に殺された理由については諸説あるものの、道灌を失った扇谷上杉家は国人衆の離反もあり急速に勢力を失い、やがて相模には北条早雲が侵攻を開始します。刺客に襲われた際、「当家滅亡」と言い残したと言われる道灌ですが、その言葉通り扇谷上杉家は、早雲の孫である北条氏康との間で行われた川越夜戦で敗れた事により滅亡します。
 もっとも扇谷上杉家を滅ぼした氏康は、続いて山内上杉憲正を関東から追い、遂に関東は氏康の手に落ちたかのように見えました。しかし憲正が越後に逃げ込んだ為に、扇谷上杉や山内上杉などは比べものにならない、上杉謙信公と言う厄介な存在が関東に侵攻してきた為、それまで順調に関東の支配権を広めてきた後北条氏は初めて泥沼の戦いに足を踏み込む事になるのです。


 上杉家糟谷館跡。実は上杉氏糟谷館跡については詳しい事が判っていないらしく、現産能大学近くの台地がそうではないかと言われていますが、詳しい発掘調査等はされていないそうです。実際郭内には遺構らしい物は残っていません。この郭内のどこかで、道灌は襲われたのでしょうか?。

 
 郭内には遺構は見かけられないものの、南側の郭外は土塁状になっているように思えるのですが…。




 郭の南側と、上粕谷神社が建つ台地の間は谷状になっています。空堀跡とも自然地形とも言われていますが、上杉氏糟谷館の南側を守る地形効果は大きかったと思われます。


 現在も郭の南側と、上粕谷神社が建つ台地はこの道のみが繋がっています。個人的にこの道はかつては土橋だったような気がするのですが…。
 尚、この上杉氏糟谷館跡は高速道路の工事により、近々取り壊されるらしいです。確かに観光客が来るような史跡では無いので、残してもお金にならないのは判りますが、釈然としないと言うのも正直な感想です。


 上杉氏糟谷館の南方を守る位置に建つ、上粕屋神社。


 上粕屋神社そばには、道灌が襲われた際に一緒に討たれた道灌家臣の墓所である七人塚が在ります。


 洞昌院に建つ、太田道灌墓所(胴塚)。上杉氏糟谷館跡と道灌の胴塚は至近距離に位置しているのが、実際に訪れてみて驚きました。




 また洞昌院から少し離れた大慈寺には、道灌の首塚が在ります。

 番外編


 「長尾景春の乱」中の小机城攻防戦の際、道灌が有名な「小机は先ず手習いのはじめにて、いろはにほへとちりぢりになる」の詩を詠んだ場所と伝わる、史蹟硯松の碑。
 小机城址の記事で書いたように小机城攻防戦の際、道灌は当初は小机城北東の亀甲山に布陣していました。しかし一か月以上経っても攻略出来なかった為か、亀甲山から小机城を隔てた南西4~5キロに位置する羽沢村の地で、歌を詠んだ後に小机城を攻撃して見事小机城を攻め落としたそうです。
 亀甲山は小机城の搦手に位置していましたが、道灌は鶴見川を隔てた搦手からの攻撃よりも、例え小机城正面からの攻撃になっても、軍勢を展開出来る平野からの攻撃が有利と判断して羽沢村から攻撃したのでしょうか?。

 訪問日:2013年03月18日、20日


甲斐:景徳寺(武田勝頼最期の地)と、その周辺

2013年03月16日 21時46分03秒 | 登城記・史跡訪問


 天正十年の建立時の建築物の中で、唯一現存する景徳院山門

 武田勝頼最期の地である、天目山の麓に位置する景徳院に行ってきました。武田勝頼が天目山で自刃した事は有名ですが、初めての訪問です。私が武田勝頼の事を知ったのは十五歳の時ですが、それから二十余年、初めて最期の地を訪れる事が出来ました。

 天正三年(1575年)の長篠・設楽が原の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗北した勝頼でしたが、実にそれから7年間も織田・徳川勢の侵攻に耐え続けていました。しかし重臣穴山信君・木曽義昌の離反を契機に、天正十年(1582年)二月に織田・徳川連合軍が武田領に侵攻を開始すると次々に戦線を突破され、本来織田勢との決戦を想定して築かれた新府城に火を放ち、勝頼一行は重臣小山田信茂の居城郡内岩殿城目指して落ちていきました。ところが勝頼一行が郡内地方に近づくと、信茂は変心し勝頼一行の郡内地方の立ち入りを妨げます。小山田勢には前面を遮られ、後方からは織田勢が迫る中、進退に窮した勝頼一行は天目山を目指しました。しかし天目山の麓、田野の集落の辺りで遂に織田勢に補足されてしまいます。


 四朗作古戦場の碑
 甲州街道から天目山に向かう分岐点の付近に、建つのがこの四朗作り古戦場の碑です。新府城を出立した時は二千人程居たと言われる勝頼一行も、郡内に向かう途中で脱落者が続出し、この田野に着いた辺りで百人も居なかったと伝えられます。そのような中でも、かつて謹慎を命じられていたのにも関わらず、主君の危機に駆け付けた小宮山友信のような忠臣も居ました。

 
 四朗作古戦場付近の近況


 鳥居畑古戦場の碑。
 もはやこれ以上逃れるのは不可能と悟った勝頼が、自刃するまでの時間を稼ぐために近臣達が奮戦した、武田家最後の戦いが行われたのがこの地です。実際勝頼の自刃跡に建てられた景徳院と目と鼻の先に位置します。




 鳥居畑古戦場付近の近況。道の先は景徳院です。


 土屋惣蔵片手切跡。
 勝頼一行は田野より先の天目山を目指したものの、迂回した織田勢に行く手を遮られた為に、再度田野に引き返します。この時に土屋惣蔵昌恒が崖の最も狭い所に踏みとどまって、織田勢の追撃を阻止して、勝頼一行が離脱するまでの時間を稼ぎます。この時昌恒は崖の蔦に片手を絡ませ、もう片方の手で刀を操り奮戦した事から、土屋惣蔵片手切の伝説が生まれました。
 勝頼一行を逃す事は出来たものの、昌恒はこの地で戦死します。後の天正壬午の乱の際に、甲斐に侵攻した徳川家康は昌恒の奮戦を聞いて心を動かされたらしく、後にその遺児を召し出して直臣とします。

 


 土屋惣蔵片手切付近の現況。
 道路拡張工事がされた現在でさえ、切り立った崖による道幅の狭さと、見通しの悪さを偲ぶ事が出来ます。


 勝頼夫人の侍女たちが身を投げたと伝わる姫ヶ淵。




 景徳寺境内に残る、勝頼・信勝父子がこの石の上で自刃したと伝わる生涯石(上:勝頼生涯石、下:信勝生涯石)


 没頭地蔵。
 自刃した勝頼一行の首は信長の元に送られますが、首のない勝頼父子の胴体をこの場所に埋めたと伝えられます。


 自刃した勝頼父子の首を、信長の元に送る前に洗ったと伝わる首洗い池。




 景徳寺境内に建つ勝頼信勝父子や、それに殉じた家臣たちの墓所。
 この景徳寺は、天正壬午の乱の際に甲斐に侵攻した家康が建立を許可した寺院です。尚、住職には勝頼の危機に駆け付けた小宮山友信の弟が任じられました。勝頼の死後に甲斐を占領した織田氏の、旧武田氏家臣の残党狩りやその支配は苛烈で、結果本能寺の変後に甲斐の民衆は、信長から甲斐を与えられた河尻秀隆を攻め殺してしまいます。その織田氏の失策を見た家康は、甲斐の民衆の人心掌握の為に勝頼の菩提寺を建立したのです。
 この景徳院の建立以外にも、旧武田家臣を自らの家臣団に編入するなどをして、甲斐の民衆の人心掌握に成功した家康は、天正壬午の乱の戦いを優位に進めて、結果甲斐の自領化に成功します。
 そのような意味では、現在も勝頼の菩提寺として地元の方に慕われる景徳院は、勝頼の悲劇を伝える共に、家康の手腕の凄まじさを後世に伝えていると言えるのではないでしょうか。

訪問日:2013年03月15日


遠江:小山城址

2013年02月16日 18時24分06秒 | 登城記・史跡訪問


 遠州小山城址遠景。模擬天守閣が目立つので、高台上に在っても位置が判りやすいです。
 *甲斐国小山城との混同を避ける為に、本ブログでは遠州小山城と呼称させて頂きます。


 遠州小山城址の案内板。

 今年初の城址訪問は遠州小山城址です。遠州小山城址は大井川西岸に在り、訪原城址の南方、諏訪原城址と高天神城址の中間に位置します。遠州小山城は、武田氏の今川領侵攻後に本格的に整備拡張され、武田氏の東遠江の拠点として用いられます。前述の諏訪原城が徳川氏によって攻略された後も武田氏の拠点として維持され、天正十年(1582年)の織田信長による武田領侵攻が始まるまで、武田氏の城として踏みとどまっていました。


 遠州小山城址と言えば、有名なのがこの模擬天守閣。歴史上遠州小山城に天守閣が存在した事は無く、観光の為に築かれた完全な作り物です(展望台として使用)。この模擬天守閣のせいで正直遠州小山城址には良いイメージがありませんでした。ただその手前の三日月掘跡は良い感じです。


 同じく観光用に作られた橋、ただしこの下に土橋跡があります。


 武田家築城術の代名詞と言うべき丸馬出跡。本当かどうかは知りませんが、この城の築城を手掛けたのは馬場信春と書かれています。


 主郭周辺の土塁跡?


 本丸跡から麓を見て。


 空堀跡。

 あからさまな模擬天守閣ばかりが目立っていますが、主郭を守る三重の空堀は見事で圧巻です。遠州小山城は長く伸びた台地の先端上に築かれており、その台地本体部からの侵攻を遮るように三重の空堀は掘られています。小山城址以外の台地上は住宅地化されて統治を偲ぶ事は出来ませんが、台地本体上からの陸路を断つように堀切も掘られていたのかしら?。

 

 







 三重の空堀跡。


 空堀の底に掘られた井戸「通称勘助井戸」。いや山本勘助は、武田氏の今川領侵攻前の第四次川中島合戦で戦死しているので、遠州小山城の整備拡張に関われる訳が無いのですが…。


 復元された大手門。もっとも復元された物なのか、模擬された物なのかは判りませんが…。


 麓には湯日川が流れており、天然の水堀の役目を果たしています。

 この遠州小山城の城主を務めていたのは、旧上杉家家臣だった大熊朝秀です。武田家に亡命した後も、大熊は武田家に重用され遠州小山城城代に抜擢され、前述した天正十年の信長により武田領侵攻が始まるまで遠州小山城を徳川氏の攻勢から守り抜きました。しかし、その善戦が災いしたのか、後の信長による武田氏旧臣の粛清の際、他国衆にも関わらず織田氏によって殺されています(平山優著『天正壬午の乱』)。

 訪問日:2013年02月15日


神奈川県愛川町:浅利明神

2013年01月20日 15時32分52秒 | 登城記・史跡訪問


 以前訪れた三増峠古戦場の近くに位置する、三増峠の戦いで戦死した武田家家臣浅利信種を祭った神社です。

  三増峠の戦い時に信種は箕輪城主を務めており、西上野衆を率いて同戦いに参戦したものの、後北条勢の銃撃により戦死します。信種を信頼していた武田信玄はその死を悼み、この地に葬ります。その後江戸時代中期に地元の者が、墓所の横を掘ったところ信種の物と思われる骨壺が出てきたので、信種を祭神する神社が設けられ、以来浅利明神の名で地元の人々に親しまれていると言われます。
 浅利明神の存在を初めて知った際、「何故後北条氏領の領民が、敵方の武田家の武将を祭る神社を作ったのだろう?」と思ったのですが、江戸時代に築かれた物だったのですね。武田贔屓の徳川政権下ならば、武田家の武将を祭っても不思議ではないので納得しました。そう考えると実際に三増峠の戦いが行われてから、かなり時間が経過してから作られた神社だったのですね。


 三増峠の戦いが行われた現愛川町には、他にも三増峠の戦いの際、小田原城下を後にした武田勢が三増峠を目指して通過した道が「信玄道」と呼ばれています。これも後北条氏領だった時代に名付けられたのではなく、江戸時代に名付けられたのでしょうか?。


 右の道が県道65号線、左の小道が信玄道です。信玄道と県道65号線はほぼ同じルートですが、旧道がクネクネ曲がっていたのに対して、近代の道路はほぼ真っ直ぐに作られています。

 訪問日:2013年01月18日


戊辰箱根戦争関連史跡

2013年01月13日 18時07分49秒 | 登城記・史跡訪問

 昨年末にサークル幕末ヤ激団さんにて、戊辰箱根戦争の同人誌に参加させて頂きましたが、今回はその関連画像を紹介させて頂きます。本当は新刊と一緒に画像を載せたペーパーを配りたいなと思っていたものの、ペーパーの目玉にしたかった戊辰箱戦争の石碑が道路工事により撤去されてしまったらしく(後述)、この目玉となる石碑の画像が無いと締まらないと思ったので、ペーパー作成は諦めて今回のブログでの公開とさせて頂きました。
 戊辰箱戦争の経過と戦局については、冬コミ新刊で書かせて頂いたので、今回は関連史跡の画像紹介に留まらせて頂きます。もし戊辰箱根戦争の戦局や経過について興味がある方が居ましたら、次の夏コミでも再販すると思いますので宜しくお願いします(^^;)。
 ただし新刊では紙面が足りずにカットした、山崎の戦いについての補足説明を画像も交えてさせて頂きたいと思います。

 慶応四年閏四月十一日、房総諸藩を恭順させた遊撃隊は相模(現神奈川県)真鶴半島に上陸します。この遊撃隊の決起と請西藩兵の合流、そしてその遊撃隊による房総諸藩の平定関連の画像に関しては、まだ撮影していないのでありません。年内中には訪問したいと思いますので、その際に撮影したいと思います。


 真鶴半島に上陸した遊撃隊が向かったのが、まずは小田原城です。画像は小田原城の復元天守閣
 小田原城と言えば、戦国時代の後北条氏の居城として有名ですが、二百五十万石近くの領土を誇った後北条氏の居城の規模を、十一万石の大久保氏がそのまま維持出来る訳がなく、後北条氏時代と比べると規模も縮小し、本丸が在った位置も変更されています。そうは言っても東京の近郊で、これだけ立派な復元天守閣が有る城跡は他に無いので、私が訪問した際も外国人を含め多くの観光客が訪れていました。


 小田原藩との同盟を断られた遊撃隊が、紆余曲折の末にたどり着いた甲斐(現山梨県)黒駒村(画像は黒駒村の現況)です。
 ここに宿陣する間に新たに参加兵が訪れた事もあり、遊撃隊は最終的には二百名を超える軍勢になります。


 旧黒駒村に建つ戸倉神社。幕末にも存在していたらしいので、あるいは遊撃隊の将兵たちも訪れたかもしれません。
 尚、旧黒駒村は戦国時代には、本能寺の変後の旧武田遺領争奪戦である天正壬午の乱にて、鳥居元忠率いる徳川勢と後北条勢が激突した地でもあり、何気に歴史の舞台になった土地だったりします。


 黒駒村を去った遊撃隊は、沼津藩領(現静岡県)の香貫村に宿陣します。画像は遊撃隊が宿陣した霊山寺。


 霊山寺の本堂。本堂は遊撃隊が宿陣した後に建て直された物でしょうが、境内には江戸時代から現存する鐘楼が在るので、或いは遊撃隊もその鐘を突いた事があるかもしれません。
 また本堂の右後方に見える小山は香貫山。記録によれば、香貫村に宿陣中の遊撃隊は村内に陣地を構築していたと伝えられますが、或いはこの香貫山に陣地を構築したのかもしれません。もし、そうなれば後述する山崎村の戦いで、遊撃隊が高地に砲台を構築出来たのも、この香貫山で得たノウハウがあったからかもしれません。


 復元された箱根関所の関門。実際に関門が在ったのは街道上でしたが、現在は芦ノ湖の湖畔に復元されています。


 遠見番所跡から見下ろした、実際に関門が置かれていた辺りと思われる場所。
 上野戦争の開戦を知った彰義隊は、援軍に向かう為に箱根関所に到着するものの、関所を守っていた小田原藩兵と交戦する事になります。

 その後、遊撃隊と小田原藩は一旦同盟するものの、新政府軍の襲来を知って再び新政府軍に恭順し、五月二十六日に山崎の地にて遊撃隊と、小田原藩兵を先方とした新政府軍が激突します。

 
 両軍が激突した山崎古戦場の遠景。
 遊撃隊は箱根峠内の隘路の中で、唯一開けた土地である湯本村周辺に布陣して、小田原藩兵と新政府軍を迎え撃ちます。


 東海道の旧道と新道の分岐点。右が旧道で、左が明治以降に作られた新道です。


 旧道を歩いてみて。道の幅は箱根戦争が行われた時と変わらなかったと思います。


 早川と三枚橋。それまで早川の北岸を通っていた東海道は、この三枚橋で早川を超えて、早川南岸に至ります。


 早川南岸の現東海道。左側の寺は早雲寺。


 戊辰箱根戦争の説明版。以前は戊辰箱戦争が行われた事を表す石碑が建っていたらしいですが、私が訪れた際は道路工事の為に撤去されたのか石碑は無く、替わりになのかこの説明版が建っていました。ただこの説明版は資材選択を間違えているらしく、日光によりアクリル(?)のカバーが変質してしまい、白く濁ってしまって何と書かれているかが読めません(涙)。友人が頑張って拭いてくれたので「山崎の古戦場」の文字は読めるようになったものの、乾くとまた白くなり読めなくなりました(汗)。観光資源になるかもしれないのに、何をしているんだ小田原市は…。

 さて、ここからは同人誌で書けなかった事を補足させて頂きます。
 山崎の戦いに参加した小田原藩兵の総兵力については結局判りませんでした。小田原藩が新政府軍に提出した書類の中に、小田原藩の銃兵の総数を七百名余と書かれているので、藩が滅ぶかどうかの瀬戸際ですから、この全兵力が出兵したのではないかと思っています。一応今後も山崎の戦いに参加した小田原藩の編成規模については調べたいと思っています。
 一方の遊撃隊でこの戦いに参加したのは第一軍・第二軍・第三軍の凡そ150名ほどと思います。兵力に劣る遊撃隊は意図したものかは判らないものの、少数で守るに適した隘路の湯本村付近に布陣します。この時に隘路両側の山地の中腹に砲台を築いていますが、これは前述の香貫山で陣地を構築したノウハウがあったからこそ出来たのではないかと思います。脱兵丘陵ニ砲臺ヲ築キ(慶応戊辰小田原戦役史)」
 隘路に布陣する遊撃隊に対して、小田原藩兵は兵を三方に分けて進軍しました。本体は東海道を進む一方で、別働隊を隘路両側の山地を進ませているのが史料に書かれています。「小田原御人数往還通リハ風祭村其他早川村ヨリ畑之平北は水尾村ヨリ長興山ノ裏手ヘ操出シニ相成(明治小田原町史)」「別ニ一隊ヲシテ、石垣山ヨリ進ンデ、脱兵ノ側面ヲ撃タシム(慶応戊辰小田原戦役史)」
 この山崎の戦いで遊撃隊を率いた伊庭八郎は、一般的に剣士と言われているものの、この山崎の戦いでは隘路に布陣して、隘路を挟む山地の中腹に砲台を築くなど、指揮官して決して悪くない手腕を発揮しています。この山地の中腹に配置された砲兵により、数に勝る新政府軍に対して善戦していたものの、山地の中腹に配置された兵力は少数であり、やがて山地を迂回してきた小田原藩兵が現れると、山地に配置された遊撃隊は駆逐され、結局遊撃隊本体も撤退する事になります。
 「隘路自体は少数で守るに適した土地だったが、山崎の地を守るには遊撃隊の兵力は少な過ぎた」とは、歴史家の大山格氏の指摘ですが、山崎の戦いを考察するには、これが全てだと思います。例えば早川南岸の山地の、小田原側の突端には秀吉が御北条氏討伐の際に築いた石垣山一夜城跡がありました。この石垣山一夜城の遺構が、戊辰戦争時にどれだけ残っていたかは判らないものの、石垣が現存している以上は他の山地に布陣するよりも、この石垣山一夜城跡に布陣した方が有利だったでしょう。ただ伊庭には、湯本村から離れた石垣山一夜城跡まで配置する兵力はありませんでした。


 山崎村付近から小田原方向の東海道を見て。右側の山地の突端に石垣山一夜城跡が在ります。
 正直言って戊辰戦争の中でも箱根戦争は知名度の低い戦いだと思いますが、小田原藩の迷走と言う政治的にも、隘路の戦いと言う軍事的にも興味深い戦いだと思いますので、これからも調べていきたいと思います。


相模:石垣山一夜城址

2012年12月09日 20時09分13秒 | 登城記・史跡訪問


 城址入り口に建てられた解説版。

 豊臣秀吉が小田原北条氏攻めの際に、小田原城の目と鼻の先に築いた事で有名な石垣山一夜城址を訪問しました。
 突貫工事の短期間で築かれたと言う事で、さほど本格的な城ではないと思っていたのですが、いざ実際に訪問してみると石垣をふんだんに使った本格的な城跡で驚きました。石垣一夜城の伝承の成否は判らないものの、これだけの城を三ヶ月弱で完成させたと言うのは、秀吉の土木建築力の凄さを物語るもので、この城の完成を見た北条氏が戦意を喪失したと言うのも頷けます。


 南曲輪跡の石垣。


 本丸南側の土塁跡と石垣。


 本丸跡の天守台跡。小田原攻めの際は、ここに天守が建っていたらしいですが、正直さほど面積は広くはありませんでした。


 本丸跡の物見台から見下ろした小田原市街と海岸線。中央の森林の左側に小田原城址天守閣が見えます。ただし江戸時代の小田原城と、戦国時代小田原城の本丸の位置は違います。


 本丸跡北東部に残る石垣。


 二の丸跡北西部の櫓台跡。


 二の丸東部の井戸曲輪跡。名前のとおり、井戸が掘られている曲輪なのですが、とにかく規模が大きいです。


 井戸曲輪跡に残る石垣。


 石垣山一夜城は北条氏が降伏したと共に廃城となり、その後は歴史の表舞台に出る事は無かったと言われています。しかし実際にこの城跡が戦場になったかは判らないものの、戊辰戦争の箱根戦争の際に、伊庭八郎が率いる遊撃隊の一部がこの石垣山(笠懸山)に布陣しており、新政府軍の小田原藩兵と交戦しているので、ひょっとしたらこの城跡でも戦いがあったかもしれないと考えるとロマンを感じてしまいます(^^;)。


 石垣山一夜城址の展望台から見下ろした、戊辰箱根戦争山崎古戦場の遠景。

 訪問日:2012年12月08日