歴声庵

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読書感想 平山優著:『検証長篠合戦』

2014年08月03日 15時42分23秒 | 読書

 先日発売された『長篠合戦と武田勝頼』の続編と言うべきでしょうか、二冊セットで読んだ方が読んだ方が、長篠合戦についての理解がより深まると思います。
 『長篠合戦と武田勝頼』では、直接長篠合戦に関わる部分では「戦国時代の騎馬隊の有無について」「織田勢の鉄砲三段撃ちについて」が印象的でしたが、今回は織田・徳川勢と武田勢の火縄銃・弾丸・火薬等の調達方法と、同じく両軍の鉄砲隊の編成方法についての考察が印象的でした。
 私も武田氏が火縄銃を軽視したとまでは言わないものの、鉄砲隊の編成にはさほど熱心ではなかったと思っていました。しかし平山氏は本書で史料を駆使して、織田氏も武田氏も旗下の武将や国人衆から鉄砲衆を摘出して、臨時編成の鉄砲隊を主力とした編成で、両者の鉄砲隊には質的にはそれほどの差はなかったとの指摘は衝撃的でした。私も織田氏の鉄砲隊については、長篠設楽ヶ原で前田利家や佐々成政が鉄砲奉行を勤めたと言う話から、織田氏の鉄砲隊は信長直属の馬廻り主体だと思っていたのですが、旗下の武将や国人衆から抽出した鉄砲隊で編成していたとの指摘は驚きでした。
 ではそのように鉄砲隊の編成方法にさほど差がないのに、何故設楽ヶ原ではあれほどの差が出たかと言うと、純粋に織田勢の鉄砲隊の数が多いのと、運用方法に差があったは勿論でしょうが、多量の弾丸・火薬を用意出来た織田氏の補給・調達の優位を指摘してくれたのは衝撃でした。どうしても過去の長篠合戦についての論争というか、そもそも戦国時代の研究は、「どう言う布陣だったのか」とか「どのような動きをしたのか」の言う戦術的な物が話題になりがちだったと思います。それを長篠合戦の勝敗を分けたのを「物流の差」と指摘したのは慧眼だと思います
 本書では、この「物量の差」に注視した記述がされており、火縄銃を入手したものの、それを運用するのに必要な弾丸や火薬の入手に武田氏が苦しんだ記述がされ、非常に興味深かったです。特に鉛弾原料の鉛の調達に苦しんだ武田氏が、領内の銅銭を集めて鋳つぶして銅弾を作ったとの話は特に印象的でしたね。一方で物流の発展した畿内を掌握している織田氏は、比較的容易に銃や弾丸を調達出来たのを考えると、平山氏が指摘した、「長篠合戦での両軍の明暗は、やはり双方の装備量(物量)の差、それは鉄砲・玉薬・弾丸の生産・流通経路へのアクセス度の格差に由来すると結論づけることが出来よう」と言うように、両者の勝敗は地政学的な意味でも決まっていたのかもしれませんね。
 次に印象的だったのは、兵農分離についての話です。兵農分離と言えば、信長の天下統一への要因の一つで、学校の教科書にも載っている、言わば共通の一般常識だと思いますが、この信長の兵農分離の根拠史料が、『信長公記』一つだけと言うのが驚きました。信長の兵農分離の特徴とされている、城下町に家臣を居住させると言う政策も、武田氏始め多くの戦国大名が実施しており、決して信長だけが革新的ではなかったとの指摘も印象的でした。そして「兵農分離とは、統一権力が実施した政策ではなく、戦国終焉という社会的状況がもたらした結果に過ぎない」との指摘は、本書で一番印象的な言葉です。何より常識と思っている事にも、根拠史料を当たらないといけないと教訓を頂きました。
 以上のように、私が本書で特に印象的だったのは上記の「両軍の鉄砲・弾丸・火薬の調達について」と「兵農分離について」の二つですが、他にも現在の長篠合戦の通説になりつつある、「織田・徳川連合軍が戦場に築いた陣城について」や、当時の合戦方法」「撤退時に多くの戦死者を出した、武田氏の精神的風潮「甲斐や信濃は馬産地だったのか」など、興味深い記述が掲載されていますので、冒頭に書いたように『長篠合戦と武田勝頼』と合わせて通読するのをお勧めします。
 何はともあれ、長篠合戦を「信長の物量が武田氏を圧倒した」と指摘した平山氏の考察は、今後の長篠合戦研究の指標になるのではないでしょうか。

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読書感想 平山優著:『長篠合戦と武田勝頼』

2014年02月02日 16時42分31秒 | 読書

 甲斐武田氏研究で有名な平山氏の新著です。個人的には愛読書である『天正壬午の乱』を書いた方の新著だったので、期待して購入させて頂きました。
 本書は武田勝頼の生い立ちから家督相続、そして長篠設楽ヶ原合戦にいたるまでの経緯を書かれた通史編と、未だに諸説入り乱れる長篠設楽ヶ原合戦の疑問点に対する著者によるアプローチ編の二部構成に大まかに分けられると思います。

 通史パートでは、勝頼が家督を相続する経緯が丹念に描かれる一方で、上杉・後北条・今川・織田・徳川の周辺勢力との武田家の関係がどのように推移していったかが描かれています。そして家督を継いだ勝頼の権力基盤が決して安泰ではなく、それ故に強硬路線に傾かざるを得なかったと、未だに残る「勝頼愚将説」を払拭してくれるような説明をしてくれます。
 設楽ヶ原の戦いに至るまでの説明では、巷に普及している説に対しての反論である、一部の研究者やマニアが認識している通説に、更に反論する指摘が幾つかされて興味深かったです。例えば合戦前の軍議の際、山県・馬場・内藤等の宿将が強攻策を反対したのに対して、勝頼側近の長坂釣閑斎が強攻策を指示したと巷に流れている有名な話があります。この話に対して、マニアの間では「釣閑斎はこの時は設楽ヶ原に居ないので、この説は誤り」との認識が広がっていましたが、本書では史料を駆使して「釣閑斎がこの軍議に参加していた」との再提起がされていたのが印象的でした。
 他にも奥平定能の徳川氏への内応の原因を、信玄の死を奥平が察知したからと言う通説に対して、本書では領土紛争の調停を、奥平が申し出たのにも関わらず、武田方が退けたのが遠因ではないかと書かれています。また個人的にはあくまで三河国人領主の武田家への内応に過ぎないと思っていた、大岡弥四郎の内応未遂事件を丹念に検証して、築山御前―徳川信康ラインの武田家への内応説への関与を示唆してくれたのには興味深く読ませて頂きました。

 そして言わば本書の見所と言うべき、筆者による設楽ヶ原合戦に関する疑問点へのアプローチについては、未だに諸説入り乱れる「武田家の騎馬隊は存在したのか?」と、信長の「鉄砲三段撃ちは実在したのか?」に力点が置かれています。武田の騎馬隊と言うより、そもそも戦国時代に騎馬隊は存在したのかと言うのは未だに議論が分かれていますが、一部の研究者やマニアの間では騎乗の武士は上級武士(指揮官)なのだから、そんな指揮官ばかりを集めた部隊を編成したら、一般の兵士を指揮する者が居なくなると言う認識が広まっていると思います。私もそのような認識から騎馬隊には否定的だったのですが、本書では史料を駆使して、「騎馬武者=上級武士ではない」と説明して、上級武士ではないのだから、部隊を編成するのは可能と説明してくれたには目から鱗が落ちた気分です。ただ騎馬隊は存在していたとは述べているものの、だからと言って設楽ヶ原の戦いで武田の騎馬隊が考えなしに織田徳川連合軍に突撃したわけではないと述べています。
 そして織田勢の鉄砲隊の三段撃ちについても独自の解釈をしてくれています。一般的には鉄砲隊が三列横隊になり、一列が一斉射撃する度に後方に下がって、弾薬の装填作業を行い、再び順番が来たら前列に出て来て射撃をすると言われています。これに対して一部の研究者やマニアの間では、このような動作は不可能と言われているのが現状だと思います。私自身も三段撃ちは虚構だと長い間思っていました。これに対して本書では文禄慶長の役での史料を駆使して、従来言われてきた射手が移動する輪番射撃ではなく、移動しない輪番射撃を提唱しています。ただ、すいません、この射手が移動しない輪番射撃は文章では説明が難しいので、興味のある方は是非購読して自分の目で確認して下さい。私としては、このような手法があるとは知らなかったので興味深く読ませて頂きました。
 ただ個人的には、どなたが提唱していたか名前を失念してしまったのですが、鉄砲隊を射手・装填手、そして射手と装填手の間に立ち、両者に火縄銃を受け渡しする者の3チームに分けて、射手はその場に留まり射撃に専念するとの方式が、正しいかどうかはともかく一番合理的ではないかと思っています。

 以上、本書は武田勝頼の生い立ちから長篠設楽ヶ原合戦に至るまでの通史としても判りやすいですし、長篠設楽ヶ原合戦に対しての従来の説に対して一石を投じた非常に興味深い内容でした。既に本書の続編も執筆しているとの事なので、こちらも楽しみにしたいと思います。個人的には長篠設楽ヶ原合戦その物よりも、合戦後の7年間をいかに勝頼が戦ったについての方が興味がありますので、こちらも期待したいと思います(^^;)。
 最後に本感想では戦場の地名として慣れ親しんだ「設楽ヶ原」を使わせて頂きましたが、本書では「有海原」の地名を使っています。もしかしたら、いつか「長篠有海原合戦」と呼ばれるようになるかもしれませんね。

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渡部由輝著:『数学者が見た二本松戦争』

2011年12月11日 11時50分31秒 | 読書

 タイトルにわざわざ「数学者」と書いているくらいですから、さぞ数学者としての知識を活かした斬新な切り口の歴史解釈を期待したものの、いざ読んでみたら数学者としての知識を活かした記述は殆ど無く、筆者の勘違いした独善的な記述ばかりが目立つ内容でした。また、ろくに史料を読み込んでいない勉強不足の面も目立ったのも特徴です。

 まずタイトルにある「数学者から見た」ですが、筆者はもっともらしく前装滑降銃のゲベール銃や火縄銃よりも前装施条銃のミニエー銃の方が優れている、前装施条銃のミニエー銃よりも後装施条銃のスナイドル銃やスペンサー銃が優れていることを数式を用いて説明しようとしています。しかし数式など使わなくても、それぞれの小銃の構造を見れば、ゲベールよりもミニエー、ミニエーよりもスナイドルの方が優れているのは自明の理です。こんな当たり前の事をわざわざ数式を使って説明しようとしているのは、権威主義に陥っているか、自分に酔っていると言わざるを得ません。また二本松市が県庁になれなかったと言うのを、隣の郡山市や福島市の人口と比較して論じています。確かにこの部分では数式を用いているかもしれませんが、ではこれが戊辰戦争と何の関係があるかと言えば関係なく、筆者の肩書きの(この本に書くに至っての)無意味さを強調されてしまいました。
 もっとも戊辰当時の砲兵の運用が科学技術の結晶で、砲兵指揮官が優れたテクノクラートであり、特に大山巌が戊辰戦争で果たした功績は大きいと言うのを書いたのは優れた識見だと思うものの、残念ながら自慢の数学者の肩書きが活かせたのはこの件だけでした。
 このように本書において数学者の肩書きはあまり活かされず、むしろ目立ったのは筆者の偏った歴史観でした。本書において筆者は当時の各藩、及び各人の動向について色々批評しているのですが、何を勘違いしたのか筆者の価値観で当時の人物や団体に有罪・無罪を言い渡している傲慢な行為でした。歴史を学ぶ者にとっての古典的名著E・H・カーの『歴史とは何か』に「歴史家は裁判官ではない」との文がありますが、この筆者の行為は正に裁判官として、自分の意見を述べる事も出来ない歴史上の人物・団体を裁いているものであり、自分に酔しれている醜悪な行為と言わざるを得ません。
 それでもその判断基準に筋が通った物であるのなら幾らかマシなものの、三春藩や米沢藩を新政府軍の恭順を「裏切り者」と非難する一方で、自分の故郷である秋田藩の新政府への恭順を「ただし筆者も秋田人の一人である。<裏崩れ>などという、”裏切り”を連想させるようなマイナス的表現は使いたくない。むしろ<功績>と言いたい(P88)」と言い放つなど、まさしくダブルススタンダードその物でした。とても羞恥心のある人間の言葉とは思えず、流石は数学者のセンセイは一般人と羞恥心が違うと感心した次第です。
 この渡部センセイの裁判はこれだけに留まらず、奥羽列藩同盟軍が惨敗した第三次白河城攻防戦について、正直いって筆者は、白河戦についてはあまり語りたくない。筆者も東北人(秋田)の一人である。白河戦について語ることは、東北人が西方人に”虐殺された事件”について語るのと、同じようなものだからだ(P64)」と堂々と私情から、史実を書くのを拒否しようとする所などは、この渡部センセイが、歴史を語るに値しない人間だと言う事を表しています。それでも自分一人の主張として抱いているならまだしも、二本松藩士三浦権大夫の苦悩に満ちた決断に対して、二本松人だけは三浦権大夫を<義人>などと称えてはいけない(P179)」と筆者の矮小な価値観を他人に強要するのには、その勘違いと傲慢さにもはや憤りを感じてしまいます。数学者がそんなに偉いのか、そして過去の人物を糾弾出来るほどの知識が自分にあるのかと筆者に問い質したいです。
 実際その独善に満ちた正義感が、歴史の知識に基づいた物ならばまだ矯正のしようがありますが、残念ながら渡部センセイにはその歴史知識すらありません。本書冒頭について世良修蔵を色々批判しており、世良が率いてきた第二奇兵隊の生い立ちについて色々述べた上で、その第二奇兵隊を率いる世良を批判しているものの、この時世良が率いたのは施条銃中間第四大隊第二中隊であり、第二奇兵隊とは何の関係もありません。つまり第二奇兵隊を引き合いに出して、色々偉そうな事を述べている渡部センセイの言葉は全て的外れであり、最早滑稽と言わざるを得ません。基礎史料である『防長回天史』を読めばすぐ判るような事すらも知らないとは、その正義感とは裏腹に渡部センセイの歴史知識はお粗末な物と言わざるを得ません。

 このように本書は読む前は、「数学者が見たと謳っているくらいだから、既存の本とは異なる視点の本に違いない」と期待したものの、いざ読んでみたら「正義感過多、判断力過小」の輩が書いた俗書に過ぎず、残念ながら本書から得た知識や識見は何もありませんでした。
 しかし一方で本書を読んで気付いた事もあります。正直私は今まで「歴史哲学」と言う物に興味がなく、「哲学など暇人の学問」と思っていた嫌いすらありました。しかし本書を読んで歴史哲学を持たずに、歴史書だけを読んでも渡部センセイのようになり兼ねないとの恐怖感を覚えました。この歴史を学ぶに当たっての歴史哲学の大切さを教えてくれた、その一点のみで反面教師の渡部センセイに感謝しています。

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福島県文化センター開館四十周年記念出版:『直江兼続と関ヶ原~慶長五年の真相をさぐる~』

2011年09月06日 19時32分14秒 | 読書

 本書は2007年に福島県白河文化財センターや、福島県立博物館で開催された、会津上杉家から見た、所謂「奥羽の関ヶ原」の企画展示を元にされた冊子です。このような企画展示を冊子化する場合は、展示された資料の写真掲載と解説した物が殆どなので、本書もそのような物だと思っていたら、いざ読んでみると通説を批判して新設を展開する野心的な内容だったので驚きました。

 本書で展開している新説は、神指築城は戦争準備ではなく、首都機能の移転」「直江状は決して宣戦布告ではない」「革籠原決戦計画は無かった」「松川合戦は無かった」と言うのが主な物ですが、どれも史料を駆使して解説してくれるので、なるほどとは思うものの、だからと言って鵜呑み出来る物ではないと言うのが正直な感想です。
 神指築城について、戦争準備ではなく、首都機能の移転と説明して、城下町の構想から上杉方に戦争の意思はなかったと書かれています。確かに史料の紹介を読む限りでは説得力があり、なるほどと思ってしまうものの、一方で上杉家が浪人を集めていた事に関しては一切触れていません。もし上杉家が戦争を避けていたのなら、この浪人を集めていた事に対しても解釈が必要だと思います。しかし首都機能の移転については強調しても、浪人を集めた事に対する説明が無い為、正直「神指築城は戦争準備ではなく、首都機能の移転」と言われても、すんなり納得する事は出来ません。
 「直江状は決して宣戦布告ではない」について書いてある事は、それぞれ納得出来るのですが、明確な答えを表示していないのですよね。まあ直江状の信憑性自体が議論の的になっている現状では仕方ないものの、細々と説明しているものの、結局答えが出て来ないので、正直中途半端な感があります。
 「革籠原決戦計画は無かった」については、本書では『東国太平記』の信憑性を真っ向から否定して、現地調査を経て革籠原決戦計画は無かったとの主張は説得力を感じ、賛同する内容でした。では上杉家が構想した主戦線はどこだったかについては、現在の会津西街道沿いだったと解説しています。この主張どこかで聞いた事があると思ったら、三池純正氏著の『守りの名将上杉景勝の戦歴』と同じなのですよね。参考文献に同書が挙がっている以上、同書を参考にして書かれているのは間違いないと思うので、オリジナルの新説で無かったのが少し残念。
 最後の「松川合戦は無かった」は、この戦いが在ったと思っていた私にとって驚きの内容でした。通説への批判もきちんと出典史料を明示して解説してくれているので、中々説得力がありました。
 批判めいた事ばかり書いてしまいましたが、対最上戦の解説などは、概要をコンパクトに、かつ判りやすく纏めてくれており、ありがたかったです。直江兼続は関ヶ原の敗報を知って撤退したのではなく、戦局悪化から撤退したと言うのは、中々興味深い指摘でした。

 冒頭に書いたとおり、普通の企画展示の冊子化がカタログになりがちな中、通説を批判して新説を展開する本書は、野心的な本だと思います。ただ企画展示の冊子化の為、どうしてもボリュームが限られてしまい、新設の解説が強引に感じてしまった部分がありました。一般書クラスのボリュームがあれば、もっと自然な新設の展開が出来たのではないかと思うので、その辺は残念です。もう一度一般書クラスのボリュームで書き足した物を読んでみたいとも感じました。
 本書で展開された新説を全て鵜呑みにする事は出来ませんが、今後の研究に一石を投じたと言えるかもしれません。

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伊藤哲也著:『戊辰戦争戦死者埋葬の真実』

2011年07月31日 18時44分47秒 | 読書

 会津史談会の会報「歴史春秋』に収録されている論文です。友人の掲示板で話題になっていたので読んでみました。読んだ感想を簡潔に纏めると、自身の専門分野の部分は流石に良く纏められているものの、欲をかいたのか自身の専門分野以外にも手を伸ばしたが、研究不足の点が目立ち、結果良質な筈の自身の専門分野の功績も薄まってしまった」と言うのが正直な感想です。

 本論文は、未だに誤解されている「戊辰会津戦争後、会津藩士の死体は新政府軍によって埋葬を禁止され、野ざらしにされた」と言う、小説家やホラ吹きが作った俗説を、史料を用いて誤りを正していくと言う内容です。このように本題は「会津戦争後の遺体埋葬問題」なのですが、その本題にたどり着く前に各地の戊辰戦争の(反新政府勢力の)遺体埋葬状況はどうだったかを解説してから、本題に入る形式です。
 本人が長年温めてきたと述べるとおり、確かに本題の会津戦争については、著者が拘る一次史料を駆使して、ボリュームのある内容になっています。しかし問題がその本題に至る前の、各地の戊辰戦争での遺体埋葬状況の説明では、会津戦争での説明と比べると調査が雑な部分が目立ちます。私が知る限り、著者は会津戦争に関しては造詣が深くても、他の戦線は専門外ではなかったのではないでしょうか。どうも本論文は既存研究と差別化を図る為に、欲をかいたのか会津以外の遺体埋葬状況までも手を広げたが、他の戦線の調査のクオリティが、会津の調査のクオリティと比べると、あまりにも見劣りしてしまう物でした。
 私は上野戦争や白河城攻防戦については詳しくないので、話を北越戦争と野州戦争の記述について限定させて頂きますが、まず指摘したいのは双方とも読み込む史料が少な過ぎます。まず北越戦争については、驚くべき事に稲川明雄氏編纂の『北越戦争史料集』一冊だけで、北越戦争の遺体埋葬問題を言い切ってしまっています。確かに稲川氏は北越戦争研究の一人者ですが、稲川氏の本だけで北越戦争を研究したように語ってしまうのは乱暴と言わざるをえません。諫言すれば稲川氏の知らない遺体埋葬状況があるのに、さも北越戦争の遺体埋葬状況はこうだったと断言してしまっているのですよね。
 まず伊藤氏が書いているとおり、確かに北越戦争は「泥と血」の戦いでしょう。ただ八丁沖(西部)戦線は、湿地帯の中に浮かんだ集落を巡っての戦いであり、湿地帯に埋葬がされなかったのは当然で、現地を訪れてみれば湿地帯の集落内に同盟軍が埋葬された地が複数残っています(代表的なのは旧大黒村の西照寺)。そのような意味では「最前線では戦死者の供養や墓碑建立は出来なかった」との主張は誤りで、稲川氏の研究に依存している弊害の表れと指摘します。そして稲川氏が長岡藩研究の第一人者である反面、米沢藩の研究にはそれほど踏み込んでいないので、本論文では梨ノ木峠や榎木峠での米沢藩士の墓所に触れる事が出来ず、結果「最前線では戦死者の供養や墓碑建立は出来なかった」との史実に反している記述をする事になっています。
 尚、上記の間違いはともかく、私が許せなかったのは「北越在住の方々が当時の古文書を所有している事が多いという。しかし在住の方々が当時の古文書を殆ど公開してくれないのが現実だ」との記述です。これは事実に反し、現在在住の方々に対する侮辱だと言わざるを得ません。何故なら私自身が旧今町宿・旧見附村・旧大黒村を訪問した際は、地元の方に親切に対応をして頂き、何件かは古文書も見せて頂いたからです。もし著者が本当に新潟県を訪れて、地元の方に古文書の観覧を断られたのなら、それは著者の態度に問題があっただけに過ぎません。そして自身は新潟県を訪れず、稲川氏の記述を鵜呑みにして地元の方を誹謗したのなら、もはや言語道断です。
 続いて野州戦争について、こちらも北越戦争同様に読み込む史料の数が少な過ぎます。確かに著者が拘る一次史料を読まれていますが、二冊だけで野州戦争を語ってしまうのはナンセンスです。そしてその二冊が共に土佐側の史料なので、土佐の知らない遺体埋葬状況を知らずに断言してしまった為、こちらでも史実と異なる記述がされています。著者は戦死者の数に比して、宇都宮周辺の戦死者の埋葬地が六道ノ辻にしかないと書かれていますが、まず第二次意宇都宮城攻防戦で戦死された兵士達は日光で埋葬された者も多く、宇都宮周辺に埋葬されてないからと言って、埋葬されていないと考えるのは短絡的と批判させて頂きます。何より宇都宮は太平洋戦争で空襲されており、この空襲での消失と、その後復興の区画整理で損失した埋葬地の存在を忘れているのではないと指摘します。例えば宇都宮正行寺には三十人近い会津藩士戦死者の過去帳が残っていますが、墓石自体は区画整理で損失しています。このような遺体埋葬問題のようなデリケートな問題を調べるのなら、その時代だけではなく、その後の歴史について調べる配慮も欲しいものです。
 
 以上、主に北越戦争と野州戦争での著者の記述について批判させて頂きましたが、冒頭に書いたとおり著者が書きたかったメインテーマと言うべき会津戦争での遺体埋葬問題については多くの史料を駆使し、流石と言うべき内容なのは著者の名誉として明記させて頂きます。だからこそ自身の専門分野に特化した論文にしておけば良かったのに、欲をかいたのか自分の専門分野以外にも手を広げ、それらが自身の専門分野と比べてクオリティが低くなってしまったのは残念と言わざるを得ません。会津だけに専念しておけば優れた論文だったのに勿体無い・・・。

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星亮一著:『大鳥圭介~幕府歩兵奉行、連戦連敗の勝者~』

2011年05月05日 21時44分14秒 | 読書

 今まで「会津こそ正義!、薩長は悪!」をスローガンに、会津をひたすら賞賛し、薩長を誹謗してきた星亮一。必要に応じて作家と歴史研究家の肩書きを使い分けて、歴史を捏造し続けてきたこの男が、大鳥の本を書くと言う事で、大鳥好きの身として購入。今まで大鳥の事を調べているなど聴いた事がなかったので、星に大鳥の事が書けるのかと疑問を感じながら読んでみました。案の定、過去出た大鳥関連の本やネットの情報をかいつまんで書いたとしか思えないような、真新しさや面白みを感じられない本でした。しかし一方で、幾ら大鳥をテーマにした本とは言え、大鳥を庇って会津に非がある時は、ちゃんと会津を批判するなど、今までの本と比べると読める本でしたね。

 まず本書はサブタイトルに「幕府歩兵奉行」と書かれているだけあって、戊辰戦争史での大鳥に重点が置かれて書かれているのが特徴です。同じ大鳥を扱った本で近年出版された本として高崎哲郎氏の『大鳥圭介~威ありて、猛からず~(08年)』がありますが、高崎氏版が大鳥の前半生(戊辰以前)と後半生(明治以降)の配分がほぼ半々だったのと比べると、星の著書は明らかに戊辰戦争史に傾いているのが判ると思います。ですので戊辰戦争史の大鳥の動向を知りたい人ならいざ知らず、大鳥圭介と言う人物の生涯を知りたい方は、高崎氏の著書を購入するのをお勧めします。
 それでは戊辰戦争史での大鳥の動向を知りたい方には、本書は十分かと言うと、戊辰戦争史での記述でも記述のバランスが悪いのが目立ちます。意図的に軽視したのか、「連戦連敗」と言うサブタイトルの為に都合が悪いと感じたのか、大鳥が「勝利した」小山宿周辺の戦闘から、第二次宇都宮城攻防戦までの、初期の野州戦の記述は乏しいです。余談ですが、緒戦の小山宿周辺の戦いで大鳥が勝利している以上、星の「連戦連敗」と言う表現は誤りであり、センセーショナルなサブタイトルにする為に、史実と反する事を書いたと言わざるを得ません。
 野州の戦いと言えば、二度にわたる宇都宮城攻防戦がクライマックスだと思います。しかし星はこの第二次宇都宮城攻防戦の記述を、僅か51文字で終らせており(安塚戦も同じくらい)、本書が何を意図に書かれているのかが判りかねない構成と言わざるを得ません。また本書では露骨な捏造はないものの、ミスリードを誘っていると思われる文章が多いのも特徴です。例えば第一次宇都宮城攻防戦について以下の記述があります。「四月十九日、東南から土方支隊と伝習第一大隊、西南には大鳥本隊、北方には会津兵が展開し、宇都宮城を包囲した(P54)」本書には第一次宇都宮城攻防戦に大鳥自身が参加したとの記述自体はないものの、これでは大鳥が第一次宇都宮城攻防戦に参加したと勘違いする人も多いのではないでしょうか。そして気になるのは「土方支隊」と言う記述です。土方歳三が第一次宇都宮城攻防戦に参加したのは確かですが、土方支隊なる部隊は存在していません。新撰組の事を言ってるのかもしれませんが、この時土方が率いた新撰組は多く見積もっても50名足らずで、とても支隊と呼べる規模ではありません。前後の文脈から考えると桑名藩兵の事を土方支隊と呼称しているように思われるのですが、私の知る限り桑名藩兵を土方が率いていたと書いているのって、田辺昇吉氏しかいないのですよね。ひょっとしたら私の知らない桑名藩の史料に、土方が桑名藩兵を率いたと書かれた史料があるのかもしれませんが、巻末の参考文献に桑名藩関連の史料が書かれていない以上、田辺氏の説をあたかも自分の説として書いたか、どこかネット上で土方が桑名藩兵を率いたと書かれていたのを、自分の見解としたと言わざるを得ません。
 そして野州戦争の中盤である、今市宿・藤原宿周辺の戦いの記述は、この田辺氏の著書を纏めただけのオリジナリティの無い文章と言わざるを得ません。決して文章丸写しの盗作では無いので、道義的な問題は無いのでしょう。しかし仮にも大鳥の生涯を書こうとする者が、他人の文章を纏めただけの物を、あたかも自分のオリジナルの文章のように書くのはいかがなものでしょうか? 分別があるのならば、田辺氏の著書を参考にしたと「本文中」に書くべきでしょう。
 ただしその後の、恐らく星にとっては本書のクライマックスと言うべき、会津戦争での大鳥については意外と言うべきまともな物でした。野州戦争では田辺氏の記述を流用しただけの星ですが、会津戦争ともなると自身の知識が活かせる為か、打って変わってオリジナルさを感じられる内容になっています。母成峠戦と、その前哨戦である山入村戦で、会津藩兵が友軍の大鳥軍(伝習第二大隊)と見捨てて、自分達だけが逃亡。母成峠戦に至っては、自分達(会津藩兵)が逃げる為に、まだ交戦中の伝習第二大隊の後方に火を放ち、この為に退路を遮断された伝習第二大隊の戦線は崩壊したと言う点は避けているものの、それ以外では会津藩兵が放火を多用していた為、領民の反発を招いた事を認めるなど、今までの会津至上主義と考えると、格段の進歩が見られます。特に会津観光史学の一部に、会津戦争の敗因を大鳥に転換する者が少なからず居る中で、「大鳥の心意気を評価すべきだった。数ある幕臣の中で、いったい誰が会津のために命がけで戦ったのか、そこを考慮すべきであった(P129)」の記述は、大鳥をテーマにした著書だからとは言え、評価すべきだと思います。
 そして著者の星がクライマックスと捕らえていると思われる箱館戦争ですが、今までの星ならば土方歳三を絶賛して、土方の敗因を大鳥のせいにした気がします。そんな土方の英雄伝説にされている俗書が多い中、本書は大鳥と土方の功績を冷静に評価して、決して土方の英雄伝説にならず、また大鳥を無能扱いもしない、新書レベルでは十分な記述に内容になっていると思います。詳しい方には、二股峠の記述は物足りないかもしれませんが、巷に「土方の美談」と伝えられているエピソードを、出さなかっただけ、まだマシかと。
 このように箱館戦争の記述に関しては満足していたら、最後の最後で捏造の悪い癖を出しています。五月十一日の箱館湾海戦で新政府軍の軍艦朝陽が撃沈されますが、これに関して星は「黒田清隆は息を詰まらせ、山田顕義は、ガタガタと膝を震わせた(P162)」との、いかにも「小説」的な表現をしていますが、この逸話は聞いた事がないのですが出典は何の史料なんでしょう。確かに貴重な軍艦である朝陽の撃沈は新政府軍にとって痛手でしょうが、フラッグシップである甲鉄が健在であり、制海権を新政府軍が把握している以上、朝陽一隻の撃沈に黒田と山田がそこまで動揺するとは思えないのですが・・・。まあ星がこの逸話の出典が何か教えてくれれば、この疑念も解決するのですけれどもね。まあ、そんな史料が有ればの話ですが。
 そんな戊辰後の明治以降の大鳥の生涯については、淡々と書かれており、よくも悪くも普通の新書レベルですね。高崎氏の著書と比べると物足りものの、清国在勤全権公使の話についても、大鳥の立場について理解した上で書かれており、気持ち良く読める記述でした。

 このように本書は、相変わらずの自身の思い込みで書いた、歴史書なのか小説なのかハッキリしない物ですが(尚、本書は「作家」としての肩書きで書かれています)、会津や薩長が中心で書かれていない為に、他の星の著書に比べれば大分読める物になっています。ただ個人的に読んでいて幾つか解せない部分があったので、最後にそこについて書かせて頂きます。
 まず星と言えば、今まで薩長を仇敵のように憎み、決して「官軍」や「新政府軍」とは呼ばず、「薩長軍」と呼称しているのは有名ですが、今回は呼称が違う場合があるのが特徴です。具体的に言うと「薩長軍」「征討軍」「新政府軍」の三つが使われていますが、章によって呼称が変わり、しかも征討軍と呼んでいたかと思えば、次の章では薩長軍と呼ぶなど、決して新政府軍の組織変更に合わせて呼び方を変えている訳ではないので不自然なんですよね。「征討軍」「新政府軍」と言った呼称は、明治新政府の権威を認める事となり、これまで明治維新を否定し続けていたアイデンティティを否定する事になるので、星がこれらの呼称が使うとはとても思えません。そう、それこそ別のライターが書いたか、編集が書き直しをしない限りは・・・。
 気になる点のもう一つは、今回は大鳥を評価する為に会津の非を認めているのが特徴です。しかし、そのままでは会津が自身の責任で敗れた事に繋がる事になります。そして、それを避けたい意図があったかは不明なものの、今回星は新たに会津の敗因を転換する相手を発見します。それが米沢藩です。とにかく、これだけ会津の不利になる史料を指摘されて、それから逃れる事が出来なくなった鬱憤を晴らすかのように、本書はとにかく米沢藩に対して否定的です。まあ大鳥自身が、米沢藩に対する否定的な文章を南柯紀行に残しているので。仕方ないかもしれませんが、それにしても本書の米沢藩に対する攻撃は異常です。 
 しかも不思議な事に、『奥羽越列藩同盟』の時は、千坂高雅の事を副総督と書いたり、五十騎組の事を五十人と勘違いするなど、米沢藩の事についてろくに知識が無い事が露呈した星が、本書では米沢藩の内部についてちゃんと理解しているんですよね。しかも「不思議」な事に米沢藩の軍事に関しては理解しているようなのに、何故か政治部門は相変わらず理解していないのですよね。不思議ですね~。前述のように田辺氏の見解を、あたかも自分の見解のように書いている星は、一体いつ「何」を見て米沢の事を調べたのでしょうね~(^^;)
 最後は「あとがき」について。本書の執筆に協力頂いた方々として、大鳥の故郷で研究活動をされている方々を紹介されているのですが、その中にどさくさに紛れて自分の側近である研究家でもない高橋美智子の名を、あたかも研究家の如く記述しているのです。恐らく高橋美智子の権威付けの為に書いたのでしょうが、これでは事情を知らない人の中には高橋美智子の事を、大鳥の研究家と勘違いする方も出るでしょうからミスリードを誘っているとしか思えません。結局星はこのあとがきで、高橋美智子の事を宣伝したかっただけと言わざるを得ません。

 追記(11/5/22)
 この感想を読んだ方から、協力者と言うのは執筆に協力した人物で、必ずしも歴史の知識を持った人間でなくても構わないとのご指摘を頂きました。「協力者=歴史の知識がある人物」と言う思い込みがあったので、星のあとがきに憤りを感じてしまいましたが、歴史の知識が無い人物でも協力者になると言うことでしたら、高橋美智子が協力者でもおかしくはありませんので、私の感想が不適当だった事をお詫びすると共に修正させて頂きます。

 以上が私の本書に対する感想です。私としては、星の著書としてはかなり肯定的に書いたつもりですが、許せないと思う星ファン、及び会津観光史学の徒達も居るでしょうから、本感想が不満なら、どうぞ反論して下さい。ただ私は「歴史」の話がしたいので、反論するなら、ちゃんと根拠となる史料を提示して下さいね。私も史料を用意して待っていますので、有意義な史料批判をいたしましょう(^^;)

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小林和幸著:『谷干城~憂国の明治人~』

2011年04月23日 16時52分45秒 | 読書

 多分新書サイズでは初の谷干城の専門書ではないでしょうか。幕末維新から西南戦争についての、谷干城の動向はある程度は知っているつもりなものの、その後の谷の業績を知らない私にとっては、谷の生涯を知る事が出来ると思い購入しました。筆者が近世の政治史の専門家だけあって、後半生の政治の道に転じた谷の業績については、本当に詳しく書いてくれたものの、前半の戊辰戦争と西南戦争での谷の軍事的な手腕については、殆ど記述されていないので勿体無く感じてしまいました。

 前述したとおり、近世史の政治史での専門家だけあって、政治の道に転じた谷の後半生については、本当に詳しくかつ、判り易く書いてくれています。谷が初代の農商務大臣に就任したまでは知っていたものの。その後に貴族院で野党的存在に転じて、政府の間違いを糾弾する存在になったとは知りませんでした。個人的には谷は山県との権力闘争に敗れて、仕方なく政治の道に転じたかと思っていたのですけれども、足尾銅山鉱毒事件では被害者の民衆の為に尽力して、民衆に感謝された事などは知らなかったので勉強になりました。このように足尾銅山鉱毒事件では民衆の側に立って、政府と戦った姿勢は好感が持てる一方で、貴族院の権限強化を推進したり、華族制度の強化を促したりなど、保守的な姿勢が強かった事には、保守とは反対の考えを持つ身としては違和感を持ってしまいました。
 ただ権力には媚びずに、決して権力に取り込まれる事無く、生涯を通して政府の間違いを徹底的に糾弾する生涯をおくった事は好感が持てました。後年の谷のイメージである「偏屈者だか、権力には頑固者」このような政治の道に転じてからの姿勢から出来たのでしょうね。

 このように本書は、後年の政治の道に転じてからの、谷の動向について詳しく書かれており、政治史に於いての谷についての専門書としては、初心者にとって最適の本と言えましょう。しかし谷の政治的な動向について詳しく書かれている一方で、戊辰戦争と西南戦争での谷の軍事的動向についての記述は対照的に弱いです。特に戊辰戦争での甲州勝沼の戦いについて、新政府軍を圧倒的多数と書くなど(実際には8個小隊と半個小隊、及び2個砲兵隊)、少しでも史料を読めば判る間違いをしている事を考ると、戊辰についてはろくすっぽ調べずに書かれているのが察せられます。そう言う意味では図らずも、政治史の研究家は軍事史には興味が無いと言う、巷に囁かされる噂が事実だったと言う印象を持った本でもありました。
 政治史に於いての谷干城の動向については最適書、軍事史に於いての谷の動向については読む価値は無いかも、と言うのが私の本書に対する感想です。

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平山優著:『天正壬午の乱~本能寺の変と東国戦国史~』

2011年03月23日 21時01分36秒 | 読書

 天正壬午の乱についての初の研究書ではないかと思われます。従来、徳川家康・北条氏政・上杉景勝公の三勢力による、「武田遺領争奪戦」との認識が強かった天正壬午の乱を、単に三勢力や有名な真田昌幸だけではなく、その他の甲斐・信濃の国人衆の動向も交えて詳しく説明してくれている力作です。また後進の者が後追い研究をし易いように、根拠となる史料も都度紹介してくれるなど、天正壬午の乱を調べる者にとっては必須の著書となるでしょう。

 過去に天正壬午の乱について詳しく書かれた物としては、雑誌『歴史群像』の2002年10月号に書かれた記事が真っ先に浮かぶのですが、そのタイトルが武田遺領争奪戦だったとおり、今まで天正壬午の乱については本能寺の変後の旧武田領を、徳川・北条・上杉の三勢力が巡って争ったと言う認識が強かったと思います。これに対して本書は、まず本能寺の変後滝川一益・森長可・毛利秀頼当の織田家の家臣達が上野・信濃脱出を試みる過程で、野・信濃の国人衆の人質を織田家から預かった木曽義昌が影響力を持ち、初期の天正壬午の乱では木曽義昌がキーパーソンだったと読める記述は新鮮でした。どうしても甲斐の旧武田家臣の多くが粛清されている事から、信濃もあまり国人衆の影響力はなかったと思っていたのですが、本書には甲斐以外の国人衆に関しては、むしろ信長は保護する政策を取ったので、これら信濃の国人衆の影響力は決して少なくなかったと言う本書の記述は、天正壬午の乱を三勢力による武田遺領争奪戦と言う単純な味方してなかった身としては驚きの記述でした。
 三勢力の内、家康が(甲斐の)武田遺臣を保護したと言うのは有名ですが、依田信蕃を除けばそれほど大身の者は居ないと思っていましたが、曽根昌世や岡部元信など有力家臣が意外と無事であり、それらの有力家臣を用いて家康が多くの武田家遺臣を取り込んだのが、家康の躍進の原動力になったと言うのは、やはり氏政や景勝公と比べると家康の方が一枚上手だったと言うのを再認識しました。
 そして何より驚いたのが、家康が信長亡き後の織田政権から了承を得た上で甲斐・信濃に侵攻したと言う事です。正直今までは「旧武田領をほんの数ヶ月前に織田領に編入された地域なので、織田家もあまり気にしてなかったので、家康がどさくさにまぎれて奪取した」との認識を漠然としていました。しかし本書を読むと、家康が信長亡き後の織田政権(清洲体制)の許可を得て、甲斐・信濃に侵攻していたと言うのが説明されており、この天正壬午の乱についての認識を改めないといけないと思う程の衝撃を受けました。「天正壬午の乱は、織田領国防衛を名目とした徳川家康が「織田政権」の合意と支援を受けて北条氏と対決した側面が強かったと言える。それを基盤に、家康がやがて独立大名として勢力を拡大したのは結果であって、甲信侵攻と制圧の名目は別であった」と著者の言葉は、これまでの天正壬午の乱に対しての認識に一石を投じるものではないでしょうか。

 このように本書は、従来「徳川・北条・上杉の三勢力による武田遺領争奪戦」との認識が強かった天正壬午の乱を、どれだけ旧武田勢力を取り込むかで勝敗が分かれた戦いであり、家康は織田政権の承認を得て甲斐・信濃に侵攻したと言う従来とは異なる視点で描いており、しかもそのれを都度史料を示して説明してくれるので、非常に説得力がある内容になっています。俗な言葉ですが、今後天正壬午の乱の研究が進むとしたら、本書はエポックメーキングと言える著書になるのではないでしょうか。
 また個人的な感想ですが、私は真田昌幸の事を正直過大評価されていると思っていたのですが、この天正壬午の乱でも最終的には真田昌幸の動向により勝敗が決した(昌幸が徳川に属した事により、北条家の補給線が分断された)と説明されているのを読んで、自分の誤った認識を改めました。

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乃至政彦・伊東潤著『関東戦国史と御館の乱~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?~』

2011年03月19日 22時14分55秒 | 読書

 一昨年の大河ドラマの影響か、上杉景虎や御館の乱を扱った書物が出るようになりましたが、殆どが著者の空想や願望を描いた上杉景虎贔屓の小説もどきが多い中、本書はそれらとは一線を画する史料に基づいた読み応えのあるもので、史料に基づいて上杉景虎の歴史的評価を試みている興味深い内容でした。

 内容的には伊藤氏が担当する関東の戦国史の概略の前半と、乃至氏が担当する上杉景虎が謙信公の養子に入ってから、御館のまでを描いた後編に分かれていますが、やはり乃至氏が担当する後半の方が読み応えがありました。
 一般的には謙信公は景勝公に越後国主を継がせ、景虎に関東管領職を継がせるつもりだったのではないかと言われていますが(私もこの通説を無条件に信じていました)、乃至氏は史料を丹念に読み込んで、これらの通説に異説を唱えています。「家督は道満丸(景虎長男)に継がせ、景勝公を陣代にするつもりだったのではないか」「謙信公と上杉憲政の間に権力争いがあったのではないか」などの新説は、意外ながらも興味深く読ませて頂きました。
 そして主題とも言える御館の乱の章では、本当に驚きの連続です。景勝公贔屓の私も、御館の乱は景勝公の先制攻撃で始まったと、通説を疑わずに信じていたものの、乃至氏の「国人集と景勝公との対立が御館の乱のきっかけとなった」、 「独裁権力を目指す景勝公を嫌った、景虎派の国人達が先制攻撃をした」などの主張は、目から鱗が落ちるような衝撃を受けました。また、あくまで本書の中ですが乃至氏は景虎贔屓のように感じますけれども、世の景虎贔屓の多く(いわゆる歴史と歴史小説の区別がつかない人達)が景勝公を過小評価や、史料的根拠のない誹謗をする輩が中、乃至氏は景虎を再評価を試みつつも、景勝公の手腕を高く評価するなど、その中立的な姿勢には感服です。
 本書の本筋とは関係ありませんが、個人的に興味深かったのが、初期の景勝公の政権ではNo2だった上条政繁が後年出奔して、斉藤朝信や本庄繁長と言った有力者を押しのけて、いつの間にら直江兼続が上杉家のNo2になったかについてです。政繁の出奔と兼続の関連は今まであまり考えていなかったので、乃至氏の考察は、こちらも目から鱗が落ちる思いでした。

 このように本書は史料に基づきながらも、従来の通説に異論を唱えた野心作で、それが読んでいて「なるほど」と思ってしまう読み応えのあるものでした。「上杉景虎が関東戦国史に平和をもたらす存在になり得た存在だったかもしれない」と言う、本書の主張に関しては若干の異論はあるものの、史料から考察した御館の乱に関しての新説は、本当に興味深い久々に夢中になって読んだ本でした。景勝公と景虎の二人を評価しながらも、両者の違いを指摘してくれる本ですので、上杉贔屓の方は是非ご一読をお勧めします。

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今谷明著:『戦国三好一族~天下に号令した戦国大名~』

2010年02月20日 20時02分45秒 | 読書

 戦国史ファンならば誰もが知っているものの、半ばマイナーな存在である三好一族を、中世史専門である著者が語ってくれる力作です。単に三好長慶の生涯だけでは無く、長慶の畿内進出の礎を築いた父元長や祖父之長についても書かれており、三好一族が実質支配した堺幕府についても語られるなど、畿内の前戦国史を知るには再提起の本になっています。ただ強いて言うなら、長慶死後の三好政権の崩壊にもう少しページを割いてほしかったかも。

 長慶については人並みには知っているつもりだったものの、その父や祖父については全くの無知だったので、父元長と祖父之長についての解説は、てっきり長慶を一代の梟雄と思い込んでいた私にとっては興味深かい内容でした。そしてこの三好氏が実質支配したとされる堺幕府についての解説は、筆者がどのような史料を読み込み、持論を展開していったのについても語られていたので、堺幕府についての考察と、その仮説を組み立てていく過程の手法の双方で興味深く読ませて頂きました。ただ堺幕府の存在については説得力があるものの、当時の室町幕府が既に日本全国の支配権を喪失していたのを考えると、堺幕府は畿内周辺の支配権しか有していなかったと思えるので、「天下に号令した」と言うのは、少し過大評価の気がします。
 また本書は長慶だけではなく、長慶につかえた三好家臣団についても詳細に描かれ、純粋に戦国ファンとして楽しく読ませて頂きました。特に現代でも有名な松永久秀について、長慶時代の前半までは久秀よりも、久秀の弟の松永長頼が三好家内では重きをなしていたと言うのは興味深い内容でした。この長頼を重視した三好家の畿内制圧過程の記事は、知らない事ばかりだったので、読んでいて本当に楽しかったです。
 ただ筆者も認めている通り、長慶と長慶の父祖父の畿内支配の過程を重視した反面、長慶死後の三好政権の崩壊についてはあっさり過ぎて、少し物足りなく感じました。三好義継や三好三人衆、松永久秀の織田信長に対しての抵抗は、どうしても信長側からついての視点で書かれた書物が多いので、この三好家について情熱がある筆者側から見た、三好家の信長に対する抵抗をもっと詳しく描いて欲しかったと思ってしまいます。

 このように本書は長慶だけではなく、三好一族全体について詳しく、かつ判り易く書かれた書物であり、単に三好家の興亡史に留まらず、前戦国史の畿内について詳しく書かれた良書です。二十年以上も前に書かれたのにも関わらず、今読んでも決して色あせない優れた著書だと思います。ただ一向一揆を「人民の抵抗」と称する所などは、マルクス史観の影響を感じ、この点でも興味深かったです。

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野口武彦著:『鳥羽伏見の戦い~幕府の命運を決した四日間~』

2010年02月14日 18時37分35秒 | 読書

 これまで『幕府歩兵隊』『長州戦争』の二冊を書いた著書が、「歩兵三部作の完結編」と銘打った著書であり、これまで通り各種史料を駆使しての内容には非常に読み応えがある一冊になっています。しかし本書では、今までの野口氏の著書ではあまり見られなかった、個人的な感情による決め付けや、史料よりも自分の感を重視する言動が見られるなど、『幕府歩兵隊』『長州戦争』とは明らかに調子が違い、野口氏の書風の変化に首を傾げる部分もありました。

 錦の御旗が挙がったのが新政府軍の勝因、装備が劣っていたのが旧幕府軍の敗因と単純な図式で語られる事が多い鳥羽伏見の戦いを、王政復古のクーデターから鳥羽伏見の戦いに至るまでの政治戦と、実際の鳥羽伏見の戦いの両軍の動向を、数多くの史料を活用して判り易く解説してくれている力作です。また史料の引用文を該当箇所全文を掲載してくれるなど、史料の後追いまで配慮してくれているなど、鳥羽伏見の戦いをより深く調べたいと思っている者に対する配慮もされています。
 おそらく新書で、ここまで鳥羽伏見の戦いを詳細に描いてくれた本は無いと嬉しく思う反面、今までの筆者の著書とは違い、著者の好悪が色濃く出ていると言う違和感を感じてしまいました。本書を読む限り著者は幕府歩兵・会津藩・新撰組・長州藩には好意を持っている反面、徳川慶喜と薩摩藩には嫌悪感を持っているのが伝わってきます。もっとも世間に多い「会津・新撰組=正義、薩摩・長州=悪」と言う会津観光史学による単純な視点ではないので目立たないものの、「この日の戦闘では、新政府軍側は薩兵八人、長州兵七人が戦死した。中には一人くらい斬られて死んだ者がいたかもしれない。いや、新撰組ファンならずとも、居て欲しいという気持ちになる」「こんな場合でも薩摩の衆道趣味は遺憾なく発揮される」など、露骨な著者の主観が見られ、その都度首を傾げてしまいます。もっとも薩摩藩については、その働きと自身が参考文献にしている「戊辰役戦史」に対する敬意から、薩摩藩兵の活躍は評価するものの、薩摩藩兵自体には嫌悪感を持つという愛憎入り混じる筆者の感情が伝わってきます。
 しかし徳川慶喜については首尾一貫否定しており、慶喜の言い分は全て否定するなど、これまで数多い史料を分析する著者からか考えられない姿勢で、ある意味鳥羽伏見の敗戦の原因を殆ど慶喜に押し付けている嫌いがあり、もはや慶喜に怨念を抱いているとしか言わざるを得ません。ただ慶喜を一方的に無責任と糾弾するものの、慶喜の高度な政略をぶち壊して無計画に新政府軍に挑んで敗北した会津藩主松平容保と、その藩士達についての責任には一切口を噤む等、残念ながら今の筆者は公平な歴史観を失っていると言わざるを得ません。
 この筆者の思い込みによる決め付けは、シャスポー銃についての解説になると、より露骨に反映されるようになります。私自身も鳥羽伏見の戦いで、伝習隊がシャスポー銃を使用していたと思っているものの、現状ではそれを明確に示す史料が無いと言うのが実情です。逆に学会では鳥羽伏見の戦いでシャスポー銃は使用されなかったと言う意見が大半なのを受けた野口氏は、本書で次のように述べています。「しかし、歴史は《書類審査》だけでは駄目なのである。心眼を働かせて仮想の《現場検証》ができなくてはならない」。
 正直野口氏のこの文には失望しました、敢えて言わせて貰うと歴史は書類審査で無くてはいけないのです。筆者のシャスポー銃の使用の有無に対する情熱には頭が下がるものの、この考え方は史料の軽視に繋がり、一歩間違えれば史料を無視して歴史の捏造に繋がる危険な考えと批判せざるを得ません。

 このように本書は、新書形式で従来軽視されていた鳥羽伏見の戦いを軍事的側面で描いてくれた良書であり、鳥羽伏見の戦いを調べる者なら読まなくてはいけない必須の本と言えましょう。しかし一方で著者の考えが危険な方向に向かっているのではと、危惧を覚える箇所が多く見られました。確かに会津観光史学のように、史実を無視して歴史を捏造する輩とは、野口氏は一線を画しているものの、この考えがエスカレートすると、危険との危惧も抱いています。
 以上、やや批判が多い感想になってしまったものの、あとがきで書かれていた「日本の《近代化》は必然であったが、それが天皇制とセットになることまでは不可避ではなかった」との意見には、大いに賛同しています。

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友田昌宏著:『戊辰雪冤~米沢藩士・宮島誠一郎の「明治」~』

2010年01月17日 22時58分38秒 | 読書

 宮島誠一郎と言えば、米沢藩士の中では有名な人物なものの、幕末維新史全体では知名度が低い人物と言えましょう。そのような宮島について、これまでも宮島関係の論文を発表してきた著者が、初めて宮島の生涯を綴り、その宮島の目を通した幕末明治史となっています。単に宮島の生涯を綴っただけではなく、宮島の仕えた米沢藩全体の幕末における動向を判り易く纏めてくれているので、幕末・明治初期の米沢藩について学びたいと思っている人にも最適の本と言えましょう。ただ筆者の宮島に対する思い入れが強い為か、やや宮島に対する評価は甘い嫌いを感じました。

 本書では米沢藩が幕末から戊辰戦争で降伏する前編と、明治初期の米沢藩を描いた後編の二分構成になっており、全編通して引用した史料は原文のまま引用してくれているのが特徴です。また併せて出典も明記してくれているので、単に読み物として優れているだけでなく、これは後を次ぐ後進にとっても配慮された構成と言えましょう。
 まず前編では、米沢藩の探索方として活躍した宮島の目を通した幕末の政局と米沢藩の動向が綴られています。薩長や一会桑等の幕末動乱で活躍した雄藩から見た、京都政局について書かれた著書や論文は多いものの、幕末の京都政局を何とか穏便に済ませようとする、その他諸藩の動向についての研究はまだまだ少ないでしょうから、本書の米沢藩の動向は本当に興味深いです。
 そして前編もう一つの見せ場と言えば、宮島から見た奥羽越列藩同盟の結成についてです。本書ではよくある佐幕贔屓の小説家が書いた「会津こそ正義!」のような観光史学のような矮小な視点ではなく、マクロな視点から奥羽越列藩同盟の矛盾を突いてくれています。また善悪以前に仙台藩の稚拙な手腕を指摘しており、佐賀藩士前山清一郎に九条や醍醐などの奥羽鎮撫総督府の首脳部を奪回された事こそ、奥羽越列藩同盟の敗因と言及するなど、昨今の本にしては珍しく仙台藩の責任を追及しているのは珍しいと言えましょう。
 しかし仙台藩に対する厳しい評価に対して、会津藩に甘い評価と感じました。これはあくまで本書が宮島の視点を通して書かれており、宮島自身が好感を持っている会津藩に対しては、本書の評価も甘くなると言う弊害が出てるかと思います。
 また幕末政局の大局だけではなく、屋代郷の騒動と言う局地的な動向ににも触れられており感心しました。屋代郷の騒動については概略程度は知っていたものの、詳細は知らなかったので勉強になると共に、この項で取り上げられていた史料を活用する事に後追い調べが出来るのでありがたいと感じています。
 後編ではタイトルにも使われている「戊辰雪冤」の通り、戊辰戦争で賊軍とされた米沢藩の名誉回復に奔走する宮島の姿が描かれており、中でも戊辰戦争時に軍事総督となった千坂高雅と、前藩主上杉斉憲の復権運動についての宮島の尽力が詳細に描かれています。どうも明治期の宮島と言えば、明治政府内の活躍ばかりが今までイメージしていたものの、旧主や元上司の為に奔走していたとは知らなかったので驚きました。特に千坂復権については、千坂復権についての宮島の尽力が詳細に綴られると共に、その後政見の違いからか千坂と敵対すると言うのは始めて知ったので興味深く読ませて頂きました。

 このように本書は、史料を駆使して宮島の目を通しての幕末から明治初期に掛けての米沢藩の政局を綴ってくれており、単に宮島の研究書には留まらず、全ての幕末の米沢藩を調べる者にとって必読の書と言えましょう。
 尚、本書とは関係ないものの、上記の通りでは千坂高雅についても色々書かれていますが、本書を読んでも千坂がどのような人物かと言うのはあまり伝わりませんでした。幕末期、特に戊辰戦争時の米沢藩を調べるに当って最も大事な人物は千坂だと思うものの、宮島や甘粕継成や木骨要人と言った日記を残した者とは違い、日記を残さなかった千坂に関しては本人がどのような考えを持っていなかったのか判りづらいと言う感があります。そのような意味では本書を読んで、日記を残したか残さなかったが、該当人物の研究の難易度を左右すると言うのを改めて実感した次第です。

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小和田哲男著:『戦国の合戦』

2009年09月05日 20時30分31秒 | 読書

 戦国史学会の重鎮である小和田氏自らが書かれた、一般向け戦国史の解説本です。一般向けと言っても小和田氏自らが書かれているだけあって、内容のレベルは高く、かつ判りやすい良書となっています。このような良書が安価で手に入れれるのですから、今の戦国時代ファンは恵まれているなと思ってしまった程です。

 内容自体が充実しているのは勿論ですけれども、本書と言うか小和田氏の著書で最も特徴的なのは、読み易さだと思います。良くも悪くも歴史学会で使われる用語は難しく、アマチュアには足を踏み入れ難いと言うのが現状です。しかしそのような学会の重鎮にも関わらず、小和田氏は判り易い言葉で、学会の知識を書いてくれるので、史実を求める物はこれほどありがたいものはないでしょう。知識を学会で独占するのではなく、在野にも提示してくれる事で戦国時代の研究がレベルアップするでしょうから、本当に小和田氏の活動には頭が下がる想いです。
 さて肝心の内容に関しては、戦国時代を語る前に、まずは何故戦国時代が始まったかを平易な文章で説明してくれます。歴史ファンと言うのは、どうしても自分の好きな時代のみに興味が向かいがちで、他の時代には疎かになりがちなので、小和田氏の説明は勉強になりました。
 このように戦国時代に入るまでの導入部で助走をつけて、一気に本編の戦国時代に突入します。この本編ではイラストや地図を多用して視覚的にも判り易い構成をしてくれます。このように文章も平易で判り易く、イラストも多用されているので、語弊がある言い方をさせてもらえれば、まるでライトノベルを読むような感覚で読む事が出来ます。しかしライトノベルを読むような感覚でも、書かれているのは最新の研究なのですから、いかにこの著書が優れているのが判るでしょう。
 また単に読み易いだけではなく、数は多くは無いものの史料を原文のまま引用して、それを読み下してくれるなど、史料を原文で読みたいと言うレベルの高いアマチュアにも配慮してくれており、正に入門者からハイレベルまでアマチュア研究家全般の「知識の底上げ」に配慮された構成になっています。
 私自身はこの十年近くは戦国時代から遠ざかっているので驚いたのが、小和田氏が「後詰決戦理論」で有名な藤井尚夫氏と共に研究していた事です。戦国時代を離れていた私でも、藤井氏の後詰決戦理論によって戦国時代の研究が一変したと言うのは知っていました。しかし、それでも藤井氏はあくまで学会の人間ではない在野の方ですので、普通の学会の住人なら敬遠する所を、共に研究する小和田氏の姿勢は素晴らしいと思います。そのような後詰決戦理論も取り込んだ、小和田氏による新説の紹介は興味深く読ませて頂きました。特に賤ヶ岳の戦いが、小牧・長久手の戦いのように両軍城砦を築いての対陣だったと言う新説が出ているのには驚きましたね。

 以上のように本書は、学会の最新の研究を判り易く紹介してくれる良書になっています。本当に戦国史の研究はこの十年で驚くほど進んでおり、その最新の研究を学会の重鎮である小和田氏がタイムラグ無しで紹介してくれると言うのは、今の戦国時代ファンは恵まれているなと半ば嫉妬混じりに思ってしまいました。
 最後に愚痴になってしまいますが、幕末維新史にも小和田氏のような方が居たら、星亮一の如き小説家による歴史捏造を許す事は無いのですが・・・。

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星亮一著:『偽りの明治維新』

2009年05月17日 15時54分40秒 | 読書

 著者の星亮一が思い描く、史実を無視した文字通り「偽り」の明治維新史です。今までも歴史捏造を繰り返してきた星ですけれども、本書では新たに「言質を他者に押し付ける」と言う卑怯さを身に付けています。本感想では、このように他者に責任に転換しようとしている星の「偽り」を検証したいと思います。

 まず全体の構成から書くと、「偽りの明治維新」と大層な書いているものの、要はいつもの「会津こそ正義!、薩長は悪!」といつもの星の願望を書き連ねているだけです。その為に幕末維新史全体を書いているものの、星自身に幕末維新史の知識が無いので、通史としては極めて薄っぺらい中身の無い物になっています。
 しかし話が会津戦争に及ぶと急に饒舌になり、会津がどれだけ新政府軍に略奪されたかを強調しています。しかし一方で会津藩兵が行った搾取や略奪には触れないのは、相変わらずこの男が「公平な歴史観」とは程遠い人間と言うのを表していると言えましょう。私は白河口・日光口戦線の会津藩兵の搾取・略奪には詳しくはないので、話を越後口に限定させて頂きますが、会津藩兵が越後の民衆から搾取・略奪し、越後の民衆から会津藩兵が憎まれていたと言う史料が無数に残っています。郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市等の市町村史に、会津藩兵によって民衆がいかに搾取・略奪され苦しんだのかと言う記述がされているのにも関わらず、星はこのような「史実」から目を背け、会津の被害のみを主張する様は醜悪としか言えません。越後における会津藩兵による、民衆への略奪・搾取については、詳しくはこちらを参照下さい。
 また星は孝明天皇が新政府側によって謀殺されたのではないかと本書で書いているものの、あくまで石井孝氏が「孝明天皇暗殺説」を主張しているのを紹介しているだけで、自分の意見は何も述べていません。これが本書で星が新たに身に付けた「言質を他者に押し付ける」です。歴史小説と史実の区別が付かない人達からは未だに信じられている「孝明天皇暗殺説」ですけれども、今や学会では完全に俗説扱いされているのが現状です。かつては星と同じく東北贔屓の佐々木克氏も暗殺説を支持していましたけれども、原口清氏の暗殺説否定を受けて、その考えを改めています。また現在は評判が悪い、マルクス史観の井上勝生氏でさえ病死説と暗殺説を併記していますし、学界的には暗殺説は相手にされていないのが現状でしょう。しかし星はそのような「学会の現状」からは目を背け、少数派の石井説を盾に、暗殺説を主張するもののその責任は石井氏に押し付けています。これを卑劣と呼ばずして何と呼ぶのでしょうか。尚、前述の佐々木氏はその著書「戊辰戦争」にて、自分の誤りに気付いた後も、あえて暗殺説の支持を訂正せずに自分の誤りを反省する文章を追記し、自分が誤った考えを持っていた事実からは決して逃げずに、歴史家としての責任を果たしています。この佐々木氏の高潔さと比べると、責任からひたすら逃げ続ける星の何たる醜悪たる事か。
 そして最後は原爆発言。これはかつて会津郷土史家の故宮崎十三八が鶴ヶ城落城を、広島の原爆被害以上の悲劇と記述した事を転載して、鶴ヶ城の落城の悲劇ぶりを強調しています。しかしこの言動により宮崎氏は研究生命を絶たれ、晩年は自分の識見の無さを反省していたと伝われています。ところが星は、この宮崎氏の晩年の反省を無視して、自分にとって都合の良い部分だけを転載して、その言質は宮崎氏に押し付けると言う、正に死人に口なしの所業を行っているのです。これは被爆者の苦しみと宮崎氏の晩年の反省の双方を侮辱していると言えましょう。

 この様に本書は、星にとっての理想の明治維新史を書いているものの、それに対する批判は他人に転換出来るように巧妙に書かれた著書であり、その姿勢は卑劣としか言えません。
 しかし実際には星の著書は一部には多大な支持を得ています、これは何故でしょう。私が思うに、これは歴史小説と歴史の区別が付かない人が多いからだと考えています。敗者の会津を絶賛し、勝者の薩長を誹謗する星の文章は、歴史の啓蒙書としての価値は無いものの、負け組みにシンパシーを感じて、勝ち組に嫉妬する日本人の特性に合っているのではないでしょうか。残念ながら歴史と歴史小説の区別が付かない人が多い状況が続く限り、星の著書はこれからも売れ続ける事でしょう。
 そのような意味では、星は歴史に対する識見は皆無ながらも、商業的な識見には優れているのかもしれません。

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三池純正著 「真説・川中島合戦」

2008年09月23日 20時06分50秒 | 読書

 史上名高い第四回川中島合戦を、「上杉軍と武田軍による予期せぬ遭遇戦」と言う主張で書かれた本です。川中島合戦についてはそれなりに知っていると思っていたものの、本書を読むとまだまだ知らない事があったので、読んでいて楽しかったです。

 本書は実際の川中島合戦の説明に入る前に、まずは資料に残る川中島合戦についてが説明されます。「甲陽軍艦」の信憑性が低いのは多く知られているものの、そもそもその「甲陽軍艦」くらいしか、第四回川中島合戦について記述された書物が無いと言うのが意外でした。てっきり上杉側の史料には、第四回川中島合戦について書かれていると思っていたのに、上杉側には第四回川中島合戦について書かれた資料は無いと言うのは知りませんでした。また上杉流軍学のルーツが本家の米沢藩ではなく、紀州藩だと言うのは知らなかったので興味深かったです。
 丹念に資料を読み込んだ上で書かれた内容は興味深く、楽しく読む事が出来ました。特に善光寺の記述については興味深かったです。宗教史についての知識の無い私は、善光寺を単なる地方の一寺院としか思っていなかったので、本書に書かれていた善光寺の影響力と、信玄が善光寺を甲斐に持ち帰った事による効果についての記述は興味深く読ませて頂きました。
 この様に本書は資料を丁寧に読み込んだ上での記述をしてくれているので、資料が殆ど無い第四回川中島合戦については、謙信が単身信玄の本陣に斬り込んだなどの通説は否定出来たものの、自分の説がまた推測の域を出ない物であるとして書かれているので、その真摯な姿勢には好感が持てました。筆者が主張する第四回川中島合戦が「上杉軍と武田軍の予期せぬ遭遇戦」だったと言う説が、正しいかどうかと言うのは私には判らないものの、興味深い説の一つだとは言えるのではないでしょうか。

 以上の様に本書は資料を重視した内容になっており、その資料を重視する姿勢には好感が持てるものの、(近代史に比べて)良質の資料が少ない戦国史を研究するのがいかに難しいかと言うのを実感する内容でした。

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