歴声庵

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相模:三増峠の戦い古戦場

2011年05月21日 18時38分16秒 | 登城記・史跡訪問



 *本投稿では、三増峠の戦いについての説明記述はありません。「三増峠の戦い」で検索して来られた方申し訳ありません。

 先日訪れた三増峠の戦い古戦場の碑です。碑が建っている場所自体は昔から知っていたものの、ご覧のとおり平地に建てられているので、あまり山岳戦と言うイメージはありませんでした。しかし実際に戦われたのは、碑の背後の山地で、今回実際に登ってみた所、思ったよりかは急で、確かに山岳戦だったと言うのを実感出来ました。
 通説では三増峠の戦いは武田勢の勝利だったと言われています。お世話になっている方から説明されて、戦略的には北条勢の駿河進出を防ぐのに成功したのだから、武田方の勝利と言うのは納得出来ました。しかし「戦場からの離脱を図る為に、北条勢の出鼻を挫く」のが武田方の目的だった以上、離脱には成功したものの、侍大将の浅利信種を失うなどの人的損害が大きかった以上は、戦術的には引き分けか北条方の六分の勝利だった気がするのですけれどもね。

 また古戦場の在る神奈川県愛甲郡愛川町は、近隣に電車が通っていない為、街道沿いの宿場町の面影を残してくれているので、街道や宿場町の歴史を学ぶ意味でも興味深い土地だと思います。
 また当地の近くには、三増峠の戦いで戦死した武田家家臣浅利信種を祭った浅利明神が在ります。
 
 三増峠の戦いについては基本的な知識しかなったので、詳しい事は書けませんが、三増峠の戦いについてもっと詳しく調べたら、宿場町の歴史を学ぶ意味も合わせて、再度訪れたいと思います。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-05-05 16:50:51
駿河を信玄に取られ、小田原城から撤退する武田軍を打ち破れずにみすみす逃したのだから(しかも追撃していた北条軍は散々な完敗)どう考えても武田の八分勝ちですよ
しかも北条軍からも大将クラスが戦死しています
武田信玄は、北条の出鼻を見事にくじいてますね

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