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歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

神奈川県横浜市:相模・武蔵の国境

2012年05月15日 00時31分10秒 | 登城記・史跡訪問

 一般的に神奈川県=旧相模国、東京都+埼玉県=旧武蔵国と思われていますけれども、神奈川県の川崎市と横浜市の一部は旧武蔵国だったりします。この辺は歴史ファンならご存知だと思いますけれども、では横浜のどこが相模と武蔵の国境かとなると、曖昧な方が多いのではないでしょうか?。
 実際私自身、つい最近まで鶴見川が相模と武蔵の国境と思っていました。余談ですが、この為に鶴見川南岸に築かれている小机城を、今まで相模の城と思い込んでおり、小机城が武蔵の城と知って軽いカルチャーショックを受けました(汗)。
 閑話休題。では実際の相模と武蔵の国境がどこかと言うと、戸塚宿と保土ヶ谷宿の間、「権太坂」と呼ばれる急勾配を登りきった所らしいです。


 現在の相模と武蔵の国境付近に建つ記念碑


 「これより相模国戸塚宿」と書かれています。


 反対側には「これより武蔵国保土ヶ谷宿」と書かれています。


 台座の上部には相模と武蔵の地図が描かれています。


 台座の側面には、東海道の宿場町の名前がズラリと書かれていました。


 記念碑のすぐ近くに建つ、境木地蔵尊

 ところで、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に、相模と武蔵の国境に在ったと言う事は、神奈川県の名前の由来となった神奈川宿は当然武蔵国領になります(位置関係としては、江戸から見て「川崎宿~神奈川宿~保土ヶ谷宿~藤沢宿」と言う順番です)。上記のとおり、神奈川県は旧相模国と、武蔵の一部によって構成されています、しかし、その名の由来となった神奈川宿が旧武蔵国の土地となると、何だか武蔵の一部に相模全土が吸収されてしまったような感じがして、ついつい悔しくなってしまいます(^^;)。
 それにしても、これだけ川が流れているのですから、川が国境かと思っていたのに、坂道によって国境が引かれているのは珍しいのではないでしょうか。何はともあれ、前から気になっていた相模と武蔵の国境に来れて嬉しかったです。

 訪問日:2012年05月14日


神奈川県川崎市:塚越御嶽神社内の道標

2012年05月03日 18時17分08秒 | 登城記・史跡訪問

 ついこの前まで住んでいた、神奈川県川崎市の塚越御嶽神社に建っていた道標です。恥ずかしながら、この近所に七年間も住んでいながら、この道標の存在を知ったのは、引越し直前と言う体たらくです(汗)。


 道標としては珍しく、円柱の形状をしています。


 南、右、左の三箇所の行き先が彫られています。単に分かれ道に在った道標では無く、多叉路に建っていたと推測されます。そして現在の塚越御嶽神社北方の五叉路に建っていたのではないでしょうか。


 道標を右側から見て。南:かながわみち、右:いけがみみちと掘られています。


 左側から見て。左の行き先は何て彫られているか判別出来ず。

 道標に興味を持っていながらも、この道標の存在には、前述のとおり引越しする直前まで気付きませんでした。今度の新居では、身近な史跡を見逃さないように、周りを注意しながら暮らしたいと思います。

 訪問日:2012年04月22日


東海道:川崎宿

2012年04月15日 18時46分14秒 | 登城記・史跡訪問

 川崎に住んで七年余にして、初めて川崎宿巡りをしました。しかも今月末に引っ越すので、恐らく最後の訪問になると思います。折角近くに住んでいるのですから、もっと早くから訪れていけば良かったと後悔しながらの訪問でした。
 さて川崎宿は皆さんご存知の、東海道に五十三在る宿場の一つで、日本橋から二番目の宿場です。品川宿と神奈川宿の間の宿場になります。多摩川を渡ってすぐに宿場の入口が在る作りになっていました。
 尚、戊辰戦争の際は、新政府の東海道鎮撫総督府軍が川崎宿を経て、江戸に進軍しています。


 六郷の渡しの解説版と多摩川。川崎側から対岸の東京側を見て。


 矢口の渡し跡の標柱。多摩川の渡し場では、東海道の六郷の渡しと、中原往還の丸子の渡しの中間に位置します。


 旧東海道の現況。




 田中本陣の標柱と、周辺の現況。川崎宿には全部で三つの本陣が在ったそうです。


 宗三寺に建つ遊女の供養碑。川崎宿には多くの飯盛り女が奉公していたので、その供養碑です。




 問屋場(宿場役人の詰め所)跡の標柱と、周辺の現況。


 旧東海道と、現新川通の交差点辺りに建つ小土呂橋の親柱。江戸時代はこの新川通は水堀が通っており、この堀に架かっていた旧東海道の橋が小土呂橋です。現在は新川は埋め立てられ道路になっていますが、そこに架かっていた小土呂橋の親柱が移設されていました。




 川崎宿の京入口の説明版と、周辺の現況。


 経安寺の山門脇に建つ灯篭。「宿内安全」と掘られているのが見れます。


 川崎宿を出て、神奈川宿へ向かう道筋の八丁畷付近の現況。意外かもしれませんが、川崎宿は隣の品川宿と神奈川宿と比べると屋数がすくなかったそうです。


 八丁畷付近に建つ、行き倒れの人や、災害で亡くなった身元不明の方を埋葬した供養碑。

 冒頭に書いたとおり、折角川崎宿の近くに住んでいながら、今回が最初で最後の訪問になってしまいました。今度は小机城址の近くに引っ越すので、同じ失敗を繰り返さないように意識して小机城址を訪れたいと思います。

 訪問日:2012年04月15日
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相模:大庭城址

2012年03月24日 08時50分32秒 | 登城記・史跡訪問


 大庭城址の麓から見上げて。

 大庭城は神奈川県の真ん中、現藤沢市の中央部に流れる引地川西岸に位置する小山に築かれた山城です。戦国時代前期に北条早雲に攻略された以降は、実戦を経験する事も無く、また玉縄城が築かれた後は戦略的も低くなった為か、あまり知名度は高くなく、藤沢市民で無ければ知る人も少ない城でしょう。そのようなマイナーな城にも関わらず、意外にも空掘や腰曲輪などの遺構が多く残っており、訪れて驚きました。


 麓に建つ大庭城址の碑


 腰曲輪跡と思われる遺構。


 腰曲輪跡(?)に降りてみて。右手が登り斜面、左手が降り斜面になっています。


 空掘跡。


 空堀跡を上から見下ろして。


 麓から山頂の城郭に至る古道。


 山頂の城郭跡。空掘や腰曲輪と言った遺構は現存しているものの、山頂の城郭は公園化され、遺構は殆ど見られません。画像の石群は、建物の柱跡らしく、山頂のスペースで遺構らしいのはこれくらいかも。


 山頂から麓の住宅地を見下ろして。

 冒頭に書いたとおり、大庭城址は知名度は低いものの、小山が丸ごとが城跡であり、規模も甲斐新府城よりも大きいのではと思ってしまうほど、比較的規模の大きな城です。またこの大庭城の周辺以外には、相模中央部には丘陵地帯も見当たらないので、相模を平定するまでの後北条氏にとっては、重要な拠点だったと思われます。しかし相模を平定し、後北条氏にとっての戦場が、武蔵・下総・上野などに移った氏綱以降の時代には、大庭城の戦略的価値は低下して、玉縄城が築かれて以降はいつしか廃城になったと思われます。大庭城がいつ廃城になったかは詳しい事は判らないみたいですが、永禄三年の上杉謙信による小田原出兵時には使われていなくなっていたのではと思っています。

 訪問日:2012年03月13日
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遠江:高天神城址

2012年03月17日 08時50分56秒 | 登城記・史跡訪問


 高天神城址の遠景。
 左の山に本丸、三の丸、御前曲輪などが在り、右の山に二の丸、西の丸、堂の尾曲輪などが在り、双方の山が尾根伝いに井戸曲輪で繋がっていました。

 「高天神城を制する者は遠江を制する」で有名な高天神城址を、九年ぶりに訪問しました。
 父武田信玄すら落とせなかった高天神城を、落としたと言う事で武田勝頼の名声が挙がったと言われていますが、近年の研究で、この信玄の高天神城攻撃は無かったのではないかとの見解が出ているみたいですね。
 信玄の攻撃があったにしろ無かったにしろ、高天神城の戦術的価値は高かったのは間違いなく、長篠設楽ヶ原の戦い後に守勢に回った武田氏の遠江戦線の最前線拠点になり、実に5~6年にわたって徳川氏の攻勢を防いだ事は、高天神城の戦術的価値の高さを表していると思います。


 追手門(大手門)跡。大手道は、防御の為に急角度で屈曲しています。


 同じく大手道を上から見て。


 大手門から井戸曲輪に繋がる道。


 三の丸跡。解説版には城兵の居住スペースと書かれていましたが、それにしては狭い気が・・・。


 本丸跡。


 本丸跡に残る土塁跡。


 本丸に隣接する御前曲輪跡。画像のとおり、観光用写真用のコスプレ看板(?)が在ったり、謎の近代建築の基礎があったりなど(管理棟でも在ったのでしょうか?)、正直この御前曲輪は雰囲気をぶち壊しにしている気が・・・。


 御前曲輪から麓を見下ろして。

 しかし高天神城の戦術的価値の高さは判るものの、「高天神城を制する者は遠江を制する」と称されるのは昔から疑問がありました。画像を見て頂ければ判るとおり、確かに高天神城は堅城であり、戦術的価値は非常に高いと思います。しかし東海道から遠く離れ、近くにこれと言った主要街道がある訳でもない高天神城にそんな戦略的価値があるのかと言うのは長い間疑問でした。


 本丸、三の丸が在る山と西の丸、二の丸がある山を繋ぐ井戸曲輪。画像を見て頂ければ判るとおり、双方の山を繋ぐ尾根上に築かれています。


 井戸曲輪の名の由来となった井戸跡。


 井戸曲輪の下、搦手道に在る三日月井戸。何故か中に二匹の金魚が居ました、九年前に訪れた時は居ませんでしたが・・・。


 西の丸跡に建つ高天神神社。絵馬を見ると、どうやら受験合格祈願の絵馬がたくさんありましたが、二度も落城した高天神城に合格祈願って・・・(汗)。


 西の丸の南に位置する馬場平跡。


 馬場平跡から御前崎方面を見下ろして。訪問した当日は曇りの為に見えませんでしたが、晴れた日は遠く太平洋まで望めるらしいです。


 西の丸と馬場平の間の堀切跡。


馬場平から尾根伝いに続く抜け道。二度目の落城の際は、武田家家臣横田甚五郎尹松がこの道を使って脱出した為、甚五郎抜け道と呼ばれています。

 そんな疑問に一定の答えをくれたのが、ツイッターで教えてもらった、雑誌『歴史REAL』の第四号です。この記事内で、高天神城は堅城故に武田氏と徳川氏の争奪戦の舞台となったとの見解が書かれていました。つまり高天神城は地理的な戦略的価値は低かったものの、その堅城のネームバリューから、両氏による争奪戦の舞台となり、「高天神城を制する者は遠江を制する」と呼ばれるようになったとの見解は興味深く、長年の疑問に答えてくれるものでした。


 二の丸跡。


 二の丸と堂の尾曲輪の間に在る堀切跡。


 二の丸跡付近から麓を見下ろして。


 堂の尾曲輪の堀切跡。


 堂の尾曲輪。 
 堂の尾曲輪は武田氏によって整備拡張された曲輪であり、三つの堀切や空堀など技巧を凝らした縄張がされています。


 堂の尾曲輪の堀切跡を見下ろして。


 堂の尾曲輪の空掘と土塁跡。


 同じく堂の尾曲輪横の空掘と土塁跡。


 このような堅城を誇る高天神城ですが、天正9年(1581年)に徳川家康により奪取され、翌年武田氏が滅亡されると、用いられる事は無く廃城となりました。戦術的価値は高くても、戦略的価値は高くない高天神城は、武田氏との抗争が終わった徳川氏にとっては無用の長物となったのかもしれません。

 訪問日:2012年03月07日、同年05月08日

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相模(駿河):足柄城址

2012年03月10日 12時43分26秒 | 登城記・史跡訪問


 主郭に建つ足柄城址銘碑と、富士山の遠景(夏)


 主郭に建つ足柄城址銘碑と、富士山の遠景(冬)

 足柄城は、相模と駿河の国境に位置する足柄峠の山頂に築かれた山城です。主郭の位置その物は駿河内に在るので、駿河の城と紹介される事が多いです。しかし後北条氏が、駿河から相模に侵攻しようとする敵軍を阻止する為に築かせた城ですので、個人的には相模の城と呼んだ方が相応しい気がします。


 駿河方面から足柄峠を登って行くと、途中に一里塚(竹之下一里塚)が在りました。 

 北条氏綱の時代に、相模の国境防衛の為に築かれたと言う足柄城ですが、その存在がクローズアップされたのは豊臣秀吉による小田原の役の時です。後北条氏が豊臣勢の侵攻に備えて、伊豆の山中城韮山城を整備したのは有名ですが、この時に足柄城も小田原城防衛の拠点として整備されたそうです。


 二の郭と三郭の間の空掘跡


 三の郭

 足柄城址を訪れてまず感じたのは、同じ様に国境防衛の為に整備された山中城や八王子城と比べると、規模がかなり小さい事です。ただ足柄峠の山頂に位置すると言う地形上、この城を攻める敵軍は大軍を展開する事は出来ないので、足柄峠を守ると言う目的になら、この位の規模で十分なのかもしれませんね。
 

 井戸としても使われたのではないかと言われる玉手池


 四の郭に在る井戸跡。


 主郭と南郭の間を通る峠道。足柄峠を抜けようとする敵軍を、主郭と南郭で挟撃出来る縄張になっていますね。この辺は山中城と同じ戦略思想で築かれていますね。

 しかし実際の小田原の役では、国境防衛の要だった山中城が一日で落城すると、足柄城主だった北条氏忠は小田原城へ脱出。その後、徳川家の井伊直政に攻められて足柄城は落城し、そのまま廃城となります。

 
 二の郭から見た富士山。五度目の訪問で、やっと晴れの状態で撮影出来ました。


 足柄城址南郭の麓に復元されている、足柄関所。関所自体は復元ですが、足元の石畳は当時の物でしょうか。


 足柄峠一里塚跡。上記の竹之下一里塚の次の一里塚と思われます。




 所々自動車道に分断されていますが、足柄峠の周辺には当時の足柄街道が古道として残っています。

最後に足柄城址へ車で行こうとする方にアドバイスを。車で向かうのなら神奈川県側から足柄峠を登って下さい。静岡側から登ろうとすると、一車線しかない峠道を登らないといけないので、対向車が来たら悲惨な事になると思います(汗)

 訪問日:2012年02月27日、同03月06日、同05月07日、同07月16日 同11月02日
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会津:母成峠・十六橋・戸ノ口原古戦場

2012年03月04日 12時12分45秒 | 登城記・史跡訪問


母成峠古戦場の碑

 前回更新した二本松城址と同じく、こちらもかなり前の2008年に訪問した古戦場なのですが、二本松城址の記事に便乗して更新させて頂きたいと思います。時間軸的には二本松城攻防戦の直後から母成峠攻防戦が始まりますので、二本松城址の記事の続きと思って頂ければ幸いです。
 また二本松城址の記事でも書きましたが、母成峠・十六橋・戸ノ口原の各戦いについては、私がまだ戊辰会津戦争については詳しく調べていないので、今回の記事も二本松城址の記事同様に、簡単な説明になってしまう事をご了承下さい。

 母成峠の戦い

 二本松城攻防戦で勝利した新政府白河軍(会津追討白河口総督府)は、これで会津藩領の南東部から東部までを押さえる事に成功して、いよいよ会津藩領への侵攻を意図しました。一方会津藩の防衛体制は、これまでも白河から直接侵攻を受ける、猪苗代湖南岸の勢至堂口と大平口に守備兵を置いていました。しかし二本松城を新政府軍が攻略し、その後の八月上旬に郡山宿や須賀川宿と言った、奥州街道筋の宿場から同盟軍が駆逐された事により、猪苗代湖東岸の御霊櫃口や中山口、そして母成峠からも新政府軍は侵攻可能になったのです。
 このように侵攻口が増えた新政府白河軍は、どのルートから会津藩領に攻め込むかを軍議します。この席上で猪苗代湖東岸のルートでは主街道である、御霊櫃口からの侵攻を主張した板垣退助と、母成峠からの侵攻を主張した伊知地正治の間で激論が交わされます。二人の口論は結局決裂し、一時は板垣と伊地知がそれぞれ別の部隊を率いて、個々に御霊櫃口と母成峠から侵攻すると言う状況にまでなりました。しかし長州藩士桃村発蔵が間に入って調停し、最終的には伊地知が主張する母成峠から全軍一丸での侵攻が決定したと言う有名なエピソードがあります。ただ不思議とこのエピソードは『防長回天史』には載っていません。尚、『防長維新関係者要覧』には桃村の役職を長州藩施条銃中間第一大隊二番中隊所属の教導、ないし半隊長と書かれていますが、そのような者が白河軍参謀の伊地知と板垣との口論に割って入る事が出来るものでしょうか?。第一大隊二番中隊中隊長の楢崎頼三なら判るのですが・・・。
 閑話休題。そんな新政府軍の思惑に対して、新政府軍の侵攻ルートを想定出来ない会津藩は、各地に兵力を分散しており、母成峠には打ち合わせの為に鶴ヶ城城下に来ていた大鳥圭介を派遣します。母成峠に到着した大鳥は、かつて伊達政宗が芦名義広と摺上原で戦った際に、母成峠をルートとした事から、新政府軍が母成峠から侵攻する事を想定し、関ヶ原前後に築かれた防塁に増築し、合計三段にも渡る陣地を築きます。更に母成峠を検分した大鳥は、母成峠を守るには兵力が少ないと、子飼いの伝習第二大隊(会幕連合軍第二大隊ですが、以降は旧名の伝習第二大隊の呼称を使います)を呼び寄せるものの、会津藩兵と故郷を失った二本松藩兵は二本松奪回の為に、大鳥の不在(軍議の為に出張中)の八月二十日に伝習大隊を伴って出撃します。この攻撃はあっさり新政府軍に撃退され、更に会津藩兵と二本松藩兵が伝習大隊を置き去りにして逃亡した為、伝習大隊のみが大損害を受けて、伝習第二大隊士官の浅田惟季が重症を追うなどの損害を受けます。


 母成峠第一陣地に築かれた、石積みの防塁。この防塁は大鳥軍によって築かれたのではなく、関ヶ原の際に上杉景勝により、ないしその前後に会津の領主だった蒲生氏郷か加藤嘉明によって築かれたと思われます。


 大鳥には野戦築城の知識はあったものの、着任してから時間的にこれだけの石積みを築くのは無理でしょう。また会津藩兵と言う線も薄いと思います。会津藩兵はそれこそ白河口の他にも越後口や日光口にも出兵していますが、石積みの防塁が作られたような場所は他に無いので、白河口や越後口にでさえ築かれなかった石積みの防塁が、会津藩が軽視していた母成峠に築かれた可能性は無いでしょう。

 母成峠攻撃に向かった新政府軍の編成は、伊地知と板垣が率いる本隊(薩摩藩兵7個中隊相当と3個砲兵隊、長州藩第一大隊・第四大隊合併中隊、土佐藩兵7個小隊と砲兵隊、佐土原藩兵2個小隊と砲兵隊)は母成峠本道を進みます。土佐藩谷干城と長州藩楢崎頼三が率いる右翼部隊(長州藩第一大隊二番中隊、土佐藩兵7個小隊)は迂回して、勝岩方向から母成峠を目指します。そして薩摩藩兵精鋭中の精鋭、城下士小銃隊6個中隊相当(鈴木武五郎1番隊、村田新八2番隊、篠原国許3番隊、川村純義4番隊、野津静雄5番隊、野津道貫6番隊)と大垣藩3個小隊による左翼部隊は更に大きく迂回して、母成峠の背後を衝くように進軍します。
 これに対して会津側は、大鳥率いる伝習大隊と土方歳三率いる新撰組が、大鳥が築いた三段陣地による縦深陣で布陣し、その後方に会津藩兵・二本松藩兵・仙台藩兵等の”サムライ”が布陣します。しかしこれらのサムライは、決死の覚悟で布陣する伝習大隊や新撰組とは違い、今までの新政府軍との戦いですっかり怖気ついており、戦意は殆どありませんでした。
 大鳥が縦深陣と言う、それまでの日本に無い戦術を披露すれば、新政府軍の方も薩摩藩砲兵隊長である大山巌が、砲兵の集中運用と言う、これまた当時の日本には無い戦術を披露します。こうして奇しくも母成峠の戦いは、新政府軍と大鳥軍が新戦術を激突させる戦いとなりました。

 かくして翌八月二十一日払暁、遂に新政府軍は母成峠に攻撃を開始します。大山の率いる砲兵隊の集中砲撃は、石積みの防塁に布陣する大鳥軍を圧倒して、砲撃を受けた大鳥軍は早々と第二陣地に後退します。しかしこの後退は大鳥の規定路線、大鳥軍が後退した第一陣地に新政府軍本隊は侵入するものの、侵入したのは歩兵のみで、砲兵は展開する適当な空間が無い為に、砲撃をする事が出来ませんでした。砲兵の援護がない歩兵の攻撃は、大鳥軍が篭る第二陣地に阻まれます。この時点では大鳥の戦術が新政府軍を凌駕しており、大鳥の縦深陣の前に新政府軍本隊の攻撃は頓挫するかに見えました。
 しかし新政府軍本隊の攻撃が頓挫していた正にその時、迂回進軍する新政府軍右翼部隊が第二陣地に側面から猛射撃を開始します。この右翼軍の攻撃の前に大鳥軍は崩れかけるものの、大鳥の指揮の下に必死に戦線を維持します。むしろ新政府軍右翼部隊の攻撃で浮き足立ったのは会津・仙台・二本松のサムライ達で、大鳥軍が必死に戦線を維持している中、サムライ達はさっさと後退してしまいます。後方に布陣する会津・仙台・二本松の諸藩兵に後退されると、背後に回られる危険性もある事から大鳥軍も後退し、第三陣地に退きました。
 大鳥はこの第三陣地で新政府軍を防ごうと試みるものの、第二陣地には大山率いる砲兵隊が展開出来る空間があった為、大山率いる砲兵隊が再び猛砲撃を開始します。この砲撃の前に流石の大鳥軍も支え切れなくなりますが、先に戦線が崩壊したのはまたもや会津・仙台・二本松のサムライ達。大山率いる砲兵の猛砲撃の前に、すっかり恐怖に駆られたサムライ達は母成峠を捨てて逃亡を開始します。しかもサムライ達は自分達が逃亡するだけでは留まらず、自分達が安全に逃走出来るように、新政府軍の追撃を防ぐために退路に火を放ちます。しかしこの時点では大鳥率いる伝習第二大隊と新撰組がまだ戦闘中であり、辛うじて戦線を維持していたものの、背後に火の手が挙がった為に、彼らの奮戦もここまで撤退を開始します。ただし撤退を開始したと言っても、峠道にはサムライが放った火により通行が出来ず、止むを得ず伝習隊と新撰組はバラバラになり森の中を退却。指揮官の大鳥ですら、数人の兵士達と山中をさ迷うと言う悲惨な逃避行を行う事になるのです。
 ある意味この母成峠の戦いにおいて大鳥と、大鳥率いる伝習隊と新撰組は最初から最後まで会津藩のサムライに足を引っ張られていたと言えましょう。


 母成峠から二本松方面を見下ろして。新政府軍はこの方面から進軍してきました。


 十六橋の戦い


 現在の十六橋。当然ですが当時の物とは違います。

 母成峠の攻防戦で勝利した新政府軍だったものの、薩摩藩兵最強の部隊でありながら、この戦いで何の貢献も出来なかった、左翼部隊の薩摩藩城下士小銃隊1番隊から6番隊の将兵達にとっては憤懣やる方ない勝利でした。特に4番隊長だった川村純義は汚名返上の念に燃え、母成峠が陥落した二十一日夜半から進軍を開始します。この川村率いる薩摩藩城下士小銃4番隊と、会津藩兵の間によって行われたのが十六橋の戦いですが、何故十六橋がそんなに大事なのかを説明させて頂きます。
 十六橋は猪苗代湖北岸に流れ込む日橋川に架かっている橋であり、最短距離で猪苗代湖北岸を進軍して会津鶴ヶ城に攻め込むには、必ず通らないと行けない要所でした。逆に会津藩からすれば十六橋を突破されてしまうと、敵軍を防げるような地形は他になく、新政府軍にとっても会津藩兵にとっても、かならず確保しなくてはいけない要所だったのです。
 このような要所の十六橋ですが、ここを巡る戦いが行われたのは、会津藩の判断ミスが重なった為です。まず最初の判断ミスは猪苗代城の自落です。母成峠から十六橋までは、何も遮る物が無かった訳ではなく、猪苗代湖北岸には猪苗代城が有りました。母成峠を突破したとしても、新政府軍が十六橋を目指すにはこの城を攻め落とす必要があり、この城を守っていれば、その間に十六橋を破壊して新政府軍を足止め出来る十分な時間がありました。しかし母成峠の敗戦を知った会津のサムライ達は、恐怖に駆られて戦いもせずに猪苗代城を自焼させて逃亡します。おかげで川村率いる四番隊は、無人の野を進むが如く十六橋を目指す事が出来たのです。
 会津藩の判断ミスのもう一つは、情報収集力の無さです。武士道精神に溢れていたと言われる会津藩ですが、情報に関しては軽視していたらしく、鶴ヶ城の会津藩主松平容保以下の藩首脳部が母成峠陥落を知ったのは、翌日の二十二日午後の事と伝えられます。母成峠陥落を知った会津藩首脳部は、慌てて十六橋破壊の為に奇勝隊や白虎隊士中2番隊を派遣するものの、これらの部隊が十六橋に到着し、橋の破壊を始めたのとほぼ同時に川村率いる薩摩藩城下士小銃4番隊もまた十六橋が到着しました。すかさず川村4番隊は、十六橋を破壊中の会津藩兵に射撃を開始、この銃撃により会津藩兵が敗走した事により、新政府軍は十六橋の確保に成功。鶴ヶ城に突入する橋頭堡を確保する事に成功したのです。
 

 現在の十六橋

 戸ノ口原の戦い


 戸ノ口原古戦場の碑

 十六橋を確保した新政府軍は、翌二十三日にいよいよ会津鶴ヶ城を目指し侵攻を開始します。この新政府軍と白虎隊士中2番隊が激突したのが、戸ノ口原の戦いです。世間の人気が高い白虎士中2番隊が参戦した事で、知名度の高い戸ノ口原の戦いですが、戦いその物は新政府軍の掃討戦と呼ぶべきものでした。白虎士中2番隊は塹壕と胸壁に篭り新政府軍を迎撃したものの、戸ノ口原は平野であり、散開攻撃する新政府軍の前に白虎士中2番隊は蹂躙されます。そもそも十六橋を突破された時点で、会津藩の防衛ラインは崩壊しており、この戸ノ口原の戦いは、藩主容保が鶴ヶ城に逃走するまでの時間稼ぎをする戦いでしかありませんでした。


 現在の戸ノ口原

 以上、母成峠・十六橋・戸ノ口原古戦場の紹介と、簡単にですがこの三つの戦いの説明を書かせて頂きました。私としてはこの三つの戦いについて、「サムライと歩兵との戦い」との認識を持っています。
 多くの会津ファンが主張するとおり、確かに会津藩士は武士道精神を持っており、会津藩士は正しくラストサムライであったと言えましょう。しかし一方でサムライと言うのは近代戦をするのに全くもって不向きな存在なのです。まず武士道精神と言うのは士農工商の身分差意識をベースにしているので、身分差別意識の激しい物でした。そしてこの身分差別意識から、会津のサムライ達は農町民出身の伝習隊を見下し、伝習隊と協力して戦うどころか、終始伝習大隊の足を引っ張っり続けていたのです。
 また精神論ばかり振りかざし、大鳥の進言にも耳を傾けず、余計な攻勢を行い、母成峠攻防戦の前に折角の伝習隊の戦力を消耗させたり、情報収集力の無さから十六橋破壊の判断が遅れたなどの、会津藩の情報軽視の傾向は旧日本軍を髣髴させます。
 一方の今回紹介した三つの戦いで、新政府軍の主力となった薩摩・長州・土佐の三藩兵は、侍から歩兵(及び砲兵)に脱皮する事に成功したと言えましょう。そして母成峠や十六橋の戦いで、サムライがいかに近代戦に向かないと言うのを実証した一方で、薩長土の歩兵は近代戦で会津のサムライを鎧袖一触で撃破したのです。実際会津側で善戦したのは大鳥軍の歩兵だけであり、歩兵に対抗出来るのは歩兵だけと言うのを、今回紹介した戦いでは実証したと言えましょう。
 
訪問日:2008年5月08日
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陸奥:二本松城址

2012年02月25日 19時46分29秒 | 登城記・史跡訪問


二本松城址遠景と、二本松少年隊の銅像

 この二本松城址を訪れたのは5年前の2007年だったりします。いつか戊辰戦争二本松城の戦いの記事を書く時に使おうと色々撮影したものの、未だ二本松城の戦いの記事を書く予定がありません。折角撮影したのに勿体無いと思い、丁度最近本ブログ上で登城記を更新しているので、便上して五年越しで紹介させて頂きたいと思います。


 二本松城址の城壁と、本丸が建つ白旗ヶ峰。

 二本松城は、以前紹介した鳥取城と同じく、畠山氏の居城だった中世の山城の麓に、近世城郭を築いた平山城です。中世山城が築かれた白旗ヶ峰をすっぽり城壁で囲ってしまう縄張は好みなので、個人的には鳥取城と一、二を争うほど好きな城です。


 二の丸の二重櫓と箕輪門


 白旗ヶ峰の山頂に築かれた本丸の石垣。当たり前ですが、この石垣が畠山氏時代から在った訳ではありません。


 本丸に築かれた天守台跡。この天守台跡は東北震災で被害を受けたらしく、現在は立ち入り禁止になっているそうです。


 天守台跡から見た二本松市街


 搦手門跡の石垣


 搦手付近から麓を見て

 戊辰戦争二本松城の戦い
 二本松城と言えば二本松少年隊が有名ですが、何故二本松少年隊が戦う羽目になったかを簡単に説明させて頂きます。まず二本松城攻防戦になったかの経緯については、こちらを参照下さい。
 第三次白河城攻防戦で、白河城を伊知地正治(薩摩)率いる新政府東山道軍(後に会津追討白河口総督府に改編)に奪取された奥羽越列藩同盟軍は、白河城を奪回しようと、その後数度に渡る奪回作戦を実施するものの、尽く新政府軍に撃退されていました。その間に白河城には、板垣退助(土佐)率いる東山道軍の援軍が五月後半辺りから入城した事により戦力が増強されていきます。また新政府軍の事実上の総司令官である大村益次郎(長州)は、上野戦争の勝利によって得た余剰戦力により、海路平潟に上陸させ同盟軍の側面を衝く別働隊を編成し、河田景与(鳥取)・渡辺清(大村)・木梨精一郎(長州)を参謀に任命しました。平潟軍(会津追討平潟口総督府)は六月十六日に平潟に上陸し、浜通りへの進軍を開始します。こうして戦力が増強された白河城の新政府軍は、守勢から攻勢に転じて、白河城周辺の守山藩と三春藩を恭順させました。そして三春藩を恭順させた白河口板垣隊と平潟口渡辺隊は連携して、二本松と郡山宿の中間に位置する本宮宿を7月27日に急襲して、この地を確保占領します。
 当時二本松藩兵の主力は、白河城攻撃の為に郡山宿に駐屯しており、本宮宿を占領された事により、二本松城と二本松藩兵主力は分断されてしまったのです。本宮宿を占領した新政府軍が、更に二本松城を狙う姿勢を見せた事を知った二本松藩首脳部は、主力不在の二本松城で新政府軍と戦うか、それとも新政府軍に降るかを決断する会議を行います。これについて会津贔屓の小説家などは、「二本松藩は会津藩の正義に共感して、新政府軍に挑んだ」とか「奥羽越列藩同盟の大義に殉じた」など妄言を言っていますが、実際には会津贔屓が考えるような単純な物ではなく、二本松藩史には以下のように書かれています。「縦令西軍に降り、一時社稷を存せんも東北諸藩皆我に敵たらば何を以てか能く孤城を保たん。夫れ降るも亡び、降らざるも亦亡ぶ、亡は一のみ、寧ろ死を出して信を守るに若かずと議輙ち決す」
 つまり今や対新政府軍の最前線となった二本松藩が、新政府軍に恭順した所で会津藩と仙台藩に背後から攻められて亡んでしまう。一方主力が居ない現状で新政府軍と戦っても亡んでしまう。どちらにしても亡ぶのならば、裏切ったと言う汚名を着ずに新政府軍と戦って亡ぼうと言う二本松藩首脳部の悲壮な決意が伝わってきます。
 このように会津贔屓の小説家(星亮一とか早乙女貢とか)や数学者の渡部由輝大センセイが主張するような、二本松藩は会津の正義などと言う紛い物に共感した訳ではなく、むしろ同盟の会津藩も仙台藩も信じる事は出来ないと言う判断から、同盟軍として新政府軍と戦って亡ぼうと言う悲壮な決断をしたのです。
 しかし新政府軍との戦いを決めたと言っても、城下に主力が居ない二本松藩が戦力として期待したのが、本来予備兵力扱いだった少年兵や老人兵であり、農兵隊だったのです。
 そんな二本松藩の悲壮な決意をよそにして、新政府軍は7月29日に二本松城攻撃を開始、奥羽街道を進軍して南方から二本松城を目指す部隊と、阿武隈川を渡河して東方から二本松城を目指す部隊のニ方向から二本松城を目指しました。これに対して二本松藩は大壇口や倶中口などに守備兵を配置します。大壇口での少年兵の奮戦など、個々の戦いで二本松藩兵は善戦したものの、新政府軍の勢いを防ぐ事は出来ず、藩主を米沢藩に脱出させた後に重臣達は本丸で自刃し、ここに二本松城は落城します。


 奥羽街道筋の大壇口古戦場の碑。実際の古戦場から工事の為に、この地に碑は移動しました。尚、新政府軍の薩摩藩城下士小銃六番隊長の野津道貫(後の日露戦争第四軍司令官)は、この大壇口の戦いを戊辰戦争最大の激戦と評して、二本松少年隊の勇戦ぶりを称えています。


 阿武隈川の東岸に建つ、倶中口古戦場解説版と三浦権太夫戦死の地碑。二本松藩士の中では尊王精神の持ち主だった三浦は、朝廷に敵対するのは不本意だったものの、かと言って藩主による新政府軍との開戦と言う命にも藩士としては逆らうことが出来ませんでした。苦悩の末に自らが率いる農兵隊を開戦前に解散させ、自らはやじりの付いていない矢を新政府軍に放った後に、新政府軍の銃撃を受けて戦死すると言う悲劇的な最期を迎えます。
 この三浦の苦悩に対して、前述の『数学者が見た二本松戦争』の著者である渡部由輝大センセイは、自らの矮小な正義感と乏しい歴史知識から、「二本松人だけは三浦権大夫を<義人>などと称えてはいけない」と三浦を誹謗しています。大センセイが矮小な正義感を燃やすのは勝手です。しかし歴史哲学の無いそのような矮小な価値観を他者に強要するのは傲慢であり、数学者がそんなに偉いのかと指摘したくなります。このようにさほど歴史を調べもせずに三浦の苦悩を否定する、その識見の狭さと歴史知識の乏しさには軽蔑せざるを得ません。


 二本松城落城時に自刃した、家老丹羽一学の慰霊碑。

 以上、五年前に撮影した二本松城址の画像と、簡単ですが二本松攻防戦について書かせて頂きました。今回二本松城攻防戦について書かせて頂いた事で、本格的な記事作成はまだでも史跡紹介がてらに、簡単な概略を書かせて頂く手法が有ると言うのが判りました。今度は二本松城攻防戦後に、新政府軍がいよいよ会津藩領に攻め込んだ、2008年に訪問した母成峠古戦場のブログ記事を書かせて頂きたいと思います。

 訪問日:2007年06月22日
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駿河:田中城址

2012年02月19日 10時50分25秒 | 登城記・史跡訪問


 西益津小学校校門前に建つ、田中城址本丸跡の標柱。

 同心円状の縄張で有名な、駿河田中城址を訪問しました。田中城は元々今川氏の城だったそうですが、武田氏の今川領侵攻後に整備拡張され、現在知られる同心円状の縄張りになったそうです。
 遠江高天神城落城後の武田氏支配の末期には、対徳川氏の最前線拠点となり、城将依田信蕃の奮戦もあって、徳川氏の攻撃の前に決して落城する事はありませんでした。結局武田氏親族衆筆頭であり、駿河支配の長だった江尻城主穴山梅雪が徳川氏に降った事により、梅雪の説得を受けて田中城は開城する事になりますが、軍事的には遂に屈しなかった事は同心円状の田中城の防御力を伺い知る事が出来ます。
 その後も田中城は存続し、江戸時代には田中藩の居城となるものの、本丸跡には現在は学校が建ち、その他も住宅開発により遺構はあまり残っていないと聞いていました。しかし、いざ訪れた田中城址は遺構が多く、解説版や標柱が数多く建ち、同心円状の縄張も偲ぶ事が出来て堪能する事が出来ました。


 大手一の門付近の土塁跡。


 三日月堀跡


 三の丸土塁跡


 三の堀土塁跡。このように土塁跡があちこちに現存しています。


 田中城の特徴である、同心円状の縄張を偲ばせるように、田中城址内の道路は画像のように、カーブを描いているのが確認出来ます。


 同じく円を描いているのが実感出来る、現在の道路。


 三の堀と土塁跡。現在は西益津中学校の隣に位置しています。


 二の掘。現在は西益津小学校の前に位置しています。


 田中城下屋敷跡に移築された本丸櫓と、復元冠木門。

 田中城城主として奮戦した依田信蕃は、武田氏を滅ぼした織田信長が本能寺で横死した後に発生した、北条氏・徳川氏・上杉氏による旧武田領争奪戦の「天正壬午の乱」では、かつての敵だった徳川氏の為に奮戦すると言う不思議な人生をおくる事になります。今回は依田が武田家臣時代の居城だった田中城址を訪れましたが、徳川家臣時代の依田が天正壬午の乱で活躍した、信濃の城にもいつか訪れたいと思っています。

 訪問日:2012年02月08日
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2012年米沢初詣

2012年02月18日 19時52分14秒 | 登城記・史跡訪問

 先週の日曜に今年の米沢初詣に行ってきました。今までも雪がまだ残る三月に米沢を訪れた事はありますが、二月に訪れたのは今回が初めてです。予め雪が積もっているだろうと覚悟をしていたので、今回は上杉神社の初詣と、市立図書館でのコピーだけと目的を狭めていざ訪問。しかし、いざ訪れた米沢は横殴りの雪が降る過酷な環境でした(汗) まあ雪が舞い散る米沢城址の画像が撮影出来たので、これはこれで良かったですが・・・。


 米沢城址本丸跡、現上杉神社参道入口。この毘の旗と懸かり乱れの旗は、どんな季節でも掲げているのですね。


 本丸跡北東部。手前の水堀は凍ったを通り越して雪に埋まっています(汗)


 ちなみにこちらは同場所を春に撮影した画像(06年撮影)。春の米沢城址は桜が満開で綺麗です。


 本丸跡北西部に架かる菱門橋。雪が舞っているのが撮影出来たお気に入りの一枚。


 ちなみにこちらは春の菱門橋(同じく06年撮影)


 参道である本丸跡の南側は、それでも観光の為に除雪がされて、水掘を見る事が出来ます(雪に埋まっていますが)。しかし北部は雪が除雪されていないので、もはや水掘りを視認する事すら出来ません(汗)

 訪れた時期が時期なので、本丸跡内の石碑等は雪に埋まっており、今回の画像はこれだけです。米沢には毎年訪れていますので、ちゃんとした訪問記は来年にでもアップしたいと思います。

 訪問日:2012年02月12日
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因幡:鳥取城址

2012年02月12日 17時12分56秒 | 登城記・史跡訪問


 鳥取城址遠景:本丸が在る久松山の麓には、二の丸の石垣が見れます。

 2011年9~10月に鳥取市立歴史博物館やまびこ館で開催された、「因州兵の戊辰戦争」の企画展示を観に行った際に、鳥取藩(因州藩)の居城だった鳥取城址に訪問してきました。鳥取城と言えば秀吉の兵糧攻めが有名ですが、そのような篭城戦が行われた事で判るとおり、中世から存在していた山城でした。そして戦国時代が終り近世に入るに従い、麓に石垣を持った近世城郭として拡張されます。こうして鳥取城は久松山の麓に石垣で築かれた近世の平山城と、久松山の中腹から山頂に掛けて築かれた中世の山城が融合した珍しい構造になっていると思います。この近世平山城と中世山城の融合としては、他に知っている物として奥州二本松城がありますが、個人的にはこのタイプの城が大好きです。


 二の丸の登り口に在る復元城門。戊辰戦争の際に鳥取藩兵を率いた河田景与も、この城門を潜った事だろうと思ったら、感慨深かったです。


 二の丸の石垣を見上げて


 同じく二の丸の石垣


 三階櫓跡。明治維新の時には、ここに建っていた櫓が鳥取城のシンボルであり、戊辰戦争に参加した鳥取藩兵はこの櫓を見て出征して行った事でしょう。


 三階櫓から二の丸の石垣を見下ろして


 二の丸菱櫓跡を見て


 二の丸の東南方面を見て


 二の丸から久松山山頂を見て


 二の丸の北東方向に位置する天球丸跡


 山頂の本丸に続く山道


 山頂の本丸跡


 本丸跡に建つ天守櫓跡


 天守櫓跡から北側の日本海方面を見て。鳥取城攻防戦の際に城将だった吉川経家は、織田家の羽柴勢の攻勢を受ける鳥取城の危険性は知りつつも、日本海ルートからの補給さえ確保すれば鳥取城は十分守りきれると判断して入城したと伝えられます。実際天守櫓跡から日本海方面を望めば、鳥取城と日本海は指呼の距離であり、経家が日本海からの補給を期待したのも十分納得出来ます。
 しかし秀吉はこの指呼の間に陣城群を築いて、鳥取城と日本海の補給線を完全に分断し、補給線を断たれた鳥取城は落城し、城兵の命を救う為に城将である経家は自刃しました。


 鳥取城址に建つ吉川経家の像。戦いに敗れて自刃した経家でしたが、その勇戦ぶりと潔い最期により、義将として後世に名を残す事になるのです。
 
 戊辰戦争における鳥取藩兵の活躍に注目している身としては、いつか訪れたいと思っていた鳥取城址に遂に訪問する事が出来ました。話に聞いていた近世城郭の平山城と、中世山城の組み合わせは迫力が有り、山頂の天守櫓跡から見た風景は絶景でした。惜しむらくは麓の二の丸を散策していた時は快晴だったのに、山頂に着いた時には天気が悪くなり、折角の風景の見晴らしがあまり良くなかった事です。これは運なので仕方ないかもしれませんが、さっさと山頂に登っておけば良かったとついつい後悔してしまいます。 

 訪問日:2011年10月29日

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神奈川県厚木市:大山街道の道標

2012年01月30日 22時58分49秒 | 登城記・史跡訪問

 東京から神奈川を経て静岡に至る現国道246号は、江戸時代は大山詣での道として繁栄し、大山街道とも呼ばれていました。
 そんな246号を仕事で通っていたら、偶然道標を見かけたので撮影してみました。



 246号から少し離れた天宗寺と言う寺の入口に建っており、驚くくらい字がハッキリ読める程状態が良い道標でした。



 拡大するとこんな感じです。「右:戸田の船渡、左:ほしのや観音」と掘られており、左側面には「左:大山道」と掘られています。当たり前と言えば当たり前ですが、進行方向によって道標の内容が違っているのを見て感動しました。またこれを読んで当時の戸田には橋が架かっているのではなく、船渡だったと言うのを実感しました。
 そう言えば現在の戸田の橋の辺りには、それっぽい石碑が在るので通る度に気になっているのですが、交通量が多い為未だにじっくり見た事がありません。いつか、あの石碑も撮影出来ると嬉しいのですが・・・。

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甲斐:能見城址その2(堂ヶ坂砦、御名方神社周辺の土塁等)

2012年01月29日 20時26分54秒 | 登城記・史跡訪問

 先日登城した能見城址の周辺には、複数の土塁群が現存しているらしいので訪れてみました。そんな訳で能見城址とのタイトルを付けてはいますが、今回は能見城址その物の画像はありません。


 まずは堂ヶ坂砦跡。堂ヶ坂砦は能見城のすぐ近くの北東に位置しています。新府城址と能見城址が建つ七里岩台地は、南北に長く東西に狭い地形をしており、その狭い東西の端は断崖絶壁になっているのが特徴です。しかし現在堂ヶ坂砦跡となっている場所からは、つづら折が崖下まで続いていますが、昔からこのつづら折は存在しており、このつづら折の事を「堂ヶ坂」と呼んでいたのではと推測します。断崖絶壁が続く東側崖の中、唯一七里岩台地の山頂に続く「堂ヶ坂」は戦略上の要所であり、この「堂ヶ坂」を監視する為に築かれたのが堂ヶ坂砦だったのではないでしょうか。また「堂ヶ坂」の監視だけではなく、崖を強行突破しようとする軍勢の監視も可能な堂ヶ坂砦は、七里岩台地東岸の戦略上の要所だったと言えるでしょう。
 また看板越しに望める平野上に、先日訪れた大豆生田砦跡が在り、幾ら大豆生田砦跡が交通の要所でも、軍事的には能見城(堂ヶ坂砦)の方が有利と言うのを実感して頂けると思います。


 また堂ヶ坂砦跡から視線を北にずらせば、七里岩台地越しに天正壬午の乱の際に北条勢の本陣となった若神子城址も望む事が出来ます。このように遺構こそ残っていないものの、堂ヶ坂砦の戦略的価値を実感出来たのは嬉しかったです。


 2012年05月31日に再訪問、七里岩台地の麓から堂ヶ坂砦跡を見上げて。台地上木々の中央部のくぼみが堂ヶ坂砦跡です。画像では判り難いですが、麓からくぼみまで登るつづら折が見えます。

 大雑把に言って、そんな堂ヶ坂砦と能見城址の中間に御名方神社は位置しています(厳密に言うと、御名方神社は他の二箇所より若干北に位置していますので、三箇所で三角形を描いていると言う方が正確かも)。微高地に建つ御名方神社の麓には、素人の私が見てもすぐ判るくらいの土塁の遺構が現存しており、見た時は興奮しました。


 御名方神社麓のV字型の空掘跡

 
 空堀跡を逆方向から。


 御名方神社山頂付近の土塁跡。

 堂ヶ坂砦も御名方神社も能見城の東方に位置していますが、西方にも土塁跡とも見えるような地形が見られます。能見城は七里岩台地東側の崖付近に位置しますが、これらの地形が土塁跡なら、能見城の周辺には土塁群があったことにより、信濃・若神子方面から七里岩台地上を新府城を目指して進軍する軍勢を、この能見城を中核とした防衛ラインで阻む意思で築かれたのではないかと推測していました。ただし大山師匠より、能見城東側の地形は土塁とは断言出来ない(堀が無いので、単なる防風林だった可能性もある)のと、戦国時代には現代のように戦線を構築すると言う概念が無いと言う指摘をして頂いたので、この能見城を中心とした防衛ラインと言う私の考えは先走りし過ぎでした(汗)

 
 能見城の東西、現穴山駅周辺には土塁跡と思えるかもしれない地形が複数存在しますが、堀が無く単に盛り土だけなので、単なる防風林だった可能性も指摘されています。

 穴山駅周辺の地形は土塁跡とは断言出来ませんが、御名方神社周辺の地形は土塁跡と断言して良いかと思います。ですので少なくとも能見城の東側には土塁群が存在しており、能見城と組み合わせた防衛体制が整っていたのは間違いないと思います。しかしこの能見城を中心とした土塁群が武田氏によって築かれたのか、天正壬午の乱の際に徳川勢が築いたのかがハッキリしないのですよね・・・。
 ただ天正壬午の乱の際は、能見城~御名方神社~堂ヶ坂砦に布陣する徳川勢の方が、若神子城~大豆生田砦に布陣する北条勢の侵攻を防いでいますので、この新府城を含めた能見城~御名方神社~堂ヶ坂砦の七里岩台地上の城塁群を活用したのは徳川家康だったと言うのは間違いないと思います。
 能見城址に関しては、まだ訪れていない能見城址北側麓にも遺構が残っているらしいので、また訪れたいとも思っています。

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甲斐:新府城址

2012年01月21日 23時19分56秒 | 登城記・史跡訪問


 新府城址遠景

 新府城と言えば、武田勝頼が織田信長の侵攻に備えて築いた城であり、韮崎地方の七里岩台地南部の西岸側の小山に築城されています。新府城の縄張りについては真田昌幸が手掛けたと一般的には言われていますが、平山優著『真田三代』には「新府城の普請奉行が真田昌幸であったとされ、その縄張りも昌幸の手になるものと言われている。しかしそのような史料はまったく存在せず、根拠が明らかででない。実は、新府城に真田昌幸が深く関与したという説は戦後唱えられ始めたものであり、しかもその根拠はどうやら右に掲げた真田昌幸書状による人夫動員令の通達であるらしい」と記述されています。


 東出構跡と東堀跡


 中堀跡と土塁


 西出構付近の土塁と水堀(冬の為、凍っています)
 

 新府城北部に位置する井戸跡


 二の丸付近

 織田信長の侵攻に備えて築かれた新府城だったものの、天正十年(1582年)にいざ織田勢の武田領侵攻が始まると、信濃諸城の自落と、鳥居峠の敗戦を受けて家臣の逃亡が相次ぎ、折角築いた新府城に篭る事が出来ずに、新府城に火を放って逃亡します。
 このように本来の目的を果たさずに一旦廃城となった新府城ですけれども、武田勝頼が天目山で自刃し、武田氏に代わって甲斐の支配者となった信長が本能寺の変で横死すると、再び歴史の表舞台に表れます。
 信長から甲斐一国を与えられた河尻秀隆は、他の旧武田領を与えられた滝川一益や森長可が旧武田領から脱出する中、一人甲斐に留まっていました。しかし織田家の圧制や武田残党狩りを恨む一揆勢に、躑躅ヶ崎館近くの住居を襲撃され惨殺され、その住居に逆さ磔の状態で埋められたと伝えられます。この河尻が埋められた場所は、現在河尻塚と呼ばれています。
 このように本能寺の変後に旧武田領が混乱する中、相模の北条氏直は上野から信濃に入り、信濃から甲斐に向け侵攻を開始します。これに対して駿河の徳川家康は穴山衆を先頭にして甲斐に侵攻します。北条氏直が若神子城に本陣を置いたのに対して、徳川家康が本陣を置いたのが新府城であり、皮肉に信長の盟友である家康が新府城を活用する事になります。
 余談ながら、この甲斐・信濃・上野の旧武田領を巡る徳川家康・北条氏直、そして越後の上杉景勝の三氏による三つ巴の戦いを天正壬午の乱と呼びます。


 二の丸から見た釜無川西岸地方。
 新府城の西側は七里岩台地の断崖絶壁であり、この方面から新府城を攻めるのは事実上不可能でした。


 大手道
 

 南大手門付近の虎口

 
 南大手門下の三日月堀跡


 新府城本丸から北方の能見城址を見て(中央左の小山が能見城址)

 新府城が建つ同じ七里岩台地の北方2キロ付近に能見城は位置しています。能見城自体は穴山氏の城として、新府城よりも古くから存在していたと言われていますが、現在能見城址の周辺には東西に多数の砦跡や土塁跡が現存しています。この土塁群は能見城址を中心に七里岩台地を東西に横断するように築かれいると思われます。南北に長く東西は狭い、かつ狭い東西は断崖絶壁の七里岩台地上に築かれた新府城を信濃・若神子方面から攻めるには、この能見城を中心とした防衛ラインを突破するしかなく、この新府城と能見城、そして能見城周辺の土塁群は一体化した優れた軍事拠点だったのではないかと思っています。
 実際天正壬午の乱では徳川家康は、北条氏直と比べて圧倒的に兵力不足だったのにも関わらず、膠着状態に持ち込めたのは、この新府城・能見城、能見城周辺の土塁群の防御力の高さも大きかったのではないでしょうか。 
 今後もこの天正壬午の乱で使われた城址・砦跡訪問は続けていきたいと思っています。 訪問日:2012年01月17日、同年1月26日

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下野:黒羽城址

2012年01月17日 21時24分36秒 | 登城記・史跡訪問


 黒羽城は黒羽藩1万8千石の居城です。戊辰戦争の際、黒羽藩は1万8千石の小藩とはいえ、開明的な前藩主大関増裕の指導により優良な装備を誇る黒羽藩兵は新政府軍から重要視され、その活躍から戦後1万5千石もの賞典禄を得ます。
 そんな黒羽城を、2011年11月の野州戦争板室口・大田原城の戦い古戦場を訪れた時に一緒に訪れたのですが、よく考えると黒羽藩兵は確かに戊辰戦争で活躍したものの、黒羽城その物は戊辰戦争の戦場にはなっていないのですよね。と言うわけで黒羽城址の画像を野州戦争板室口・大田原城の戦いの記事に載せるのも変だと思い、城址訪問としてブログの方で公開させて頂きたいと思います。




 黒羽城址は今は廃線となった東野鉄道の黒羽駅から離れていた事もあり、遺構がよく残っているのが特徴です。
 上記二枚は会所跡付近の空堀と土塁。


 本丸付近の土塁


 本丸外の空堀。判り難いかもしれませんが枡形になっています。


 黒羽城の特徴として、1万8千石の小藩にも関わらず、画像を見れば判るとおり、1万8千石とは思えない程に本丸が広大な面積を誇っています。これは元々黒羽城を築いた大関氏が那須七人衆と言う事もあり、自身の手勢だけでは無く、他の那須氏の軍勢が篭れるように本丸を広くしていたからと言います。尚、この時の大関氏の仮想敵国は常州佐竹氏で、佐竹氏の侵攻に備えて天正年間に築城されたそうです。
 更にその後の関ヶ原合戦の際には、徳川家康により対上杉景勝公の拠点として、更に黒羽城は拡張されました。これが1万8千石の小藩の居城とは思えない程、黒羽城の本丸の面積が広い理由かと思われます。

 最後になりますが、戊辰戦争で黒羽藩兵活躍の礎を築いた黒羽藩兵第15代藩主大関増裕は慶応3年12月、つまり戊辰戦争が始まるほんの一ヶ月前に、狩猟の最中に自身の猟銃で「病死」すると言う「奇病」で世を去る事になります。大関増裕の「病死」については郷土史家さんもあまり手掛けていないので、興味がある方は調べてみてはいかがでしょうか。尚、黒羽藩には藩主の押込が数件発生していると言う藩風があります・・・。

 訪問日:2011年11月26日

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