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歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

甲斐:若神子城址、大豆生田砦跡

2012年01月07日 16時18分09秒 | 登城記・史跡訪問


若神子城址遠景

 今年初の城址訪問は甲州若神子城址です。武田信玄の信濃出兵の為に造られた、軍用道路の棒道の基点に位置する事から、信濃出兵の拠点となった城です。しかしどちらかと言うと、武田家滅亡後の天正壬午の乱にて、北条勢が拠点として、徳川勢と対陣した城として有名かもしれません。

 
 若神子城は七里岩台地と隣接する台地群の北端に位置しており、台地の南側に大手門口が在ったそうです。大手門口から登っていくと、主郭付近に「宿借石」と呼ばれる巨石が在ります。解説版には大手門として用いられたと書かれているものの、諸説あり真意は不明です。


 若神子城祉のシンボルと言うべき、城址東端に建つ復元されたのろし台。信玄の信濃出兵の際は、ここから狼煙を上げて連絡をしていたと言われています。


 信玄が築いた信濃出兵の為の軍用道路「棒道(上の棒道)」の現況。検証した訳では無いですが、若神子城祉が在る状態で、別の山道を築く地形的余裕は無いので、現在の道路は当時の棒道と同じと考えて間違いないと思います。


 棒道に面した、若神子城祉北面の虎口跡。


 城内に残る薬研堀跡。
 北条勢が若神子城滞陣中に築かれたと伝えられますが、北条氏の築城の特徴である「障子掘」であるのが確認出来ます。


 のろし台付近から見た七里岩台地。
 前述のとおり若神子城は七里岩台地に隣接する台地群の北端に位置しており、七里岩台地の南端付近に武田勝頼が築城して、天正壬午の乱で徳川家康が本陣とした新府城は築かれています。上記ののろし台付近からは七里岩台地が良く見えて、新府城址こそ確認出来ないものの、天正壬午の乱では北条勢と徳川勢が至近距離で対陣したのが実感出来ます。


 七里岩台地に隣接する台地群内に存在したと言われる、大豆生田砦跡に建てられた「題目大宝塔」。
 平山優氏著『天正壬午の乱』によれば、大豆生田砦について「小田川から若神子宿および若神子城へ抜ける佐久往還を封鎖する要所」と書かれており、画像を見れば判るとおり、微高地上に在ったと思われます。
 能見城の前線拠点扱いの堂ヶ坂砦とは2キロ程しか離れていなく、多分両所からはお互いの動きが十分視認出来たかと思います。


 題目大宝塔の解説版の後ろに、ここが大豆生田砦跡だった事を示す標柱が建っていましたが、私が行った時には半ば朽ちていました。

 
 オマケ:若神子城祉で見た、私にとっての初日の出。初日の出を城址で見れたのだから、今年は私にとって歴史に関して充実した一年になると期待しています(^^;)

 訪問日:2012年01月06日

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駿河:江尻城跡

2011年12月23日 16時26分33秒 | 登城記・史跡訪問

 駿州江尻城と言えば、武田氏の駿河支配の拠点と言う事もあり、戦国駿河を代表する城の一つだと思います。天正十年の織田家による武田家征伐まで、武田氏の駿河防衛の本拠して、織田家(駿河方面の担当は徳川家ですが)の侵攻を防いだ程の知名度の高い城ですから、長い間私は江尻城跡はある程度は遺構が残っていると思っていました。しかし今回江尻城跡の近くに仕事で行く事になったので、江尻城跡に寄ってみようと調べてみたら、あれだけ知名度の高い城にも関わらず、江尻城は市街地開発により遺構は影も形もなくなっていると知って驚きました。しかし折角近くに行くのだから、遺構が無くても行ってみようと、江尻城跡を訪れてみました。


 巴川対岸から見た、江尻城本丸跡(清水江尻小学校)
 江尻城が巴川沿いに築城されたのは、純粋に防衛上の為かと思っていたら、解説版によると信玄の駿河侵攻の補給地点としての役目の為に巴川沿いに築城(前身を大幅に増築)されたの事です。つまり江尻城は河川通運の拠点でもあったわけですね、実際この画像を撮影した江尻城対岸のこの場所は、江尻城廃城後の江戸時代に船高札が建てられていたそうです。


 船高札についての解説版。
 個人的に河川水運に興味がある身としては、このような解説版を読めて嬉しかったです(^^)


 清水江尻小学校に建つ、江尻城の解説版。
 現在は清水の地名で呼ばれるこの地ですが、昔のこの地の呼び方が江尻でした。余談ながら、この解説版は小学校の柵の上に建てられているので、読み難いです(汗)
 ところで、この解説版のイラストを見て思ったのが、巴川沿いに築城された江尻城ですが、巴川沿いは同心円状に築城されていますよね。武田氏が平野に築城(前身を大幅に増築)した城で有名なのは駿州田中城ですが、田中城も同心円状に築城されていますよね。同心円状に築城するのが、武田氏の平野部築城のセオリーだったのでしょうか?


 外堀に位置した魚町稲荷神社。
 ちなみにこの神社を建立したのは穴山信君(梅雪)だったそうです。武田氏を裏切った事で評価の低い梅雪ですが、江尻城城下町の町割りをしたのも梅雪だそうですし、内政手腕は中々の物だったのではないでしょうか。そうで無ければ、幾ら一門衆の有力者だっただったとしても、武田氏の駿河方面を担当させられる事はなかったでしょう。


 三の丸に位置した小芝八幡宮。
 遺構が残っていない城跡は、このような当時から現存する神社仏閣で、当時の縄張を偲ぶしかありませんね。


 二の丸の名が残る、町名の由来の解説版
 遺構は何も残っていませんが、「二の丸」や「本丸」や「大手」など、町の中には城下だった事を示す町名が残っています。

 画像はありませんが、実は清水江尻小学校の敷地内には、江尻城址の石碑が建っているそうです。しかし私が訪れたのは、児童の登校時間帯だった為、児童と共に小学校の敷地内に入る勇気はなかった為、肝心の江尻城址の石碑の画像はありません。江尻城址の石碑を見れないのは残念ですが、流石に小学校に侵入した不審者として、新聞の三面記事に載る勇気は私にはありませんでした(^^;)

 訪問日:2011年12月21日

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甲斐:能見城址、穴山氏館跡

2011年12月07日 22時55分35秒 | 登城記・史跡訪問


 新府城址から見た能見城址遠景

 武田勝頼が織田信長の侵攻に備えて築城した新府城の北部、新府城が建つ同じ七里岩台地上に能見城址は在ります。この能見城については名前は知っていたものの、訪れたことが事がなかったのですが、今回仕事で近くに立ち寄ったので訪れていました。
 通説では能見城は新府城の支城として築かれたと言われていますが、能見城址の最寄り駅である穴山駅には、「穴山氏の詰めの城」と解説版に書かれていました。
 穴山氏と言えば、信君が河内郡(現身延地方)を本拠にしていた事から、そっちが発祥と思いがちですが、実際の発祥は韮崎地方の穴山であり、穴山駅の近くには穴山氏館跡があります。


 穴山氏館跡。もっともこの案内板の向こうは雑木林で、ここを掻き分けて遺構を探す気合は私にはありませんでした(汗) ちなみにこの案内板は道の行き止まりにあるので、車で行った私は四苦八苦してUターンする事になりました(汗) 案内板の左手には更に道は続いていたものの、明らかにやばそうだったので、この看板の付近でUターンしました(大汗)


 穴山駅から見た能見城址。穴山駅に戻って、ここから能見城址に登りますが、正直普通に主郭に登った限りでは遺構は見当たらず、普通に小山に登っている感じですね。草木を掻き分ければ、遺構も見つける事が出来るらしいですが、そこまでの時間が無いので、今回は真っ直ぐ山頂(主郭)を目指します。


 しかし到着した山頂(主郭)にも遺構はおろか、能見城址と示す石碑すらなく、貯水施設の柵の前に看板が置かれているだけと言う、何とも残念な状況でした(汗) 
 正直山頂を見た感想としては主郭の面積も狭く、軍勢が篭るだけのスペースはとても無いと思うので、城と言うより砦だったのではないかと思いました。能見城址からは新府城址は見えませんでしたが(草木により視界が遮られているので)、新府城址からは能見城址は見えるらしいので、城としての規模は小さくても、新府城の前線基地としての意義はあったのでしょうね。


 七里岩大地を北方から見て。この七里岩台地の麓には、穴山氏の菩提寺である満福寺が在りますので、確かに能見城が穴山氏の詰めの城だった可能性は高いのかもしれませんね。
 ただ能見城を築いたのが穴山氏だったのにしろ、勝頼だったのにしろ、この能見城を最も活用したのは天正壬午の乱での徳川家康だったたと言うのは歴史の皮肉と言うべきでしょうか・・・。
 追記:2012年01月07日
 本記事では能見城の軍事的価値は低いのではないか?と書きましたが、天正壬午の乱で、この能見城と滞陣した北条勢の前線拠点である大豆生田砦は平地に築かれているので、高知に位置する分、能見城の軍事的価値は大豆生田砦を上回っていたと評価を改めました。

 訪問日:2011年11月25日

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甲斐:躑躅ヶ崎館跡、武田信玄墓所、河尻塚

2011年12月03日 18時19分07秒 | 登城記・史跡訪問

 武田信玄と言えば、今でも郷土の英雄として甲斐の人から慕われており、武田神社(躑躅ヶ崎館跡)近くに建つ信玄の墓所は綺麗に整備され観光地化されて今でも多くの人が訪れています。この武田神社と信玄の墓所は山梨県の有力な観光資源であり、信玄は今も物心両面で甲斐の人に恩恵を与えると言って良いでしょう。


 綺麗に整備され観光地化されている武田信玄墓所

 そんな郷土の英雄である信玄の死後、後を継いだ武田勝頼が織田信長によって攻め滅ぼされたのはご存知だと思いますが、武田攻め論功行賞にて、武田家の本拠の甲斐を与えられたのが河尻秀隆です。そしてあまり知られていませんが、信玄と秀隆の墓所は直線距離にして100mも離れていない至近距離に位置しています。


 信玄の墓所と秀隆の墓所の標識。見てもらえば判るとおり、本当に両場所の位置は近いです。

 武田攻めの総大将となった信長の嫡子である信忠の、家老的存在だった秀隆は武田攻めの軍勢の中でも滝川一益に次ぐ地位だったとも言え、論功行賞でも一益に次ぐ規模の恩賞である甲斐一国を与えられます(穴山信君領は除く)。しかし秀隆の甲斐支配の期間は短く、秀隆が甲斐を与えられた三ヵ月後に本能寺の変が勃発し、信長の横死を知った甲斐国人衆に攻められ殺される事になります。
 武田家旧臣や甲斐の民衆の秀隆に対する憎しみは凄い物であったらしく、殺された秀隆の遺体は逆さまのまま埋められたとも伝えられます。秀隆がこれだけ甲斐の人々に憎まれたのは圧制の為と言われていますが、平山優氏の『天正壬午の乱』によれば秀隆が甲斐で発給した文書の数は少なく、占領から三ヶ月やそこらでも、とても圧制をする時間的余裕すら無かっただろう。むしろ甲斐の人々の憎しみを買ったのは信長・信忠親子による武田残党狩りの苛烈さで、秀隆はこの憎しみを一身に受ける事になったと述べています。
 そうは言っても甲斐の人々からすれば、信長親子に対する憎しみと秀隆に対する憎しみを区別する事は出来ず、秀隆は言わば甲斐の人々の織田家に対する憎しみを、一身に背負って殺害されたと言えるでしょう。
 そして甲斐の人々の秀隆に対する憎しみは、その墓石にも反映されているのか、織田家の重臣であり、一時期とは言え甲斐の支配者だったのにも関わらず秀隆の墓石は簡素な物になっています。しかも信玄の墓所が上記のように綺麗に整備され観光地化されているのと対して、秀隆の墓所は公共施設(青年センター)横のゲートボール場の片隅の空き地に、諫言すれば捨て置きされたような場所にひっそりと建っています。


 公共施設の敷地の片隅に、ひっそりと建っている河尻秀隆の墓所である「河尻塚」。訪れる人も少ないらしく、献花も枯れていました。

 同時代の人物なのにも関わらず、信玄と秀隆の墓所の扱いには雲泥の差がありますが、その違いを見ていると甲斐の人々の信玄に対する尊敬の念と、秀隆への憎しみの深さを実感してしまいます。
 それにしても一益を始め、旧武田領を与えれた織田家家臣が、本能寺の変を聞いて皆旧領に脱出したのに、一人秀隆だけ旧武田領、しかも武田家本領の甲斐に留まった真意は何だったのでしょうね。上記したとおり秀隆の甲斐支配時代の文書発給量は極端に少ないので、史料から秀隆の真意を汲み取るのは無理でしょうが、疑問に思ってしまいます。織田家の重臣として、占領地を守る為に不退転の意思で留まったのか、それとも事態を楽観視したのか・・・。信忠の家老格だったと言う事で、個人的には前者と思っていますが。

 河尻塚を訪れた帰りに、躑躅ヶ崎館跡の武田神社にも寄ってきました。「信玄は国内に城を作らなかった」と言う逸話の代名詞でもある躑躅ヶ崎館ですが、躑躅ヶ崎館跡の南側は武田神社として観光地化されていて、あまり城跡との印象はありません。しかし北側は土橋や石垣が現存しており、通説されているような単なる館ではなく、立派な平城だったと実感出来ました。


 北側に残る土橋。


 その土橋の北側に築かれた石垣群。

 訪問日:2011年11月25日

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戊辰野州戦争 板室古戦場・大田原城址訪問

2011年11月28日 19時06分15秒 | 登城記・史跡訪問

 戊辰野州戦争戦争後期の戦いである、板室古戦場や大田原城址、及び周辺の古戦場を、先週末に大山師匠梅原さんと訪れてきました。現在記事作成中の野州戦争第四章でこの板室・大田原城の戦いを扱う予定なので、その記事に使う画像を撮影してしたのですが、年内には記事が完成しそうもないので、何枚か画像だけ紹介させて頂きたいと思います。
 本来の今旅行の行程は、一日目が大田原城址~黒羽城址~白河関門跡、二日目が板室~塩野崎~関谷~大網~那須塩原だったのですが、今回のブログでは実際の戊辰野州戦争の時系列順に画像を紹介させて頂きます。また板室・大田原城の戦いの説明は、今回は概略のみに留めさせて頂きますので、詳細は野州戦争第四章の記事完成までお待ち下さい。

 日光退去後会津藩領田島宿で、大鳥圭介率いる旧幕府軍は会津藩兵と合流して、会幕連合軍として四個大隊に再編成しました。この内第二大隊と第三大隊が、今市宿方面で板垣退助率いる新政府東山道軍と交戦したのは、野州戦争第三章の記事で書かせて頂きましたが、第一大隊と第四大隊の半分が出兵したのが、今回訪れた板室・大田原方面です。

 秋月登之助率いる会幕連合軍第一大隊は、会津領大峠を通り那須山中の三斗小屋宿を拠点として、閏四月下旬より奥州街道を街道を伺う姿勢を見せました。また同第四大隊の半分である旧草風隊は那須塩原方面に進出、こちらも奥州街道を伺う姿勢を見せました。
 一方の宇都宮城に在城していた新政府東山道軍参謀の伊知地正治は、新政府奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵より援軍要請を受けた事もあり、白河城を目指し北上を開始します。当時宇都宮城と白河城の中間地点には大田原城が位置しており、伊地知が到着する前に大田原城には新政府軍の先発部隊が駐屯していました。
 その先発部隊の元に、第四大隊草風隊の情報が入り、先発部隊は閏四月十六日に関谷村・大網陣屋領の草風隊を急襲し、草風隊を撃破しました。


 大網陣屋領の現況、画像左側が渓谷になっており、右側は山地の為、塩原方面に向かう道はこの道だけでした。

 しかし今度は三斗小屋宿の第一大隊が、会津東街道を進軍し板室宿まで進出している事が大田原城に報告されます。これを聞いた大田原城の新政府軍が、板室方面に出発(尚、この板室攻撃の決断に、どれだけ伊地知が関わっているかが、第四章の記事作成で重視したいと思います)。同二十一日に塩野崎村で第一大隊の先鋒部隊を撃破します。


 旧塩野崎村の薬王寺。塩野崎村の戦いはこの薬王寺の付近で行われたらしく、新政府軍と会幕連合軍共にこの薬王寺を宿陣地としました。

 翌二十二日、新政府軍は板室宿方面に進軍し、新政府軍と会幕連合軍は那珂川を挟んで交戦する。地の利を得た会幕連合軍は善戦したものの、新政府軍の別働隊が現在の板室温泉街の方から攻撃した為、会幕連合軍第一大隊は三斗小屋宿に撤退する。


 板室古戦場の全景。左手前の谷底の集落が油井村で、新政府軍はこの唯村の谷上辺りに布陣して、画面右の崖の上に布陣した会幕連合軍第一大隊と対峙しました。画面では見えませんが、両軍が対峙した谷底には那珂川が流れていて、両軍の進出を妨げていました。尚、画面右上の山岳地帯の裏側に三斗小屋宿は位置しています。
 余談ながら、板室古戦場の全景を見渡せるこの画像を個人的には気に入っており、今まで撮影した中で一番のベストショットと思っています(^^;)


 谷底の那珂川から、会幕連合軍が布陣した崖上を見上げて。


 会幕連合軍が布陣した崖上に建てられた、板室の戦いで戦死者の慰霊碑。「右、ろくとち(六斗地)。左、いたむろ(板室)」と掘られており、追分に位置する道標としても活用されていたと言うのが伝わってきます。

 板室・大網の会幕連合軍を撃破して、奥州街道の安全を確保した伊地知は、その後北上を再開し、五月一日奥州の玄関口である白河城を陥落させます。
 そんな伊地知が白河城を攻略した翌日の五月二日、三斗小屋宿を出発した会幕連合軍第一大隊と会津藩兵が大田原城に攻めかかります。大網・板室で会幕連合軍を破った薩摩藩兵・長州藩兵・忍藩兵と言った新政府軍の主力は、伊地知が全て率いて白河城に行ってしまった為、大田原城には大田原藩兵しか居なく、その大田原藩兵も白河城の後方拠点とされた鍋掛村と芦野村に出兵していた為、城内には百名ほどしか居ない状況で会幕連合軍の攻撃を受けたのです(会幕連合軍は800~1000人と伝えられます)。
 大田原藩兵は鍋掛村と芦野村に駐屯する藩兵を呼び寄せて防戦しますが、多勢に無勢は変わらず、大田原城は遂に陥落した・・・となりそうなものですが、実際には会幕連合軍は攻めあぐねます。結局大雨が降り両軍とも銃砲が使用不能になったり、大田原城内作事小屋の火薬が爆発したりなどのアクシデントが続いた末、会幕連合軍も大田原藩兵も大田原城から撤退と言う何とも締まらない結末でこの戦いは終了します。
 この後会幕連合軍第一大隊と第四大隊が攻勢に出る事はなく、奥州街道の確保を巡る戦いは終了しました。


 大田原藩兵が防衛ラインとした経塚付近の現況。右端に見えるのは経塚稲荷。


 北方から見た大田原城址と、水堀の役目も果たした蛇尾川。


 大田原城址から、大田原市街を見下ろして。


 大田原城攻防戦で激戦となった坂下門付近。

 戊辰戦争の戦いの中で、ただでさえ知名度の低い野州戦争ですが、板室・大田原城の戦いはその中でも知名度が低い戦いだと思います。しかし結果的とは言え、板室・大田原城の戦いは奥州街道を確保出来るかの戦いの様相を示しました。伊知地正治率いる新政府東山道軍は五月一日に白河城を奥羽列藩同盟軍から奪取して、結果これが戊辰会津戦争の勝敗を決する事になります。しかし、もし五月二日の大田原城攻防戦で会幕連合軍が大田原城を攻略しておれば、白河城の伊地知隊は補給戦を分断され、すぐに白河城を失う事は無くても、戦況は余談を許さない事態になっていた可能性は高いと思います。
 このように板室・大田原城の戦い、特に大田原城攻防戦は戊辰会津戦争の戦局を左右し兼ねない戦いだったと思いますので、もっと重視されても良い戦いだったのではないでしょうか。今回は簡単な概略のみに留まらせて頂きましたが、そのような知名度の低い板室・大田原城の戦いの記事を現在作成中です。

 本編とは関係有りませんが、今回の旅行で改めて三月の地震の凄さを実感しました。


 画像は大山巌墓所での崩れた石灯籠ですが、ここだけではなく、今回旅行したあちこちで崩れた石垣や石灯籠、山崩れの跡を多数見ました。栃木中部の宇都宮と比べると、栃木北部の被害は大きく、あの大震災の被害の大きさを改めて実感しました。

 真面目な事を書いた後で申し訳ありませんが、今回の旅行で個人的に衝撃的だった事。私は高校時代に住んでいた寮で出されたウナギがあまりにも不味かった為、以降ウナギ嫌いを称していました。しかし今回の旅行中「うなぎ家 割烹いとう」でうな重を食べた時、その味に絶句。私が高校の時に食べたのは、ウナギに似た別の魚らしい、そしてこんな美味しい食べ物を今まで敬遠していた事に後悔した次第です。こうしてウナギの美味しさに目覚めた私ですが、大山師匠曰く「東京でこれくらいのレベルのウナギを食べようとすると、五千円近くするよ」。どうやら私が再びウナギの美味しさを味わえるのは遠い未来の模様です・・・(涙)



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神奈川県川崎市:中原街道と小杉村 その2

2011年11月13日 20時32分34秒 | 登城記・史跡訪問

 今日また川崎公文書館の歴史講座を受講してきたので、その前にまた中原街道の画像を撮影してきました。「その1」ででも書きましたが、私は小中学生の頃はこの中原街道の付近に住んでおり、今日撮影した辺りも何度も通ったのにも関わらず、このような史跡や文化財が存在していたとは気付かなかったのは勿体無いと思います。特に勿体無いと思ったのが、「その1」でも紹介したカギ道(クランク)は、私が小中学校の頃はもっと急カーブだったのですよね。今でも急カーブですが、昔の光景の方がもっと急カーブだったので、カギ道の凄さを皆さんに実感してもらえれば良かったと思うので、昔の光景を撮影しておけば良かったと後悔しています。まあ、私が小中学生の頃はデジカメなんてありませんでしたが(^^;)




 中原街道を江戸に向かって歩いて、上記のカギ道の手前に建つ庚申塔と、旅人の供養塔。興味深いのが、両方とも台座に道標が掘られていました。


 見難いかもかもしれませんが、「東江戸、西中原」と掘られています。単なる供養塔ではなく道標も兼ねていると言うのが、この二つが街道沿いの建造物であり、当時の人達の生活に密着していたと言うのが実感出来て感動しました。




 明治三年から創業していたと言う、石橋醤油展の店舗と醸造所跡。こんな目立つ建物なのに、小中学生の頃は存在に気付きませんでした。それにしても醤油醸造所があったと言う事は、当時の多摩川は水どころだったと思い、感慨深く思いました。


 上記敷地内に有る八百八橋跡。川崎市中原区に住んでいた方なら、小中学生の頃に八百八橋の事は小中学生の頃に教わったと思います。しかし当時は何とも思わなかった事柄も、歴史を学ぶようになってから現物を見ると感動しました。


 現在の中原街道


 旧名主の長屋門。江戸時代からの名主だった安藤家の長屋門らしいです。現在も人が住んでいるので、中には入る事は出来ませんでしたが、中には高札を建てる敷地もあったらしく、当時の名主の生活を垣間見る事が出来ます。


 旧原家母屋跡(復元)。こちらは明治・大正の建築物の復元です。オリジナルは川崎市立日本民家園に移築されたとの事ですが、と言うことは私が小中学生の頃はオリジナルが建っていた筈ですが、残念ながら思い出す事が出来ません(涙)


 現在の中原街道と綱島街道の分岐点。左に行けば綱島街道、右に行けば中原街道です。旧上丸子村では、現在は綱島街道の周辺が栄えていますが、江戸時代は多摩川近くの区域の方が栄えていたそうです。

 正直私は今まで川崎の郷土史には興味がありませんでした。何と言うか幕末にも戦国時代でも川崎が舞台になった事はなかったので、軍事史的には魅力が無かったのですよね。しかし私も歳を取ってくると、「軍事史としての川崎には魅力は無いが、交通・物流の視点から見た川崎は面白いかもしれない」と思うようになりました。先々週と今週で公文書館の歴史講座を受講するために中原街道を訪れましたが、これで終わりにせず今後もこのような訪問を続けたいと思います。次は川崎宿か、または上丸子村かな? 今は境目がハッキリしない小杉と上丸子ですが、当時の古地図を見ると小杉村と上丸子は結構離れていたらしいので、小杉村と上丸子村の境目と言うのが今は気になっています。


相模:岡崎城跡

2011年11月09日 00時02分51秒 | 登城記・史跡訪問

 岡崎城と言えば徳川家康の三河岡崎城が有名ですが、相模(現神奈川県)の平塚にも岡崎城が存在していました。もっとも私も相模岡崎城の名前については知っていたものの、訪れた事は一度もありませんでしたが、今日仕事途中で近くを通りかかったので、初めて訪れてみました。



 神奈川県在住の方ならご存知かもしれませんが、神奈川県中部の平塚・寒川・藤沢の辺りは小山が結構あります。相模岡崎城跡もそんな小山に在るのですが、見てのとおり規模は結構小さいです。



 山頂付近に位置する無量寺が、いわゆる本丸跡らしいです。



 境内に建つ岡崎城跡の石碑

 相模岡崎城の知名度がイマイチなのは、戦国初期は関東管領上杉氏方の城だったものの、北条早雲に奪取されて以降はあまり活用されなかったらしく、戦国中期・後期の頃には廃城になっていたからだと思います。この為、他の北条方の城でよく見られる障子堀のような遺構はあまり存在しません。



 城跡の周辺を歩いていると、遺構っぽい地形もあるのですが、遺構なのかどうかは判然としません。秀吉の小田原征伐の時にも使われなかった事を考えると、戦国末期には城としての機能を一切失っていたのでしょうね。
 神奈川県の方も、この相模岡崎城を整備する気が無いのか、周辺を歩いていると、「それっぽい」地形は幾つかあるものの、説明版などは無いため確証が持てません。



 そんな中で唯一遺構らしかったのが、本丸(無量寺)から麓にかけて掘られた切通。個人的には相模岡崎城の遺構ではないかと思っているのですが、どうでしょう?

 仕事途中に立ち寄っただけなので、詳しく散策も出来なかったので簡単なレポになります。神奈川県中部では他にマイナーな城跡として大庭城跡(藤沢市)がありますので、いつか訪問してみたいです。


神奈川県川崎市:中原街道と小杉村 その1

2011年10月30日 19時43分33秒 | 登城記・史跡訪問

 本日、川崎公文書館主催の歴史講座「川崎市域における脇往還の役割-中原街道と大山街道を中心に-」を受講してきましたが、その際に公文書館付近の中原街道に寄って来ました。実は私、子供の頃はこの付近に住んでおり、小杉御殿前の中原街道のクランク(通称カギ道)の事も知っていたものの、中学生の当時はこのカギ道を「何でこんな変な道を作ったのだろう?」としか思っていませんでした。


現在の中原街道の小杉陣屋町付近。それまで直進が続いていたのに、ここで急激に左カーブになります。ちなみに右奥に見えるのが小杉御殿が在った西明寺の参道入口。


左カーブを曲がった先。現在はそのまま直進する道が設けられていますが、中原街道自身は今度は右に急カーブするクランク状になっています。


小杉御殿跡の碑

 しかし「陣屋」の意味を初めて知ると、このカギ道は小杉陣屋の防御施設の一環として、江戸目指して中原街道を進軍する敵勢を横射する為に設けられたものと知り驚きました。


小杉陣屋跡。小杉御殿付近の公園の隣にひっそりと在りました。この公園は中学生の頃、帰宅時に友人達とよく話していた場所でしたが、当時はその存在に気付きませんでした。

 歴史ファンになっても、若い頃は郷土史などには何の興味を持たなかったのですが、歳を取るに従って「郷土史を調べてみるも面白いかも」と心境の変化が起きています。戊辰戦争史を調べるに当たって、兵站を考える上で当時の物流と宿場町・継立村に興味を持ち始めているので、川崎宿と中原街道については、これから少しづつ調べていこうかなと思っています。


越後:春日山城址

2011年10月16日 17時33分09秒 | 登城記・史跡訪問

 本サイトの方で、春日山城登城記を追加しました。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/shiro/kasugayama/kasugayamajyou.htm

 戊辰戦争時に米沢藩兵が、越後に出兵した事について、「故地である越後奪回の野望を抱いていた」とよく言われていますが、史料的根拠のない俗説と言わざるを得ません。しかし戦いの末に新政府軍を越後から追い払い、春日山城に凱旋するとの想いは抱いていたかもしれません。そのような事を考えながら登城した、春日山城の登城記です。





 また本記事では春日山城址だけではなく、御館跡と魚津城跡の画像も追加させて頂いています。


都内散策 ①

2011年05月28日 16時52分43秒 | 登城記・史跡訪問

 先週の土曜に、デジカメを新調した事もあり、出かけたついでに、都内の気になる史跡を散策してきました。
 まず始めに行ったのが、千代田区紀尾井坂に建つ大久保公哀悼碑です。



 明治二年五月十四日、当時の日本の事実上の指導者だった大久保利通公が、石川県士族である島田一郎等6人のテロリストに襲撃され暗殺されました。後年に利通公を知る有志達によって建てられたのが、この碑です。
 当サイトは戊辰戦争を中心にしているので、利通公に触れる機会は少ないですが、明治維新を主導した清廉潔白であり卓越した手腕を持った、日本史上最も優れた政治家だったと思っています。



 歴史に「IF」は禁句ですが、もし利通公が暗殺されずに、その後も日本を主導したら、良いか悪いかは判らないものの、その後の日本は今とは違うものになったのではないかと言うのは、殆どの方が納得すると思います。
 尚、私が紀尾井坂を訪れた当日は、海外の要人が紀尾井坂付近に建つホテルニューオータニを訪れていた為に厳戒態勢であり、見るからに不審者の私は三度も職質されました(汗)

 紀尾井坂を離れて、続いては旧江戸城の桜田門へ。別に桜田門外の変を調べに来たのではなく、桜田門のすぐそばの米沢藩江戸藩邸跡(上屋敷)へ。



 実はここを訪れたのは、今回が初めてです。存在そのものは知っていたものの、江戸藩邸その物が、米沢藩の戊辰戦争史には直接関わっていないので、今までスルーしていました。しかし今回デジカメを新調したので、記念にと思い撮影に行った次第です。尚、この江戸藩邸上屋敷の増築の際は、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央が関わっており、そのような意味では歴史的に色々面白い場所なのかもしれませんね。
 それにしても、初代藩主である上杉景勝公が、この土地を幕府から譲られたのは、当然関ヶ原の戦いの後です。ある意味関ヶ原の戦犯と言っても良い景勝公が、江戸城のすぐ近くの一等地に藩邸を与えられたと言うのは驚きでした。この土地を譲られた経緯を調べたら面白そうなので、いつか調べたいと思います。
 これからは戊辰戦争に関係がなくても、米沢藩関連の史跡は回るつもりです。とりあえず次は麻布の江戸藩邸中屋敷跡かな。


相模:三増峠の戦い古戦場

2011年05月21日 18時38分16秒 | 登城記・史跡訪問



 *本投稿では、三増峠の戦いについての説明記述はありません。「三増峠の戦い」で検索して来られた方申し訳ありません。

 先日訪れた三増峠の戦い古戦場の碑です。碑が建っている場所自体は昔から知っていたものの、ご覧のとおり平地に建てられているので、あまり山岳戦と言うイメージはありませんでした。しかし実際に戦われたのは、碑の背後の山地で、今回実際に登ってみた所、思ったよりかは急で、確かに山岳戦だったと言うのを実感出来ました。
 通説では三増峠の戦いは武田勢の勝利だったと言われています。お世話になっている方から説明されて、戦略的には北条勢の駿河進出を防ぐのに成功したのだから、武田方の勝利と言うのは納得出来ました。しかし「戦場からの離脱を図る為に、北条勢の出鼻を挫く」のが武田方の目的だった以上、離脱には成功したものの、侍大将の浅利信種を失うなどの人的損害が大きかった以上は、戦術的には引き分けか北条方の六分の勝利だった気がするのですけれどもね。

 また古戦場の在る神奈川県愛甲郡愛川町は、近隣に電車が通っていない為、街道沿いの宿場町の面影を残してくれているので、街道や宿場町の歴史を学ぶ意味でも興味深い土地だと思います。
 また当地の近くには、三増峠の戦いで戦死した武田家家臣浅利信種を祭った浅利明神が在ります。
 
 三増峠の戦いについては基本的な知識しかなったので、詳しい事は書けませんが、三増峠の戦いについてもっと詳しく調べたら、宿場町の歴史を学ぶ意味も合わせて、再度訪れたいと思います。


米沢ミニ紀行

2010年04月17日 23時23分36秒 | 登城記・史跡訪問
 今週末は会議に出席する為に、本社のある仙台に行ってきました。折角仙台まで来たのだから、帰りに米沢に行こうと、二年ぶりに行ったものの、皆さんご存知の通り季節外れの大雪のせいで、半日弱しか滞在は出来ませんでした(汗)
 それでも二年ぶりに上杉神社に参拝出来ましたし、上杉神社で念願の学業お守りを購入出来たので良かったです。「何故、上杉神社で学業お守りを?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんけれども、上杉家(米沢藩)の歴史を調べるなら、上杉神社の学業お守りが一番ご利益があると思ったもので・・・(^^;)
 上杉神社がある米沢城跡の散策が終った後は、戊辰戦争で活躍した米沢藩兵の士官の墓参に行ってきました(これが一番の目的だったのですが)。過去も訪問している甘粕継成(軍務参謀)と斉藤篤信(軍務参謀)に加えて、今日は千坂高雅(軍務総督)と大井田修平(大隊長)の墓参もしてきました。特に大井田修平の墓を今回見つける事が出来たのは嬉しかったです。今回大隊長の大井田修平の墓参が出来たので、今度は同じく大隊長を務めた香坂勘解由や柿崎家教、軍監を勤めた大滝新蔵、そして当サイトの記事を作成をするのに、その日記を活用させてもらった徳間久三郎の墓も探したいと思います。
 このように半日弱の滞在しか出来なかったものの、千坂・甘粕・斉藤・大井田の四名の墓参が出来たので、充実した米沢訪問になりました。
 尚、今回墓参した千坂・甘粕・斉藤・大井田の四名の墓碑は、後日アップさせて頂きたいと思います。

日光・六方沢・会津田島訪問

2009年04月13日 21時10分15秒 | 登城記・史跡訪問

 遅ればせながら、先々週に訪れた日光・六方沢・会津田島訪問の簡単な感想を書かせて頂きます。今回は車が使えたのと、一週間前に急遽決まった訪問だったので、下調べが出来なかった為、とりあえず電車では行けない所を回ろうと言うことにしました。この為、大鳥軍が日光退去後に会津を目指す途中に辿った「六方沢」と、大鳥軍が四個大隊編成に再編成した「会津田島」の二箇所を目的としました。
 かくして当日宇都宮を経由して日光に向かっていたところ、日光には前回の日光訪問時には訪れる事が出来なかった、第二次宇都宮城攻防戦後に戦傷死した、大鳥中後軍参謀の会津藩士垣沢勇記の墓所があった事を思い出して、急遽向かう事にしました。
 しかし垣沢の墓所が日光観音寺にある事は入潮様のサイトで見て知っていたものの、詳しい場所は知らないので30分程探しても遂に見つからず、結局住職さん宅で聞きました。対応してくれた奥さんは垣沢の名こそ知らないものの、時々訪れる人が居ると場所を教えてくれて、ようやく垣沢の墓所を訪れる事が出来ました。大鳥軍には多くの会津藩士が参加したものの、大半が会津色の強い前軍に参加したのに対し、幕臣色が強い中後軍に垣沢が参加した真意は何だったのか、この疑問が私が垣沢に興味を持っている原因なのかもしれません。



 さて垣沢の墓所を訪れた後、いよいよ今回の主目的である六方沢に向かいます。日光からは小一時間の道のりだったものの、四月だと言うのに未だ雪が積もっていたのには驚きました。また途中で「戊辰の道」と言う気になる標識を見つけたものの、こちらも冬季閉鎖されていたので入れませんでした。感じからすると六方沢に繋がっている感じですが・・・。
 そしてようやく到着した六方沢、もっとも私が訪れたのは六方沢に掛かる「六方沢橋」で、実際に大鳥軍が行軍したのは六方沢の谷底の峠道だったのですけれども、橋の上から見てもその険路ぶりが実感出来ました。この狭く急勾配な峠道を行軍した大鳥軍の苦労は、現代人の私からすれば想像も出来ない苦難だった事でしょう。
 尚、本当はもっと迫力のある画像を撮影したかったのですけれども、高所恐怖症の私にとって六方沢橋の高さは脅威で、この程度の画像しか撮影出来ませんでした。



 六方沢を後にして、次の目的地の会津田島へ。何気に六方沢から一時間以上も掛かりましたが、距離以上に起伏の激しい急カーブ連続の山道が大変でした。会津田島町に到着後、早速会津田島陣屋跡へ訪れます。解説版に書いてある通り、戊辰戦争時の陣屋はこの陣屋跡とは違うものの、現在その地には陣屋後を示す存在は何も無いので、資料的価値はこちらが高いと言う事で陣屋跡の石碑を撮影します。
 時間があれば、かつて陣屋が置かれた雰囲気を残す場所を探したかったのですけれども、時間がなかったので、陣屋跡を撮影した事で納得し会津田島を退去。おかげで私の会津田島の滞在時間は30分にも満たなかったです(^^;)



 会津田島退去後は鬼怒川沿いに南下、前回訪れた藤原の小原沢古戦場を再訪問したり、会津田島で再編成した大鳥率いる会幕連合軍が本営を置いた小佐越を訪れたり、今市攻防戦時に会幕連合軍が大谷川を渡河した荊沢を訪れながら宇都宮へ戻り、今回の野州訪問は終わりました。

 今回はスケジュールも事前準備が殆どが無い、フィールドワークとは世辞にも言えない無計画な訪問でしたけれども、資料画像の撮影としては中々実のあるものでした。特に六方沢は車でなくてはいけない場所だったので、電車を主な移動手段としている身としては訪れる事が出来ないと思っていただけに、今回訪れる事が出来たのは幸せでした。
 ・・・さて、あとは今回撮影した画像を活用出来る記事を書くだけなのですけれども、果たして年内中に書けるのかしら・・・。


六方沢・会津田島に行ってきました。

2009年04月05日 22時14分22秒 | 登城記・史跡訪問
 本日宇都宮にて会社の勉強会が実施されたので、前日入りして野州戦争関連の史跡めぐりに行ってきました。今回は車を使用したので、電車では行けない所を回ろうと、日光の垣沢勇記(大鳥中後軍参謀)・六方沢(大鳥軍が移動時に辿った峠)・会津田島町(会幕連合軍編成の地)・小原沢古戦場(会幕連合軍と新政府軍の激突の地)等を訪れてきました。本当は「戊辰の道(多分六方沢に繋がっているのでは)」なる所も気になったものの、シーズンオフと言う事で入れませんでした。
 強行軍で忙しいスケジュールだったものの、前から気になっていた垣沢の墓と、六方沢を訪れる事が出来たので充実したものになりました。画像に関してはアップ出来るのは次の週末になるかと思います。