歴声庵

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甲斐:若神子城址、大豆生田砦跡

2012年01月07日 16時18分09秒 | 登城記・史跡訪問


若神子城址遠景

 今年初の城址訪問は甲州若神子城址です。武田信玄の信濃出兵の為に造られた、軍用道路の棒道の基点に位置する事から、信濃出兵の拠点となった城です。しかしどちらかと言うと、武田家滅亡後の天正壬午の乱にて、北条勢が拠点として、徳川勢と対陣した城として有名かもしれません。

 
 若神子城は七里岩台地と隣接する台地群の北端に位置しており、台地の南側に大手門口が在ったそうです。大手門口から登っていくと、主郭付近に「宿借石」と呼ばれる巨石が在ります。解説版には大手門として用いられたと書かれているものの、諸説あり真意は不明です。


 若神子城祉のシンボルと言うべき、城址東端に建つ復元されたのろし台。信玄の信濃出兵の際は、ここから狼煙を上げて連絡をしていたと言われています。


 信玄が築いた信濃出兵の為の軍用道路「棒道(上の棒道)」の現況。検証した訳では無いですが、若神子城祉が在る状態で、別の山道を築く地形的余裕は無いので、現在の道路は当時の棒道と同じと考えて間違いないと思います。


 棒道に面した、若神子城祉北面の虎口跡。


 城内に残る薬研堀跡。
 北条勢が若神子城滞陣中に築かれたと伝えられますが、北条氏の築城の特徴である「障子掘」であるのが確認出来ます。


 のろし台付近から見た七里岩台地。
 前述のとおり若神子城は七里岩台地に隣接する台地群の北端に位置しており、七里岩台地の南端付近に武田勝頼が築城して、天正壬午の乱で徳川家康が本陣とした新府城は築かれています。上記ののろし台付近からは七里岩台地が良く見えて、新府城址こそ確認出来ないものの、天正壬午の乱では北条勢と徳川勢が至近距離で対陣したのが実感出来ます。


 七里岩台地に隣接する台地群内に存在したと言われる、大豆生田砦跡に建てられた「題目大宝塔」。
 平山優氏著『天正壬午の乱』によれば、大豆生田砦について「小田川から若神子宿および若神子城へ抜ける佐久往還を封鎖する要所」と書かれており、画像を見れば判るとおり、微高地上に在ったと思われます。
 能見城の前線拠点扱いの堂ヶ坂砦とは2キロ程しか離れていなく、多分両所からはお互いの動きが十分視認出来たかと思います。


 題目大宝塔の解説版の後ろに、ここが大豆生田砦跡だった事を示す標柱が建っていましたが、私が行った時には半ば朽ちていました。

 
 オマケ:若神子城祉で見た、私にとっての初日の出。初日の出を城址で見れたのだから、今年は私にとって歴史に関して充実した一年になると期待しています(^^;)

 訪問日:2012年01月06日

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