歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

神奈川県南足柄市:矢倉沢往還の開場通り

2012年11月03日 18時56分50秒 | 登城記・史跡訪問


足柄城址から見た富士山

 何度か訪問している足柄城址ですが、神奈川県側から足柄城址を目指す、その途中に矢倉沢往還の開場通りが在ります。大山道(矢倉沢往還)は足柄峠(頂上に足柄城)を介して駿河国駿東郡に至りますが、その道筋はほぼ現在の県道78号に沿っています。しかし当然ながら現在の県道78号は近代になって設けられた新道で、当時の矢倉沢往還とは違います。関本宿の辺りではほぼ県道78号と同じ道筋だった矢倉沢往還は、(足柄峠を進行方向に見て)一端新道から右手に離れ、しばらく進んだ後に新道に合流したかと思うと、今度は左手に降ります。この新道から見て左手に降った辺りが開場通りと呼ばれて、当時は宿場町が形成されていました。


 見難いですが右手が新道、左手が開場通りに向かう当時の矢倉沢往還。


 新道と当時の矢倉沢往還が合流する辺りには石仏が並び、かつての街道であった事を偲ばせてくれます。

 この開場通りには、江戸時代には関所は設けられており、小田原藩士が駐屯していました。尚、小田原藩兵は箱根関所にも藩士を駐屯させており、江戸の玄関口である相模・駿河間の国境防備を任されていた事が偲ばれます。
 閑話休題。駿河側から足柄峠を越えて初めての宿場だけあって、単に旅籠だけでは無く数件の店が並び、当時は結構栄えていたそうです。


 矢倉沢往還の開場通りの現状。奥に矢倉岳が見えます。


 矢倉沢関所跡。


 関所跡の説明板。


 開場通りの現在の町並みと、矢倉岳。

 今まで足柄城址に行く時は素通りしていた開場通りですが、いざ訪れてみると当時の宿場町の町並みが偲ばれて良い経験になりました。今回は足柄峠に向かって左手の矢倉沢往還(足柄峠)を訪れましたが、今度は右手の足柄古道も訪れてみたいと思います。


 最後に再び足柄城址から見た富士山の裾野。足柄城址からは遮蔽物が一切無いので、富士山の裾野を一望する事が出来るのでお勧めです。

 訪問日:2012年11月02日


山梨県笛吹市:御坂路旧道

2012年10月13日 14時19分31秒 | 登城記・史跡訪問


御坂路旧道の看板

 御坂路は相模と甲斐を繋ぐ、鎌倉往還の一つです。現在は御坂路旧道とほぼ平行する県道138号が開通したため、廃れてしまった箇所が多いですが、一部の区間では未だにかつての面影を残しています。
 戊辰箱根戦争の少し前、人見勝太郎と伊庭八郎の率いる遊撃隊は、駿州沼津から御坂路を辿って甲斐黒駒に入ってしばらく宿陣します。その後再び御坂路を通って駿州に入り、そこから箱根に進軍して、河田景与(河田佐久馬)率いる新政府軍、および小田原藩兵と戦いました。


御坂路旧道。

 このように御坂路旧道は遊撃隊が通った道であり、今は寂れた道ですが、ここを遊撃隊が通ったかと思うと不思議な感じになりました。


御坂路旧道に面した戸倉神社。もしかしたら遊撃隊も、この神社を訪れたかもしれませんね。

 遊撃隊の他にも、この御坂路は個人的に興味がある道だったりします。織田信長が本能寺で横死した後の、旧武田領の争奪戦である天正壬午の乱の際、新府城周辺に布陣する徳川勢の背後を衝く為に、北条氏直は別働隊を御坂路を辿らせて進軍させます。当時小山城に籠城していた徳川方の武将である鳥井元忠は、北条勢の動きを知ると小山城を出撃、黒駒の地で北条勢と激突し、数に倍する北条勢を撃退したのが黒駒合戦です。



御坂路旧道。北条勢もまたこの御坂路を通って黒駒村に向かいました。

 このように今でこそ無名となった黒駒村ですが、戦国時代は徳川勢と北条勢が激突し、幕末には遊撃隊が宿陣したりなど、二度も歴史的出来事の舞台になった土地でした。


御坂路旧道の旧黒駒村の辺り。黒駒合戦が具体的にどこで行われたかの石碑等は存在しませんが、この画像は丁度黒駒村の辺りなので、かつてはこの画像の場所で、徳川勢と北条勢が激戦を広げたのかもしれません。

訪問日:2012年10月12日


神奈川県藤沢市:東海道原宿一里塚

2012年09月25日 21時51分13秒 | 登城記・史跡訪問


 原宿一里塚跡

 神奈川県民には現在も渋滞のメッカとして知られる、国道一号原宿交差点。近年は立体化され、昔に比べれば多少はマシになった、この渋滞のメッカの北方500mくらいに、かつての東海道原宿一里塚跡は在ります。


 原宿一里塚跡の標柱。正直少し味気ない気もしますが…。

 
 原宿一里塚跡の説明板。

 東海道戸塚宿には品濃・吉田・原宿の、三カ所の一里塚があったらしく、原宿一里塚はその中で一番藤沢宿側の一里塚との事。実際原宿交差点を越えれば、現在もすぐに藤沢市ですからね。
 尚、実際の一里塚自体は明治九年に、不要になったと言う事で切り崩されたとの事。一見すると説明板の在る箇所は高くなっているように見えますけれども、むしろ現在の道路の方が、当時の道よりも掘り下げた位置に設けられているでしょうね。


 原宿一里塚前に通る、現在の東海道(国道一号)。悪名高い原宿交差点方面を見て。

 訪問日:2012年09月03日


常陸:芹沢城址・芹沢鴨生家跡

2012年09月16日 23時49分14秒 | 登城記・史跡訪問


 芹沢城址の石碑

 茨城県の霞ヶ浦東岸の行方市に芹沢城址が在ります。芹沢と聞くと、新撰組局長の芹沢鴨を思い浮かべる方もいらっしゃると思いますが、何とこの芹沢鴨の先祖が、芹沢城城主だったと歴史研究家のあさくらゆうさんに教えて頂きました。それにしても芹沢は地元の名士の出身だとは思っていたものの、よもや豪族の子孫だったとは驚きました。
 
 芹沢氏は平家出身の在地勢力で、戦国時代は佐竹氏に対抗していたものの、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の承認を得た佐竹義宣公による、霞ヶ浦東岸の勢力の粛正により没落し、徳川家の元に走ります。その後関ヶ原で佐竹氏は出羽に転封された事もあり、大坂の陣で戦功を挙げた事により、芹沢氏は旧領に復帰します。以降芹沢氏は代々、芹沢城址の麓に屋敷を築き江戸時代を過ごし、幕末に芹沢鴨が生まれる事になりました。


 芹沢城址南東を見て。訪れたのが夏だったので、藪によって阻まれて見えませんでしたが、冬場には空堀や土塁などの遺構が見られるそうです。
 この芹沢城址はまだ発掘調査がされていないらしいので、城郭マニアにとっては垂涎の的かもしれません。


 芹沢城址の碑から芹沢鴨生家跡に至る道。恐らく切通跡だと思われるのですが…。


 芹沢城址麓に在る、芹沢鴨生家跡の門。


 芹沢鴨生家跡の現況。普段は一般公開されていないとの事。


 芹沢鴨生家跡の前に通る道。この道は芹沢鴨も歩んだ道でしょうが、カギ道に見えるのは私だけでしょうか…。

 オマケ:史跡とは何も関係がありません。


 史跡訪問中に見つけた、毛虫を補食していたアリジゴク。実はアリジゴクを肉眼で見たのは初めてだったので興奮しました(^^;)。


 同じく史跡訪問中に見つけたアオダイショウ。


 茨城空港に展示されていた、航空自衛隊のF-4EJ改。
 尚、こんな史跡とは関係ない画像ばかり撮っていたら、「ちゃんと史跡を見て下さい」と怒られました(^^;)。

 余談ながら、芹沢家は医薬に通じており、鴨自身も医学を学んでいたそうです。後年土方歳三に謀殺される鴨ですが、その遠因は新撰組内の医薬の利権を独占しようとする土方(土方の家も医薬を販売)に、ライバル視されたからではないかとの新説(珍説)を提唱したいと思います(^^;)。

 訪問日:2012年09月16日

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神奈川県藤沢市:庚申塔群

2012年09月15日 18時42分03秒 | 登城記・史跡訪問


 相模大庭城址に行った際、大庭城址の近くで見かけた庚申塔群です。


 三つとも仏や猿が掘られる訳ではなく、単に「庚申塔」とだけ掘られているタイプです。私は庚申塔に関して詳しくはないですが、文字を掘るだけで御利益(効果)があると考えられていたのでしょうか。仏や猿が掘られている形式と比べると、手抜きの感があるのですが…(^^;)。
 尚、一番新しいタイプは天保11年(1840年)作成でした。


 この庚申塔は道標を兼ねているタイプで、道標好きとしては喜んでしまいました。残念ながら風化による摩滅で、私には何と掘られているかが判別出来ませんでしたが…。
 藤沢市は太平洋戦争の際に空襲の被害が少なかったので、戦後区画整理があまり行われなかったので、昔の道筋が比較的残っており、結果的に道標や庚申塔が多く現存しているそうです。ほぼ相模川を挟んだ対岸の平塚市は、空襲の被害が多かった為、戦後区画整理が盛んで、結果道標等は区画整理の際に撤去されたのが多いと、地元の方に教えてもらいました。平塚市周辺では伊勢原市なども道標が多く現存していますが、これも空襲の被害が少なかったからなのでしょうか。
 何はともあれ、藤沢市には他にもたくさんの道標や庚申塚が現存しているので、機会を見て訪れたいと思います。

 訪問日:2012年5月30日


遠江:二俣城址

2012年08月19日 17時22分54秒 | 登城記・史跡訪問


 天竜川対岸から見た二俣城址遠景。天竜川沿いにそびえ立つ断崖絶壁の上に築かれた城と言うのが良く判ります。また武田信玄が攻撃した井戸も、ここに存在していたと思われます。

 武田信玄が筏を用いて、井戸櫓を破壊して落城させた事で有名な二俣城址に行ってきました。武田信玄の西上作戦で、信濃から遠江から出てきた武田勢が攻め落としたと言う事で、イメージ的には信濃・遠江国境付近に位置する城かと思っていたら、実際には遠江中部に位置する城でした。それこそ掛川城や高天神城よりも浜松城に近く、確かに信玄にここを奪われた家康にとっては、目障りな城だろうな実感出来た次第です。


 本丸跡から天竜川を見て。二俣城は天竜川が「U」字を描いている部分の突端部の丘陵地帯に築かれており、更にその背後は二俣川も流れているなど、本当に天然の要害と呼ばれるのに相応しい場所に築かれています。本当は天竜川対岸から見た二俣城址の画像を撮りたかったのですが、この日は訪れなかったので、後日再訪問したいです。


 城内解説版の二俣城址の地図。


 搦手付近の駐車場横に残る土塁跡らしき遺構。


 搦手付近に建てられた二俣城址の碑。


 搦手から北曲輪跡を見上げて。


 虎口跡。


 本丸と北曲輪間の堀切跡。


 北曲輪跡。日清・日露の両戦争での戦没者を祭った旭ヶ丘神社が建てられています。神社の裏にも土塁跡らしき物が在りましたが、今回は藪が多かったので断念。


 本丸跡に築かれた天守台跡。


 本丸跡に残る土塁。


 同じく本丸跡の土塁。


 本丸跡大手口の段違い虎口跡。


 桝形虎口跡。


 二の丸の虎口跡。


 二の丸虎口跡登り口の道路。カギ型をしているので、道筋は当時のままの気がするのですが…。


 二の丸跡に建つ城山稲荷神社。


 二の丸の土塁跡。


 二の丸と蔵屋敷間の堀切跡。真夏真っ盛りの八月に訪れたので、堀切も蔵屋敷も藪に覆われて殆ど視認出来ず(涙)
 *13年02月に再訪問した際は、藪も枯れて堀切を視認する事が出来ました。


 東側から蔵屋敷跡を見て。夏に訪れた際は、藪に覆われて近づく事すら出来なかったものんぽ、冬の再訪問で蔵屋敷跡内に足を踏み入れる事が出来ました。


 蔵屋敷跡内に残された石垣。


 蔵屋敷跡の先には堀切を挟んで南出丸が在るのですが、こちらは竹藪に覆われて冬場でも歩くのが困難でした(汗)。


 南東部から見た二俣城址。住宅地になっている手前の低地は、当時は川だったらしく、川に挟まれた要害だったと言うのが偲ばれます。


 二俣城址南方の間近に在る鳥羽山城跡。元々は家康が二俣城攻略の為に築いた付城らしいですが、こんなに至近距離に築かれた付城も珍しいですね。

 武田信玄が正攻法では攻め落とせず、イカダを用いてようやく攻略した城と言う事で、要害の城と言うイメージばかり先行していた二俣城址ですが、いざ訪れてみると意外と規模はさほど大きくないと言うのが正直な感想です。でも天竜川沿いの切り立った崖上に築かれた要害というのは実感出来ました。
 ただ惜しむらくは時間があまりなかったので、天竜川対岸からの二俣城址が見られなかったのと、すぐそばの鳥羽山城跡を訪れる事が出来なかった事が心残りです。何より夏場に行ったので、蔵屋敷や西曲輪(井戸曲輪)などが藪に阻まれて近づけなかったので、秋から冬にかけて再訪問したいと思っています。
 *追記:2013年の2月に再訪問して、夏に訪れる事が出来なかった蔵屋敷跡や南出丸に訪れる事が出来ました。

 訪問日:2012年8月7日、2013年2月14日


伊豆:山中城址

2012年08月15日 21時26分29秒 | 登城記・史跡訪問



 山中城址の碑。

 今まで相模足柄城址と、伊豆韮山城址と言う北条氏による、対豊臣戦に備えて拡張整備された小田原城の西方戦線の城跡を紹介させて頂きましたが、今回はその最後となる北条氏の対豊臣戦メインの防御ラインとなった山中城址です。


 岱崎出丸部の説明版。

 山中城の特徴は、東海道(箱根街道)その物を本丸部と岱崎出丸で挟んでいる事でしょう。これにより東海道を進む軍勢は、否応でもこの山中城を突破するしかなく、敵軍の迎撃箇所としては理想的な場所でした。その東海道を挟む本丸と岱崎出丸を、障子堀で囲んでいるのも特徴でしょう。この障子堀はとにかく圧巻で、その影響か障子堀は半ば北条氏の代名詞になっている気がします。


 復元された東海道。左手が岱崎出丸跡になります。


 岱崎出丸跡。現在は芝生になっています。


 岱崎出丸跡南側の斜面。見て判るとおり急斜面になっており、ここから軍勢を攻め込ますには困難な地形でした。


 岱崎出丸跡上の土塁跡。


 御馬場曲輪跡横の空堀跡。


 岱崎出丸跡の先端に在るすりばち曲輪跡。


 すりばち曲輪横の武者溜まり跡。


 すりばち曲輪跡から御馬場曲輪跡方面を見て。


 岱崎出丸跡から三島方面を見て。肉眼では確認出来ませんでしたが、韮山城址もこの方面に位置します。


 岱崎出丸の東海道側の斜面に掘られた空堀跡。山中城址の代名詞である畝堀になっています。


 御馬場曲輪北側の土塁跡と空堀跡。


 北条流の築城技術の粋を集めたと言われる山中城ですが、豊臣勢の猛攻の前にあえなく半日で落城します。北条氏としては数倍の軍勢に攻められても耐えきれる自信を持っていたといわれていますが、いかんせん山中城を攻めた豊臣勢の兵力は、山中城守備兵の七倍以上。これだけの兵力差があっては、いかに北条流の築城技術の粋を集めたと言われた山中城でもひとたまりもありませんでした。


 本丸・西の丸・北の丸方面の説明版。


 三の丸堀跡。


 田尻の池跡。


 西の丸横の障子堀跡。この障子堀跡は北条氏築城術の代名詞ですね。


 西櫓を囲む障子堀跡。


 西櫓跡から愛鷹山方面を見て。


 西の丸と西櫓間の障子堀跡。


 西櫓跡。


 西櫓横の障子堀と、その向こうの西の丸跡。 


 西の丸に復元された模擬冠木門。門の向こうに見張り台跡が見えます。


 溜池跡。


 北の丸跡と土塁跡。


 北の丸跡と本丸間に復元された木橋。


 本丸跡。


 本丸横の障子掘跡。


 本丸下の弾薬庫、兵糧庫跡。


 天守台跡。


 三の丸跡に建てられている宗閑寺。


 宗閑寺の境内には山中城攻防戦で戦死した豊臣勢、北条勢の兵士達の墓が並んでいます。


 保存状態が良く、北条流の築城技術の粋を集めたと言われるだけあって、山中城址は本当に見応えのある城でした。豊臣勢の猛攻に耐え抜いた韮山城と比べるとイマイチイメージは良くないですが、東海道を直接城内に取り込んでいる山中城は、豊臣勢にとっては何が何でも落とさないといけない城だったので、これが豊臣勢の猛攻を受けて半日で落城してしまった理由ではないでしょうか。

 訪問日:2012年07月16日


伊豆:韮山城址

2012年08月04日 18時10分23秒 | 登城記・史跡訪問


 城池越しに見た韮山城址遠景。

 北条早雲こと伊勢宗瑞の居城だった韮山城址に行ってきました。後北条氏の居城と言えば、小田原城が知られているものの、初代の早雲自身は最後まで韮山城を居城としていたと伝えられます。後北条氏が小田原城に本拠を移した後も、韮山城は伊豆支配の拠点として、また小田原城西方の守りの拠点として重視され、豊臣秀吉の小田原攻めの際には西方防御の拠点として整備拡張されました。実際の小田原攻めの際には、一族の北条氏規が韮山城を守り、十倍以上の豊臣勢に囲まれながらも、守りきったと言う事でも有名ですね。


 本丸跡に設置された韮山城址の説明版。実際の説明版には周辺の砦群が記述されていますが、ここでは韮山城址の部分のみを拡大しています。

 韮山城は伊豆北部の高地群の、西端に突出した小山(これを韮山と呼ぶのかな?)の更に北部の舌状台地に築かれた平山城です。ただこの舌状台地部がT字型をしているのが特徴であり、小山の本土から繋がっている箇所を何度も堀切で分断していた、小山から半ば独立した存在になっています。尚、この小山は韮山城が有名なものの、韮山城以外にも小山には幾つもの砦が築かれており、小田原攻めの際には、豊臣勢は韮山城だけではなく、この小山ごと包囲しています。

 
 城池とは反対側、西側から韮山城址を見て。


 城池の畔に残る遺構らしき地形。出丸か何かの気がするのですが・・・。


 三の丸跡は現在テニスコートになってしまい、残念ながら遺構は残っていません。


 三の丸跡から権現曲輪に向かう道。


 権現曲輪跡に建つ熊野神社。


 権現曲輪と二の丸間の切通。


 二の丸跡。


 二の丸と本丸間の切通跡。


 本丸跡。


 本丸跡から麓(西側)を見下ろして。戦国時代当時は湿地帯が広がっていたと伝えられます。


 本丸跡の先にも遺構は続きます。


 T字型台地の南端に残る遺構。面積自体は狭いので、出丸か何かですかね?。


 本丸跡から小山本土を見て。今回は訪れていませんが、この小山上にも多くの遺構が残るそうです。画像左側の木越しに城池がかすかに望めます。


 小山本土と韮山城を区切る切通。


 同じく小山本土と韮山城を区切る切通と思われる地形。


 切通跡から小山本土に繋がる部分を登って。


 この切通跡と思われる地形の付近には、他にも土塁と思われる地形が見られます。

 
 小山から韮山城に繋がる舌状台地部を見上げて。


 こうして韮山城址を訪れて思ったのが、十倍以上の大軍に囲まれても耐えた城と言うので、さぞ堅城なのかと思ったら、わりと普通の平山城だなと感じた事です。私が訪れたのは韮山城址だけで、小山上の他の砦群を訪れていないので、韮山城址だけを見て結論付けるのは早計かもしれないものの、後北条氏の築城技術を費やした山中城と比べると物足りないと感じてしまいました。その後北条氏が誇る山中城が、豊臣勢により半日で攻め落とされたのに対して、韮山城が耐え抜いたのが長年不思議だったのですが、実際に韮山城址を訪問にしてもその謎が解ける事はありませんでした。
 あるいは東海道を直接取り込んでいる構造の山中城は、小田原城を攻める豊臣勢にとっては何がなんでも攻め落とさない城だったものの、直接東海道に面しない韮山城は包囲して、動きを封じれば十分だったのでしょうか。ただ韮山城に大軍を貼り付けるのは、それはそれで豊臣勢にとって負担だったでしょうし、何故韮山城が守りきれたかについては、結局現地を訪れても判りませんでした。

 訪問日:2012年07月16日


武蔵:小机城

2012年07月15日 11時55分25秒 | 登城記・史跡訪問


 小机城遠景。北方の鶴見川対岸から見て。

 小机城は現横浜市港北区南東部の台地群の北端、鶴見川南岸の台地上に築かれた平山城です。小机城がいつ築かれたかはハッキリしないものの、戦国時代前期の「長尾景春の乱」の際に、扇谷上杉家の家宰である太田道灌が攻め落とした事で有名だと思います。
 その後後北条氏が関東を制圧するに当たって、小机城は有力な支城となり、軍制の面でも小机衆の拠点となりました。しかし、このような後北条氏にとって重要な支城だったのにも関わらず、豊臣秀吉の後北条氏討伐の際にも、戦いらしい戦いは行われなかったらしく、その後徳川家康の関東移封の際に廃城になった模様です。
 このように大田道灌の攻略以降は、戦いらしい戦いを経験しなかった小机城ですが、横浜に存在する割には保存状態が良く、遺構が良く残っています。


 小机城址内に建つ地図。


 根古屋跡。小机城址の入口に辺り、現在は公衆トイレが在ります。元々根古屋は、山城の麓の集落を意味するので、ここより(下が)根古屋との目安が、いつの間にか今の形になったと思うのですが・・・。


 根古屋広場から城址内に至る道。


 二の丸入口部に当たる曲輪跡。


 上記曲輪南方の帯曲輪跡(?)。


 その帯曲輪跡(?)に建つ稲荷社。ここだけに限らず、小机城址の周辺には稲荷社が複数見られます。


 二の丸の空掘。


 二の丸南部の井戸跡。


 二の丸跡。


 二の丸の本丸側に在る櫓台跡。小机城址には天守台跡は無い代わりに、櫓台跡が複数在ります。


 小机城址では、二の丸~本丸北部の空掘が遊歩道化されています。この画像は二の丸から空掘に降る道。


 遊歩道のど真ん中に生えていたタケノコ(汗)。


 二の丸跡から遊歩道(空掘跡)を見下ろして。


 遊歩道から本丸土塁跡を見上げて。遊歩道はここから空掘跡から離れて、本丸跡へ登る階段に至ります。正面は本丸跡の土塁。

 
 遊歩道から離れたものの、空掘跡は本丸跡の北部に続いています。


 本丸北部の空掘跡の北側には、更に数段の帯曲輪が広がっています。


 本丸跡。現在は少年野球の練習場になってしまっています。


 本丸跡に復元された冠木門。しかし本当にこんな冠木門が小机城に在ったのでしょうか・・・。


 本丸と二の丸間を繋ぐ櫓台跡。本丸~二の丸の南側空掘に接しているので、馬出の意味合いもある気がします。


 本丸と櫓台跡を繋ぐ土橋。


 本丸南部の空掘跡。


 小机城址は南北を第三京浜に分断されていますが、本丸西側の台地にも出丸が存在していたと言われています(画像左側が本丸跡、右側が出丸跡)。手前に流れるのは鶴見川。

 小机城址は前述のとおり台地群の北端に位置していますが、地形的に本丸と第三京浜により隔たれた台地上の出丸、また本丸と横浜線を隔てた台地の中腹に位置する金剛寺(後述)も小机城の一部であり、全域含めると「コ」の字上の縄張だったと思っています。


 出丸跡から第三京浜を見て。本来はこの第三京浜が通っている辺りで、本丸跡と出丸が繋がっていました。


 出丸跡の小山。頂上に富士仙元大菩薩の碑が建っています。


 小山の頂上に建つ富士仙元大菩薩の碑。戦国時代期はここは櫓台だったと言われています。


 出丸跡を更に南に進みます。まだ白いアジサイが咲いていました。


 突如出丸は終り、住宅地となります。


 この出丸跡を西側の麓から見て。見て頂ければ判るとおり、突如住宅地になっているのが判ります。あまりにも不自然ですが、何故?。


 この不思議な境目を台地側から見て。


 この画像を見ると、出丸側の台地はもっと高かったと思われますが、この裏側をすぐ第三京浜が通っているので、この台地もすぐ裏側は破壊されてしまっています。


 この台地を南に進むと緩やかな傾斜になり、麓に至ります。対岸の台地上には現在住宅地となっていますが、この台地上にも当時は監視用の砦が築かれていたのではないでしょうか。


 出丸西部にも稲荷社が在り、そのまま獣道を降ると麓に至ります。


 出丸北端に建つ小机城址供養碑。太田道灌の攻撃による戦死者の供養碑でしょうか?。


 小机城址本丸と横浜線を隔てた、台地上の中腹に在る金剛寺。地形的にここも小机城の出丸的扱いだった気がします。


 単なる山を削った展望台と、山頂に至る道かもしれませんが、元々は山頂へ殺到する敵軍を迎撃する出丸だったのではないかと思えてしまいます(^^;)。


 金剛寺山頂から見下ろして、何だか墓地群が広がる山腹も砦っぽく見えてしまいます(^^;)。


 太田道灌が小机城攻略に、本陣を置いたと思われる亀の甲山を見て。右側の小山も元々は亀の甲山の東端だった物が、亀の甲山が開発により削られた事により、独立した小山になってしまった物と思われます。


 小机城址から亀の甲山方面を見て。

 今年小机城址の近所に引っ越しましたので、これからは定期的に小机城址を訪問したいと思っています。特に小机城本丸と西側の出丸、そして金剛寺により小机城は構成されていたと思っているので、この出丸や金剛寺の背後を今後散策していきたいです。しかし2012年7月の時点で、金剛寺の背後の斜面が開発されており、折角の遺構が破壊されており、勿体無いと感じてしまいまいます。


 訪問日:2012年05月05日
     2012年05月11日
     2012年07月09日
     2012年07月14日


甲斐:谷戸城址

2012年07月12日 21時45分56秒 | 登城記・史跡訪問


谷戸城址遠景

 甲斐と信濃の国境付近、すぐ向こうは諏訪郡と言う、甲斐の北端付近に谷戸城は在ります。八ヶ岳を望む台地上に谷戸城が築かれたのは、平安時代と言われていますが、武田信玄が信濃攻略の為に築いた上の棒道がすぐ傍を通るなど、信玄の信濃攻略時にも使われていたと伝えられます。
 しかし信玄の信濃攻略後、谷戸城は歴史の表舞台から姿を消します。谷戸城が歴史の表舞台に再び登場するのは、皮肉にも武田家が滅亡し、武田家を滅ぼした織田信長も本能寺の変で横死した後の、旧武田領を巡る周辺勢力の戦いである天正壬午の乱にて、後北条家がこの谷戸城を接収し、改修して活用しました。
 武蔵・上野の国境である神流川で、織田家の重臣である滝川一益を撃破した相模の北条氏直は、上野を占領後、そのまま余勢を駆って信濃に侵攻しました。一方越後の上杉景勝も、信長の横死を知ると信濃に侵攻を開始します。上杉勢と北条勢は信濃川中島で対陣するものの、川中島で両軍が対陣する間に、駿河の徳川家康が甲斐に侵攻を開始します。家康の甲斐侵攻を知った氏直は、慌てて川中島から撤収、そのまま南下して甲斐に侵入し、自らは若神子城に本陣を置きます。甲斐侵攻後氏直は甲斐北部の諸城を改築して、自軍を入城させますが、その際に谷戸城も後北条勢に接収され、拠点の一つとなります。
 後北条勢は三方から甲斐に侵攻をしますが、主力は信濃から侵攻した氏直の本軍であり、谷戸城はこの北条領から上野と信濃を介して、甲斐に入る主力軍の補給線を担っていたと思われるものの、実戦を経験する事はありませんでした。


 谷戸城址の歴史観の敷地内に建つ、谷戸城址の碑。


 谷戸城城址入口に設置されている案内地図。


 谷戸城址の碑から谷戸城址に入る所に掘られた切通跡。


 四の郭の土塁跡。1mもない低い土塁ですが、長さはかなりあります。


 三の郭の土塁(左)と、二の郭の土塁(右)。


 三の郭の帯曲輪。


 二の郭の土塁と、空掘跡。土塁の内側に空掘が掘られているのが特徴的です。


 同じく二の郭の土塁と、空掘跡。


 同じく二の郭の土塁と、空掘跡。この二の郭の空堀は結構深く、主郭を一周するように掘られています。


 主郭の土塁跡。

 
 同じの主郭の土塁跡。


 主郭の虎口跡。


 二の郭の虎口跡と、駒ケ岳。


 東の斜面に掘られた空掘跡。

 
 平山優氏著の『天正壬午の乱』には、谷戸城址には北条勢が築いた遺構が残ると書かれていたものの、私にはどの辺が武田氏による遺構で、どこが後北条氏による遺構かは判りませんでした(涙)。


 最後に天気が良かったので、谷戸城址から見た八ヶ岳方面。

 訪問日:2012年07月04日


遠江:諏訪原城址

2012年07月07日 22時11分12秒 | 登城記・史跡訪問


諏訪原城址の碑。

 高天神城に知名度は劣るものの、武田家の遠江の拠点として知られる諏訪原城。この諏訪原城がいつ築かれたについては、武田信玄時代に築かれたとも、勝頼時代に築かれたとも言われていますが、現在の遺構の形に拡張整備されたのは、信玄死後の天正元年(1573年)後半らしいです。
 雑誌『歴史群像』では、補給拠点と説明されていた諏訪原城。確かに駿河田中城と遠江高天神城を繋ぐ場所に位置し、旧東海道が眼前に通る、大井川西岸の牧の原台地上と言う戦略的要所に位置する諏訪原城は、戦略的価値の高い城との認識をしていました。
 しかし、いざ訪れた諏訪原城址は深い空掘と、複数の丸馬出を組み合わせた戦術的価値の高い城だったので驚きました。
 尚、そのような戦略的にも戦術的にも価値の高い諏訪原城は、天正三年(1575年)の長篠・設楽ヶ原の戦い後に攻勢に転じた徳川家康により、同年後半に奪取され、以降は徳川側の拠点になります。そして諏訪原城が奪取された事により、武田家の田中城と高天神城の補給線が分断され、「高天神城を制する者が遠江を制す」と言われた高天神城が落城する遠因となります。


 諏訪原城址近くに復元された、旧東海道の石畳。


 諏訪原城址の眼前を通る旧東海道の現況。

 前述のとおり、諏訪原城は旧東海道が眼前を通り、大井川西岸に位置する牧の原台地の東端に位置する為、大井川の渡河点を監視出来るなど、戦略的価値の高い要所に位置しています。個人的には、戦術的には価値が高くても、戦略的価値はさほど高くない高天神城城よりも諏訪原城の方が、「この城を制する者が遠江を制する」に相応しいと思うのですが・・・。


 諏訪原城址に設置されている案内地図。

 諏訪原城の縄張は、牧の原台地の東端、舌状台地部に本丸が築かれています。本丸の前に空掘りを掘って、横に連結された二の丸と三の丸が築かれています。この二の丸と三の丸の前方に深い空掘が掘られて、その前方に複数の丸馬出が築かれると言う縄張になっています。


 二の丸前に築かれた丸馬出跡。


 丸馬出跡前の空掘り。


 攻め側の視点で見た、三の丸前の丸馬出跡と、その手前の空掘。


 三の丸前の馬出跡城に建てられた諏訪神社。勝頼に縁深い諏訪神社が築かれている事からも、この丸馬出などの拡張整備が、勝頼時代に築かれたのが察せられます。


 三の丸前の丸馬出を三の丸側から見て。手前の空堀は、三の丸前の空掘。


 二の丸前の馬出と、三の丸前の馬出間に縦に掘られた空掘跡。二の丸、三の丸を攻める攻撃軍の左右の展開、連携を阻害する為に掘られた物でしょうか?。


 縦向きの空掘跡の近くに建つ、戦死した諏訪原城主今福浄閑斎の墓。


 二の丸の虎口跡。左側に石垣が築かれていますが、これがいつの時代に築かれた物かは不明です。


 二の丸跡。

 
 三の丸跡。


 本丸、二の丸間の空掘跡。


 本丸、三の丸間の空掘跡。


 本丸、三の丸間の空掘の底には井戸跡があります。

 
 井戸跡の拡大画面。石積みである事が判ります。しかし空掘の底に井戸が在ったら、却って使い勝手が悪いような・・・。


 本丸の天守台跡。見張り用の櫓が建っていたのでしょうか。


 搦め手跡。牧の原台地の急斜面を降って行く道順になっています。


 本丸背後の急斜面。ここから攻め上がるのは事実上不可能でしょうね。


 本丸跡から大井川方面を見下ろして。見づらいかもしれませんが、遠くに大井川が見え、大井川の渡河点を監視する事が出来た事を確認出来ます。

 諏訪原城が築かれている牧の原台地は、今でこそお茶の産地として有名ですが、この茶畑を開墾したのは明治維新後に移住した徳川家の者達でした。明治維新により駿河70万石に移封された徳川家ですが、70万石ではかつての幕臣を全て養える筈が無く、徳川家に従った者の中には無給の者がかなり居ました。そんな無給の者達は、駿河・遠江に移封後に生活の為に各地を開墾するものの、水捌けが良すぎる牧の原台地では何の作物も育たず、窮余の末に辿り着いたのがお茶の栽培でした。尚、この話は友人の梅原氏に教えてもらいました(^^;)。

 こうして牧の原台地の特産品となったお茶ですが、諏訪原城址のすぐ近くまで、その茶畑の侵食は進み、旧武家屋敷などは茶畑の中に飲み込まれてしまっています。諏訪原城址を訪れた者としては、茶畑の進出に不満を言いたくなってしまうものの、牧の原台地を必至に開墾した徳川家の者達の苦労を考えれば、そのような無責任な発言は恥ずべき物とも思うので難しい所です。

 訪問日:2012年07月03日


山梨県南アルプス市:県道二十号沿いの道標

2012年06月25日 20時58分55秒 | 登城記・史跡訪問



 先日、仕事で南アルプス市で見かけた道標です。随分大きくて立派な物だったので、最初は何の石碑かと近づいたら道標だったので、驚きました。風雨による侵食も少なく、保存状態も良く、私のようなアマチュアでもハッキリ読める物でした。説明も詳しく、今まで見た道標とは全然違うと思っていたら、昭和四年に建てられた物であるとの事。それは私でもハッキリ読める筈だ(^^;)

 この道標が面している道路が開通した、昭和四年に三月に建立されたと掘られています。左面には「向右釜無川ヲ経テ甲府方面ニ通ス」と掘られています。


 この道標は南アルプス市消防団八田分団第3部の前に建っていますが、丁度ここの前で分岐しており、この分岐点(追分)の道標になっています。この分岐点の双方向についても詳しく掘られているのですが、こっちは逆光で撮影してしまい上手く読めないので、再度訪問して撮影してきたいと思っています。
 それにしても石の道標って明治で作るのを辞めたと思っていたので、一桁とは言えども昭和になっても石の道標が作られていたとは知りませんでした。確かに昭和一桁の技術力では鉄製の看板より、石の道標の方が保存力が優れているのかもしれませんね。このような昭和の道標が在ると判ったので、今度はこのような近代の道標も探してみたいですね。

訪問日:2012年06月01日


甲斐:日ノ出城址、松雲寺

2012年06月11日 22時52分06秒 | 登城記・史跡訪問


 日ノ出城址遠景

 日ノ出城は戦国時代初期の1400年代に築かれ、周辺の一揆集が立て篭もった城と言われていますが、武田信虎・信玄・勝頼の時代には、既に廃城になっていました。そんな日ノ出城が再び歴史の表舞台に出るのは、武田勝頼が織田信長によって滅ぼされ、その信長も武田家が亡んだ三ヶ月後に本能寺で横死した事によって発生した天正壬午の乱の事です。

 天正壬午の乱では、徳川家康と北条氏直がそれぞれ軍勢を率いて、七里岩台地上の新府城に家康が、同じく七里岩台地上の若神子城に氏直が入城して対陣していました。そんな七里岩台地の東方、塩川の畔にそびえ立つ既に廃城となっていた日ノ出城に、家康は軍勢を入れて改修し拠点の一つとします。日ノ出城は七里岩台地東方の北条勢の拠点である、大豆生田砦と丁度対陣する場所に位置しており、高所に位置する分日ノ出城の方が有意だったでしょう。大豆生田砦は最終的には堂ヶ坂砦からの攻撃で陥落しますが、日ノ出城はこの堂ヶ坂砦からの攻撃を側面から支援したと言えると思います。


 日ノ出城址の碑
 そのような天正壬午の乱で活用された日の出城ですが、現在は遺構が判り易く残ってはおらず、判り易いのはこの碑くらいです。


 日の出城址本丸跡と思われますが、遺構らしい物は見つける事は出来ませんでした。


 日の出城址もまた、残念ながら高速道路(中央道)により敷地を分断されています。

 
 松雲寺
 日ノ出城と同じく七里岩台地の東方、堂ヶ坂砦と日の出城との中間地点に松雲寺は在ります。平山優著『天正壬午の乱』に、松雲寺も徳川方の拠点になった可能性が高いと書かれている場所です。色んなサイトを見てみると、松雲寺内で遺構と思われる場所を見つけている方が居ましたが、私には発見する事が出来ませんでした。

訪問日:2012年5月31日


甲斐:小山城址

2012年06月03日 20時29分14秒 | 登城記・史跡訪問


小山城址遠景。

 甲斐小山城は甲府盆地の南部に位置する、鎌倉街道沿いに在った城です。甲斐内の城と言っても、信玄の父である武田信虎の時代に廃城同然になっており、信玄・勝頼の時代には歴史の表舞台に出る事はありませんでした。そんな小山城が再び歴史の表舞台に出るのは、武田勝頼が織田信長によって滅ぼされ、その信長も武田家が亡んだ三ヶ月後に本能寺で横死した事によって発生した天正壬午の乱の事です。
 当時甲斐には徳川家康と北条氏直がそれぞれ出兵して、同じ七里岩台地上に位置する新府城(徳川)と若神子城(北条)にて対陣しました。この時に家康は、廃城となっていた小山城に鳥居元忠の軍勢を入城させ、北条税主力と対陣する新府城の背後を守らせます。そして家康が危惧したとおり、膠着した戦況を打破しようと北条氏は別働隊を編成し、相模から甲斐南東部に入る御坂峠に御坂城を構築し、この地から北条氏忠率いる凡そ一万が甲府盆地目指して進軍を開始します。この時に小山城を守っていた鳥居元忠の軍勢は千五百足らずでしたが(平山優著『天正壬午の乱』)、元忠が兵力を分散した北条勢を確固撃破して、北条勢を撃退します(黒駒合戦)。
 その後徳川家と北条家は和睦して、甲斐は徳川家の領土となるのですが、天正壬午の乱で家康を勝利させた主役の城を新府城とするのならば、小山城は助演の城とでも言うべきでしょうか。


小山城址の碑。碑を読むと明治維新百年記念に建てられた碑だそうですが、小山城と明治維新は何の関係も無いような・・・。

 現在の小山城址は、郭内は整地されており遺構は何も残っていないものの、外郭・空掘・土塁は現存しており、しかも保存状態も良いので見応えがあります。


 郭内の現状。すっかり整地されてしまっていますが、特に公園化されるでもなく、単なる空き地状態です。看板によれば地元の方々のレクリエーションの場になっているらしいですが。




土塁跡。土塁跡は結構高く、郭内から2~3m位の高さがあり、保存状態も良いです。

 


空掘跡。深さもあり幅も広いですし、空掘の外にはまた土塁が在るので、中々堅固な城に思えました。




土塁から甲府方面・石和方面を見て。小山城址の遠景を見てもらえば判るとおり、その名の通り小山(丘?)の頂上に築かれいる小山城からは甲府盆地を一望出来、また鎌倉街道にも位置する小山城の戦略的価値の高さが伝わってくると思います。

 
小山城址の虎口跡付近に建つ馬頭観音。小山城址が鎌倉街道沿いの交通の要所に在った事を実感させてくれます。

 このように郭内の遺構こそ皆無だったものの、外郭や土塁や空掘などは保存状態も良く見応えのある城跡でした。惜しむらくは鳥居元忠が北条勢を撃退した黒駒合戦の古戦場跡の碑が存在しなかった事ですね。確かに小山城は、鳥居元忠が黒駒合戦で勝利した拠点となった城ですが、肝心の黒駒合戦の古戦場跡が残っていないのは寂しいです。
 今回は黒駒合戦の徳川方の拠点となった小山城址を訪れましたが、今度は北条方の拠点となった御坂城址を訪れたいと思います。

訪問日:2012年06月01日


栃木県那須郡:三斗小屋宿跡・大峠

2012年05月27日 14時31分47秒 | 登城記・史跡訪問


 三斗小屋宿跡の現況

 2012年の5月19日から20日に掛けて、栃木県那須連峰内の三斗小屋宿跡と大峠を訪問してきました。今回の訪問は、昨年の秋に訪問した板室・大田原城址訪問の続きに当たります。戊辰野州戦争の際、会津中街道の宿場町である三斗小屋宿を拠点とした、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍と会津藩兵の連合軍(以下、「会幕連合軍」と呼称)の第一大隊は板室・大田原方面への進出を意図するものの、新政府東山道軍に撃退され、三斗小屋宿に撤退します。と、ここまでが前回の訪問での行程です。
 三斗小屋宿に後退した会幕連合軍は、以降は麓に降りてる事はなかったものの、8月21日に行われた新政府軍の母成峠攻撃に呼応したのか、白河城在城の新政府軍(黒羽藩兵・館林藩兵)が三斗小屋宿攻略を目指して出陣します。この新政府軍黒羽藩兵・館林藩兵と、三斗小屋宿を守る会津藩兵との間で繰り広げられたのが、三斗小屋宿攻防戦です。結局この戦いは新政府軍の勝利に終わり、更に進軍を続ける新政府軍を防ぐ為に、会津藩兵が布陣したのが会津と野州の国境である大峠です。
 今回はこうした野州戦争終盤の戦いの舞台となった、三斗小屋宿跡と大峠の古戦場跡を訪問してきました。本来ならば、三斗小屋宿と大峠の戦いの説明を交えながら画像を紹介させて頂きたい所ですけれども、三斗小屋宿・大峠の両攻防戦はまだ調べた事がないので、今回は画像のみの紹介とさせて頂きます。

 当日は沼原湿原の駐車場から出発。旧会津中街道と思われる道を辿って、三斗小屋宿跡を目指します。ただし旧会津中街道と、現在の登山道は異なっている部分が多く、これは旧会津中街道なのかと思いながら歩いて行きました。
 
 そのような中で見つけた、道沿いに建つ地蔵。地蔵が建っていると言う事は、この道が旧会津中街道の可能性が高いと思い、嬉しくなりました。画像は地蔵と、旧会津中街道と重なっていると思われる登山道。


 沢に架かる丸太橋。かなり流れの速い沢なので、心もとない橋なのですが、「橋が架かっているだけマシ」とその後実感する事になります・・・。


 日本とは思えない、現実離れした美しい風景。一日目はまだ体力に余裕が有ったので、綺麗だなと思った風景を撮影する余裕がありました。


 大きい沢である湯川に到着したら、昨年の震災の影響か、崖崩れにより橋が流されていました(汗)。しばし衝撃的な光景に目を疑いましたが、諦めて渡渉する事になります。水が冷たく、沢の流れに足を取られてしまいそうな危険な行為だったものの、非日常的な行為に内心ワクワクしていたりして(^^;)

 
 難所を乗り越え、遂に三斗小屋宿跡に到着。板室側の宿場入口付近に建つ、戊辰戦死若干墓。


 戊辰戦死若干墓と旧会津中街道


 そして遂に辿り着いた三斗小屋宿跡。ここを訪れる為に、今回の旅に参加したと言っても過言はありません。画像を見て頂ければ判るとおり、決して広いスペースが在った訳ではありませんけれども、那須連峰内では貴重な平地ですので、宿場町が形成されました。
 また現在の山道の左側に、かつての水路跡が伺えますが、同行した大山師匠によれば、当時の街道はこの水路の両脇に在ったと言う事です。この為に石灯籠が現在の山道脇ではなく、水路脇に建っているのが判ると思われます。


 冒頭に書いたとおり、会幕連合軍の拠点となった三斗小屋宿は、新政府軍と会幕連合軍との戦いに巻き込まれて、その戦火で消失してしまいます。しかし住民の方達の懸命な努力によって一時は復興するものの、高度成長期の昭和32年に全ての住民が下山して廃村になります。当時の建物は全て失われてしまったものの、石灯籠や石仏が多く現存し、ここがかつての宿場町だったと言うのを実感させてくれます。


 三斗小屋宿跡の会津側入口に建つ石仏と、白湯山神社(?)の鳥居。江戸時代までは白湯山信仰が盛んだったらしく、この信仰から三斗小屋宿に訪れる人も多かったらしいです。


 その後九十九折を登って、本日の宿泊地となる三斗小屋温泉の「煙草屋」に到着。こちらは露天風呂が有名らしく、夜に星空を眺めながらの入浴を楽しむ人も多いらしいものの、疲れ果てていた私は六時には爆睡してしまいました。


 さて翌20日、この日の目的は野州・会津(陸奥)の国境である大峠と言う事で、登山開始です。


 三斗小屋温泉から大峠に至る山道。山から流れてきた水により、もはや山道なのか沢なのか判りません(汗)。ただしこのような物はまだマシと後に実感する事に・・・。


 昨日の渡渉に続いての難所。画像を見ても判りづらいかと思いますが、断崖絶壁になっており、崖上から垂れ下がっているロープを使ってよじ登る事になります(汗)。ただこの時点ではまだ余裕があったので、「川口浩探検隊みたい」と楽しみながら登っていました(^^;)。


 江戸時代の頃は石畳が綺麗に敷かれていた会津中街道だったのでしょうけれども、年月による風化により石の全体が露出するようになり、本来ならば歩行を容易にする為の石畳が、今や歩行を阻害する障害物になってしまっています。


 石畳が無い道も在るものの、柔らかい土上の山道では、今度は木が生えて進行を阻害します。ところで所々石畳が在ったり無かったりする箇所がありました。これは石畳の無い箇所は、後年登山者が開拓した登山道と言う事なのかしら?。


 そんなこんなで、やっとの事で大峠に到着です。右側には大峠の難所を越えようとして命を落とした旅人を弔う石仏が建っています。


 大峠に残る塹壕跡。見づらいかもしれませんけれども、画像中央に二本の筋が有るのが見えるかと思います。この内右側が山道で、左側が会津藩兵が掘ったと思われる塹壕跡になります。この塹壕は大峠まで繋がる山道に「丁字」状に掘られており、一列縦隊で進む新政府軍を、横一線で銃撃出来るように掘られています。
 こうして塹壕を掘って会津藩兵が布陣する大峠に、三斗小屋宿を占領した新政府軍は8月24日に攻撃を開始します。優れた陣地を築いた会津藩兵だったものの、この陣地を守る戦力は無く、殆ど防戦らしい戦いはせずに会津藩領へ撤退しました。
 しかし会津藩兵がこの大峠で決死の防戦をしても、結果は同じだったかもしれません。あまり知られていませんが、この三斗小屋宿・大峠攻略戦に参加した下野黒羽藩兵は、優れた装備を持つ軍勢でした。前藩主が西洋軍事に注目していた事により、戊辰戦争には兵数こそ少ないものの、後装施条七連発銃のスペンサー銃を標準装備とする優良部隊を参加させています。三斗小屋宿・大峠攻防戦にはこの黒羽藩兵が3個小隊派遣されており、これは精神論重視で火力に劣る会津藩兵一個大隊に匹敵する戦力だと思われます。


 大峠から南方面を見下ろして。肉眼では確認出来ませんでしたが、この光景の中に三斗小屋宿が在った筈です。


 大峠の古戦場跡を確認したので、ここから三本槍岳を抜けるルートを辿る事になるのですけれども、私自身の体力の無さから、この撮影をした後は撮影をする気力が無くなったので、この以降の画像はありません。本当はこの後の三本槍岳~朝日岳~茶臼岳の行程が一番の難所であり、特に朝日岳は非現実的な美しい風景だったのですが、この時は半ば遭難を覚悟していたので、撮影する余裕はありませんでした。今、思えば無理をしてでも撮影しておけば良かったと後悔しているものの、当時は「無事生きて帰れるか」で頭がいっぱいだったので、そこまで頭が回りませんでした。尚、足を引っ張り続けて、それこそ遭難の危機に巻き込んでしまった友人二人には、心からお詫びさせて頂きたいと思います。
 そのような訳で、三本槍岳~朝日岳~茶臼岳の画像は撮影出来なかったものの、無事生きて下山出来た事に感謝しながら、今回のレポートを書かせて頂きました。


訪問日
2012年05月19日~20日
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