歴声庵

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因幡:鳥取城址

2012年02月12日 17時12分56秒 | 登城記・史跡訪問


 鳥取城址遠景:本丸が在る久松山の麓には、二の丸の石垣が見れます。

 2011年9~10月に鳥取市立歴史博物館やまびこ館で開催された、「因州兵の戊辰戦争」の企画展示を観に行った際に、鳥取藩(因州藩)の居城だった鳥取城址に訪問してきました。鳥取城と言えば秀吉の兵糧攻めが有名ですが、そのような篭城戦が行われた事で判るとおり、中世から存在していた山城でした。そして戦国時代が終り近世に入るに従い、麓に石垣を持った近世城郭として拡張されます。こうして鳥取城は久松山の麓に石垣で築かれた近世の平山城と、久松山の中腹から山頂に掛けて築かれた中世の山城が融合した珍しい構造になっていると思います。この近世平山城と中世山城の融合としては、他に知っている物として奥州二本松城がありますが、個人的にはこのタイプの城が大好きです。


 二の丸の登り口に在る復元城門。戊辰戦争の際に鳥取藩兵を率いた河田景与も、この城門を潜った事だろうと思ったら、感慨深かったです。


 二の丸の石垣を見上げて


 同じく二の丸の石垣


 三階櫓跡。明治維新の時には、ここに建っていた櫓が鳥取城のシンボルであり、戊辰戦争に参加した鳥取藩兵はこの櫓を見て出征して行った事でしょう。


 三階櫓から二の丸の石垣を見下ろして


 二の丸菱櫓跡を見て


 二の丸の東南方面を見て


 二の丸から久松山山頂を見て


 二の丸の北東方向に位置する天球丸跡


 山頂の本丸に続く山道


 山頂の本丸跡


 本丸跡に建つ天守櫓跡


 天守櫓跡から北側の日本海方面を見て。鳥取城攻防戦の際に城将だった吉川経家は、織田家の羽柴勢の攻勢を受ける鳥取城の危険性は知りつつも、日本海ルートからの補給さえ確保すれば鳥取城は十分守りきれると判断して入城したと伝えられます。実際天守櫓跡から日本海方面を望めば、鳥取城と日本海は指呼の距離であり、経家が日本海からの補給を期待したのも十分納得出来ます。
 しかし秀吉はこの指呼の間に陣城群を築いて、鳥取城と日本海の補給線を完全に分断し、補給線を断たれた鳥取城は落城し、城兵の命を救う為に城将である経家は自刃しました。


 鳥取城址に建つ吉川経家の像。戦いに敗れて自刃した経家でしたが、その勇戦ぶりと潔い最期により、義将として後世に名を残す事になるのです。
 
 戊辰戦争における鳥取藩兵の活躍に注目している身としては、いつか訪れたいと思っていた鳥取城址に遂に訪問する事が出来ました。話に聞いていた近世城郭の平山城と、中世山城の組み合わせは迫力が有り、山頂の天守櫓跡から見た風景は絶景でした。惜しむらくは麓の二の丸を散策していた時は快晴だったのに、山頂に着いた時には天気が悪くなり、折角の風景の見晴らしがあまり良くなかった事です。これは運なので仕方ないかもしれませんが、さっさと山頂に登っておけば良かったとついつい後悔してしまいます。 

 訪問日:2011年10月29日

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