黒羽城は黒羽藩1万8千石の居城です。戊辰戦争の際、黒羽藩は1万8千石の小藩とはいえ、開明的な前藩主大関増裕の指導により優良な装備を誇る黒羽藩兵は新政府軍から重要視され、その活躍から戦後1万5千石もの賞典禄を得ます。
そんな黒羽城を、2011年11月の野州戦争板室口・大田原城の戦い古戦場を訪れた時に一緒に訪れたのですが、よく考えると黒羽藩兵は確かに戊辰戦争で活躍したものの、黒羽城その物は戊辰戦争の戦場にはなっていないのですよね。と言うわけで黒羽城址の画像を野州戦争板室口・大田原城の戦いの記事に載せるのも変だと思い、城址訪問としてブログの方で公開させて頂きたいと思います。
黒羽城址は今は廃線となった東野鉄道の黒羽駅から離れていた事もあり、遺構がよく残っているのが特徴です。
上記二枚は会所跡付近の空堀と土塁。
本丸付近の土塁
本丸外の空堀。判り難いかもしれませんが枡形になっています。
黒羽城の特徴として、1万8千石の小藩にも関わらず、画像を見れば判るとおり、1万8千石とは思えない程に本丸が広大な面積を誇っています。これは元々黒羽城を築いた大関氏が那須七人衆と言う事もあり、自身の手勢だけでは無く、他の那須氏の軍勢が篭れるように本丸を広くしていたからと言います。尚、この時の大関氏の仮想敵国は常州佐竹氏で、佐竹氏の侵攻に備えて天正年間に築城されたそうです。
更にその後の関ヶ原合戦の際には、徳川家康により対上杉景勝公の拠点として、更に黒羽城は拡張されました。これが1万8千石の小藩の居城とは思えない程、黒羽城の本丸の面積が広い理由かと思われます。
最後になりますが、戊辰戦争で黒羽藩兵活躍の礎を築いた黒羽藩兵第15代藩主大関増裕は慶応3年12月、つまり戊辰戦争が始まるほんの一ヶ月前に、狩猟の最中に自身の猟銃で「病死」すると言う「奇病」で世を去る事になります。大関増裕の「病死」については郷土史家さんもあまり手掛けていないので、興味がある方は調べてみてはいかがでしょうか。尚、黒羽藩には藩主の押込が数件発生していると言う藩風があります・・・。
訪問日:2011年11月26日
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でもわりと近代までは明確に「病死」とされていたのですよね。却って地元の郷土史家さんにとっては扱いづらいテーマなのでしょうか。