歴声庵

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甲斐:能見城址、穴山氏館跡

2011年12月07日 22時55分35秒 | 登城記・史跡訪問


 新府城址から見た能見城址遠景

 武田勝頼が織田信長の侵攻に備えて築城した新府城の北部、新府城が建つ同じ七里岩台地上に能見城址は在ります。この能見城については名前は知っていたものの、訪れたことが事がなかったのですが、今回仕事で近くに立ち寄ったので訪れていました。
 通説では能見城は新府城の支城として築かれたと言われていますが、能見城址の最寄り駅である穴山駅には、「穴山氏の詰めの城」と解説版に書かれていました。
 穴山氏と言えば、信君が河内郡(現身延地方)を本拠にしていた事から、そっちが発祥と思いがちですが、実際の発祥は韮崎地方の穴山であり、穴山駅の近くには穴山氏館跡があります。


 穴山氏館跡。もっともこの案内板の向こうは雑木林で、ここを掻き分けて遺構を探す気合は私にはありませんでした(汗) ちなみにこの案内板は道の行き止まりにあるので、車で行った私は四苦八苦してUターンする事になりました(汗) 案内板の左手には更に道は続いていたものの、明らかにやばそうだったので、この看板の付近でUターンしました(大汗)


 穴山駅から見た能見城址。穴山駅に戻って、ここから能見城址に登りますが、正直普通に主郭に登った限りでは遺構は見当たらず、普通に小山に登っている感じですね。草木を掻き分ければ、遺構も見つける事が出来るらしいですが、そこまでの時間が無いので、今回は真っ直ぐ山頂(主郭)を目指します。


 しかし到着した山頂(主郭)にも遺構はおろか、能見城址と示す石碑すらなく、貯水施設の柵の前に看板が置かれているだけと言う、何とも残念な状況でした(汗) 
 正直山頂を見た感想としては主郭の面積も狭く、軍勢が篭るだけのスペースはとても無いと思うので、城と言うより砦だったのではないかと思いました。能見城址からは新府城址は見えませんでしたが(草木により視界が遮られているので)、新府城址からは能見城址は見えるらしいので、城としての規模は小さくても、新府城の前線基地としての意義はあったのでしょうね。


 七里岩大地を北方から見て。この七里岩台地の麓には、穴山氏の菩提寺である満福寺が在りますので、確かに能見城が穴山氏の詰めの城だった可能性は高いのかもしれませんね。
 ただ能見城を築いたのが穴山氏だったのにしろ、勝頼だったのにしろ、この能見城を最も活用したのは天正壬午の乱での徳川家康だったたと言うのは歴史の皮肉と言うべきでしょうか・・・。
 追記:2012年01月07日
 本記事では能見城の軍事的価値は低いのではないか?と書きましたが、天正壬午の乱で、この能見城と滞陣した北条勢の前線拠点である大豆生田砦は平地に築かれているので、高知に位置する分、能見城の軍事的価値は大豆生田砦を上回っていたと評価を改めました。

 訪問日:2011年11月25日

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