先日ネットオークションで入手した、20ページ足らずの小冊子です。米沢藩の歴史を調べている置賜郷土史研究会の発行という事で落札したものの、僅か20ページ足らずでは大した事は書かれていないだろうと、正直読む前は思っていました。
実際読んでみても、米沢藩兵の小隊が30人で構成されていたとか(実際には十数人の小隊もあれば、五十数人の小隊もある、定員すら確立されていない名前ばかりの小隊編成)、同じく大隊は10個小隊で構成されていたとか(これも6個小隊による大隊もあれば、十数個小隊による大隊もあった)誤りが多く、また北越戦争の概略も内容が薄いなど正直資料としてはあまり役立たないものでした。
しかし一方で平潟方面という、米沢藩から見た戊辰戦争史の中では、従来殆ど注目されていなかった戦線について書かれていたのには驚きました。この本によれば平潟口に応援に赴いたのは、越後戦線に派遣されていた江口縫殿右衛門大隊(6個小隊)という事だそうですけれども、言われてみれば確かに江口大隊の名前って途中から見なくなりましたね(笑) 私はてっきり江口大隊は分割されて、所属の小隊は大井田修平大隊か高坂勘解由大隊に編入されたと思っていたのですけれども、そうですか平潟口に派遣されていたのですか・・・。これが判っただけでも、この本を落札した価値はあったかもしれません(笑)
ところでどの本を読んでも、平潟口に派遣された米沢藩兵の評判は悪いので、私はてっきり急ごしらえの農兵隊が派遣されていたと思っていました。しかし実際に平潟に派遣された米沢藩兵は、栄光ある五十騎組(藩祖上杉景勝公の旗本衆の子孫)による江口大隊と書かれているのを読んで、栄光ある五十騎衆があのような醜態を見せたのかと、読み終わって頭が痛くなってきました・・・(涙)
まず驚いたのは、この徴兵隊が三十二番隊まで存在する(ただし通しで三十二番隊まで全て存在したかは不明)総兵力二千名にも及ぶ大兵力だった事ですね。しかし大兵力と言っても一部隊が少ない部隊は二十数名、多い部隊は三百名余という部隊毎の定数がばらばらな組織としては運用に難のある軍勢だったと思います。そのせいかどうかは判らないものの、結局実戦には前述の五番隊と十二番隊しか参加しなかった模様で、殆どが警護任務に従事していたみたいです。
また興味を惹かれた事として、旧赤報隊が七番隊として徴兵隊に再編成されていたのには驚きました。赤報隊についても勉強不足の為、この徴兵七番隊に赤報何番隊が編入されたかは判りません。しかしこの赤報隊を徴兵隊に編入した事からも、「新政府が草莽隊を悉く弾圧した」というのは俗説に過ぎず、理由はともかく相良達幹部の行動が粛清に繋がったと考える方が自然ではないのでしょうか。
以上、つれづれと徴兵隊について書かせて頂きました、しかし徴兵隊についてはまだまだ知らない事が多く、また興味深い対象だと思いますので、今後も少しづつ調べていきたいと思っています。
先日知人の方々と話をしている際、ふと江藤新平の話になり、その中で佐賀の乱における江藤の逃亡に話が及ぶと、「男らしくない」と否定的な意見が多かったのに驚きました。何故かと言いますと、佐賀の乱で敗北した際に、自決せずに捲土重来を謀り逃亡した事こそ、私が江藤を支持する最大の理由だからです。
今夏コミの幕末ヤ撃団様の新刊で、薩摩藩の気質について「寡黙で、何か道を誤ったら黙って腹を切る」のが美徳とされていたと説明がありました。このような薩摩藩の気質を好んでいる方からすれば、議論好きで腹を切る時(佐賀の乱の敗北が決まった時)に逃亡した江藤の事を、卑怯者と好ましく思わないのは当然かもしれません。
しかし納得出来ない事があったら議論すべきと思う私にとっては、「寡黙で、責任を取る時は黙って腹を切る」という薩摩の気質は、正直信じられないものです。そして自己主張はすべきという考えの私としては、議論好きといわれる長州に輪を掛けて議論好きの佐賀、その中でもずば抜けて理屈っぽいと言われる江藤の気質が好ましく写るのです。
何より冒頭に書いた通り、江藤が佐賀の乱で敗北した際に捲土重来を謀って逃亡した事こそが、私にとって江藤を支持する最大の理由です。反乱を起こしたからには、勝利を得るまで最後まで戦い抜くのが反乱指導者の責任と私は思っています。そしてその考えからすれば、再起を計って各地を転々とした江藤は反乱首謀者(江藤が本当の意味で佐賀の乱の首謀者だったかというのは別の話として)としての責任を全うしたと思うのです。
どうも日本では敗れたら自決する事が美徳という考えがあるかと思います、しかし暴言かもしれませんが、私としては自決するくらいなら降伏して生き長らえた方がマシだとすら思っています。死んでしまったら得られるのは名誉だけで、実利的な物は何も得られません。日本的な美意識には反しますが、死んで名誉を得るよりも、生きて実利的な物を得る方が大事だと私は考えています。そしてどんな名誉のある立派な死よりも、どんなに惨めで情けないとしても生の方が私は価値があると考えるのです。
このような考えから、佐賀の乱で敗北した際に江藤が逃亡したのは、確かに卑怯な行為だったのかもしれません。しかし江藤は名誉と言う観念的なものよりも、実利的なもの(再起して次こそ新政府を倒す)を選んで、それを得る為に逃亡したのではないかと私は解釈しています。
以上のように今回は江藤新平逃走の是非について書かせて頂きました。今回面白いと感じたのは江藤に批判的な方も江藤支持の私も、江藤が行なった行為に関しての認識は同じで、それに対しその人が持つ価値観によって好意的に感じたり、批判的に感じたりするというのを改めて実感しました。注意はしているつもりなものの、どうしても一人で歴史を学んでいると視野が狭くなってしまいますので、このように自分と価値観の違う人の意見を聞くのは勉強になり、そして楽しい事だというのを今回の件を通じて改めて実感した次第です。
*今回の雑記は試験的に短文形式で、本文を序論・本論・結論の三部構成で書いてみました。目下試行錯誤中なので、読みづらい面があるかと思います。しかし読みやすい文を書けるようになるため努力していますので、これからも弊ブログにお付き合い頂ければ幸いに思います。
米沢藩が戊辰戦争を迎えて、言わば近代の参謀本部の様な、政治から軍事を独立させた軍政府を設けた事は先見の明があったように思われます。しかしその様な軍政府のスタッフに大熊のような軍事テクノクラートを抜擢出来ず、一方で非戦派にも関わらず色部長門や若林作兵衛等の藩首脳部を軍政府に招き入れた事は、結局米沢藩の軍政府は形式だけの存在に過ぎなかったのではないかと疑問を抱いています。ですので、この米沢藩軍政府については、これからも調べていきたいと思います。
当サイトの北越戦争の記事を書くのに活用させて頂いた資料です、しかし部分部分的には読んだものの、一冊通して読んだ事はなかったので、今回通しで一冊読んでみました。
この本は一応幕末の政治動向についても語られているものの、これについては松代藩の立場から仕方ないとはいえ、完全に「王政復古史観」で書かれており、こちらは見るべき記述はありません。また初期の松代藩兵を率いた岩村高俊を知勇兼備の名将として描いているのも特徴でした、岩村が人間的にどうだったかについては私には判りません、しかし軍事指揮官としての手腕があったと思えるような史料は見た事がない以上、この岩村に対する評価も王政復古史観によるものだと言わざるを得ません。他にも「尾張藩の隊長にはろくなものは居なかったが、一方薩長の隊長は素晴らしい人物が多かった」と書いているものの、その人間的にも素晴らしい長州藩の隊長の名前が「防長維新関係者要覧」に載っていないなど、正直松代藩以外の記述に関しては、信用出来る資料ではないと言わざるを得ません。
この様に松代藩以外の記述に関しては信頼度が低いものの、松代藩兵自身の動きについては有益な資料だと思います。松代藩兵の働きを過大評価する嫌いはあるものの、松代藩兵の編成の特徴、狙撃隊と小銃隊(小隊)の違い、各部隊の士官名などについてはこの資料以上に有益なのは見た事がありません。実際これを読んで初めて、北越戦争に参加した松代藩兵12個小隊の編成が判るなど(五~八番狙撃隊・一~六番小隊・一~二番遊軍)、非常に重宝しました。
しかし松代藩兵の動きをこれと復古記の記述だけに頼るのは危険かもしれませんので、盆休みにでも長野市史でもコピーしてきたいと思います。
ところでふと思ったのですけど、松代藩主の真田家というのは日本人が大好きな存在ですし、戊辰戦争でも松代藩兵は活躍したのですから、幕末の松代藩の記事というのは意外と需要があるのでは思っているのですけど、商業・非商業問わずこの幕末の松代藩を取り上げた記事は、雑誌歴史群像での大山格先生が書いた記事しか見た事が無いのが不思議だったりします。
先日ようやく墓所を訪れる事が出来た世良修蔵ですが、この世良が暗殺された理由については『世良が奥羽諸藩の憎しみを買ったから』というのが一般的に言われています。私もこれについて「世良は会津藩を討伐するという大総督府の命を忠実に守っただけだが、この妥協の無い態度が事なかれ主義の奥羽諸藩の憎しみを買った」「世良の故郷の周防大島は、会津藩が主戦派だった幕長戦争によって戦災に見舞われ、世良の同士・知人が数多く命を失った為、世良は会津藩に強硬な態度を取った為に事なかれ主義の奥羽諸藩の憎しみを買った」の二つと解釈していたのですが、先日読んだ原口清氏著の「戊辰戦争」に興味深い内容が書かれていたので引用させて頂きます。
「これ(世良修蔵の態度)は東北諸藩贔屓の戊辰戦争史家がしばしば言うような、「無理解」や「非道」「傲頑」といったものではなく、維新政府の取っていた基本方針の確認である。(中略)彼(世良)は総督が嘆願書を受け取った以上、その回答は出さなければならないが、その場合も名義を失わないよう「朝敵不可入天地ノ罪人ニ付、不被為及御沙汰、早々討入可奏成功」とう断固たる回答を与え、彼等が不満として反論する場合は、適当にごまかしてその場を切り抜け総督は早く白河城に転陣すること、世良自身は「奥羽皆敵ト見テ逆襲ノ大策」をたてるため、急遽江戸の大総督府の西郷参謀と相談し、更に大阪にもゆき、「大挙奥羽ヘ皇威ノ赫然到候様」にしたい。「(会津を)此歎願通ニテ被相免候時ハ、奥羽ハニ三年ノ内ニハ朝廷ノ為ニアラヌ様可相成、何共仙米俗論朝廷ヲ軽スルノ心低、片時モ難図奴に御座候。右大挙ニ相成候時ハ、払底ノ軍艦ニテモ酒田沖ヘ一ニ艘廻シ、人数モ相増、前後挟撃ノ手段ニ到候他到方無」と。ここには奥羽列藩と真っ向から対立する態度がしめされている。
以上、少々長い引用になってしまいましたが、原口氏は本書の中で諸藩から新政府に出仕した藩士達が、戊辰戦争が進む中で絶対主義官僚化した(これには当然世良も含まれますが)と説明し、絶対主義政権を成立させる為には全ての封建諸侯を屈服させなくてはならず、最大の封建諸侯である徳川氏を屈服させた以上、残る敵対勢力は会津藩であり、新政府に対する全面恭順を拒む会津藩と妥協する事は、身分差別により成立する封建主義を存続させる事になり、絶対主義政権により国内を統一するという使命感を持つ世良としては、会津藩・仙台藩を代表する封建主義勢力と妥協は出来なかったと説明しています。これは革新派の絶対主義官僚である世良と、保守派の封建主義権力である奥羽諸藩との対立で、身分差別により成り立つ封建主義を守ろうとする奥羽諸藩としては、封建主義を否定しようとする世良を許す事は出来なかったのでしょう。
これまで「奥羽諸藩贔屓の人は世良を矮小化している」と常々思っていた私ですが、この原口氏の説明を読んで、世良が奥羽諸藩に憎まれていた理由を冒頭に書いた通りにしか解釈していなかった私も世良の事を矮小化して解釈していたと猛省しました。この「革新派の絶対主義官僚である世良と、保守派の封建主義権力である奥羽諸藩との対立」という図式で考えれば、世良が暗殺されたのは国内を絶対主義政権で統一する為に封建主義勢力と妥協しなかった為に、保守派の反動勢力である仙台藩の凶刃の犠牲になったのだと実感しました。
また身分差別による封建主義を守りたかった保守派の奥羽諸藩としては、封建主義を脅かす絶対主義官僚の世良は、よく言われるように確かに悪魔の使いだったのかもしれません。
この様に原口氏の唱えた「革新派の絶対主義官僚である世良と、保守派の封建主義権力である奥羽諸藩との対立」との説は、斬新であり読み終えた本当に感銘を覚えました。本当にこれまで世良の事を調べているつもりだった私としては、本当に目から鱗が落ちる衝撃的な意見でした。今後も世良については調べていくつもりですが、今後はこの原口氏の唱えた「世良は革新派の絶対主義官僚だったため保守派の奥羽諸藩に暗殺された」という世良の暗殺を「革新派絶対主義権力と保守派封建主義権力との対立の犠牲になった」の説を支持して世良の事を調べていきたいと思います。その様な意味では世良を調べるに当っても、原口氏の「戊辰戦争」は読んで良かったと実感しています。
どうも私は今まで戊辰戦争の戦略・戦術レベルの事を調べる事ばかり重視して、当サイトでも戦略・戦術レベル重視の記事を書きそれに満足し、逆に戊辰戦争の政略レベルの話や戊辰戦争の性格についてなどは、正直今まで真剣に学んだ事がありませんでした。しかし今回の夏コミ原稿執筆を通して今更ながら自分の勉強不足を実感した為、優れた先行研究を読もうとGW辺りから何冊か購読し始めました。
そんな訳で通史として原口清氏の「日本近代国家の形成」と遠山茂樹氏の「明治維新」、戊辰戦争研究書である原口清氏の「戊辰戦争」と石井孝氏の「戊辰戦争論」の四冊を購入し、本日やっと読み終えました。四冊とも学ぶ事がたくさんありましたが、特に後者二冊は「明治新政府は絶対主義政権か、単なる封建諸侯同盟か」「徳川慶喜の目指した体制は何だったのか」「奥羽越列藩同盟の性質」など、正直今まで真剣に考えなかった事柄を考える機会となりました。
特に後者二冊は一回読んだだけではとても内容を理解出来ないと思いますので、この優れた先行研究をもう一度読み直して、その上で感想とそれに対する卑見を述べさせて頂きたいと思います。
ただ世良の奥羽鎮撫総督府参謀時代と殺害されるまでの動向は、記述不足の感があるので、もっと勉強し加筆して来年には今回の記事を、世良の生い立ちから幕長戦争大島口までを書いた前編と、幕長戦争後から福島で殺害されるまでを書いた後編の二分構成にしたいなと思っています。
また今回の記事を書い終わって、今無性に宮城県白石市の世良の墓所を訪れたい気持ちが沸き起こっています。二月・三月は雪が多くて墓所も埋まってしまっているでしょうが、正月だったらまだそんなに積もっていないのではと思うのですが・・・。
何はともあれ数年間ずっと書きたいと思っていた記事を書き上げる事が出来たので、本当に良かったです。
そんな訳でようやく今日の更新となったこの記事ですが、今回初めて軍事史以外の記事を書いたのですが、こうやって自分で記事を書くと今まで知ってるつもりで知らなかった事をたくさん知る事が出来て本当に勉強になりました。また専門的なサイトとは比べ様もありませんが、私なりに基本的な箇所は押さえた記事のつもりですが如何でしょうか?
ただ書いた文章を読み直すと一橋慶喜・大久保利通・大村益次郎・高杉晋作といった特定の人物を中心に書いてしまったので、いささか英雄史観の強い文章になってしまいましたが、未熟故とお許し頂ければ幸いです。
そんな訳で幕長戦争に至るまでの経緯を書きましたので、続いてはいよいよ我ながら楽しみにしている幕長戦争大島口の戦いの戦況について書きたいと思います(^^) 大島紀行を堪能するためにも、この戦いの記事は大島に出発する前に書き終わりたいと思っています。まあ「うたわれるもの」もクリアーした事ですし、大島口の戦いの文章を書く事に専念出来るので大丈夫だと思うのですが・・・(^^;)
確かに芸州口の指揮を取った河瀬安四朗もひとかどの人物だと思いますが、大村や高杉、そして大島口を率いた世良修蔵に比べればどうも地味な人選に思えてしまうんですよね。防長回天史を読んでもこの辺の各方面の実質上の指揮官の任命された経緯は書かれていないので判らないんですよね。
そんなわけで何故大村や高杉が芸州口に派遣されなかったを考えてみました、まず各方面を万が一突破された場合を考えると、石州口を突破されれば長州藩の本拠である萩が直接脅威に晒されますし、小倉口も万が一突破されれば長州藩の経済の拠点の下関が占領されてしまいます。これに対し芸州口は主戦線とは言え、万が一突破されても岩国領が緩衝材になってくれるので致命的な損害は受けない。つまり防御の視点で見れば、芸州口より石州口や小倉口の方が大事なので、大村と高杉が担当になったのかなと思いました。
以上、何故大村と高杉が芸州口の事実上の指揮官に選ばれなかったと言うのを想像してみました。今回は大島口の戦いを調べるのが目的なので、この各方面軍の指揮官の任命については想像するだけで終わってしまいましたが、いつかこの各方面軍の指揮官任命の経緯について調べてみるのも面白そうだと思いました。
子孫の方が書かれているので、大井田の活躍が美化されがちの感がある二次史料とは呼べない書籍かもしれませんが、大井田修平大隊の内訳の推移が書かれているので重宝しました。
北越戦争時の米沢軍の編成は良く言えば柔軟、悪く言えばいい加減なので、戦線に出てる大隊の内訳も目まぐるしく代わっていて、北越戦争のクライマックスと言うべき第二次長岡城攻防戦時の大井田修平大隊の内訳について、今まである程度は予測出来たのですが確証は持てないでいました。しかし今回この史料を読んで大井田修平大隊の内訳の推移が判かり、そして第二次長岡城攻防戦時の大井田大隊の内訳も判ったので、これで第二次長岡城攻防戦の助攻撃に参加した米沢藩5大隊の編成がようやく判ったので、個人的には満足しています(^^)
当サイトでは北越戦争をメインの記事にしているので、北越戦争で活躍した衝鋒隊の記録である「北国戦争概略衝鉾隊之記」はコピーを所有していたのですが、戊辰戦争史を調べるには大鳥脱走軍は調べなくてはいけない必須の存在ですし、私も野州戦争の一部の記事を書いているので、大鳥脱走軍についてもっと調べたいと思い購入した次第です。
特に伝習隊については、当サイトでも「旧幕府軍の中では無類の強さを見せた」と書いていますが、その実情についてはシャスポー銃を用いた以外の実情は殆ど知らないので、諸隊長を始め主要な幹部等、伝習隊について学ぶ事が出来ると喜んでいます(^^)
一応冬には野州戦争の記事をもっと充実させたいと思っていますので、その時はこの本を活用していきたいと思っています。
そんな訳でいつかは実物を欲しいと思っていた「薩藩出軍戦状」ですが、遂に今日実物を入手出来た訳です(^^)
とりあえず明日から今まで自分が書いてきた記事を、この「薩藩出軍戦状」と照らし合わせていこうと思っています。
ただ「基礎知識」というタイトルが偉そうな気が我ながらするんですよね、当初は「戊辰戦争の軍事技術(理論)について」というタイトルにしようかと思いましたが、「そっちの方が偉そう」と注意され、結局この軍事基礎知識というタイトルにしました。もっとも基礎知識という程大した事は書いていないので、もしもっと適切なタイトルがありましたら教えて頂ければ幸いです。
とりあず内容としては幕末の諸藩の軍事近代化から戊辰戦争で使われた小銃の簡単な説明、その近代化された軍勢の行軍や兵站や陣地構築、散兵戦術等を書かせて頂きました。正直どこまで書けば良いのか判らないので、ひょっとしたら過不足があるかもしれませんが、とりあえず独り善がりな部分があった今まで書いた各戦いの記事も、この基礎知識で少しは読みやすくなってくれれば幸いです。また個人的には戦術についてもう少し書きたい事もあるので、これから順じ加筆していきたいと思います。
この「昔夢会筆記」いつもお世話になっている方に勧められ購入したのですが、「どうせ慶喜の言い訳満載なんだろうな~」と読む前は思っていました。まあ実際何か都合の悪い事を聞かれると「その頃の事は覚えていない」と慶喜はとぼけまくっているのですが、自分の責任の及ばない事柄では事細かく答えてくれるので、興味深く読ませて頂きました。
特に鳥羽伏見の戦いについて、旧幕府軍は進軍部署こそ決まっていましたが、どのように薩長軍と戦うかという作戦は決めていなかったと、旧幕府軍の総大将である慶喜が明言してくれているのが私にとっては貴重な証言でした。これで推測でも何でもなく「旧幕府軍は感情の赴くまま京に向かい進軍を開始した」というのが慶喜の言葉で裏付けが取れたと狂喜しています(^^;)
そんな読み終わって色々得るものがあったこの「昔夢会筆記」ですが、勧められる前は読む事に抵抗を持っていた事を考えると、改めて幅広く史料を読む事の重要性を実感した本でした。