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歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

戊辰戦争の部隊編成(部隊単位)について

2006年07月02日 20時49分04秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 昨日日頃お世話になっている方から、「普通の歴史ファンの人は小隊・中隊・大隊と言われても、どの位の規模か判らないのでは?」と言われたのですが、正直今までその事には気付きませんでした。
 これまで私は自分なりに戊辰戦争の各戦いで、どこの藩が何小隊を動員し、その小隊を率いていた小隊長は誰々だったと言うのには力を入れて調べてきたつもりですが、では当時の小隊は何十人位で構成され、中隊や大隊は何小隊で構成されていたと言う説明は、今まで一切せずにサイトを運営していました。
 これは「戊辰戦争を軍事史の視点から見たサイト」と謳っているくせに、では軍事史で読むのに必要な基礎知識を書かずに今までサイトを運営してきたのは我ながら怠慢だなと反省した次第です。
 そんな訳で遅ればせながら、まずは本日「戊辰戦争の部隊編成(部隊単位)についてのご説明」を作成しました。これに留まらず今後も「展開」「斥候」「胸壁」など当サイトに頻繁に登場する軍事用語の解説コーナー等も設けて、軍事ファンだけでなく一般の歴史ファンの方にも読んで頂けるようなサイト運営を目指していきたいと思います。

越の山風

2006年06月25日 20時59分01秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 いつもお世話になっている方から、「腰の山風が置いてある古書屋があるよ」と教えてもらったので、古書屋に連絡し確保してもらい、本日遂に入手しました。元々「越の山風」は都立図書館でコピーしたので、コピー版は所有していたのですが、やはり北越戦争を調べる身としては、オリジナル版を所有したいと常々思っていたので、今回無事に、しかも格安の1万ちょいで入手出来て喜んでいます(^^)
 しかし今回の件でふと思ったのが、どうも私は回りに山県好きと認識されているみたいです。う~ん別に私は山県を好きと言うのではなく、一般的に批判される山県の戦略を、「面白みはないけど、兵力に余裕があるなら平攻めが一番効果的」と好意的に捉えているだけなんですけどね。
 もっとも小心者で自己保身の固まりと言う山県の性格は、どこか親しみを覚えるので、そう言う意味では私は十分山県好きの範疇に入るのかもしれません(^^;)

芸藩志

2006年06月17日 22時16分50秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 先日都立図書館でコピーしてきた「芸藩志」をようやく読み始めました、この「芸藩志」全27巻(?)にも及ぶ大作で、前半は幕末から明治4年までの芸州藩の動きを描き、残りは戊辰戦争に参加した芸州藩の各部隊の動きや、半士の禄高等が描かれた、御幣があるかもしれませんが「防長回天史」と「薩藩出軍戦状」を一緒にしたような内容ですかね。
 そんな大作ですので、私がコピーしたのは全体のほんの一部で、鳥羽伏見の戦いに参加した芸州藩兵の記録の部分と、越後派遣軍の記録についてコピーしました。
 この芸州藩の越後派遣軍の兵力の詳細については、「戊辰役戦史」で計230名と書いてくれているのですが、ではその230名が計何小隊だったかと言うのを書かれた史料を今まで読んだ事が無かったので、この芸州藩越後派遣の詳細をずっと知りたかったのですが、この芸州藩の一次史料である「芸藩志 第18巻」を読んで、ようやく越後派遣軍の詳細が判り喜んでいます。新整組(選抜された足軽小銃隊)5小隊と遊撃隊(士族の師弟から選抜された小銃隊)1小隊、そして砲2門が正確な戦力みたいです。
 ただ芸州藩越後派遣軍の兵力の詳細が6小隊(新整組と遊撃隊の合計)と砲2門とは判ったのですが、どうやらこの「芸藩志」を読む限り、芸州藩兵の軍制は新政府軍の薩摩・長州・松代、同盟軍の会津・米沢・庄内等とは違って専任の小隊長は定められていなく、組頭や組頭添役がその都度小隊長の任に就く体制らしく、専任の小隊長を持つ前述の諸藩兵とは異なる軍制のようですね。

 何はともあれ、ようやく読み始めた芸州藩越後派遣軍についての一次史料の、この「芸藩志 第18巻」ですが、これからも読み込んで当サイトの北越戦争の記事に追記していきたいと思います。

都立図書館

2006年06月03日 23時00分03秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 先日の雑記で書いた通り「甲州勝沼の戦い」の記事を見直す為に、史料を探しに久々に都立図書館に行ってきました。ただ、くるすさんのコメントを読む前に出かけてしまったので、くるすさんの推薦する本を読む事は出来ず、正直新選組関連では目ぼしい史料を見つける事は出来ませんでした。
 そんな訳で目星をつけずに手当たり次第に新選組関連の本を読んでみたので、先日の雑記の愚痴になってしまいますが、トンデモ的な書籍ばかりが印象に残ってしまいました(汗) まあ書名は挙げませんが中には勇ましい本もあって、勝沼の戦いで甲陽鎮撫隊が奮闘し、斉藤一の隊が何人もの新政府軍兵士を斬り倒したと書かれたのもありましたが、そもそもこの戦いでの新政府軍の戦死者は鳥取藩1名だけなんですけどね。正直新選組研究家の大半は他の史料を読まないと言う思いが強くなってしまいました。
 もっとも甲陽鎮撫隊が善戦した言うののに対しては私もそう思っています、これは新選組側の本でも「勝沼ではあっさり負けた」と書かれているのが多いですが、実際谷千城はは甲陽鎮撫隊の三面包囲には成功しましたが、河田景与率いる後詰が来るまで甲陽鎮撫隊を撃破出来なかったので、実際には新政府軍にとって楽勝と言える戦いではなかったと判断しています。

 話は脱線しましたが、上記の通り新選組関連の史料探しは不作でしたが、新政府軍側の史料は「鳥取県郷土史」「鳥取市史」「土佐藩戊辰戦争資料集成」他に山国隊関連少しと色々コピーしてきたので、これからじっかり読んでいきたいと思います。
 余談ですが勝沼の戦いでの新政府軍の主力は土佐藩兵と鳥取藩兵ですが、この土佐藩と鳥取藩で微妙に布陣の記述が違うのですが、当サイトの記事は鳥取藩の記述に準じています。

 しかし今日コピー出来た史料の中で一番の大当たりは「芸藩志」です、これは名前の通り芸州藩の記録なのですが、その18巻には北越戦争で黒田清隆率いる海上別働隊に参加した芸州藩兵の全記録が掲載されたていたので、小躍りしたいくらい嬉しかったです(^^)
 この黒田隊に参加した芸州藩兵は新潟攻防戦、及びその後の下越戦線での戦いで活躍しましたが、いかんせんその詳細が今まで判らなかったのでこの史料は本当にありがたいです。正直今まで当サイトの北越戦争の記事では、新整組と遊撃隊の組み合わせとしか書いていなかった芸州藩兵に対して、これでもっと詳細な陣容と動きが書けるので、本当に今日はこの「芸藩志」のコピーを抱いて寝たい気持ちです(^^)

新選組について

2006年05月27日 23時01分58秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 実は私も昔は新選組ファンでした、何せ鳥羽伏見の戦いから箱館戦争まで戦い続けた歴戦の部隊ですからね、若い頃はかなり新選組に思い入れていました。
 ただいつ頃か、新選組と言うより多くの新選組研究家や作家が、あまりにも史実を無視した捏造を繰り返すのに嫌気が刺し、いつしか新選組に関する文章は胡散臭いと思うようになってきたんですよね。
 その為当サイトで新選組がメインとなった戦いの甲州勝沼の戦いの記事では、新選組側の史料は大半が新選組の英雄的活躍ばかり書いてるので、「信用出来ない」と判断して殆ど取り上げず、もっぱら土佐藩と鳥取藩の史料を元に記事を書きました。
 しかし先日新選組を真面目に調べてる方と会って、新選組に関する史料は皆でたらめだと言う考えを改めようと思うようになったので、視野を広げて史料を読み直し近々甲州勝沼の戦いの記事を書き直したいと思います。
 

米沢藩散兵隊の謎

2006年04月22日 23時01分11秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 先日都立図書館にてコピーした「米沢藩 慶応元年分限帳」ですが、あれから手持ちの米沢藩の史料と、この「慶応元年分限帳」と読み比べて、戊辰戦争に参加した米沢軍士官全体の7~8割の身分・年齢・禄高が判ってきたのですが、一方でこの「慶応元年分限帳」を読んでも詳細が一向に判らないのが、米沢軍の最強部隊である米沢藩散兵隊です。
 この散兵隊、弱兵と呼ばれた米沢軍の中にあって、全兵がスペンサー銃を装備する精鋭部隊で、あの河井継之助からも「散兵隊を援軍に借して欲しい」と言わせた程の、恐らく米沢軍の中で(越後戦線の)新政府軍主力の薩摩軍・長州軍・松代軍と唯一まともに戦えた部隊だと思えます。
 そんな米沢藩の戊辰戦争を語るのに中心となるべき散兵隊なのですが、その散兵隊を率いた4人の小隊長の名が「慶応元年分限帳」で見つからないんですよね。米沢藩に興味の無い方には幾ら精鋭部隊と言っても、ただの小隊長の身分・年齢・禄高に拘る気持ちが理解出来ないかもしれませんが、小隊長の身分(どの組に所属か」)が判れば米沢藩の最精鋭部隊の小隊長が単に身分から選ばれたのか、それとも身分に関係なく能力で抜擢されたのかが知りたいと思っている訳です。幾ら全兵がスペンサー銃を持っていたとしても、小隊長が身分で選ばれたのなら、それは単に全兵がスペンサー銃を装備している小隊に過ぎないので、散兵隊の実力を計るのに重要な要素だと思っている訳です。
 そんな訳で「慶応元年分限帳」を読んで散兵隊隊長の名を探しているのですが、一人も見つからないんですよね。まあ戊辰戦争が起きたのは慶応4年ですから、慶応元年の時は家督を継いでなくてもおかしくはないですが、4人も揃って家督を継いでないと言うのは有り得ないと思うんですよ。
 まあ「慶応元年分限帳」を探したと言っても、真剣に探したのは侍組・三手組(馬廻・五十騎・与板)・三扶持方(猪苗代・組外・組付)の上級~中級家臣だけで、扶持方並・足軽の下級家臣の項はあまり真剣には探していないので、下級家臣からの登用かもしれないのですが、他に下級家臣からの登用は見られないので真剣には探していなかったんですよね。
 そんな訳で「慶応元年分限帳」をコピーして3週間余が経ったのに、未だ散兵隊隊長の名が見つからない次第です。う~んこうなったら確立は低いけど、下級家臣の項を読み返さないと駄目かな。

米沢藩慶応元年分限帳

2006年04月05日 22時41分27秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 存在を知ってからずっと読みたかった史料だったのですが、ようやくこの前の週末に都立図書館でコピーする事が出来ました。この史料名前の通り慶応元年の米沢藩の全藩士の禄高と身分が掲載されているのですが、慶応元年と言うのは戊辰戦争の僅か3年前ですので、ほぼ戊辰戦争時の米沢藩全藩士の禄高と身分が掌握出来る貴重な史料です。
 千坂高雅や甘粕継成や斉藤篤信と言った米沢藩を代表する人物は、色々な史料に禄高やどの組に所属していたかと言うのが記述されていますが、実際に兵を率いて新政府軍と戦った小隊長達については名前しか判りませんでしたが、この慶応元年分限帳を読むと各小隊長の禄高がどれだけでどの身分だったのかが判るので本当に重宝しています。
 これを読んで判った事は色々あるのですが、今まで多くの史料で戊辰戦争での米沢藩の小隊長は、多くは侍組・三手組(馬廻・五十騎・与板)・扶持方(猪苗代・組外・組付)から選抜されたと書かれていましたが、この慶応元年分限帳をざっと読む限りでは侍組と三手組で小隊長の7~8割が占められているようなのが驚きました。ただこれは今判るだけで、照らし合わせを続ければ比率が更に代わりそうなので、照らし合わせをこれからも続けて、最終的には戊辰戦争に参加した全ての小隊長の禄高と身分の一覧表を作りたいと言う野望に燃えています(^^;)

米沢の常安寺

2006年02月14日 22時26分46秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 米沢の常安寺と言えば、雲井龍雄の墓所が在ると言う事で有名で、私も昨年に米沢に行った際は訪れてみたのですが、雪に埋まっていて何も見れませんでした。その時は米沢藩の有名人とは言え、文官の雲井には思い入れが無いので、別段残念とも思わなかったのですが、どうもこの常安寺は文官の雲井だけではなく、北越戊辰戦争で米沢軍を率いた甘粕継成と斉藤篤信の両参謀の墓所も在るそうなんですよね。
 しかし甘粕と斉藤、そして雲井の墓所が在ると言う事は、常安寺は米沢藩士の侍組及び三手組の菩提寺なのかと思っています(甘粕と斉藤は侍組、雲井は与板組)。
 何はともあれ、文官の雲井だけではなく、武官の甘粕と斉藤の墓地が在るとの事なので、この春に行く予定の米沢旅行では是非とも常安寺を訪れて甘粕と斉藤の墓参りをしたいと思っています。
 余談ですが今年の取材旅行の予定としては、春に米沢、そして夏と秋に長岡周辺を訪れたいと思っています。

高田藩の戊辰戦争

2006年02月06日 22時17分05秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 一昨日の雑記で書いた通り、今町攻防戦での高田藩兵の配備を知りたくて国会図書館に行った訳ですが、今町攻防戦だけではなく、戊辰北越戦争を通して高田藩兵の陣容は不明確なんですよね。高田藩兵が戊辰北越戦争に榊原若狭大隊と竹田十左衛門大隊の2個大隊(両大隊とも400名弱)を出兵させたと言うのはたくさんの史料に書かれているのですが、その高田藩の大隊が何小隊で構成され、またその小隊長が誰かと言うのを書かれている史料を私は見た事が無いので、高田藩兵の戦力構成が判らず困っている次第です。
 ところで復古記を読む限り記述の少なさと言うのは、北越戦争に参加した新政府軍の中では高田藩だけではなく、上田藩や尾張藩や富山藩などもそうなのですが、どうも詳しく記述されている薩摩藩・長州藩・松代藩と比べると、復古記への情報量はその藩の軍の強さに比例すると思った今日この頃です。

国会図書館に行ってきました

2006年02月04日 23時16分06秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 国会図書館に行くのは1年ぶりくらいですかね?、昔は時々行っていたのですが、一昨年にまりもさん梅痴鴉さんに「都立図書館の方が使い勝手が良いよ」と教えてもらって以来そっちの方を使っていたので、本当に久しぶりに行きました。確かに国会図書館の方が史料が豊富ですし、コピー代も都立図書館より安い(1円ですが)のですが、いかんせん1度に80ページしかコピー出来ませんし、何より史料の待ち時間が異常に長いので、ここの所はずっと都立図書館を利用していたんですよね。
 ただ最近北越戦争史の今町攻防戦を学び直すのに当たって、高田藩兵について調べるのに行き詰まったので、「戊辰の役と今町」と言う史料を求めて国会図書館に行ってきました。
 今町攻防戦に参加した兵力としては、同盟軍では衝鋒隊についてはあまり良く判らないのですが、その他の長岡軍・会津軍・米沢軍については一応史料を所有していますし、新政府軍についても長州軍・松代軍についての史料はあるのですが、この今町攻防戦での新政府軍の主力だった高田藩兵及びその指揮下の方義隊についてよく判らないので、今回国会図書館まで行ってきた訳です。しかし国会図書館まで行って「戊辰の役と今町」を読んでも結局高田藩兵の詳細については判りませんでした。

 ちなみに最近今町攻防戦を失敗した後詰決戦と考えるようになってきたので、近々今町攻防戦の記事を書き直したいと思っています。個人的には新政府軍を率いた淵辺や三好は松代藩2小隊の後詰を期待していたのですが、松代藩2小隊が駆けつける前に河井達の猛攻により、今町の新政府軍は突き崩されたのではと考えています。


淵辺群平

2006年01月22日 22時10分26秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 この土日は先週から読み直し始めた「甘粕継成日記」や「復古記」等を、日がな一日中読むと言う贅沢な休日を過ごさせて頂きましたが、こうやって史料を読み返すと薩摩藩の軍監を勤めた淵辺群平と言う人物の評価が私の中で上がっています。どうも北越戦争の新政府軍は長州藩が主で、私自身も今までは北越戦争の新政府軍では長州藩と松代藩をメインに扱って薩摩藩はあまり重視していなかったのですが、色々な史料を読むとこの淵辺の存在の大きさが伝わってくるんですよね。 
 特に今町攻防戦では淵辺が敗兵を収容しなかったら、今町の新政府軍は壊滅していたでしょうし、第三次長岡城攻防戦後の同盟軍への追撃戦で主力となった、追撃隊の指揮も淵辺が取っていたようですし、もっと評価されるべき人間ではないかと思い始めています。
 私自身が薩摩藩に対して無知なので、今はこの淵辺について殆ど判らないので、今年は米沢藩ばかりではなく、薩摩藩等の今まで勉強してこなかった藩についても学んでいきたいですね。

甘粕継成日記について

2006年01月15日 21時35分21秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 先日、北越戦争第六章の記事を書き終わったので、「復古記」や「防長回天史」の史料を読み直したいと書きましたが、結局現在米沢藩参謀甘粕継成の日記(「甘糟備後継成遺文」収録)を読み返しています。毎度毎度言動不一致で申し訳ありません。
 この甘粕日記以前読んだ時は、北越戦争の記事を書くのと平行して読んでいたので、じっくり味わう余裕はありませんでしたが、今回こうして純粋に読み物として甘粕日記を読んでみると、以前史料として「何か新しい発見は無いか」とガツガツとした読み方をしてた時には気付かなかった事柄に色々気付いて味わい深いです。
 しかし何ですかね一般兵士や藩としての戊辰戦争の公式史料はたくさんありますが、指揮官クラスが書いた戊辰戦争の記述(しかも日記形式)と言う非常に珍しい史料なのに、大鳥圭介の「南柯紀行」や山県有朋の「越の山風」と比べると、この甘粕日記の認知度が低いのは何故なんでしょうね。まあ幕府歩兵伝習隊を率いた大鳥や、新政府軍北陸方面軍を率いた山県に比べると、甘粕及び甘粕が所属する米沢軍は地味かもしれないので、それが原因なのですかね。しかし北越戦争での同盟軍の主力は間違い無く米沢軍なのですから、後世の米沢軍の評価の低さには納得出来ないんですよね、そして後世では同盟軍の主力は長岡軍と何故か”会津軍”になっているんですよね、この後世長岡軍と並んで会津軍が主力とされている事に作為的な物を感じてしまうのですが・・・。
 閑話休題、何はともあれ米沢軍参謀、後には同盟軍参謀にも就いた甘粕の日記なのですから、同盟軍の戦略戦術から、当時の同盟軍の内部状況まで判る非常に良い史料なのですが、解せないのが7月2日の米沢軍による八丁沖西部戦線での大攻勢以降、日記の内容が自分(甘粕)とは関係無い福島県浜通り方面の戦いの記述ばかりになり、北越戦争のクライマックス(と私が思っている)の第二次長岡城攻防戦、それに対する新政府軍の反撃作戦、そして米沢藩藩境防衛と米沢藩の降伏と言う甘粕自身にも米沢藩にとっても大切な事柄に全く触れられていないんですよね。
 以前メールで話した(?)方とも話したのですが、多分新政府軍の目を気にして後日甘粕自身が日記を改ざんしたのでしょうが、そうなると解せないのが「改ざんされた7月以降の日記が存在するのか」と「何故7月からの改ざんと言う中途半端ではなく、全文を改ざんしなかったのか」と言う事ですね。後者は甘粕自身じゃないと判らないので、後世の人間にはどうしようもありませんが、前者はもし現存するなら北越戦争史を調べる上での世紀の大発見になるので、出てくれば良いんですけどね。

 他にも甘粕日記については色々書きたい事がありますし、米沢軍の後世の評価の低さについても思う所はあるのですが、それはおいおい書いていきたいと思います。

北越戦争第六章

2006年01月09日 20時03分28秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 北越戦争第六章の最後の記事「米沢藩のその後」をようやく本日更新しました、これで北越戦争第六章も完成し、これで3年越しで書いてきた北越戦争の記事も完成しました。思えば当初は長岡藩中心の北越戦争の記事を書くつもりだったものが、いつしか米沢藩中心の内容になり、遂には北越戦争終了後の米沢藩の動きについて書くとは、記事を書き始めた3年前には思いもよりませんでした(^^;)
 まあ米沢藩の北越戦争後の記事は急ぎ足で書いたので簡単な内容ですが、読んで頂ければ廃藩置県までの米沢藩の同行が何となくでも伝われば幸いです。
 とにかく上記した通り北越戦争の記事はとりあえず今回で終了(これからも加筆修正はしていきますが)ですが、米沢藩の戊辰戦争史の勉強は始めたばかりですので、その内当サイトの記事に加筆修正した「上杉家の戊辰戦争」なんて同人誌を書いてみたいですね(^^;)

 ところで第六章の最後は米沢城内の招魂碑の建立で終わっていますが、実は私この招魂碑実物を見た事が無いんですよね。何せ去年3月に米沢城を訪れた際は、雪に埋まっていたので見れなかったので、今年の4月か5月辺りにもう1度訪れて招魂碑の現物を見てきたいと思います。招魂碑以外でも雪に埋まって見れない史跡がたくさんありましたからね。

 何はともあれ今回で北越戦争の記事は完成しましたが、見附や八丁沖周辺の戦いは米沢藩と長岡藩関連の史料をベースに書いているので、明日からでもまた「復古記」や「防長回天史」のコピーを読んで、記事を見直していきたいと思っています。