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歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

鳥羽伏見の戦い簡略地図を作りました

2009年01月12日 19時29分43秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 昨年は戊辰戦争関連の記事を更新出来なかったので、今年は更新をしていきたいと、まずは鳥羽伏見の戦い簡略地図を作ってみました。どうも今まで作った北越戦争や野州戦争の地図が、あんな出来でも無いよりかは有った方が記事が読みやすくなるとのご意見を頂きましたので、とりあえずリハビリ代わりに鳥羽伏見の戦いの地図を作ってみました。
 今回の地図作りを皮切りに、何とか年内中にメイン記事(野州戦争後編)を更新したいと思っています。

 また話は代わりますけれども、先日当サイトの掲示板を閉鎖しました。本ブログでコメントが書ける以上は、掲示板の存在意義が無くなってきたのと、ここの所アダルト関連の書き込みしかなかったので、この度閉鎖しました。ですので今後ご意見やお問い合わせが、ありましたら、全てブログのコメントに書き込んで頂けます様お願いします。


ある歴史小説家の死

2008年12月29日 18時38分08秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 会津贔屓で知られる歴史小説家の早乙女貢氏が先日亡くなったと知りました。1980年頃から急速に強まった、戊辰戦争と言えば「会津=被害者(正義)・薩長=加害者(悪)」と言う誤った認識がありますけれども、この認識を作り出すのに貢献した人物の一人でした。ロマンチストな歴史ファンにとって、「正義」「誇り」「武士道」等のキーワードがちりばめられた氏の小説は共感を持たれ、現在も続く会津を被害者とする誤ったイメージを広めた元凶の一人と言えましょう。実際に故宮崎十三八と共に、会津を正義と賛美して、薩長を悪と捏造する前述した80年代後半からの白虎隊ブームを作り出すのに、早乙女氏の果たした役割は大きいと思っています。
 正直私は、会津を正義とする会津の嘘には歯がゆい想いを抱いていたものの、会津の捏造が暴かれるのは私の生きている間には無いだろうなと思っていました。しかし90年代後半頃から、徐々に会津の嘘が暴かれるようになります。まずは会津が被害者との根拠の一つである、戊辰戦争後に会津藩は無理やり斗南に流刑されたと言うのが、会津が自発的に斗南を選んだと言う斗南藩史の内容が広まるようになり、その嘘が暴かれる事になります。更に会津贔屓にとって会津は被害者との主張最大のより所だった、戦後会津藩士の遺体埋葬を明治新政府が禁じたと言う、所謂「遺体埋葬禁止令問題」が、昨年大山格氏により昨年その捏造が暴かれる事になります。不思議な事に、この遺体埋葬問題の捏造が暴かれて半年も経たない内に、会津若松市側から遺体埋葬令が無かったと言う史料を公開するなど、ここ最近になり、急速に会津こそが正義・被害者と言う虚構が崩れつつあります。先ほど自分が生きている間に会津の嘘が暴かれる事はないと思っていたと書きましたけれども、今では会津の虚構はあと十年ももたないだろうと認識を改めるようになっています。
 もっとも早乙女氏は星亮一のように他人に責任転嫁をする事はなかったですし、あくまで小説家としての姿勢を貫いたので、会津の虚構が崩れ去ったとしても宮崎や星ほど非難される事はないでしょう。何より自らが築きあげた会津の虚構が崩れ去るのを見ずに済んだのは、ある意味早乙女氏にとっては幸せだったのかもしれません

新説戦乱の日本史46 北越戊辰戦争

2008年12月23日 21時19分26秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 週刊「新説戦乱の日本史」も、終盤に入って戊辰戦争シリーズとなり、今週号は遂に戊辰戦争最大の激戦となった北越戦争特集です。商業的な事を考えれば、主役が一般人気が高い河井継之助になるのは仕方ないと思っていたものの、いざ本誌を読んでみたら、特に同盟軍編成表の項で米沢藩を重視している米沢贔屓の私からすれば非常に嬉しいものでした(^^)
 「正義」とか「意地」と言う言葉が大好きな佐幕ファンの間では、会津藩や長岡藩ばかり重視され、北越戦争で果たした功績に反して米沢藩の知名度は低いのが実情です。ですので今回の同盟軍編成表でも千坂高雅・色部長門・甘粕継成辺りが出てくれれば、ありがたいと思っていたのが本音でした。しかし発売された本誌を読んでみたら、千坂・甘粕・色部はもちろんの事、出てくれたら嬉しいと思っていた斉藤篤信や大滝新蔵、果ては大隊長クラスの高坂勘解由・大井田修平・柿崎家教・横山与一まで書かれているという、米沢贔屓の身からすると小躍りする物でした。実際編成表に書かれている米沢藩士の数は十人にも達し、同盟軍の中では一般の人気の高い会津藩士や長岡藩士を上回る最多になっています。いや新政府軍を含めても、十名も書かれているのは長州藩(長府藩含む)だけですので、この編成表は初めて米沢藩が陽の目を得れた物と言っても良いでしょう。恐らく高坂・大井田・柿崎・横山の名が一般書に載るのは本誌が最初で最後でしょうから、本当に感無量の思いです。

 こう書くと本誌編成表は米沢藩ばかり重視されていると思われるかもしれませんけれども、新政府軍でも一般的に認知の高い薩長両藩だけではなく、松代藩や芸州藩の人名も多く書かれている非常に貴重な物でした。前述の通り「正義」とか「意地」と言う言葉の好きな歴史小説ファンには不満があるかもしれないものの、歴史ファンにとっては非常に価値ある物だと思います。

 最後に宣伝を。本文に書かれた千坂・甘粕・色部・斉藤・大井田・高坂・柿崎に興味がある方は、当サイトの北越戦争の記事をご一読下さい(^^;)


大鳥軍の幹部はイケメン揃い?

2008年06月21日 19時27分39秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 野州戦争で、大鳥圭介の旗下として勇戦した、幕府歩兵第七連隊長の米田桂次郎。その勇戦ぶりから、勝手にいかついオッサンをイメージしていたのですけれども、先日「天下大変~大鳥圭介と伝習隊~」の入潮様から、米田が今で言うイケメンだったと言うのを教えてもらいました。実際横浜開港資料館に飾られていた、米田の写真を拝見したところ、いわゆるジャニーズ系と言う感じで、何でも諸外国の女性からも「トミー」と呼ばれていたほどの人気ぶりだったそうです。
 う~ん総督の大鳥に、前軍参謀の土方歳三、凌霜隊隊長の朝比奈茂吉、そして第七連隊長の米田、ここまで幹部がイケメン揃いだと、若いお嬢さん方に旧幕府軍(大鳥軍)ファンが多いのは、この点もその理由の一つなのではと思ってしまいました。実際この大鳥軍と激戦を繰り広げた、新政府東山道軍幹部の顔ぶれ、伊地知正治・板垣退助・谷千城・大山巌・河田左久馬達の写真を見ると、若いお嬢さん達が新政府軍よりも、旧幕府軍を支持するのも仕方ないと思ってしまう今日この頃(^^;)
 実際、非イケメンの身としてはイデオロギーでも何でもない下賎な理由から、イケメン揃いの大鳥軍よりも、男臭い新政府軍の方を応援したくなってなってしまいました(^^;)

 ・・・しかし全部がそうではないとしても、若い女性が旧幕府軍を好むのは判る気がするものの、若い男性もまた旧幕府軍を支持する人が多いのですよね。う~ん判官贔屓は日本人のDNAに刷り込まれてると言うべきか、勝ち組みを嫌うのは日本人の特性と言うべきか、単純に歴史と歴史小説(ドラマ・アニメを含む)の区別がついてないのか、決してイデオロギーから旧幕府軍を支持している人ばかりではない気がします。


品川台場跡

2008年05月09日 23時43分10秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 先日のGW中に、お世話になっている方達と幕末に作られた品川台場跡(通称「お台場」)に行って来ました。この品川台場跡はそれこそGW中に行なわれたドリパを始め、コミケなどビッグサイトで開催されるイベントに行く際は、毎回ゆりかもめから見下ろしていたのですけれども、実際に品川台場跡に行ったのは、今回が初めてだったりします。
 今回行ったのは第三台場跡ですけれども、実際に行ってみてまず思ったのは、想像以上に広い事ですね。明治以降旧海軍によって東京湾防衛の要塞として改修されているので、遺構がどこまで幕末時の面影を残しているかは判りませんけれども、規模は建造時のままなので、台場の大きさに驚いた次第です。幕末時の建築技術を低く評価していた私は、せいぜい1個小隊が篭るくらいの広さ(イメージ的には四稜郭くらい)と思っていたので、実際に訪れてみて幕府の建築技術に対する認識を改めました。
 また長年疑問だった、この台場を作ったのかと言うのも教えて頂きました。幕末時の埋め立て方法は長年疑問だったのですけれども、とにかく切り出した石を沈めて土台を作ったそうです。う~ん失礼な話、そんな大雑把な埋め立て方法であのような要塞が作れたと言うのは驚いたと言うか、何と言うか・・・(^^)
 何はともあれ、近いからこそ今まで行く事がなかった品川台場跡を訪れる事が出来、色々勉強になりました。このブログを読んで頂いている方の多くは、ビッグサイトに行く機会は多いでしょうから、イベントの帰りにでも、ペリーが驚いたと言う品川台場跡を訪れてみてはいかがでしょうか。

垣沢勇記について

2008年05月06日 22時57分47秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 昨年末に中編まで書いた野州戦争の記事ですけれども、残る後編を何とか今年中に書きたいと思っている中、気になっているのが大鳥中・後軍の参謀を勤めた垣沢勇記です。大鳥軍は出発後、前軍と中・後軍の二手に分かれて進軍します。この前軍と中・後軍の人事については、まりも様が同人誌にて「前軍は会津派、中・後軍は幕臣派によって占められている」と書かれており、私もその通りだと思っています。
 しかし、そうなると謎なのが垣沢の存在です。垣沢は会津藩士であり、公用局でも働いた会津藩の中でもエリート中のエリートだったりします。そんな垣沢が大鳥中・後軍の参謀として、大鳥の片腕として働いていたりするのが解せません。まあ会津藩が大鳥の目付役として派遣したと言うのが妥当でしょうけれども、そのくせ垣沢の死後に大鳥が嘆き悲しんでいた記述を読むと、単に目付役ではなかったのかなとも判らなくなってしまいます。

 この垣沢について詳しく記述されている記事を、入潮様が今回書かれています。小説と言う形を取っているものの、資料を下地にして書かれているので興味深く読ませて頂きました。また大鳥軍について興味がある方には是非読んで頂きたいと思います。特に伝習第二大隊の士官の描写については秀逸で勉強になりました。
 そして、この入潮様の記事を読めば、益々垣沢と言う人間について判らなくなり、一方で垣沢に対する興味が湧いてきます。実際に垣沢の死後に、大鳥軍士官の大量脱走が発生していますので、垣沢と言う人間の存在感が大きかったと言うのは間違いないと思うものの、今の所では垣沢と言う人間については良く判りません。
 野州戦争後編については今年中に完成させたいと思っているものの、それまでに垣沢始め大鳥軍の士官についてもっと調べないといけないと思っています。


会津戦争津川口の戦い

2008年04月10日 23時55分35秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 紹介が遅くなってしまいましたけれども、お世話になっている越の山路様のサイトにて、新発田城城下から津川宿までの会津街道の記事がアップされています。この津川口は知名度は低いものの、新政府軍と会津藩兵が連戦を繰り返した地だったりします。
 北越戦争で奥羽越列藩同盟軍と死闘を繰り広げた新政府軍は、七月二十九日の長岡城再奪取と、その後の追撃戦(弊サイトでは「中越電激戦」と呼称)で同盟軍の主力を撃破した後、三つに分かれます。
 黒田了介率いる米沢方面軍は米沢藩攻略を目指し、福田侠平等が率いる庄内方面軍は村上藩・庄内藩攻略を目指しましたけれども、会津藩に繋がる津川口を目指したのが、山形有朋率いる津川口方面軍だったりします。そしてこの山県率いる津川口方面軍と、藩境を守ろうとする会津藩兵が連戦を繰り広げたのが、今回越の山路様が紹介してくれた会津街道な訳です。
 今のところ弊サイトではこの津川口の戦いを扱う予定はないものの、津川口の戦いの重要性は聞いていたので、越の山路様が紹介してくれた会津街道の記事を興味深く読ませて頂きました。尚、弊サイトでは扱う予定はないものの、この津川口の戦いについてはまりも大尉が扱ってくれるだろうと期待しています(笑)

30分でわかる明治維新

2008年02月19日 23時59分41秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 大山先生が自身のサイトで、明治維新を簡潔にまとめた記事を掲載しています。幕末から明治維新に至るまでの政局はとにかく複雑で、その複雑さ故に一般の方からは敬遠され、時勢を矮小化した小説もどきが持てはやされる嘆かわしい状況になっています。そんな中、大山先生の書かれた記事は、複雑な幕末の政局を簡潔にまとめてくれ、一読すれば幕末の大筋を理解出来る素晴らしいものとなっています。
 ・・・もっとも、北越戦争における山県有朋の指揮に対する批判に関してだけは、山県の「無理をしない正攻法」を支持する身としては抗議させて頂きました(笑)

閑話休題
 現状では、幕末維新の長い期間の中の戊辰戦争と言う短い時のみを扱っている弊サイトですけれども、もっと見識を広めて、いつかは今回の大山先生が書かれた記事のように、幕末全体を扱ってみたいとも思っています。 
 歴史と言うと、詰め込み教育の受験の影響からか、多くの方が敬遠していますけれども、受験や学校の授業を離れて歴史に触れて頂ければ、面白いと感じてくれる方も多いと思いますので、興味のある方は是非ご一読下さい。普段は声優さんの歌やラジオに萌えている、私のようなオタクが楽しく学んでいるのですから、決して歴史は敷居の高い存在ではないと思いますよ。


会津戊辰戦争後の遺体埋葬問題について

2008年02月08日 23時41分13秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 会津戊辰戦争後、新政府が会津藩戦死者の埋葬を禁止したと言う話は、半ば史実のように語られています。そして会津贔屓の小説家や、そのファンはこの逸話を根拠に明治新政府を誹謗して、会津の正当性を主張する根拠にしています。
 しかしこの遺体埋葬問題は史実なのでしょうか?、この疑問について大山格先生が記事を書かれています。史料を丹念に検証して、この埋葬問題が史実か偽りかを解き明かしてくれていますので、是非ご一読下さい。

 この大山先生の記事は、出来れば会津ファンの人にこそ読んで頂きたいと思います。確かに歴史にロマンを求める人にとっては、フィクションと史実を区別する事は辛い事でしょう。しかしその辛さを乗り越えてこそ、歴史を探求する楽しさを判って頂けると思います。


「慶応兵謀秘録」を読んでいます

2008年01月31日 22時22分05秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 大鳥軍の一員として野州戦争に参加した、御料兵の記録である「慶応兵謀秘録」を最近読んでいます。この「慶応兵謀秘録」については、「復古記」に収録されている部分は読んだ事があるものの、通して読んだ事はありませんでした。しかし野州戦争後編の記事を書くに当たって、今更ながら復古記に収録されている部分だけでは無く、全編を読んでおこうと読み始めた次第です。
 以上の通り今更ながら読み始めた「慶応兵謀秘録」ですけれども、「もっと早く読んでおけば良かったと」と後悔するほど、私が欲して止まない情報満載の内容でした。まず何と言っても御料兵と、御料兵と動きを共にして後に第三大隊として御料兵と合併する幕府歩兵第七連隊の士官名簿が掲載されていたのは、士官の質が勝敗を決するとの持論を持つ私にとっては嬉しい情報です。
 ただ気になるのが、6個小隊で構成される第七連隊に中隊長が4人、小隊長が7人とされ、200名の御料兵に(5~6個小隊?)中隊長が6人、小隊長が8人と書かれていました。この人数は、部隊規模に比して明らかに士官の人数が多いなど疑問点もあったりします。これが途中補充された士官名を最初から書いているのか、本当に部隊規模に比して過剰な士官人数だったのかは、これからの研究に期待したいと思います。

 また第二次宇都宮城攻防戦後に、第七連隊・御料兵・砲兵隊で士官の大量脱走が発生した事が書かれていたのはありがたかったです。つい最近まで私は今市戦での大鳥軍の敗因を、「小銃・弾丸の欠乏」「大鳥の作戦が複雑過ぎた」と考えていました。しかし入潮様のブログで第二次宇都宮城攻防戦後に、大鳥軍(伝習第二大隊)に士官の大量脱走が発生した事を知り、以降この士官の大量脱走こそが今市戦での大鳥軍敗北の最大の要因だと自説を改める事となりました。尚、伝習第一大隊嚮導役が書いた「谷口四郎兵衛日記」にも、第二次宇都宮城攻防戦後に(伝習第一大隊で)士官の脱走が発生した事が書かれています。
 しかし今のままでは単に私の「思い込み」に過ぎないので、これを「仮説」に出来るように、これからも第二次宇都宮城宇都宮城攻防戦後に士官の集団脱走が発生した資料を探していくつもりです。そして野州戦争後編の記事は、この仮説を中心にして書きたいと思っています。もっとも正確に言えば脱走者が多かっただけではなく、第二次宇都宮城攻防戦までの死傷者と、第二次宇都宮城攻防戦後の脱走者を合わせて、士官を大量に失った事が、今市戦での大鳥軍の敗因だったとなるのでしょうが。ただこの士官の集団脱走を重視した記事にしたいと思っています。

 ところで、大鳥軍に参加した部隊については各部隊毎に資料が揃っているのがありがたいです。列挙させて頂きますと・・・。

伝習第一大隊:「谷口四郎兵衛日記」
伝習第二大隊:「南柯紀行」「浅田惟季北戦日誌」「野奥戦争日記」
歩兵第七連隊:「慶応兵謀秘録」
御料兵    :「慶応兵謀秘録」
桑名藩兵   :「泣血録」「戊辰戦争見聞略記」
凌霜隊    :「心苦雑記」
別伝習隊   :「別伝習書記」

 以上の通り資料が充実しているのですけれども、回天隊・草風隊・貫義隊の資料は知らないのですよね。暴言させていただければ、回天隊と貫義隊は刀槍部隊なので調べるつもりはないものの、優良装備部隊の草風隊については、詳しい内情を調べたいので、草風隊の資料は探したいと思っています。


 最後に、メモ代わりに「慶応兵謀秘録」に書かれていた、歩兵第七連隊・御料兵・砲兵隊の小山宿周辺の戦いから第二次宇都宮城攻防戦までの戦死及び負傷者の人数と、第二次宇都宮城攻防戦後の脱走者の人数を書かせて頂きます。

第七連隊
 戦死及び負傷2名(小隊長1人、小隊長補佐1人)、脱走1名(小隊長補佐1人)
御料兵
 戦死及び負傷3名(中隊長1人、小隊長補佐2人)、脱走9名(大隊長補佐1人、小隊長2人、小隊長補佐6人)
砲兵隊
 戦死及び負傷5名(中隊長1人、小隊長1人、小隊長補佐3人)、脱走2名(中隊長1人、小隊長1人)


 戦死及び負傷10名(中隊長2人、小隊長2人、小隊長補佐6人)、脱走12名(大隊長補佐1人、中隊長1人、小隊長3人、小隊長補佐7人)

*判りやすくする為、改役=大隊長補佐、指図役頭取=中隊長、指図役=小隊長、指図役並・指図役下役=小隊長補佐としています。


北越戦争関連地図(1)を作りました

2008年01月02日 21時02分02秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 皆様新年おめでとうございます、今年も宜しくお願いします。
 さて今年初めての更新となる今回、前々からずっとやらなくてはいけないと思っていた、北越戦争の関連地図を作りましたので、公開させて頂きました。しかし作ったのは良いものの、サイズが大きくなり見づらい地図になってしまった事を、お詫びさせて頂きます。一枚で北越戦争の記事を読むのに活用出来る地図を作ろうと思いましたので、このサイズの地図になってしまいました。右側の地図が広域地図、左側の地図が中越戦線の拡大地図となっております。
 残念ながら第六章で書いた、下越戦線の地域を入れる事は出来なかったものの、一章から五章まではこの地図で対応出来ると思います。一応地図を作るのに当たって、一章から五章までを読み直して、記事に登場する地図は載せたつもりです。ただすいません、八丁沖西部戦線で幾つか、記述できない村がありました。番号を使ったりなど工夫はしたつもりですけれども、それでもスペースの都合上記事漏れを起こしてしまいました。この地図を作るに当たって、改めて八丁沖西部戦線が狭い範囲の戦いだったと言うのを実感した次第です。
 今まで「地図が無いから判り難い」とのご意見はたくさん頂いてましたけれども、ようやく今回ご意見に対応する事が出来ました。今回北越戦争の関連地図を作りましたけれども、今年は他の記事の地図もどんどん作っていきたいと思います。とりあえずは、今回の地図では網羅できなかった、下越戦線と米沢周辺を含めた北越戦争関連地図(2)の地図作成を、まずは目指したいと思います。
 見づらいとのご批判があるかもしれませんけれども、一応これでも正月一日と二日の二日間を費やした地図なので、努力を認めて頂ければ幸いです(汗)

 また今日は北越戦争関連地図の作成と併せて、弊ブログのカテゴリーを整理してみました。「うたらじ」とか「なのは」とか特定タイトルを廃して、完全にジャンル毎に整理しました。しかし、そのために一番多いカテゴリーが「声優ラジオ関連」なってしまいました。「戊辰戦争史・幕末維新史」のカテゴリが一番とは言わないものの、せめて「読書」が一番多くしないと体裁が悪いので(笑)、今年は読書感想も頑張りたいと思います。でも週二回の更新が可能な「声優ラジオ関連」に追いつくのは不可能なような・・・(汗)


野州戦争中編を更新しました。

2007年12月22日 20時34分43秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 先月更新した野州戦争前編に続いて、本日野州戦争中編の記事を更新しました。前編では四度にわたる小山宿周辺の戦いを書かせて頂きましたけれども、本日更新した中編では、二度にわたる宇都宮城の争奪戦と、その間に行なわれた安塚村の戦いを書かせて頂いています。前半では両軍の戦術の差を重視した記事でしたけれども、中編では両軍の補給の差を重視した記事となっています。

 ここのところ「ef」に対する熱い想いを書いていますけれども、こちらが弊サイトのメイン記事ですので(笑)宜しくお願いします。
 また、前編から中編で描いた小山宿周辺の戦い~第二宇都宮城攻防戦については、同盟サイトの幕末ヤ撃団様がこの冬コミの新刊で書かれています。弊サイトの記事とは切り口の異なる視点で野州戦争を描いてくれていますので、野州戦争に興味があるかたは是非ともご覧下さい。

 今回の中編は、前編を書いて約一ヶ月で更新が出来ました。これは先月の時点で中編の記事もほぼ完成していて、この一ヶ月はもっぱら出典の記述や文章の推敲、地図の作成に費やしていた為、一ヶ月で更新が可能となりました。しかし後編については、メインとなる今市宿攻防戦についての資料集めすらまだ行なっていない状態で、記事を書く前に最低もう一度は今市を訪れたいと思っているので、後編を書くには早くても半年は掛かると思っています。しかし来年は他にも、北越戦争の記事の修正や、周防大島への訪問、米沢への訪問などやりたい事がたくさんあるので、果たして後編を来年中に更新出来るのか、我ながら疑問だったりします(汗)


宇都宮城の簡略地図を作りました

2007年12月18日 22時10分48秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 現在、野州戦争中編の記事を書いています。この中編では、二度にも渡る宇都宮城の攻防戦がメインとなりますので、記事を読んで頂くに当たって、イメージがしやすいように宇都宮城の簡略地図を作ってみました。
 この簡略地図は位置関係を判って頂く為の地図なので、距離感に関しては正確ではないと言うのを予めお詫びさせて頂きます。どうしても第一次宇都宮城攻防戦の前哨戦が行なわれた梁瀬村・砂田村・平松村と言った城東の村々と、第二次宇都宮城攻防戦の前哨戦が行なわれた城西の六道口を一つの地図に纏めようとしたので、南北と東西の縮尺が合っていない地図になってしまいました。ただ南北と東西のバランスは悪くなったものの、第一次及び、第二次宇都宮城攻防戦に関わる地名は網羅したつもりですので、この簡略地図を見ながら野州戦争中編の記事を読んで頂ければと思っています。
 ところで宇都宮城と言えば、(第一次)宇都宮城攻防戦の結果から、「宇都宮城は東側の守りが弱い」と語られがちです。でもこの簡略地図を見て頂ければお判りになって頂けると思いますけれども、宇都宮城の東側には田川という川が流れています。私としてはこの田川が自然の要害の役目を果たしていたと思うので、宇都宮城の東側の守りが弱かったと言うのは妥当な評価ではないと考えています。この件については、野州戦争中編の記事内で詳しく書かせて頂きましたので、ご興味がある方はご一読下さい。
 何はともあれ、宇都宮城の簡略地図も完成しましたので、野州戦争中編の記事は今度の三連休には更新の予定です。

野州戦争 前編を更新しました。

2007年11月23日 22時21分37秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 今年になって初めての正規な記事更新となる、野州戦争前編の記事を更新しました。当ブログを読んでくれている殆どの方には、信じてくれないと思いますけれども、こちらが当サイトのメイン記事ですので、宜しければご一読下さい。声優さんのラジオ感想やアニメ感想とは違う、私の文章を読んで頂ければ幸いです。
 今回の野州戦争の記事では、色々試験的な試みをさせて頂きました。今年になって、「日本語の作文技術」等の文章作成に当たっての指南書を色々読んでみたので、それらに書かれた事を参考にして、今までとは文体や記事の構成を代えたのが一番の変更点でしょうか。特に意識したのは、記事の冒頭に「装備と戦略・戦術の面で旧幕府軍(大鳥軍)が新政府軍を凌駕するという、一般の認識とは異なる事態がたびたび発生した」と、「大鳥軍が策源地を持たない流浪の軍勢だった」の野州戦争の特徴を書かせて頂いた事です。今までの記事は、ひたすら時系列で戦況を綴っていた構成なので、その戦いの特徴が伝わりにくかったと反省して、冒頭に特徴を書いてみました。
 また今までの記事は戦闘の説明と、私の考察がごちゃ混ぜになっていた感があるので、今回は説明と考察を分けた記事になっています。これで以前よりかは、少しは読みやすい記事になったのではないでしょうか。
 今までの記事と比べると、各市町村史を活用させてもらったのも、今までの記事とは違いました。お世話になっている方から、「話の根本に関わる部分で無ければ、市町村史を資料として活用としても良い」と教えて頂いたので、今回は意識的に市町村史を活用させて頂いています。
 他にも、「地図が無いので読みにくい」とのご意見を以前から頂いていたので、今回試験的に野州戦争関係地図を導入してみました。尚、先日に書いた地図を本日書き直したので、月曜にアップした地図より少しは見やすくなったのではと思っています。 
 以上の通り、今回の記事では色々試させて頂きました。これらの試みが成功していたのなら、今まで書いた記事も順に修正していきたいと考えています。

 ただし構成や文体は今までと異なるものの、記事の内容事態は今まで通り軍事偏重の内容になっています。この為、当時の政治や経済、民衆の動向などについては相変わらず描写が薄いので、野州戦争について総括的に知りたいと思う方は、先輩サイトである幕末ヤ撃団様が、今度の冬コミで野州戦争についての同人誌を書かれますので、そちらをお求め下さればよく判ると思います。


野州戦争関係地図を作りました。

2007年11月19日 21時50分38秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 野州戦争の記事の書き直すに当たって、野州戦争関係地図を作ってみました。当サイトの記事に関しては、前々より「地図が無いので読みにくい」とのご意見を頂いていました。しかし地図は版権が難しいので、今まで色々試行錯誤していたのですけれども、今回野州戦争の記事を書き直すに当たって、関連地図を作成した次第です。これで各宿場や戦場の位置関係が、今までよりかは判りやすくなってくれれば幸いです。
 もっともフォトショップの使い方にまだ慣れてないので、今回の地図もまだ未完成な部分があります。本当は日光街道・日光東往還・壬生通り等、街道毎に色分けしたかったのですけれども、今回は間に合いませんでした。それにアップした後に気付いたのですけれども、姿川を書くのを忘れていますね(汗) 安塚村の戦いについて語るには重要な河川ですから、中編を書くまでは、この地図も修正したいと思います。
 地図作成に関しては、当サイトのメイン記事である北越戦争の関連地図作成が最終目的なので、その為にももう少しフォトショップの使い方を勉強しなくてはいけないようです。
 何はともあれ、この関係地図が出来た事で、野州戦争の記事の書き直しの準備は整いましたので、今週末には小山宿周辺の戦いを中心の記事とした、野州戦争の前編の記事をアップ出来ると思います。