爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

城と人形の町岩槻を巡る散歩

2018-04-11 21:37:57 | 日記

4月の退職者の会・日帰り散歩は、人形の町・岩槻である。
東武スカイツリーライン・東武アーバンパークラインを乗り継いで岩槻駅に到着する。この路線のカタカナ名は、愛称とのことであるが、参加者からは伊勢崎線・野田線の方が良い、カタカナにすれば良いというもんではないと・・・。
岩槻は、平成17年(1954)にさいたま市と岩槻市が合併し岩槻区となったが。古い話だが岩槻市当時とは駅前、市内が変わったなと感じた。
早速に駅前の東玉・人形の博物館に入館する。4階のフロアーが博物館となっており、江戸時代から昭和初期のひな人形、五月人形他が展示されている。東玉は江戸時代嘉永5年(1852)創業の老舗である。日本人特有の信仰心から人形に願いが込められ、人形職人の手により芸術的な工芸品まで高められた。

駅前通りから右手の「日光御成道」の市宿通りに入る。通りには、ここが日光御成道と思わせるような古い商家や蔵が点在する。

 

歩いていると窓がアーチ状の戦前の建築物であろうと思われる建物に入る。現在、岩槻郷土資料館として使用されているが昭和5年に建てられた旧岩槻警察署庁舎(国・有形文化財)です。アールデコ風のアーチ窓・丸柱は合理的な建物の中で特異な装飾を施している。展示は、貝塚など大昔の暮らし、岩槻のあゆみ、くらしの道具などが展示されている。

さらに西に向かうと岩槻大師の総門が見えてくる奈良時代末期に創建された真言宗の古刹である。境内には鉢植えが花棚に何鉢も並べられ花好きの住職なのだろうと皆感心した、本堂地下に戒壇巡りの四国八十八カ所のお砂踏みがある、短時間で四国八十八カ所を回ったと、同じということでお参りすることに。お遍路用の白衣が配布される、背中には「南無大師遍照金剛」と文字が入ってます。お参りを済ませ、御堂下の拝殿へ進みます、カーテンの中は漆黒の世界である、こんな事は日常生活にはない、壁伝いと言うものの不安感がある。途中、薄暗い照明の中に仏像が並んでいる、いよいよ、八十八カ所巡りである。1番札所から88番札所までの札所のそれぞれの砂の袋が踏んでお参りするようになる。1番から砂を踏み「南無大師遍照金剛」と唱えて行く自分の年齢の札所は念入りに・・・壁には大師像や経文が貼られており異空間である。これにて終了し本堂でさらに合掌する。本堂の大きい柱に「不動明王御真言 なうまくさまんだばざらだん せんだまかろしゃだ そわたやうんたらたかんまん」と書いた紙が貼られていた。何とも意味不明であるが、サンスクリット語のマントラと言われるもので、唱えることにより不動明王に帰依すると言われている、言葉に霊がありお参りすることで私たちを守ってくれる。

市宿通りで食事を済ませて、「時の鐘」に向かう。
駅前の大通りに戻り東の方向に歩いて行く、川越市の「時の鐘」は通りに面していたが、岩槻は住宅街の奥まった所にあった。時の鐘は、寛文11年(1671)に岩槻城主阿部氏によりもので城内・城下に時刻を知らせた。時の鐘の側には見事なイチョウの木があるが、明治29年に植えられた樹木である。広場は見事に「やまぶき」の花が咲いていたが、やまぶきの花は、岩槻区の花で岩槻ゆかりの太田道灌の「やまぶき伝説」からきている。

この後、太田諏訪神社、浄源寺、梅照院と回り岩槻城址公園に入る。

岩槻城址公園は、太田道真と子の道灌が築城したと伝えられる。自然林に囲まれ起伏の多い公園内は、岩槻城の土塁が今も残されています。園内の菖蒲池には朱塗りの八ッ橋が掛けられており、岩槻区民の憩いの公園となっている。

この日は、気温が高く歩いているうちに皆さん薄着に。それよりも慣れない暑さで体力を消耗し疲労感が・・・。帰りは岩槻駅までバスに乗って帰路に。ご苦労様でした。 

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