爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

埼玉県吉川市役所にて(株)タカラトミー創業者のミニ展示・・・約50年前の思い出

2024-02-14 11:06:11 | 日記

玩具メーカーの(株)タカタトミーの創業者である「富山栄市郎」氏は、埼玉県吉川市の出身である。(株)タカラトミーが今年2月で100周年を迎えるのを記念し吉川市役所にて紹介のミニ展示が行われた。
   

(株)タカラトミーは、前進を「トミー」と言っていた。1924年(T13)創業し、2006年(H18)にタカラと合併し現在に至っている。
創業者の富山栄市郎氏は、1903年に現在の埼玉県吉川市平沼に生まれ、1978年に亡くなるまで玩具業界をけん引してきた。
※トミーという社名は、苗字の「富山」をもじり、海外でも言いやすい社名にしたようです。

タカラトミーは、現在では宇宙開発の一翼を担い、2023年9月に打ち上げられたH-ⅡAロケット47号の「SORA-Q」で共同開発に協力、玩具作りにおいて培われた小型化、軽量化の技術が生かされた、これには創業者の富山氏もビックリだろう。

約50年前の思い出であるが、私が新入社員当時にアメリカの通販会社を担当したことがあった。約50年前は、カタログによる販売が中心であった。シアーズ・ローバックとモンゴメリ・ウォードが通販の両巨頭で1880・1870年には創業していた。アメリカという広大な土地と大衆消費社会の中でカタログによる販売は絶大であった。担当していた頃はカタログと言っても厚みが電話帳よりゆうにあり多品種にわたった。日本からの輸出製品も相当数掲載された、日本はアメリカの安価な工場であった(今の中国か)衣類、小型電気製品、玩具などを日本から送った。玩具などはクリスマス商戦に向けて暑い時期にサンプル品を送付したが、その中に(株)トミーもあったが、当時はトミー工業と言っていたと思うが?。アメリカの家庭では、そうしたカタログを微笑みながら眺めていたのだろうと思っていたが、私などはただただ羨ましくもあり生活レベルの違いに溜息が出るばかりであった。

当時の大手通販会社(シアーズ、モンゴメリ)も、もうない。時代の流れとは言え寂しい限りである。日本の多くの玩具会社も合併、廃業しているようである。今も続いている(株)タカラトミーなどは、創業者・富山栄市郎氏の精神や夢が生きているのだろう。


【参考資料】
吉川市役所
東武朝日新聞
ウイキペディア
ヤフーオークション

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「退職者の会」日帰り散歩: 帝釈天など柴又を巡る散歩

2024-01-19 14:47:02 | 日記

新年の散歩は、9年ぶりの企画である柴又です。私にとっては初詣です。参加者13名と多かったが皆さん新年ということで、いろいろ願いがあるのだろう。前回も参加しブログにUPしましたので参考にして下さい。(2014,01.10 柴又七福神)

京成金町線柴又駅で下車する。映画「男はつらいよ」で柴又駅で「寅さん」を「さくら」が見送るシーンがあったな~と思うほど、柴又と言えば、「男はつらいよ」の寅さんである。知らない人がいない地名でありお寺である。参道の商店街も活気があり、「映画」の効果が大きい。


参道を通り過ぎると、そこは柴又帝釈天(題経寺)である。精巧な法華経説話彫刻と裏手にある庭園・邃渓園(すいけいえん)が見どころです。※前回のブログ参照を

次は帝釈天の裏手にあたる、「矢切の渡し」(都内に唯一残る)に行く、快晴とはいえ風が冷たい。河川敷全体がスポーツグランドとして整備され、初めて来るとどこに渡しがあるのか分からないと思う。渡し近くになると、二つの碑がありました。一つは、「葛飾や桃の籬も水田べり 秋桜子」とある。秋桜子は、「しゅうおうし」と読み男性である。籬は「まがき」と読み垣根で、秋桜子の愛する昭和初期の葛飾を抒情的に読んでいる。ここでの桃は、対岸の市川で市川は、梨の栽培の他、桃林が点在し桃花観望で多くの方が訪れていました。

もう一つの碑は、やはり、演歌「矢切の渡し」(詞・石本美由起、曲・船村徹、歌・細川たかし)である。♫「連れて逃げてよ・・・」の出だしで始まるこの演歌は大ヒットしました。この渡し場は、江戸川の両岸に田んぼを持つ農民が関所を通らずに自由に行き来できるため誕生(柴又ー松戸)でいわゆる農民渡船である。江戸川開削から明治初期まで栄えたが陸運・鉄道の発達とともに役割を終えた。渡船場所が木造でできているため江戸時代の渡船場をしのばせる。

渡船場から、江戸川堤サイクリング道路を歩き「葛飾柴又寅さん記念館」と併設されている「山田洋次ミュージアム」に行く。映画「男はつらいよ」のシリーズは、1969.8.27第1作公開から1995年の主演の渥美清が参加した第48作まで続いた、1997年と2019年に特別篇も公開された。「葛飾柴又寅さん記念館」には、実物セット・寅さんの衣装トランク、帝釈天参道のジオラマ、マドンナや名場面集など映像コーナーなど寅さんワールドを楽しめる。
「山田洋次ミュージアム」は、山田洋次作品の世界に触れられるコーナーである、監督の映画作りの撮影機材や台本など数々の作品を紹介している。

寅さん記念館と入館券がセットになっているのが「山本亭」である。カメラ部品メーカー・山本工場を創立した山本栄之助の旧宅で(昭和63年に葛飾区が取得)、関東大震災後の大正末期から昭和初期に増改築された、当時としては珍しい二世帯住宅です。木造瓦葺2階建ての母屋と純和風の書院庭園で長屋門も和洋折衷となっている。建物は、床の間・違い棚・明かり障子・欄間からなる書院造、数寄屋風の天井、下端部は石張りで上部は白漆喰塗りの土蔵などの伝統的な和風建築と、壁にはマントルピース、寄木を用いたモザイク模様の床、ステンドグラスをはめ込んだ窓、ガラス製ペンダント照明を用いた、昭和初期独特の洋風建築が複合されています。庭園は、池泉・築山・滝などを設けた典型的な書院庭園も国内外を問わず高く評価されています。(米国の日本庭園専門誌の日本庭園のランキング3位にランクイン)

 

この後、前回も訪れたことがある、真勝院と柴又八幡神社に立ち寄り終了となった。

【参考資料】
・ウイキペディア
・葛飾区HP

《その他のPhoto》

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神宮外苑のイチョウ並木などを巡る散歩

2023-12-19 13:17:57 | 日記

12月の「退職者の会」日帰り散歩は、神宮外苑のイチョウ並木の黄葉と、付近の社寺、将棋会館を巡るコースを企画してくれました。このコース以前にも実施したコースです。前のブログ「神宮外苑のイチョウ並木などを巡る散歩(退職者の会:日帰り散歩)」(2017.12.07UP)も参考にして下さい。
☆コース☆
      ・神宮外苑イチョウ並木
      ・高徳寺
      ・熊野神社
      ・龍巌禪寺
      ・仙壽院
      ・榎稲荷神社
      ・瑞圓禅寺
      ・聖輪寺
      ・鳩森神社
      ・将棋会館

前回と同様、地下鉄・青山1丁目駅で下車するが6年ぶりのため方向感覚??やっとのことでイチョウ並木に到着、TVではイチョウ並木の賑わいを報道していた、外苑のイチョウ並木(約300m)に来ると映画「第三の男」ラストシーを思い出すが、今年は異常気象のせいか入口の2~3本程がイチョウの葉が残っていたが想像する並木径ではなかった、そうそうに寺社巡りに移る。

高徳寺
左右レンガ塀の奥に本堂があるお寺である。お寺でレンガ塀はあまりないので前回訪れた印象があった。入口に「河内山宗俊之墓」の案内石があったが碑はあったが墓石は見つからなかった。

青山熊野神社
青山総鎮守となっています。
明治維新時に発布された神仏分離の令により1869年(明治2年)に「青山熊野神社」と改称。 青山熊野神社は華麗な社殿を持つほか、俗謡に「青山に過ぎたるものが二つあり、鳶の薬缶に原宿の山車」と唄われ、盛大な祭礼でも知られる。もとは赤坂紀州家邸内に祀られていたが、町民の願いにより現在の地に遷座したと伝えられている。

龍厳禅寺
「勢揃坂」の中ほど国学院高校(近衛連隊跡)前に龍厳禅寺がある。門前には檀家以外については公開してない旨の表示があったが、幹事のMさんが事前に許可を受け境内を見学させていただいた。さほど大きくない境内には四季折々の植物が植えられ目を楽しませてくれる、義家が腰掛けたと伝わる「腰掛石」がある。この腰掛石の側には、松尾芭蕉の「春もやや けしきととのふ 月と梅」の句碑がある。この句碑の上半部は、1945年(昭和20年)の空襲で欠損している。本堂前の墓地にに、4基の円墳型の大きい墓があった、広島の浅野家の墓所で珍しい墓石であった。

かつては「笠松」または「円座の松」と呼ばれる松の名木があった。『富岳三十六景』や『江戸名所図会』にも取り上げられるほどの名所であった。しかし、その後枯れてしまい、この松は現存していない。

当寺には「蛇体弁天」という弁才天を所蔵している。明治期に当時の住職が境内の崖に埋もれていたのを発掘したものである。「原宿の弁天」の異名もある。ひっそりしたお寺であるが歴史のあるお寺である。
※なお、境内の公開をしてないため、写真については入口のみにしました。

仙壽院 舌状台地の高台に位置する仙壽院は、前回のオリンピックの影響を受けたお寺である。1964(昭和39)年に墓地の下に「千駄ヶ谷トンネル」を掘って都道が建設されました。今では、墓地の下のトンネルが心霊スポットとして有名な場所となっています。
仙壽院は、お万の方(徳川家康の側室)ゆかりのお寺で本堂前に石碑がある。

榎稲荷神社(お万榎)は、榎の巨木があったことから呼ばれた(今はありません)。「お万の方」が信仰したと伝えられる。小さい稲荷で、細い階段の中ほどに石の祠があり、さらに上がると木の祠があった。この階段は瑞圓寺の裏手の階段になっているようです。狐の像や観音像が置かれているが長い年月で痛みが激しい。

瑞圓禅寺は、榎稲荷に隣接しているお寺です。鳩森八幡神社の別当寺であった。境内には梅林がありきれいなお寺です。本堂横に無縁塔があり、最上段に区内では珍しいとのことですが、六面地蔵像を浮き彫りにした六面塔があります。また、同じ本堂横に庚申塔二基あり、青面金剛や三猿が彫られています。二塔には、上部に家紋が彫られている珍しいものです。側面には稲穂をくわえた狐が彫られており、稲荷信仰が表現されているのは大変珍しい庚申塔です。

聖輪寺(しょうりんじ)
  観音坂の名は、聖輪寺の本尊が如意輪観音であることに由来します。境内には見守不動がありました、その功徳からか門前の観音坂では事故がないとのこと。本堂左手奥に綾部燈籠(キリシタン燈籠)がありました。大きい燈籠かと思っていたら、小さいものでした。

 鳩森神社・将棋会館近年の将棋ブームで来訪者の多い場所である。神社一帯は、門前町も形成され、定芝居や水茶屋、楊弓場が常設され遊興の場となっていた。
隣にあるのが将棋会館です。いいニュースがない昨今、将棋の藤井さん、野球の大谷さんだけが明るい話題で、将棋会館も訪れる方が多い。

外苑のイチョウ並木は、残念でしたが巡った寺社で紅葉を楽しむことができました。
戦災の影響を受けた寺社やオリンピックや都市開発の影響を受けた一帯でもあり、昔の面影を探すのも大変である。さらなる開発が予定されているようです。 


【参考資料】
・ウィキペディア
・渋谷区教育委員会


《その他のPhoto》


千駄ヶ谷を歩いていると、「東京新詩社跡」の碑がありました。
 東京新詩社・・・明治32年、与謝野鉄幹が設立した結社。翌明治33年「明星」を発行。与謝野晶子・石川啄木・小山内薫・木下杢太郎・北原白秋らが参加した。浪漫主義文学の牙城となる。案内板には、明治37年11月に中渋谷からこのあたりの千駄ヶ谷大通りに移りました。与謝野明子は、詩歌集「みだれ髪」などを刊行し、寛(鉄幹)もしきりに短歌会を催すなどして機関紙「明星」も隆盛を極めました。しかし「明星」は百号で廃刊となり、その後、移転しました。

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<駅からハイキング>「物語の生まれるまち あびこ」を楽しむ散策 に参加して

2023-11-27 19:05:20 | 日記

我孫子市の散策については、手賀沼や文人達の別荘などの散策の計画をしていて、今回、図らずも「JR駅からハイキング」のコースとなり参加した。
都内から水辺歩きを楽しむには我孫子が近い距離にある、ひところは汚い手賀沼だが綺麗になってきている。
我孫子市は、千葉県の北西部に位置し、東京都の都心から30~40Km圏内の都市で、利根川と手賀沼に挟まれ、なだらかな下総台地が東西に約14km、南北に4~6kmにわたってひろがり手賀沼沿いと利根川沿いは平らな地域となっている。人口約13万人、江戸時代より水戸街道の宿場町として栄え、数多くの文化人が環境の良い場所として手賀沼畔に住居や別荘を構え文化都市として「北の鎌倉」と言われた。
我孫子の由来は、古代において「我孫子」は氏(ウジ)や姓(カバネ)という、血筋や職種にかかわる苗字のようなものであり、人名として使用されていました。表記は異なりますが「阿毘古」「我孫公」という人の記録が残されています。古墳時代(3世紀から7世紀)にかけて日本列島で大きな権力を有した大王(オオキミ、のちの天皇家につながっていくとされる)や大和地方の有力豪族は、各地の地方豪族を支配下におさめる際に、豊かな土地を直轄地とし、そこに住む人々から貢納物を納めさせました。その際に土地やそこに住む人々に「我孫子」という名前が付けられたと考えられます。大阪や奈良をはじめ、全国各地に「我孫子」「安孫子」「吾孫子」などの地名や人名が認められるのはこのためであると思われます。(我孫子市)

我孫子駅で参加の手続きを済ませ最初の訪問先である「杉村楚人冠記念館」に。

「杉村楚人冠記念館」
明治末期から昭和前期の東京朝日新聞社で活躍したジャーナリスト、杉村楚人冠(本名・広太郎)の自宅を改修した記念館。杉村楚人冠は、新聞社に調査部や記事審査部を設けるなど、新聞業界を発展させた。

楚人冠記念館を出て「白樺文学館」に行く途中に小さい丘を上がると楚人冠公園があった。杉村楚人冠を顕彰している碑「筑波見ゆ冬晴れの洪(おお)いなる空に」が立っていました。かつては高台から遠くを望むことができたようですが、現在は木立で無理です。

「白樺文学館」
「白樺派」という集まりは、学校で教わりましたね。説明と言われるとチョット・・・
白樺派は、明治末期創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸思潮の一つで、理念や作風を共有した作家の人達です。大正デモクラシーなど自由主義を背景に理想、人道、個人主義的な作品を製作した。メンバーは 柳宗悦*1・志賀直哉・武者小路実篤などで、白樺派と呼ばれる文学者が手賀沼に住み、文学活動をおこなった。我孫子が拠点となった。
*1 柳宗悦については、「オンライン講座10 考現学の祖・今和次郎の描いた東北 2022.11.10」、『「東京ステーションギャラリー」と「将門塚」を散策 2022.9.24』についても参照して下さい。

 

白樺文学館の中に柳氏の掲示物があったので受付の方に地図をもらいコースを外れ見学を。柳宗悦の住まいは「三樹荘」という、林に囲まれた坂の階段を上がった所に三樹荘跡がありました。この坂は、天神坂と言い、かつては文人の多くが散歩したとのことです。受付の方の話のとおり、中は見学できません、表札を見ると他の方が住んでいました。三樹荘の名は、3本のスタジイから柳の叔父の加納治五郎に命名されました、3本のスカジイの木は長寿・叡智・財宝を象徴する木と言われています。多くの文人やバーナード・リーチ*2が訪れたとのことです。なお、柳が住んでいた建物は残っていないようですが、現在の建物もモダンな建物でした。
向かい側に公園があり、「加納治五郎別荘跡」がありました。我孫子に多くの文化人が住むようになったのは嘉納治五郎の影響と言われ我孫子市が保全しています。
*2イギリス人の陶芸家で、画家、デザイナーでもあった。白樺派や民芸運動にも関りが深く柳宗悦に協力した。

元のコースに戻り志賀直哉邸跡へ。

志賀直哉邸跡(緑雁明緑地)
「小説の神様」とも称される白樺派を代表する小説家。志賀直哉は我孫子で「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」などを執筆。また「暗夜行路」をを執筆した書斎が保存されています。さらに道なりに歩くと「旧村川別荘」がある。

旧村川別荘
西洋古代史学者、村川堅固が建てた別荘。大正から昭和にかけての別荘地としての我孫子の様子を残している。
建物は、斜面上にありました。上がったところの和風の建物は母屋となっています。母屋は元々この場所にはなく、我孫子宿本陣の離れの建物を一部改修し移築しました、大きく変えた点は、元々は茅葺屋根を、後に瓦屋根に変えられましたが江戸時代の部分も多いです。和室には、細かい飾りや細工が見られます、大きい建物ではなく、こじんまりした建物です。
隣にあるのが新館です。昭和2(1927)年には、朝鮮半島での調査に際して、現地の建物から得た印象を元に新館を建てました。大正12年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしています。沼を見下ろす南側の展望を意識した大きなガラス窓や、寄木モザイクを配したモダンな床の作りが特徴です。角部屋からの窓を通しての景色は、絵画のようです、残念なことに今では、大きい建物ができ、当時のような景色は望めませんが、旧村川別荘は手賀沼の景色に溶け込んでいたことでしょう。

下総台地で以外に高低差がありました、また、別荘が高台に建てられ事もあり日常生活に不便さも感じました。自転車のご婦人が降りて押している姿もありました。

手賀大橋 
我孫子市と隣の柏市を結ぶ全長415mの四車線のアーチ橋である。以前は二車線でそれ以前は手賀沼を結ぶ連絡船があった。橋から見える手賀沼の景色は壮観である、思わずこれが沼か?

この後のコースでは、3か所あるがここで疲労を考えて離脱、まだコースに入っていないが見どころとして武者小路実篤、水の館、鳥の博物館(工事中?)等があるが残念。


【参考資料】
・JR東日本
・ウイキペディア
・我孫子市

 《その他のPhoto》

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《茨城の歴史を学ぶ》「長久保赤水と伊能忠敬」を聞いて

2023-11-25 15:32:54 | 日記

「大人の休日倶楽部」で ”長久保赤水と伊能忠敬”の講座が開催された。講演は、茨城大学名誉教授の小野寺淳氏である。


講演をまとめるのは、講演者の意図することと異なる場合があるので、私が調べたことをあわせて報告する。

茨城は、地図製作者が多い、その一人が長久保で地図では有名な人で、伊能との違いを話された。

シーボルトについて
シーボルトは、元々ドイツ人でオランダの東インド会社(世界初の株式会社)専属の医者として採用され。資料を母国に郵送していた。シーボルトは報告した「NIPPON]には地図の中には二つ伊能図と赤水図があった。シーボルトのNIPPONは分冊であるが、後にまとめられた。有名なシーボルト事件は、任期を終え帰国するさいに船が暴風雨により難破し積み荷が調べられ、持ち帰り品の中に禁制品の地図があり国外追放となった。連座として高橋景保は死罪(獄死)、他の者も処罰された。
伊能図は、海岸の測量により日本の地形が正確であるが内陸は正確ではなかった。東日本は自分の金で測量、西日本は幕府の依頼により大名が協力していた。                             
シーボルト「日本」を読んで、当時のロシア、イギリス、フランス、アメリカ等が日本との通商関係を結ぶため日本列島近海までやってきています。

地図の変遷
長久保赤水の前の地図は、「行基図」で諸国を俵あるいは卵状(楕円や円)で表したが、北が能登半島と思われており東西南北が違っていた、また、伝説上の国(島)があった。年代とともに実証されて一番正確な地図を作ってきた。(石川流宣・大日本国大絵図)


当時は、一般の人が知る地図と将軍が知りえる地図が違っていてもっと正確な地図を持っていた。一般の人と差があった。そういう中で赤水図が出版された。
領地を与えるには地図が必要で、豊臣秀吉は検地をおこなった。秀吉は、完成しないで亡くなり、そのあと徳川家康が利用し、家光の代で正確になってきた。しかし方言により地名が違っていたりし争論だらけになった。

長久保赤水
長久保赤水の地図は、初めて緯度経度を入れて出版した。それより前にも緯度経度を入れている地図があった。当時、緯度は正確な部分があったが、経度の基準がなく京都御所を「0」とした。球体のため狭まる方法が不明であった。韓国と論争中の竹島なども入っていた呼名は松島であった。長久保の地図は改訂版が幕末まで続いた。

 

伊能忠敬と測量

長久保赤水の地図は、絵図から測量図の過渡期の地図で、測量家伊能忠敬の地図へと進んでいくが、それより25年早い1796年に「琉球国之図」が製作されていた。伊能忠敬も幕府の援助により測量も進が、加賀藩では実測を断られた、優れた技術を持った人が全国的には多くいた。伊能や長久保が名が残ったのは伊能は幕府が関わっていたからで、長久保は出版により名が残った。

まとめ
日本地図で知られているのは伊能忠敬で、日本で初めて測量し、1821年に伊能忠敬の死後に弟子たちによって「大日本沿海輿地全図」(通称・伊能図)を完成させた。伊能図ができる42年前(1779年)に長久保赤水は、「改正日本輿地路程全図」(通称・赤水図)を作り上げた。赤水図の特徴は伊能のように実測ではないが情報の細かさや高い利便性にある。伊能図が精度が高いが内陸部などは赤水図の方が山や河川名など内陸の情報が豊富で城下町や古戦場などを分かりやすく示している、長久保は友人が多く、旅人にもお茶をごちそうして話を聞くなど、情報収集能力にたけていた。精密度は伊能図と比べ遜色がなく、目立つ違いは当時の蝦夷地(北海道)が一部しか描かれていない程度である。小さく折り畳んで持ち運びができ、観光ガイドブックのはしりとも言える。伊能忠敬が測量の際に携帯したと記録があり、吉田松陰は兄への手紙で「これがなくては不自由」と記している。
どちらがの方がと、云々すべきではないが、両者とも地図製作者として今日の日本の地図を考えると実績を残したことを忘れてはならない。


【参考資料】
・大人の休日倶楽部 講座
・高萩市役所
・伊能忠敬記念館
・国土地理院
・ウイキペディア
・「伊能忠敬の全国測量」渡辺一郎編著 伊能忠敬研究会発行
・東京新聞
・日本経済新聞
・身近な土木HP
・BuzzTrend

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