こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

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よりよく生きるにはどうしたらいい?

病理診断報告書を上手に書きたい!(中)

2017年12月22日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨日のつづき)

臨床医でも消化管とか皮膚とか腎臓とか神経とかそれぞれの臓器に特化した病理所見を十分理解し、言語化することのできる人は少なくない。でも、"病理専門医なみ"に病理診断報告書を書くことのできる人はあまりいない。というか、そんな臨床医がたくさんいたら、私たち病理専門医の立つ瀬がない。病理専門医というのは全ての領域に通じた上で、それぞれの臓器の診断を行うというところが臨床医と違う。この先、遺伝子診断技術が進めば、病気の診断もずいぶんと補助してもらえるようにもなるだろうけど、病理医の仕事というのは"患者さんの体で起こっている事象を臓器によらず、客観的に捉え、誰が読んでも分かる文章、すなわち病理診断報告書を病理総論的な観点から書くこと"にある。

時々、よその病院で診断を受け、セカンドオピニオンで来院し、担当医に病理診断の確認を求められることがある。そんな時には他の病理医の書いた診断書を読む。診断がわからない場合は、それ以前にコンサルテーションとしてくるので、セカンドオピニオンの場合診断が間違っているということはあまりないのだが、そんな中に首を傾げたくなるような診断書もある。例を挙げようと思ったが、それはできないことだし、想像で一度書いてみたが言葉のサラダのような診断文はなかなか書けない。診断名さえあっていたらいいじゃないか、なんていう病理医は将来仕事をPCR付きのAIに代わってもらったほうがいい。そんなこと、誰にでもできるようになる。

病理診断報告書はそれぞれが独立した論文のようなもので、全体的には一曲の音楽のように統一が取れていなくてはいけない。だから、自分自身、サイズとか重さを書き忘れていたりしてなんとなく座りの悪い診断文はというのは、第2楽章を抜かした交響曲のようになってしまう。だから、そうならないように細部にわたって注意をして診断文を書かなくてはいけない。いくら同じようなことに注意をしていても、コロ健自身そのようなミスはいくらでもある。これまで書いてきた数千の病理診断報告書のうちどれ程が納得のいくものだっただろうかと思うと、冷や汗が出る。

では、何故、診断名だけではいけないのか。内視鏡で肉眼像が癌だったらそれでいいじゃないか。乳腺の針生検で癌が見つかったらそれでいいじゃないか。ということになるけど、では、果たしてそれだけで人間は、患者も医者も納得できるものだろうか。”癌”という病気だから大腸を取る、乳腺を取る。知識のレベルはそれぞれだけど、普遍的な根拠に基づいた診断がなされた上で治療は行われる必要がある。それが病理診断だ。内科系疾患や精神科領域の疾患の多くは、組織学的診断ができないため、いくつかの症状を組み合わせた診断基準を用いるが、病理診断は病変部より組織が採取されていたらそれだけで確定診断が可能となる。そして、正しい診断に基づいた治療が行われ、患者が回復したら、それは医療チームの勝利となる。

(この続きはまた来週に)

冬至

 

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