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◆【経営コンサルタントの独り言】 地図の日といえばこの人を忘れることはできません 419

2024-04-19 17:03:00 | 【話材】 経営コンサルタントの独り言04月

  【経営コンサルタントの独り言】 地図の日といえばこの人を忘れることはできません 419

 

 

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■  地図の日といえばこの人を忘れることはできません 419

 4月19日は「地図の日(最初の一歩の日)」ですが、地図といえば忘れてならないのが伊能忠敬ですね。
 江戸時代寛政年間に簡単な器械だけで足で稼いだ測量で、こんにちの地図と大きな違いなく作成したというのは驚きです。
 寛政年間といいますと浅間山噴火から天明の大飢饉などで一揆が多発した時代です。
 悪名高い田沼意次の失脚後、松平定信が寛政の改革を実施しました。
 その様な時代背景の中での実施は、一層困難であったのではないでしょうか。

■ 伊能忠敬 日本の正確な姿を明らかに

 いのう ただたか
 延享2年1月11日〈1745年2月11日〉-文化15年4月13日〈1818年5月17日〉

 江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家
 通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

 上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家に生まれました。後に伊能家の養子に入ります。

 忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村でした。伊能家は、その村民の中でも特に経済力があり村全体に大きな発言権を持っていました。伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根川水運などにも関わっていました。

 田沼意次は、幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行しました。明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告されました。

 佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もなかったのですが、ようやくやりたいという人物が表れ、江戸との交渉役に忠敬は江戸へ出向くなど、村のためにも活躍しました。

 忠敬は、名主にも推挙されたのですが、天明3年(1783年)、浅間山の噴火などに伴って天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となり、そこでも手腕を振るいました。

 一方で、忠敬は暦学に興味を持っていて、江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごしていました。長男景孝に家督を譲り、店の仕事を任せるようにしました。次のような家訓をしたためて景敬に渡したといわれています。
 第一 仮にも偽をせす孝弟忠信にして正直たるへし
 第二 身の上の人ハ勿論身下の人にても教訓異見あらは急度相用堅く守るへし
 第三 篤敬謙譲とて言語進退を寛容に諸事謙り敬み少も人と争論など成べからず

 寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、忠敬は、当時の暦の権威者である高橋至時の弟子となりました。50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳でした。昔の中国の暦『授時暦』が、実際の天文現象と合わないことに気づいていた忠敬が、その理由を江戸の学者たちに質問したときに、唯一回答できたのが至時だったので師事したという話が伝えられています。

 忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていたという逸話もあるほどです。師至時は、暦法『授時暦』やティコ・ブラーエやケプラーの理論にも通じていました。

 寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導につきました。その時に天体観測についても教えを受けたのです。観測技術や観測のための器具について精通していた重富を通じて観測機器を購入し、自宅に天文台を作り観測を行いました。取り揃えた観測機器は象限儀、圭表儀、垂揺球儀、子午儀などで、質量ともに幕府の天文台にも見劣りしなかったそうです。

 蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まり、アダム・ラクスマンが根室に入港して通商を求めたり、択捉島上陸事件などが起こったりました。瀑布は、蝦夷地の調査を行わせ、堀田仁助には蝦夷地の地図を作成させました。

 これらを契機として、忠敬にも命が下り、寛政12年(1800年)閏4月19日、自宅から蝦夷地へ向けて出発したのです。辛苦の地図作成作業が始まり、蝦夷地から種子島などまで南下し、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国の測量を果たしました。間宮林蔵などの樺太測量などとあわせて、没後、『大日本沿海輿地全図』が完成され、国土の正確な姿を日本地図として明らかにしたのです。

 1818年、74歳の生涯を閉じました。1883年(明治16年)、贈正四位を授かっています。

(ドアノブ)

 

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