物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

中国語では

2015-05-27 19:00:56 | 日記
チラッと見ただけだが、NHKのEテレビの中国語の講座で檀密さんが好青年の好をハオと読みかけたと言っていた。

中国語ではないが、そのような経験を最近した。それはブールス・ウイルスのDie Hard 3を見た後で、出演者の名前などが出てきたときにドイツ語風にディ ハードと読みかけて、「そうだった、これは英語だからダイ ハードだったよな」と思った。

英語でonという前置詞がでてくれば、フランス語の一般的な人々を表す代名詞のonと思ってしまうということもときどきある。

最近ではテレビのフランス語講座でもラジオのフランス語講座でもonについても動詞の変化を練習するという風になって来ている。もし代名詞のonが難なく使えるようになれば、私たちの代わりにonを使うことができるのでとても便利なのである。

科学的合理性だけでは

2015-05-27 14:52:10 | 日記
科学的合理性だけでは人は生きられない。そんなことをいうと科学的合理性というものがつまらないかのように思われるのでちょっと注釈がいるだろう。

もちろん科学的合理性というものは非合理性よりも優位になければならない。それは必要条件ではあるが、十分条件ではないということだ。

最近聞いた話だが、ある病院のカフェーで食事をつくって出している人たちが実はその病院の清掃を担当している会社員の有志がまたカフェーの食事を調理しているという。

そのときに病院の清掃をしていた人たちが服装を改めて食事を調理しているので、衛生的にあまりいい印象をもたれないという話であった。

実際には病院の清掃を担当した人たちが食事を提供するときに不衛生であることはないだろう。これは多分保健所がすでに検査に入って衛生的に問題がないことを検査しているであろう。

科学的合理性の範囲では多分これは異存がなかろう。ところが人はそれでは十分に承知できるかどうかはわからない。むしろ危惧が強いであろう。これはいくら保健所が衛生的に大丈夫だと太鼓判を押しても変わらない。

人間は科学的合理性に大いに依拠しているのではあるが、それだけでは十分ではないのである。そこらあたりが人間の難しいところである。

こういう場合のいい例を出して説明をしたことがあるのは武谷三男である。彼は「科学的合理性が満たされれば人間は何をしてもいいか」という点についてこんな例を上げた。

透明なガラスの瓶に密封した糞便を入れて食卓においてあるとする。このときその食事に招待された人が招待主の主人公にそんなことを止めてくれと頼んだら、主人公はこの便を入れたガラス瓶は密封してあり、匂いもしなければ、大腸菌もなにも外には漏れ出さない。あなたは科学的合理性を解しない人だと主張したとする。この主張は明らかに間違っている。

だから、科学的合理性は大事なものではあるけれどもそれだけでは十分ではない。

なお、この例を武谷があげたのは次のような文脈においてであった。いま大阪の熊取町にある京都大学の原子炉をどこに設置するかという候補地を探していたころ、宇治市の水源池近くに原子炉を設置する候補地があがったことがあった。

京都大学でその当時原子炉の設置の候補地を探していた責任者が原子炉はバスよりも安全だとか言ったことに対する反論として言ったのが上に挙げた例である。

水源池は人の飲む水に関係している。原子炉がはたとえバスよりも安全だとしても水源池近くに設置されることを許してよい理由にはならない。ましてや原子炉はそれほど安全ではないのだから。

貧しさ

2015-05-27 14:11:40 | 日記
貧しいことを喜ぶ人はいないと思う。どちらかといえば、貧しいよりも富んでいる方がよい。

なにがなんでも富んでいることが貧しいということよりも優位にあるなどとは主張するつもりは全くないけれども。

今日の朝日新聞の鷲田清一さんの「折々のことば」欄につぎのことばが載っていたが、ちょっと言葉足らずで説明がほしいところである。

(引用はじめ)
貧しさこそ、真の出会いに必要であるということは、われわれを深く慰めてくれる。
(霜山徳爾)

聖書の「心貧しき人は幸いである」をはじめ、多くの宗教が貧しさの深い意味を説く。この臨床心理学者は、その貧しさをなんと嬰児のほほ笑みに見る。「自らに閉じ困らず、といって世界とのかかわりで全く一定に決められてもいず、相対的で、満たされない不十分な状態」、つまりは「きわめて貧しい素朴な態度」だけが出会いを可能にする、と。 「仮象の世界」から。 
(引用おわり)

よくわからないのは心の貧しさのことなのか、それとも物質的な貧しさなのか。はたまた心の貧しさとはなにか。

最近、子どもの貧困をどうやって救うかという運動などがマスコミで報道されている。私は子ども貧困を救うことには賛成だが、これではひょっとして貧しいことがいいといっているように誤解されはしないか。まさかそんなことを鷲田さんが主張されているとは思わないけれども、鷲田さんのコラムは短い語数のコラムなので、今回は誤解を招くのではないかと恐れている。