物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

科学的合理性だけでは

2015-05-27 14:52:10 | 日記
科学的合理性だけでは人は生きられない。そんなことをいうと科学的合理性というものがつまらないかのように思われるのでちょっと注釈がいるだろう。

もちろん科学的合理性というものは非合理性よりも優位になければならない。それは必要条件ではあるが、十分条件ではないということだ。

最近聞いた話だが、ある病院のカフェーで食事をつくって出している人たちが実はその病院の清掃を担当している会社員の有志がまたカフェーの食事を調理しているという。

そのときに病院の清掃をしていた人たちが服装を改めて食事を調理しているので、衛生的にあまりいい印象をもたれないという話であった。

実際には病院の清掃を担当した人たちが食事を提供するときに不衛生であることはないだろう。これは多分保健所がすでに検査に入って衛生的に問題がないことを検査しているであろう。

科学的合理性の範囲では多分これは異存がなかろう。ところが人はそれでは十分に承知できるかどうかはわからない。むしろ危惧が強いであろう。これはいくら保健所が衛生的に大丈夫だと太鼓判を押しても変わらない。

人間は科学的合理性に大いに依拠しているのではあるが、それだけでは十分ではないのである。そこらあたりが人間の難しいところである。

こういう場合のいい例を出して説明をしたことがあるのは武谷三男である。彼は「科学的合理性が満たされれば人間は何をしてもいいか」という点についてこんな例を上げた。

透明なガラスの瓶に密封した糞便を入れて食卓においてあるとする。このときその食事に招待された人が招待主の主人公にそんなことを止めてくれと頼んだら、主人公はこの便を入れたガラス瓶は密封してあり、匂いもしなければ、大腸菌もなにも外には漏れ出さない。あなたは科学的合理性を解しない人だと主張したとする。この主張は明らかに間違っている。

だから、科学的合理性は大事なものではあるけれどもそれだけでは十分ではない。

なお、この例を武谷があげたのは次のような文脈においてであった。いま大阪の熊取町にある京都大学の原子炉をどこに設置するかという候補地を探していたころ、宇治市の水源池近くに原子炉を設置する候補地があがったことがあった。

京都大学でその当時原子炉の設置の候補地を探していた責任者が原子炉はバスよりも安全だとか言ったことに対する反論として言ったのが上に挙げた例である。

水源池は人の飲む水に関係している。原子炉がはたとえバスよりも安全だとしても水源池近くに設置されることを許してよい理由にはならない。ましてや原子炉はそれほど安全ではないのだから。


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