先日、『ブッダの最後のことば』をNHKのEテレの「100分で読む名著」でとりあげていた。
仏教とはなかなか合理的な考えだと聞くが、いつもその真髄は空性だとか聞くとよくわからなくなってしまう。
だが、すべての私たちの捉われごとは自分の心がつくりだした虚像だという。空性とはよく鏡のようなものだと言われる。鏡は空の月も雲も映すがそれらが去ればそこには何も残ってはいない。
そういうものだと聞くとなるほどそういうものかと思う。カルマ(業)だと何かを被るだとか何とかいうが、それは単に自分でつくった心のイメージにしか過ぎない。本当の本質は鏡のようにそこには何もないというのはなかなか私たち凡人には至れない境地である。
私は無神論者なので地獄も極楽も信じてはいないし、来世も信じてはいない。しかし、「生まれ代わりがあるという思想は楽観論だ」という考えを述べた湯川秀樹博士のユーモアは理解するし、その理解は深くてとても興味深いと思う。
どうしても人生を楽しむという姿勢が生きるためには必要なのだと思う。人生のいきる目的などは何年生きてもわかるものではないし、そういうものを探し続けることがいいとは思わないが、人生が楽しいものであることだけはすべての人にわかってほしいと思う。
今朝の新聞に永井均さんという哲学者(?)のことばを鷲田清一さんが書いていたが、教育の目的はモラルを教えることでは決してない。人生は楽しいものだということを教育では徹底して教えられなくては何の教育だろうという。
誠にその通りである。
仏教とはなかなか合理的な考えだと聞くが、いつもその真髄は空性だとか聞くとよくわからなくなってしまう。
だが、すべての私たちの捉われごとは自分の心がつくりだした虚像だという。空性とはよく鏡のようなものだと言われる。鏡は空の月も雲も映すがそれらが去ればそこには何も残ってはいない。
そういうものだと聞くとなるほどそういうものかと思う。カルマ(業)だと何かを被るだとか何とかいうが、それは単に自分でつくった心のイメージにしか過ぎない。本当の本質は鏡のようにそこには何もないというのはなかなか私たち凡人には至れない境地である。
私は無神論者なので地獄も極楽も信じてはいないし、来世も信じてはいない。しかし、「生まれ代わりがあるという思想は楽観論だ」という考えを述べた湯川秀樹博士のユーモアは理解するし、その理解は深くてとても興味深いと思う。
どうしても人生を楽しむという姿勢が生きるためには必要なのだと思う。人生のいきる目的などは何年生きてもわかるものではないし、そういうものを探し続けることがいいとは思わないが、人生が楽しいものであることだけはすべての人にわかってほしいと思う。
今朝の新聞に永井均さんという哲学者(?)のことばを鷲田清一さんが書いていたが、教育の目的はモラルを教えることでは決してない。人生は楽しいものだということを教育では徹底して教えられなくては何の教育だろうという。
誠にその通りである。