神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

淀橋浄水場

2018-03-15 06:31:18 | 神田川4

 淀橋浄水場の建設の第一歩は明治25年(1892年)、「多摩川誌」(昭和61年 多摩川誌編集委員会)の記述によると、まず淀橋事務所の盛土に着手、次いで「新水路余水吐築造工事にとりかかった」とあり、これは助水堀を余水吐きに転用する工事のことかもしれません。翌26年に起工式が行われ、31年にほぼ完成、神田、日本橋方面への給水が開始されます。給水地域は順次拡大され、明治32年(1899年)には落成式が挙行されます。(東京水道歴史館前に展示されている起工式のタイル画は→ こちらでどうぞ。当日は上野駅、新橋駅から特別列車が仕立てられ、来賓は三千人を越えたそうです。) なお、浄水場の給水能力は、当初予定では一日600万立方尺(4立方尺×150万人)、その後、明治末までに、給水人口200万人、一日の給水能力800万立方尺に増加しました。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」   青梅街道、十二社通り、水道道路、甲州街道の各道路、そして神田川と玉川上水の位置関係は現在と同じです。

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    ・ 淀橋浄水場跡  昭和40年(1965年)、新宿副都心計画の具体化に伴い、淀橋浄水場は廃止され、水の橋下に→ 給水所が残るだけです。なお、淀橋浄水場の機能は東村山浄水場に引き継がれました。

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    ・ 角筈区民センター前交差点  玉川上水新水路跡の道路(水道道路)と十二社通りの交差点です。奥は新宿副都心の高層ビル群、左手は東京都庁舎で、助水堀は50mほど先を横切っていました。 

 <玉川上水新水路>  浄水場建設に当たり当初検討された案では、玉川上水の旧水路をそのまま使い、浄水場もそのルート上にある新宿駅の南西、千駄ヶ谷村に建設する予定でした。それを変更したのは、直線的に送水することで確保される落差(位置エネルギー)を利用し、市中への配水に要する機械力を節約しようとしたためです。結局、現在の和泉給水所付近から玉川上水を分水し、最大で6mほどの築堤上を淀橋浄水場まで、総延長4.3kmのほぼ直線の水路で送ることになりました。これが玉川上水新水路で、幅20尺深さ8尺、毎秒約160立方尺を流すことのできるコンクリート張りの開渠でした。