神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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角筈村

2018-03-05 07:03:03 | 神田川4

 「角筈村は日本橋より二里半、村の地形古へ武家屋敷等置れさる以前、東の方内藤新宿の地差入て矢筈の如くなりし故村名起りしと云、柏木村に伝ふる北条氏より出せし文書に、柏木角筈小代官百姓中と記し、『北条役帳』にも本住坊寺領十二貫文、柏木角筈共と見えたり、古は中野郷の唱ありし由『十二所権現の縁起』に載たり、戸数百八、東西十五町、南北八町許、東は内藤新宿、西は幡ヶ谷村、南は千駄ヶ谷、代々木の二村、北は鳴子町、淀橋町なり、・・・・村の南境には甲州道中かかり、北には青梅街道通せり、又村内多門院、長楽寺の二門前は町並となり、延享三年町奉行支配に属す」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、同細線は淀橋町当時の町、大字境、また、中央の薄緑は淀橋浄水場の範囲です。 

 角筈(つのはず)の由来に関しては、諸説が併存しています。その一は上で引用した「新編武蔵風土記稿」にあるように、甲州街道と青梅街道の追分のところが、東隣の内藤新宿に属していたため、村の形が矢筈のようだというものです。矢筈(やはず)は矢の末端部分で、弦に掛けるところに切り込みが入っています。この説に対して「豊多摩郡誌」は、古書には「ツノハツ」とあり、元々「筈」だったかどうか疑問だとした上で、当地の開拓者、渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、あたかも角のようであったこと、そのため、「角髪」とあだ名されていて、いつしか村名となったとの説を紹介しています。

 

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    ・ 熊野神社  「熊野社 十二所権現を勧請せるを以て此辺の地名を十二所と呼ふ、本地正観音なり、別当は多摩郡本郷村成願寺なり」 「新編武蔵風土記稿」はさらに、中野長者鈴木九郎による創建伝承に触れています。 

 また同じ「豊多摩郡誌」は、その渡辺家に伝わるものとして、「角筈」は優婆塞(うばそく 仏教の在家信者)を指す神官の忌詞(いみことば)で、与兵衛も真言宗の優婆塞であったとの説も併記しています。なお、この説は主人公を中野長者、鈴木九郎に置き換えて、「嘉陵紀行」にも登場します。これ以外にも、玉川上水の水門の楔を角筈といい、それが地名になったとの説もありますが、角筈は玉川上水開削以前からある地名だと、「新宿区町名誌」(昭和51年 新宿区教育委員会)は指摘しています。