それまで規模を縮小してきた下の溜井が、完全に埋め立てられたのは昭和に入ってからで、角筈の田圃が宅地造成され、田用水としての役割を終えたのと期を一にしています。これに対し、上の溜井は行楽地の中心として、二業地、三業地指定を受けてからは歓楽街の中心として、なお存続しますが、同じころには南半分は埋め立てられ、竜宮殿を名乗る料亭などが建ち、また、昭和10年代に十二社通りが開通した際、東側が切り取られます。結局、同43年に完全に消滅しましたが、その直前には元の五分の一ほどが北西の一角に残るだけで、水質汚染も甚だしかったといいます。
- ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野」 前回の→ 「明治42年測図」と同一場所、同一縮尺です。十二社通りなどをグレーで、熊野神社を含む新宿中央公園を薄緑で重ねています。
- ・ 十二社の碑 江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851年)に建てられました。区指定史跡として、熊野神社境内に保存されています。
- ・ 上の溜井跡 最後まで残った北西の一角の池畔沿い道です。左手の建物の間に挟まれた大イチョウは、当時の名残といわれています。
- ・ 堤跡 上掲写真の右手坂上からのショットで、奥が十二社通りです。江戸時代は上下の溜井を隔てる堤がこの坂下にあり、弁天社が祀られていました。