「助水堀 村の北辺を流る、こは玉川上水の分水にて神田上水の助水なり、淀橋町へ沃けり」(「新編武蔵風土記稿」) 玉川上水の通水から十数年後の寛文7年(1667年)、神田上水への助水のため開削と伝えられています。これは幕末近くに書かれた淀橋水車の起立書によっており、同書によると、助水堀に水車が設けられたのは延宝2年(1674年)ですが、このへんの事情に関して「上水記」は、「古来玉川上水より神田上水え助水之樋口にて、水車起立候儀と(の関係は)相分兼候」としています。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」 上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。
- 1. 淀橋の上流が合流地点です。一方、→ 「角筈村絵図」にも描かれているように、水車用水は青梅街道を越えていました。
- 2. 東京電力の用地前に路地が見えますが、水路跡は側溝が分かれている右端の方かもしれません。
- 3. 三角形の小公園の脇を抜けます。水車用水は三角形の頂点で分かれ、公園の東側を北上していました。
- 4. 十二社通りを横切ります。欅橋(「豊多摩郡誌」では槻橋)が架かっていたところです。