神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

溜井2

2018-03-08 06:08:32 | 神田川4

 田用水の溜池として開削された溜井ですが、江戸時代も後半から明治にかけて、池の周辺には茶店が設けられ、景勝地としてにぎわうようになります。「池畔は皆茶亭にして巨幹に倚り碧水に枕み、・・・・夏季暑を樹下水辺に避くるの客最も多く、少女客を呼んで、茶亭の繁忙此時に限らる、爆泉は三四ヶ所あり、男女遊浴場を分つ、西北崖のもの最も古くして大なり」(「豊多摩郡誌」) この時期、灌漑用の溜池としての機能は低下し、特に下の溜池の縮小は顕著で、→ 「角筈村絵図」と「明治42年測図」の比較からも明らかです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 中野」  十二社通りなどをグレーで、熊野神社を含む新宿中央公園を薄緑で重ねています。

 溜井の機能低下と関係しているのでしょう、江戸時代には幡ヶ谷村一村の用水だった幡ヶ谷村分水も、明治に入り角筈村の田圃を灌漑するようになります。明治17年(1884年)の「田用水取調表」によると、その水掛反別は2町7反5畝26歩、ちなみに、溜井を水源とするほうは3町5反1畝18歩です。なお、このように規模を縮小してきた下の溜井が、完全に埋め立てられたのは昭和に入ってからで、角筈の田圃が宅地造成され、田用水としての役割を終えたのと期を一にしています。

 

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    ・ 下の溜井跡  十二社通りから一つ裏手にあるこの通りのワンブロック、80mほどが、「竪五十間横七八間より十六間許」(「新編武蔵風土記稿」)の縦に当たります。

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    ・ 下の溜井跡  上掲写真の先を右手から見通したところで、正面奥は十二社通りです。その先の熊野神社下までが下の溜井の最も幅広な個所で、30~40mありました。