神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

幸橋門

2014-11-05 07:12:22 | 城西の堀川3

 「幸橋御門 古くは御成御門と云。寛永中の『江戸絵図』(「武州豊島郡江戸庄図」)には御成橋と註す。」(「御府内備考」) 徳川将軍家の菩提寺だった増上寺への道筋にあたることから、御成門と呼ばれたものです。幸橋のほうは橋名が先か町名が先か、よく分かりませんが、寛文頃門外に幸町があったといわれ、「寛文図」(寛文10年 1670年)には、御成橋と幸橋が併記されています。なお、引用文の「寛永図」(寛永9年 1632年)には、木橋のみで枡形は描かれていません。その数年後の寛永13年の江戸城外郭普請で、肥後熊本藩細川忠利が御成橋枡形を受け持っています。橋の規模は「東京府志料」当時、長五間幅四間の石橋でしたが、虎ノ門・幸橋間の外堀が埋立てられたのに伴い、明治30年代後半には撤去されています。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 新幸橋跡  日比谷通りを越えます。ここに明治24年(1891年)架橋の新幸橋が架かっていました。昭和になって外堀川に架けられた→ 新幸橋とは異なります。

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    ・ 幸橋跡  左手は外堀跡に建つ第一ホテル、その前に幸橋が架かり、奥に幸橋門がありました。JR線の先の→ 土橋以降は、「平川、神田川」のシリーズで扱いました。

 <溜池、外堀の埋立て>  明治36年(1903年)の「市区改正新設計」は、この区間の外堀に関し以下のように公告しています。「幸橋ヨリ旧虎ノ門ヲ経テ、旧赤坂門鵜ノ首ニ至ルノ湟池 本項の湟池ハ、之ヲ埋築シ別ニ排水竇(とう)ヲ設ク、但、幸橋以西虎ノ門ニ至ル湟池沿ヒノ堤塘(ちくとう)ハ之ヲ除去スルモノトス」 これらの事業は明治37年から継続され、同43年に完了しました。結果虎ノ門・幸橋間の外堀は細長い宅地となり、その北側(霞が関側)に沿って、排水溝が整備されました。外堀のなかで最も早く埋め立てられたところです。