神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

麻布今井町

2014-10-24 07:11:42 | 城西の堀川3

 → 「段彩陰影図」の描く外苑東通り近くの三つの谷頭のうち、前回は北側の青山通り手前のものでしたが、今回は中央にあって外苑東通りに接しているものです。この谷頭には→ 「明暦江戸大絵図」当時、すでに町屋が成立していました。「当町(麻布今井町)起立之儀者承応三午年中(1654年)虎御門並御堀等新規御普請ニ付御用地ニ被召上・・・・百姓共所持之田畑居屋敷迄被召上・・・・同年中今井村之内当町並三谷町寺町市兵衛谷町え百姓共移住居仕候当町者其砌(みぎり)今井本村と唱・・・・」 「町内里俗之唱当町赤坂続ニ有之候ニ付一円赤坂今井谷と唱申候」(「御府内備考」) なお、明治に入り成立した麻布今井町は、現在の六本木2丁目にあたる別地域の町です。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 今井谷」  尾張屋の切絵図に「今井谷六本木赤坂絵図」があるように、今井谷には広域地名としての用法もあり、「図会」が今回の谷頭を描いているかは、必ずしも判然とはしません。

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    ・ 赤坂通り  外苑東通りへ上る乃木坂に差し掛かる手前です。この通りに面した左右に、麻布今井町がありました。

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    ・ 乃木坂  外苑東通りから振り返ってのショットで、左手の茂みが坂名の元となった乃木大将の旧邸があった乃木神社です。

 <乃木坂>  乃木坂の命名は大正元年(1912年)ですが、それ以前は幽霊坂と呼ばれ「1/5000実測図」でもそうなっています。周辺を出雲松江藩松平家などの屋敷に囲まれ、鬱蒼として昼なお暗かったのでしょう。ただ、「御府内備考」にその名はなく、かわって行合坂となっています。「坂 登凡四拾間程幅四間より三間位 右者町内南之方ニ而同所龍土町え之道筋有之行合坂と相唱申候右坂上青山辺より龍土え通行之道筋え当町より登行合候故唱来候由申伝候」

 


青山御掃除町2

2014-10-23 07:33:45 | 城西の堀川3

 「御掃除町 町内起立之儀・・・・青山大膳亮様上地之内御掃除之者三十人え大縄地二而被下置・・・・右組屋敷続ヲ以青山御掃除町と唱来候哉と奉存候」 「御掃除之者」は江戸城内御殿の掃除を主に担当、他に使い走り的な雑務も行いました。10俵1人扶持の最下層の御家人で、定員は百数十人から二百人ほどあり、これを三組に分けていました。江戸城内の雑事を担当する五役(他は御中間、御小人、御駕籠之者、黒鍬者)の一つです。なお、他にも御掃除町があり、小石川御掃除町は伝通院付の、渋谷御掃除町は芝御霊屋付の掃除役の給付地でした。

 

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    ・ 稲荷坂下先  稲荷坂下からこのあたりまでの右手が御掃除町で、左手には周防徳山藩毛利家の上屋敷がありました。

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    ・ 新坂下  上掲写真の突き当りを左折したところです。右手が新坂上り口、正面は明治に入りできた無名坂で、外苑東通りに上ります。

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    ・ 新坂  → 「明暦江戸大絵図」の左上隅の通りは行き止まりになっていますが、その先から青山通りに抜ける坂として、元禄12年(1699年)に開削されました。

 <青山>  「青山は、天正十九年(1591年)青山常陸介忠成が宅地に賜りし地なり。或云、青山忠成十万石の時は、今の青山の地一円に屋舗なり、その後忠俊幸成兄弟街道を隔て住す」 厚木街道(青山通り)以南に屋敷を構えた幸成の子、幸利が、冒頭の引用文や「明暦図」にある青山大膳(亮)で、この系統がのちに美濃郡上藩を領しました。「御府内備考」は続いて、家康の命により馬で乗り回した範囲を賜ったとの、内藤清成と同様のエピソードを紹介した後、最後にこうまとめています。「後年次第に上り地となりて、青山氏の上ヶ地といふべきを下略して、青山と呼しより、おのづから一ツの地名となり、・・・・今は広き地名と成り、その大略をいはヾ、南の方麻布今井龍土に続き、北は千駄ヶ谷恩田鮫ヶ橋に及び、東は赤坂にて、西は原宿上渋谷なり。」 現在は外苑東通りをもって青山と赤坂を分けており、当地は赤坂7、8丁目となっています。

 


青山御掃除町

2014-10-22 07:05:08 | 城西の堀川3

  昨日UPの→ 「江戸名所図会」ですが、種徳寺門前の通りには石橋が架かり、クランクで左下隅に向かう水路を描いています。その先はほんの数十メートルで、駒止橋の架かる新町五丁目なので、「御府内備考」に収録された同町の書上が、駒止橋の記述に続けているのが、この水路と思われます。「下水 巾七尺程 右町内北之方武家之方より南之方え流落申候尤横切下水ニ而堀割年代相知不申候尤水源者青山掃除町より流出末者赤坂田町五丁目大下水え落合申候」 種徳寺門前の通りの左右には武家屋敷が並び、その北西にあったのが青山御掃除町です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 三分坂下から西に向う通りです。石橋が架かっていたのはこの付近と思われます。

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    2. 江戸末の切絵図を見ると、通りの左右には旗本クラスの屋敷が立ち並んでいます。上掲「実測図」に点在する池は、その名残なのでしょう。

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    3. 赤坂小前で右折します。ここから先の水路は未確認なので、青点線は書き込んでいません。

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    4. 坂下左手にあった稲荷社が由来の稲荷坂で、坂の左右に起立した町屋が青山掃除町です。

三分坂下

2014-10-21 08:09:56 | 城西の堀川3

 駒止橋の北にあるのが三分(さんぷん)は坂です。上り口にある三分坂の解説標識には、「急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん:百円あまり)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。さんぶでは四分の三両になるので誤り」 貨幣単位の「分」ですが、読み方に二通りあり、「ぶ」は金貨の単位で四分の一両、「ふん」は銀貨のほうで十分の一匁となります。車賃に金三分(さんぶ)では高すぎです。それと「坂下の渡し賃」という表現ですが、三分坂下に渡し船があったとの伝承があり、それとの関係のようです。渡し船が必要なほどの大河だったのでしょうか。あるいは溜池の入江が、今回の谷筋に沿って、ここまで入り込んでいたのでしょうか。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 種徳寺」  (画面から切れますが)左下隅が駒止橋。奥が種徳寺、右折する三分坂に面したお寺が報土寺です。

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    ・ 三分坂下  駒止橋から三分坂下に向かいます。正面の報土寺は慶長19年(1614年)一ツ木に創建され、安永9年(1780年)当地に移転してきました。

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    ・ 三分坂  左手に見える築地塀はその報土寺のものです。坂上は広島藩浅野家中屋敷跡、現在はTBS放送センター(ビッグハット)。

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    ・ 三分坂下  坂の中腹から報土寺、その奥の種徳寺方向です。奥の茂みは「図会」にも描かれた階段で上る高台にあたり、その裏側が今回目指す谷頭です。

駒止橋

2014-10-20 08:00:31 | 城西の堀川3

 以下は「御府内備考」に収録された、現赤坂通り沿いに起立された町屋、新町五丁目の書上の一節です。「板橋 幅一丈一尺渡り九尺程 右当町下水え掛渡有之起立相知不申名目之儀者駒止橋と相唱候」 続いて「中古当橋ニ何人之馬ニ候哉乗来候節一向ニ進み不申頻(しき)りニ噺候由右ニ付只今以唱来候儀ニ御座候」と、その名前の由来も付け加えています。新町五丁目は元馬場とも呼ばれ、馬場(今井の馬場)跡だったので、馬つながりのネーミングかもしれません。なお、駒止橋は明治16年(1883年)には、幅18尺長11尺と一回り大きく架け替えられています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、 上掲地図のグレー枠の部分です。 

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    1. 本氷川坂下です。左手のマンションの一角に、勝海舟旧居跡の解説プレートがあります。 

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    2. 右カーブで駒止橋に向かいますが、左手からの合流もありました。

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    3. 赤坂通りの手前です。右手の通りが日大三高通り、かっての中之町の通りです。

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    4. 赤坂通りとの交番前交差点で、ここに駒止橋が架かっていました。右写真は赤坂通りを見通しています。

氷川神社

2014-10-18 06:33:16 | 城西の堀川3

 「氷川明神社 赤坂今井にあり。・・・・祭神当国一宮に相同じ。赤坂の総鎮守にして、祭礼は隔年六月十五日、永田馬場山王権現と隔年に修行す。江戸名勝志、惣鹿子等の草紙に、当社元一木村にありしを、享保十五己酉(1730年)、今の地に遷座、社を御造営ありしと云々。按に、当社を古呂故宮とし、又享保中一木より今の地にうつし奉るよし、諸書に見ゆれども、詳(つまびらか)ならず。寛文江戸図に、古呂故宮と称するものは、今の一木に記(しる)して、氷川明神は同絵図に今の地に記しあり、しかるときは各々別の社なるべし。」(「江戸名所図会」) 神社西側にある本氷川坂(元氷川坂)の標識に、「坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月、氷川神社に合祀された。」とあります。「寛文図」の「ヒカワ明神」は、この本氷川明神のことと思われます。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 赤坂氷川社」  社殿裏手が今回の谷筋で、正面も低地になっていますが、こちらは現六本木通りを底とする南側の谷筋にかかわるものです。

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    ・ 氷川神社  氷川坂を上ると右手に参道があり、その先に「図会」の右下に描かれた階段が見えます。

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    ・ 氷川神社  社殿は「図会」にもある享保15年造営のもので、都の有形文化財に指定されています。 

 <一木と今井>  共に中世から江戸初期にかけての村名で、「小田原衆所領役帳」にその名が見えます。うち、一木(ひとつぎ)は「東は赤坂門御堀溜池、南西は今井青山、北は四谷に接し」(「新編武蔵風土記稿」)、紀州屋敷を隔てて上は鮫河橋、下は赤坂に二分されました。奥州街道の中継地で人継(ひとつぎ)、それが(氷川明神ほか諸説の)大木によって一木に転訛、との言い伝えがあります。「風土記稿」は「鎮守氷川神木一株の銀杏大樹」としていますが、これは冒頭の古呂故宮(「寛文図」では「コロクノ宮」)のことでしょう。赤坂見附の一ツ木通り入口にあり、のち氷川明神旅所が置かれました。
 一方、今井の範囲は「東は虎門外、南は西久保、飯倉、龍土、西は青山、北は赤坂溜池」で、現在の赤坂の南西部から六本木の北部にかけての地名でした。地名由来としては、今井古城跡の伝承があります。「氷川明神の西北の方、松平芸州候の中屋しきの地をいへり。今井四郎兼平が城址なりといふ。紫の一本といへる草紙には、斎藤別当実盛の城とし、或は田子先生義賢の出城なりともいひ伝ふれども、共に詳ならず。」(「江戸名所図会」) 今井の地名と古城伝承が結びつき、今井兼平の名前が出てきたのでしょう。

 


赤坂築地2

2014-10-17 06:53:11 | 城西の堀川3

 赤坂築地の中心は中ノ町と呼ばれる通りでした。「中ノ町 新町四丁目五丁目往来(現赤坂通り)より南の方にて同じ東西の小路なり。」(「御府内備考」) 明治に入り字を変えて赤坂仲之町と一帯の町名になり、現在は赤坂6丁目の一部です。下の地図では日大三高通りとなっているこの通りが、今回の谷筋の底にあたりますが、→ 「明暦江戸大絵図」の描く水路は右岸段丘に沿っており、また「1/5000実測図」もこちらをメインに扱っています。一方、明治末の「郵便地図」は左岸段丘沿いの現赤坂通りに水路を描き、これは前回UPの→ 「明治42年測図」の扱いと同様で、この間付替えがあったのかもしれません。もっとも、大正初めの「地籍地図」を見ると、右岸段丘沿いと中央の通り(中ノ町)に側溝があり、元の水路を埋立てたというわけではないようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右岸段丘沿いの水路跡の路地です。左手の台上は氷川公園ですが、江戸時代は旗本屋敷でした。

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    2. 鹿島建設の二つのビルの間を通り抜け、西に向います。

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    3. 氷川神社に至る氷川坂下に出ます。右写真は坂の途中から中ノ町の通りを見通しています。

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    4. 中ノ町の通りです。左手が日大三高の創立の地ですが、昭和51年(1976年)に町田に移転しました。

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    5. 赤坂通りです。通りの右手には新町四丁目があり、左手には「巾五尺」(「御府内備考」)の下水が流れていました。

赤坂築地

2014-10-16 07:13:12 | 城西の堀川3

 旧田町五、六丁目境で合流していた下水を追っての二回目で、桐畑橋の架かっていたところから、右岸段丘の裾を回り込むようにして西に向います。この台上には江戸時代、備前福岡藩黒田家と肥後人吉藩相良家の屋敷があり、明治に入りその合成から赤坂福吉町を名乗ります。一方、左岸には安芸広島藩浅野家の屋敷がありました。その間の今回の谷筋には、旗本、御家人クラスの屋敷が短冊状に並んでおり、鬼平こと長谷川平蔵も当地で幼少期を過ごしました。こうした造成、分譲地の例にもれず、赤坂築地と通称されたところです。前々回UPの→ 「明暦江戸大絵図」では「明地」となっていて分譲前ですが、「寛文図」(寛文13年 1673年)では、個人名が細かく書き込まれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」  大下水(赤坂川)は道路化し、今回の下水も外堀通りを越えた先で合流するよう付替えられています。

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    1. 右岸段丘の裾を回り込むところです。「明暦図」当時から幕末に至るまで、段丘上には肥後人吉藩相良家下屋敷がありました。

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    2. ここで正面と右手、二本の合流がありました。上掲「地形図」に描かれているのは右手からの水路です。

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    3. 赤坂築地の中央にあり、中ノ町と通称された通りです。ここに水路を描く地図もあります。

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    4. 赤坂通りに出て左折します。「明治42年測図」では途切れますが、「郵便地図」はこの先からの水路を描いています。

桐畑橋

2014-10-15 05:55:49 | 城西の堀川3

 大下水(赤坂川)を離れ、田町五、六丁目境を西に向います。すぐに桐畑橋が架かっていました。「御府内備考」に橋名はありませんが、「石橋 長弐間壱尺五寸巾弐間半 右者町内(田端五町目)より松平備前守御中屋敷之方え渡ル橋」がそれで、五丁目の対岸は当時、備前福岡藩黒田家の中屋敷でした。明治に入り「東京府橋梁明細書」では、「桐畑橋 石造 長十二尺五寸幅十六尺 田町五丁目ヨリ六丁目ニ至ル大下水ニ架ス」となっています。なお、桐畑は尾張屋の切絵図にも載る一帯の通称で、広重の「名所江戸百景」の一枚に、桐の木越しに溜池を描いた「赤坂桐畑」があります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治16年測量及び同17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」に収録されている南西部及び西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    1. 大下水を離れ元の田町五、六丁目境を西に向います。

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    2. 明治30年代と思われるの付替え後の、溜池に向かう水路跡です。外堀通りには下柳堤橋が架かっていました。

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    3. 桐畑橋の架かっていたところです。左手台上には黒田藩中屋敷がありました。

 <上、中、下柳堤橋>  明治40年(1907年)発行の「郵便地図」を見ると、溜池の埋立て造成は完了し、代わって市電の通る現外堀通りと、その東側を並行する水路が出来ています。また、大下水(赤坂川)も道路化し、そこに西側から流れ込んでいた下水は、外堀通りを越えた先の水路に直接注いでいます。全部で三本あり、上流から鮫川の流末、大刀洗川、そして今回の下水です。これらが外堀通りを越えるところには、各々橋が架かっていました。上、中、下の柳堤橋です。うち、赤坂離宮から流れ出した鮫川の流末は、赤坂見附交差点の南で外堀通りを越えますが、そこに上柳堤橋が架かっていました。ただ、他よりも早く暗渠化したのでしょう、「明治42年測図」にはありません。

 


田町五、六丁目境

2014-10-14 06:24:00 | 城西の堀川3

 赤坂通りを越えてワンブロック、120mほどで田町五、六丁目の境です。もっとも、江戸時代の田町は五丁目までだったので、明治に入り、七丁目まで拡張したあとの話ですが。その五、六丁目の境に右岸から下水の合流がありました。→ 「段彩陰影図」の描く、外苑東通り付近の三つの谷頭から発し、途中合流して溜池に向かう谷筋にかかわるものです。とくに〇〇川の名称はありませんが、自然河川がベースになっているのは間違いありません。正保年間(1644~48年)までに町屋となった赤坂田町や、承応(1652~55年)以降、流域を造成して武家地とした赤坂築地の成立に伴い、大下水化したものと思われます。

 

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    ・ 「明暦江戸大絵図」  明暦3年(1657年)の大火後成立とされる「明暦江戸大絵図」(之潮刊)の該当個所をイラスト化したもので、書き込みの大半は省略しています。なお、グレー(原図ではピンク)は町屋、薄いブルーは明地で、「段彩陰影図」の描く谷筋と重なります。

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    ・ 浅野家中屋敷跡  谷筋の左岸台上にある安芸広島藩浅野家中屋敷跡地には、TBS放送センター(ビックハット)が立っています。坂下の通りは赤坂通りです。

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    ・ 毛利家下屋敷跡  南側の谷頭を望む長門萩藩毛利家下屋敷は、檜屋敷と通称されていました。現在は檜町公園や後方の東京ミッドタウン(防衛庁跡地)となっています。

 <「寛永図」と「明暦図」>  上掲「明暦図」では、今回テーマの下水は溜池西岸に沿う大下水(赤坂川)に合流していますが、寛永19年(1642年)頃とされる「寛永江戸全図」では、大下水はなく直接溜池に注ぐよう描かれています。→ 同図では鮫川も弁慶堀に流れ込んでおり、大下水が整備され鮫川、大刀洗川、そして今回の下水がそこに流れ込むよう付替えられたのは、寛永19年から明暦3年までの十数年間のことと推測できます。赤坂田町の成立がその間の年号である正保であることを考えると、同町の起立と連動していたのは間違いないところです。

 


田町三、四丁目

2014-10-11 06:51:18 | 城西の堀川3

 大下水(赤坂川)に戻り、外堀通りの一つ西側の通りを南下します。江戸時代、右手は田町三丁目から四丁目にかけてで、左手は溜池端まで長二百五十間幅五間の明地でした。「明地 赤坂御門外より、溜池御堀に添て、葵坂の上まで打続けり、御普請方の持場にて、松平備前守、松平肥前守等の御預り地なり、宝暦十年(1760年)備前守御預り内田町一丁目より四丁目まで、長弐百五十間幅大下水より御堀の方へ五間通り合千四百坪、伝馬町田町紺屋合羽屋の願に依て、物干場と成り、明和七年(1770年)同所表伝馬町一丁目向弐百七十坪の地も、物干場増地になし給ふと云、」(「御府内備考」)

 

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    ・ 田町三、四丁目境  下水(大刀洗川)の合流があった二、三丁目境からワンブロック、120mほどで、各丁の長さはおおむね同様です。

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    ・ 田町三、四丁目境  外堀通り方向で、その先に日枝神社の北側の鳥居が見えています。明治9年(1876年)、溜池最初の橋(日吉橋)が架けられたところです。

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    ・ 田町四、五丁目境  赤坂通りを越えます。右手に向うと、乃木坂を経て外苑東通りへと至る通りです。

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    ・ 田町四、五丁目境  外堀通りの山王下交差点方向で、日枝神社の大鳥居が見えています。

谷頭付近

2014-10-10 06:41:42 | 城西の堀川3

 「御府内備考」は大刀洗川の水源に関し、「妻木彦右衛門様屋舗より流出」と書いていました。切絵図を現在の地図に重ねてみると、三千四百石の旗本、妻木家の屋敷のあったのは、コロンビア通りと青山通りに挟まれた現山脇学園キャンパスあたりで、→ 「段彩陰影図」の示す青山通り沿いの谷頭のやや手前です。なお、「御府内備考」は妻木家屋敷について、別の個所でこう書いています。「千代姫君御下屋敷跡も、一ツ木の内なり、二ヶ所有しと、今の妻木氏の屋敷、井上氏の屋敷なとその所なりと、」 千代姫は三代家光の長女で、尾張藩二代藩主光友に嫁ぎました。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 山脇学園キャンパス  手前がコロンビア通り、左手奥の高層ビルは、谷頭付近にある赤坂ガーデンシティやパークコート赤坂です。

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    ・ 谷頭付近  上掲写真の二つの高層ビルの間の通りです。「実測図」の描く池はこの右手にありましたが、明治末の地図からは消えています。

 <薬研坂>  「薬研坂 青山の方へ行手の坂なり、形薬研に似たれはとてかくいふなり、また何右衛門坂ともいへり」(「御府内備考」) この坂のある通りが、江戸時代は赤坂と青山の境となっていましたが、現在は西に500mほどの外苑東通りで分けています。なお、薬研(やげん)というは、漢方薬を作る時、材料を細かくすりつぶす道具で、小舟型のすり鉢とハンドル付車輪のようなローラーでワンセットです。そのすり鉢の底の断面がV字なことから、同様な断面をもつものが薬研堀とか薬研坂とか呼ばれました。

 

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    ・ 薬研坂  上掲写真の坂上を横から見たところで、正面は青山通り、その奥の茂みは赤坂御用地のものです。

円通寺坂

2014-10-09 06:51:22 | 城西の堀川3

 大刀洗川の右岸に沿う通りが円通寺通りで、西に向うと円通寺坂の上りに差し掛かります。坂の中腹にある仏智山円通寺がその名の由来ですが、それ以前に同名の寺院があったともいわれています。「円通寺坂 赤坂の内。円通寺と云日蓮宗の寺あり。門内の大鐘は、むかし円通坊といふ沙門、此鐘を建立し寺と成ける所に破壊(はゐ)したり。今の日蓮宗の寺は四谷にありて何寺とかやいひけるが、鐘の旧蹟あるにより合体し円通寺となして一寺とす。」(「続江戸砂子」) 同書は続けて「黒鍬谷 円通寺坂の下の谷、組やしき也。」と書いています。なお、円通寺は当初、赤坂一帯の時の鐘を任されていましたが、時の鐘はのち田町にあった成満寺に移転しています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 一木弁天 龍泉寺 松泉寺 専修寺」  龍泉寺前の通りが一ツ木通り、松泉寺寺前の通りが円通寺通りで、円通寺坂の上りに差し掛かるところです。二つの通りの交差する角、源氏雲のところに浄土寺が、専修寺奥に円通寺があるはずですが、残念ながら描かれていません。

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    ・ 円通寺通り  円通寺坂の上りに差し掛かるところです。左手に港区設置の解説標識があり、「元禄八年(一六九五)に付近から坂上南側に移転してきた寺院の名称をとった」としています。

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    ・ 仏智山円通寺  「寛文図」には百数十メートル南の三分坂上に、「エンツウジ時のかねつく」の書き込みがあり、三分坂上が旧地だったようです。

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    ・ 円通寺坂公園  坂の南側の段丘斜面にある公園から、大刀洗川の谷筋(黒鍬谷)を見下ろしています。対岸は青山通り沿いの建物です。

 

 

 


黒鍬谷

2014-10-08 06:50:07 | 城西の堀川3

 浄土寺境内の北縁を流れていた下水を追って、西に向かいます。浄土寺から先の谷筋は明らかですが、底を縦断する道路が断片的なため、左右の道を行ったり来たりしながらのウォーク&ウォッチとなります。谷筋の底には、側溝跡を思わせる個所もありますが、これも断片的なため、いつもの青点線は書き込んでいません。ところで、この谷筋は黒鍬谷と呼ばれていました。「右町(新町三丁目)前組屋舗ヲ一円ニ黒鍬谷と唱申候右者同御組屋舗有之候ニ付唱来候と奉存候」(「御府内備考」) 黒鍬(くろくわ)というのは陣地構築などを担う工兵のことで、その大縄地(公務員住宅)があったことからのネーミングです。谷筋を造成し〇〇大縄地とするパターンは、これまでもたびたび遭遇してきました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の西部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 浄土寺境内北縁の延長上にある道路です。右写真は右岸の円通寺通りから写したもので、谷筋は明らかです。 

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    2. 左岸のコロンビア通りからのショットです。日本コロムビアの本社ビルがあったことからの通称ですが、現在は虎ノ門に移転しています。

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    3. 「実測図」の水路の起点です。その先にも谷筋の底の道路はありますが、水路があったかは不明です。

赤坂新町

2014-10-07 06:37:36 | 城西の堀川3

 みすじ通りと一ツ木通りの間の町屋が赤坂新町でした。五丁目までありましたが、通りの間に挟まれていたのは一丁目から三丁目までで、寛永17、8年(1640、41年)頃、武家方に給付され、一丁目は延宝元年(1673年)、二、三丁目は元禄9年(1696年)に町奉行支配となりました。赤坂田町などより後の成立であることが、その名の由来と思われます。以下はそのうちの新町二丁目の下水に関する、「御府内備考」の記述です。「下水 幅三尺五寸 右町内西之方一ツ木町浄土寺境より東之方田町御堀端明地内大下水え流レ落申候」

 

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    ・ 一ツ木通り   赤坂見附方向のショットで、右手が江戸時代の赤坂新町二丁目、左手前が浄土寺門前、奥が一ツ木町です。浅いながら谷筋が横切っているのが分かります。

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    ・ 浄土寺門前  「平河山(へいかさん)浄土寺 昔は御城内平河口の辺にありしを、元亀3年(1572年)今の地に移されしと云。」(「江戸名所図会」)

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    ・ 浄土寺境内  本堂前には享保4年(1719年)作成の地蔵菩薩坐像が祀られています。例の「江戸六地蔵」と同じく、地蔵坊正元の勧進、鋳物師は太田正義ですが、六地蔵には数えられていません。

 <大刀洗川>  冒頭で引用した新町二丁目の書上の続です。「尤(もっとも)横切ニ而水源之儀者妻木彦右衛門様屋舗内より流出申候右者年代不知梶原源太景季鎌倉より奥州え通り候節景季右川ヲ渡り水中え帯候太刀ヲ落シ候ニ付居候者之内ニ而取上ヨゴレヲ洗ひ候由ニ御座候右ニ付其頃より大刀洗川と申伝候由然ル処追々町屋出来仕而当時者下水ニ相成候得共今以右下水ヲ梶原源太大刀洗川と里俗ニ申伝候」
 梶原景季は鎌倉幕府の有力御家人ですが、木曽義仲の四天王、今井四郎兼平を物語の主人公とする説も、「新選東京名所図会」に収録されています。こちらは赤坂と麻布の間にあった広域地名、今井や、現赤坂サカス付近にあったといわれる、今井城跡とのかかわりが考えられますが、その詳細は該当個所で稿を改めます。