神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

新シ橋

2014-11-04 07:14:48 | 城西の堀川3

 虎ノ門から200mほどのところに新シ橋が架かっていました。「武州豊島郡江戸庄図」には、同じ位置に無名の土橋がありますが、その後の江戸図からは消え、「寛文図」(寛文10年 1670年)で改めて登場する橋です。「新し橋 虎門と幸橋との間にあり。『治世略記』云、寛文八年四月当春火事に付、虎御門・幸橋御門間新規に橋かゝる、新橋と云ふ。」(「御府内備考」) この火事後の措置として、それまで不明(あかず)門だった馬場先門も通行可能となり、外桜田から大名小路にかけての移動が改善されました。なお新シ橋の規模は「東京府志料」の数字で「長十六間幅四間」となっています。

 

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    ・ 新シ橋跡  外堀沿いの二本の道路のうち、内側(北側)のもので、「寛永図」や「明暦図」にも描かれたクランクを今に残しています。

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    ・ 新シ橋跡  二本の道路のうちの外堀通り寄りのものです。ここもやはりクランクなので、正面ではなく左手の道路に連続します。

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    ・ 新シ橋跡  愛宕通り(愛宕下通り)方向です。次の交差点で外堀通りを越えますが、その先には次回のクールで扱う桜川が流れていました。

 <江戸の新シ橋>  周辺の橋に比べ新たに設けられたの意で、その意味では新橋が江戸で最初の新シ橋でした。通り町筋に架けられた四番目の橋で、日本橋、中橋、京橋に対してのネーミングです。この新橋は「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)に登場しますが、次の明暦3年(1657年)頃の「明暦江戸大絵図」には、もう一つの新橋が神田川に架かります。和泉橋と浅草橋の間の橋で、江戸時代には当地と同じく新シ橋と表記され、明治に入り美倉橋と改名されたものです。また、同じ神田川にはもう一つの新シ橋がありました。「寛文図」(寛文10年 1870年)で、のちの昌平橋(相生橋)の位置に描かれているのがそれです。ただ、それ以前の地図と場所が移動しており、周囲の橋に対しての新しさではなく、以前の橋と比べているのかもしれません。ちなみに、当地の橋が新シ橋となっているのは元禄3年(1690年)の「江戸御大絵図」からです。