五年も放置していたなんて、我ながら呆れている。
元々はプロバイダーのホームぺージサービスで作成していて、表紙はリンクを修正しないままになっていた。
きょうは第一集だけ、何とかリンクがまわるようにした。
作業しながら、ひょんなことから被爆証言を聞くことになった日々を思い出していた。元々はワープロ入力くらいならと参加したのですが。
印象に残っている話いろいろ。
兵器廠(現広島大学医学部、歯学部、県警察学校の敷地)に学徒動員されていた方のお話。
・・・爆風で一瞬で天井が落ち、振り向いたら今まで一緒に働いていた女の子のお腹の上に大きな梁が落ちていて、もう死んでいた。
私が思うに、想像しすぎかもしれませんが、淡い恋心を抱いていたことでしょう。お話の様子でそう思いました。どんな時代でも人は人を好きになり、その力で生きていけるのではないでしょうか。
・・・逃げる途中で、同級生だった女の子が倒れていました。「**くん、助けて・・・お水頂戴・・・」って言われても、私にはどうすることもできずに、逃げました。私はそういう人間なんです。
と、ここでいきなり男泣きに泣かれるのでびっくりして、話を聞く私もついもらい泣きしてしまいました。戦後何十年経っても、その時のことが忘れられないのでしょう。
小学校の先生が大やけどで家で寝ているのを見まいに行くくだり。
・・・先生はジャガイモのすりつぶしたのを体中に塗ってもう虫の息だった。それでも教え子の誰彼のことを心配していた。
他にも、似島で死体を谷に放り投げた話。
死体があまりに多く積み重なって、それを踏まないともう向こうへ行けないのです。怖いとも思わず黙々と作業しました。
またもう一人の証言は、姉が似島へ運ばれたと聞いて探しに行きました。
何日か前に亡くなり、名簿を作って番号を打ち死体は谷に捨てたと。それからもたくさんの人が死に、積み重なった下の姉の遺体の探しようがありませんでした。
比治山神社の塀の石柱にくっつけてバラックを建てて、住んでいた人の話。
お手洗いは?とお聞きしたらその辺りでしてました。
出入口は?別にそのまま。見られて恥ずかしいとも思わないし。寒いなと思ったらもう冬になりかかっていたので、手ごろな家を買ってそこへ行きました。
また別な方、焼け残った水道管の蛇口ひねったら水が出たので住めると思って、親父はバラックを建てました。三日後くらいでしたか。まだ地面が熱かった・・・
あの頃はまだ50代、あれから子供が結婚し孫もできて、今、当時お聞きしたことを思い出すと、いっそうその話が胸に迫ってくる。
リンクの修正、少しずつ頑張ります。