被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会 2集大野証言
火の海と黒煙の壁
――大野逸美さんに聞く――
大野逸美さん
生年月日●昭和六年(一九三一年)七月○日生まれ (インタビュー時七三歳)
被爆当時●一四歳/広島市立第一国民学校二年生
被爆地●爆心より二・七キロ/広瀬軍需工場
私は大野逸美と申します。昭和六年(一九三一年)七月二〇日に、広島市の松川町で生まれました。自宅跡は現在、松川公園という公園に変わっています。育ったのは比治山の下、当時の段原小学校のすぐ横の金屋町です。
父は逸蔵と言って段原日出町で材木商をやっておりました。
母は後入りで私が八人目の末っ子です。私だけが腹違いで、父が五〇歳の時に生まれた子です。
父の本籍は現在の白木町で、もともとは山の仕事をしていました。木の伐り出しとか、山を売買したり、材木を売り買いしたりする、いわゆる山師です。それで、若い頃に事業に失敗して、広島へ出てきて、それで材木商になっていたわけですね。
父は私と同じく大きな男で、相撲でも村で横綱を張るくらい強かったです。日露戦争の勇士で、勲章をもらったような剛毅な人でした。九〇歳で亡くなるまで父といっしょに生活しましたけどね、それは強い親父でした。
兄が三人、姉が四人でしたが、長男は私と親子ほども年が離れていました。
私は父が年をとった時の子じゃけぇ言うて、親父がもう猫かわいがりに可愛がった。もう親父とべったりで、小さい時でも仕事場に行って、親父の弁当半分食べたりね。小学校の四年生ぐらいまで父といっしょに寝よったですよ。
子供時代はお山の大将で、みんなを連れて駆け回っていましたよ。夏になると京橋川で泳ぎました。京橋川は私のプールじゃと思うとったほど、河童じゃったです。浅瀬でね、潮が引いたら白浜になりよったんですよ。川がきれいだったんです。ここでしじみがとれよった。バケツ一杯ね。隣のガキと一緒に、ここに行って勉強もせんと川で一日遊んで。バケツにしじみ貝を二人でとって、重たいくらい持って帰るんですよ。それで、近所に分けてあげよったですよ。しじみ貝を塩で煮るわけですよね。白っぽいようなスープになった。これは、何かの病気にいいと言って、しじみはよう食わされよったです。
比治山は私の庭のようなもので、よく兵隊ごっこをして遊びました。太平洋戦争が始まった昭和一六年(一九四一年)は、私がちょうど一〇歳。その頃にはもう遊びの主流は兵隊ごっこ、チャンバラごっこですよ。いつも私は大将です。大将と言わずに、小隊長というんですね。要するにリーダーです。比治山に陸軍墓地がありますよね。ここが絶好の遊び場所です。この下に戦時中、陸軍電信隊があったんですよね。この山に高射砲陣地ができたりね。
戦前の御便殿
比治山を拠点にして、ここでずいぶん遊びました。山の上には御便殿(ごべんでん)と言う建物がありました。日清戦争の時、明治天皇が広島に大本営を置かれ、御座所が今の広島城の中にあったんで、のちにその御座所の椅子とテーブルを比治山に奉って御便殿を造ったという由緒ある山なんです。私の遊び場所の一番のポイントにしとったのが、加藤友三郎という海軍元帥の銅像でしたね。広島で最初の総理大臣になられた方。だから加藤元帥の銅像にも憧れましたしね。まあ、そういう生活の中で原爆に遭ったわけです。
昭和一九年(一九四四年)になってB29の爆撃が始まってから、町内会でも防火用水を作ったり空襲に備え始めました。各家に防火用水を作ることも奨励されましたよね。消火訓練も始まったり。
私の家は防火用水を大きめに作ろうということで、私も父がセメントをこねるのを手伝いました。木の枠を作って、セメント流し込んで。セメントのアクが抜けてから、ここへフナを飼っておいたですよ。とてもとても一人や二人じゃ動かせないものですが、原爆の時あちこちの防火用水にみんなが頭を突っ込んで、死んでいたりしましたがね。この中にこう突っ込んで死んだとか、水飲みにいってそのまま息絶えたとか、熱いからこの中に頭を突っ込んで死んでいるのをたくさん見ました。姉と母も、逃げる時に防火用水の中でアップアップしているのを見たと言っていました。これは、水、水、水で水を求めた防火用水でもあったわけです。
鳶口(とびくち)なんかも家には用意してありましたよね。鳶口と火たたきは、どこの家でもあったと思います。
広島の原爆の半年ぐらい前に、米軍のグラマン戦闘機が空襲したときに、機銃掃射をしたことがあるんです。民家が機銃掃射されましたね。私ははっきり覚えております。尾長地区です。東練兵場がここにあるんですね。
やはり同じ頃、防空壕を造りましたね。空襲警報のサイレンが鳴ると、防空壕に避難したんですよ。私の家の裏庭に、大きな松の横に防空壕を作って、中が三、四畳あったでしょうか、家族四人が横になって寝るだけのスペースが十分ありましたね。「大野さんとこの防空壕は大きいのぉ」って言われよったくらいですから。私の記憶では家財道具が若干入っとったんで、被爆後もそれが無傷のままで役に立ちました。扉はなかったですが、父の日露戦争時代の戦場の知恵で、入口のところは防火壁と言いますかね、爆風が入らんように、土嚢(どのう)みたいのを積んで壁を作っとったですよ。
ここへ、高射砲の弾の破片かなんかわからんのですがね、鉄のカクカクとしたような断片が落ちてきたことがあるんです。あれを一度経験しとります。それと、機銃掃射を受けたときの音を聞いたことがあります。あとから聞いたら、尾長町の民家に弾を撃ちこまれたと聞きましたが、何が目標じゃったんかのぉ、と当時近所では言っていましたがね。あの頃はね、それ以上のことはあんまり言えんのですよ。噂話でもしようものなら、すぐ非国民とかね、スパイとか何とか言うてね、憲兵や特高警察が町をうろうろしよったですから。
戦争が激しくなるにつれて、父の材木の商売もパッとせんようになったわけです。戦局が差し迫って、疎開したりして、男手も少なくなって、家を建てる者もおらんようになりました。空き家も多くなって。建てるどころか、建物疎開で壊すばっかりになって。
そんな状態でしたから、原爆が落ちる前は、父は軍隊の関係の仕事をするようになっていましたね。
私は当時、広島市立第一国民学校の生徒でした。戦前戦後、学校制度がたびたび変わり昭和二二年に第一中学校、昭和二四年に今の段原中学校という呼び方になりました。
私は生徒会長をしていました。当時は軍国時代ですから、分列行進とか何とかいうのが、よくあったんですね。戦意高揚のためにいうことで。観閲式のような形でしたね。そのときはラッパ鼓隊の隊長もしていたので、行進なんか先頭に立ってカッコよくやりました。
防火用水、バケツ、火たたき、鳶口など
勤労奉仕で土を運ぶ 絵・大野逸美
学徒動員令が下ったのが昭和一九年くらいじゃったかな。
昭和二〇年の四月に私らも軍需工場で働かされました。厳密に言えば私は五月からなんですが、皆より一カ月遅く縫製工場に入りました。新学期になったとき、特攻隊続行組というのが編成されて、各クラスから級長、副級長、そして成績優秀と見られる者が二人から三人出て、合計で一二、三人が学校に残ったんです。ほかの者は全部、先に動員で工場へ行ったんですが、残った一二、三人は、先生が勝手につけたんでしょうね、「特別特攻隊続行組」と呼ばれました。予科練を志願する者、兵隊を志願する者は、一五歳から受けられますから、一年前から勉強をさせようという方針じゃったらしいですよ。そっちの方へ四月に一カ月行っとったんですが、特別組の担任の先生が召集にあわれて、継続不能になったので、軍隊用語で原隊復帰という形で元のクラスに帰ったんです。他の生徒は昭和二〇年度新学期から、国鉄宇品線沿線の広瀬軍需工場という縫製工場で軍のテント、幕舎なんかを作っていました。中学二年の私たちのクラス約四〇人は、この縫製工場に出ていたわけです。そのほかのクラスもいろんなところへ配置されていました。旋盤機械で武器の部品を作るようなところとか、郵便局とか専売局とかいうところへ。
広瀬軍需工場には平屋で天井の上に動力ミシンのモーターなんかついとるんですよ。それで、ベルトが下りとるんです。それがだーっとある。それが何台もならんどるんです。工場の他には事務所と講堂みたいなの、それに休憩室もあった。
校庭でいもを作る
当時の大野さん
ミシン工が別なところから来ていましたね。女子挺身隊といいましてね、女子商業中学、学年にしたら四年生ですから、私らよりお姉さんですよね、三〇人ぐらい同じ工場で働いておりました。
朝八時から夕方五時まで働いて、昼の休憩時間が一時間ありました。
作業は、私ら男子生徒は、梱包するんですよ。硬いテントですから、そりゃあ、とてもじゃないが、力のいる仕事でした。今ごろみたいに機械で圧縮したりなんかできる時代じゃないですよ。何人もが畳むのに、あっちからやって、こっちからやって、立って踏んで空気を少なくして、それを梱包して。梱包の容量がある数値以上になってはいけないので、検査があるんですよ。それでさらに踏んだりして圧縮して。この作業が主じゃったですね。
それを朝から晩までずっとやるんですが、私は要領よく高いところにいて、「おーい、あれやれ、これやれ」と指図して横着していました。でも責任感は強いつもりでした。
工場のミシン台は相当大きな、しっかりした頑丈なものでした。台の脚そのものも三寸角の柱で、こう、ずどーんとどっしりとした。上に動力ミシンがあって、大きな幕舎、広げたら二〇畳ぐらいのものをあっちまわしこっちまわし、ぐるーっと女子挺身隊三人がかりで縫うていくわけですから。男もそれを手伝って。だからミシン台は頑丈でなけりゃいかんのです。私は、そのミシン台があったから助かったんです。
毎朝、七時半ちょっと前ぐらいに家を出よったですよ。比治山の山の陰を歩いて、段原の今のサティの裏を通っていきました。道が山沿いにあったんですよ。
服装は、男はいわゆる戦闘帽ですよ。女子は防空頭巾、座布団を二つ折りにして一方を縫って袋にして、肩に掛けて行きよったですよね。救急袋は、ずた袋でした。お袋が帯の芯を解いてね、帯の芯は硬いでしょ、あれで手縫いで肩掛けカバンを作ってくれた。当時は服でも全部縫ってくれましたね、学生服みたいなのも。
救急袋と言っても、中は弁当だけです。大豆が入ったようなね。芋のご飯とかね。そらもう、麦が入っとったらまだいい方ですよ。時には小芋、里芋が入ってねばっとしているんですよ。昼ごろ食べようと思ったら、芋の粘ったのと、ご飯の腐ったのとで、酸っぱいようなにおいがしたりね。もう腐りかけてるのを食べましたよ。食べにゃあ、腹が減ってくる。不思議と下痢せんかったですね。
履いているものは親父が作ってくれた下駄。松の木を、材木はお手の物じゃったろうと思うんですがね、ああいう桐の下駄を作る状態じゃない。「丈夫でよけりゃええ」と、親父がカンナで削って、歯までつけてくれて。忘れもしません、鼻緒は電気のコードですよ。下駄を履いて素足でカバンさげて戦闘帽かぶって、それでカランコロン、カランコロン、毎朝、工場へ通いよったんです。みんなそんなもんですよ。運動靴を手に入れよう思ったら何年がかりか、配給じゃったですよ。くじで当たりゃあいいけれど、当たらんかったら何年も、まだわら草履をはいていたのもおりましたからね。
工場の裏に塀があって道路があった。道路と言っても、軽自動車も通れんような道路ですよ。農道でしょうね。その後ろに兵器廠(しょう)、今の大学病院があり、塀の外にどぶ川があったですよ。私らはここから出たり入ったりしよったです。
広島に原爆が投下された当日――私は朝、下駄をはいて弁当を持って、普段通りに家を出ました。姉は二階の物干棚で洗濯物を干しているようでした。お袋は台所におりました。
「行くでー」言うて、お袋に声掛けて、外へ出たら、親父が疎開荷物を大八車に積んで、ロープかけよったです。表へ出たら学校の校舎が見えるんですよ。三メートルぐらいの路地です。私が親父の横を通ったとき、親父が振り向いて「今日は暑いで」と言いました。もう七時半ごろからカンカン照りじゃったんでね。ろくに返事もせんまま、青い空を見上げながらずーっと電車道まで出たんですよ。電車道まで一〇メートルあるかないかですから。比治山の裏を通って、弁当を持って歩いていったわけですよ。
八時前に縫製工場に着いて、事務所の二階の講堂のような部屋でみんなを整列させて、「番号っ」「一、二、三、四、五……」と点呼をとります。椅子も何にもない広いところに一応ステージがあって、そこに日の丸と社旗があって、工場長かなんかが点呼をとるのに立ち会い、私がさらに報告するんですよ。「黒瀬組、総員何名、欠席何名、ほか異常なし」と。黒瀬組っていうのは担任の先生の名ですが、先生は五月に兵隊に行ってしまって不在でした。
その日欠席者がおったかおらんか、それはもう憶えておらんです。
号令をかけて点呼をしてその後、作業を始めた。それからまもなく光った。白っぽいような感じではあったけれども、何か私にはオレンジ色にも見えたような気がしますね。光ったというだけで、あのフラッシュをたかれるでしょ、目の前で。ああいう感じがポッとそこだけ見えたわけです。部屋の中ですからね、目の前が真っ白になるということはなかった。フラッシュがたかれたような感じで、それが眼に来て、「うわーい」というような感じでした。窓全体が白というか、オレンジというか、黄色というかね。筋の光が真っ直ぐ目に入った。残像というか、それがオレンジ色にも見えた感じがするんですよ。ゼロコンマ何秒ですから、はっきりした色はわからない。でも光ったことは間違いない。
それから次の瞬間、ずーっと真っ暗になって。工場の一階の梁が落ちてぐちゃっとへしゃげたんですよ。工場の中に何十人もの女の子と私ら作業員がおった。私が助かったのは動力ミシンの台と台の間にがばっと伏せたからです。そういうとっさの行動がとれた友達は助かった。ばぁーっと光が当たった瞬間「うわぁ、爆弾じゃ」と思ったんです。ほかのものは窓の光が何かわからんのですよ。「なんじゃろうか」言いよる間に爆風が後ろから来た。比治山を越して来たんですから。爆心は北西方向ですからね。光った瞬間、私もとっさに動力ミシンの台と台の間に顔を伏せて。私のすぐ後ろに梁が落ちて、床に穴が開いて、腹の上にその材木が落ちて体が二つに折れて死んだ女子がおります。その子は私の近所じゃったんですよね。金屋町(かなやちょう・戦後きんやちょうに呼び名が変更される)近くの二級上の女の子じゃったんですが、私は級長という責任から、これを出さんにゃいけんと……真っ暗闇の中でどうしたらええか、とっさに考えて。みんなこんな状態じゃったら救い出さにゃあいかんという気持ちがあったんでしょう。そのときは、何が何やらわからんような状態なんですが。
それから、どうやって出たかわからんのですが、屋根を破って出た気がするんですが、はっきり覚えとらんです。真っ暗闇からようやく明るさが戻ってきて、外に出たら、鳶口があったんで、それを手に持ちました。もちろん素足のまんまで、屋根をバンバンバンバンと鳶口で叩いて穴を開けて「おーい、おるか」言うて、「ここから出て来い」て言うたら、私が開けたところから級友や女子が十何人か出てきた。それから私らは、手分けして工場の中にいた者を救い出しました。みんな光が射したから出て来たと言うんです。そこへ同級生が私を呼びました。「大野よ、とくちゃんが死んどらあ」と。「えー」と見たら梁の下の女の子なんですよ。さっきまでいっしょに作業しよった女子なんです。それで、私はまたそこへ入っていって、どうやって救いだそうか思ったんですが、もう梁で押さえられて即死状態でした。私一人の力では、どうにもならんかった。いまだにあの子を思うとき、涙が出ます。外に出て空を見上げ「ヤンキーのクソッタレ!」と叫びました。
そのとき受けたガラスの破片が二カ所ほどあるんです。ガラスの破片が刺さったんですよ。そのガラスが飛んだのは相当距離があるんです。工場の中で出入り口がここにあったんですが、そのガラスがつぶれて、飛んできた。私はこっちの端におったんですがね、一〇メートル以上あった。そのときに何でガラスが、こっちへ来たんだかわからんですがね。胸と腕の二カ所ほどね、今だにまだ傷がちょこっと残っとりますよ。もろにガラスで顔を叩いた者もおったそうです。
「ピカドン」と言われるけれども、私はドンという音は聞いてないんですよ。とにかくもう、伏せて。伏せたと同時に屋根が崩れてきて……それから五分以上一〇分くらいは動かんかったですよ。動かれんのですよ。真っ暗だから。埃か何か、わかりませんよ、それは。建物も木造ですからね。上は瓦でしょう。だから埃とか、何とかで。それからまあ、ばーっと舞い上がっているから、光が入るところがないですわね。屋根がその形のままどんと落ちた。出入口がガラス戸じゃったんでね、私のいたところは工場の真中の通路みたいになってたわけですよ。製品を運ぶためのね。私はね、その間におったと思うんですよ。だから屋根が高くなっていて、屋根が落ちても被害がなかったと思うんですよ。それでその辺を開けたんです。
外へ出た時点で外はどんよりとしていて、まだかなり土埃が立ち込めていて、見通しがいいような状況とはいえなかったですよ。原爆が落ちてから一、二時間でしょう、時間的に言えば。そうですねえ、一〇時か一〇時過ぎでしょう。その間私はまあぐるっと中を見て……。事務所・講堂・休憩室がある方はつぶれてなかったですよ。それで、みんなと話したり、どうじゃった、あれはおったか、だれはおるかって……
八〇人くらい働いていたんですが、五、六〇人くらいは下敷になったと思いますね。女子商業中学からは三〇数名、私の学校の男子は四〇数名、そして工場従業員は一〇人以上いましたからね。大半は下敷になってしまったと思います。
それで女子商業中学の二級上の生徒が「大野君どうする?ここにおったら、また爆弾が落ちるかもわからんよ」と。「おお、おお、そうじゃの」と。てっきり爆弾じゃとばっかり思うとるわけですから。あんな方から爆風が来たとは思いませんし、五〇〇メートル上から来たとは思いませんから。近くに爆弾が落ちたとばっかり思いましたから。
それで、「ちょっと様子見て来うや」言うて。「どこ落ちたんかの」と言うて、この近所をちょろっと見てみたら、建物は崩れたところもありましたが大体原形をとどめたようなかたちで家があるわけですよ。今思えば比治山が爆風を防いでくれていたんですね。だからそれより東南の方は爆風で家が倒れるのも少なかったわけです。そんことはわかりませんでしたよね、そのときは。
それで、ひょっと見たら比治山が燃えとる。こっちから見たら山が燃えよるんですよ。それで比治山から向こうは真っ暗なんですよ。黒い雲がかかってね、比治山の上に。それで、私は「待っとれよ」と言うてだーっと山へ上がったんですよ。山には防空壕がいたるところにあったんですよ。それで、同級生やら女の子をそこへたちまち避難させようかどうしようかと考えて防空壕まで見に行ったんですよ。そうしたらもう、防空壕の中はいっぱいじゃったですよ。一一時前にですね。もう防空壕の中に、避難してきた人間が何人かはおりましたよ。で、火傷しとるとか何とかいうのは、そのときには見ませんでした。おそらくこっちから逃げていった者ですね。それで、陸軍墓地を横切って、千本松へ行った。そこが見晴らしのいい所なんです。ここに「天狗の足跡」という岩があるんですよ。ここはもちろん高射砲陣地もあったんですが、もう兵隊さんもおらんかったんですよ。
それでここから見たときには、向う側、広島市の中心地帯のほうが火の海じゃったですよ。だーっと、どこまでも。あそこは広島城じゃの、あっこは福屋かの、あっちは己斐(こい)の山か、こっちを見たら似島(にのしま)かいうくらいの認識はもっておりましたが、全然見えんのですよ。煙と炎で。炎の海。全部がもう燃えよった。それでもうびっくりした。これは爆弾じゃない、思うた何じゃろうと思いました。原子爆弾とか何とかいう知識ありませんよね。何百発落としやがったんじゃろうかと。私は焼夷弾だと思ったんですよ。防衛対策というか、日本の土地柄からして、建物からして焼夷弾攻撃を一番恐れとったわけですからね。だから火たたきも、鳶口も役に立たんかったということですがね。そりゃ一発でその何千倍という熱を加えられたら……ねえ。
そのとき見た雲が忘れられません。私がいまだに、あれをどういう表現したらいいのか。最初にこちら側から見上げた時に雲が真っ黒で壁みたいに、上も。あの垂れ込めるとか言うでしょ、雨が降る前とか。そういう感じで黒い壁がばーっと立っていた。だから埃とか何とかの黒さじゃないですよね。もう、焼けた、その煙とそれからその上昇気流に乗ったやつとで。上ではきのこ雲があったかもわかりませんよ。きのこ雲は見とりませんよ。目の前に立っているんだから、見えませんよ、そりゃ。それが一体になった形で真っ黒じゃったと思うんですよ。それで、その中に火がちょろちょろちょろちょろ、炎が見えるんですよ。
最初、山に登る前に黒いものが立っていて山に登ったら火が見えたということですね。原爆が落ちてから二時間ぐらいでしょうね。
で、それからこの辺に出たときに、被爆者が山へどんどんどんどん逃げてきたんですよ。これはその黒い煙の壁の方から逃げてきた。広島の中心部の方から逃げてきた人たちですよね。私がもろに見たのは皮膚も垂れ下がって、顔が赤鬼とかね、お面を被ったとか、まったくそんなんですよ。どす黒いというかね。人相を識別できるような状態じゃない。ただ着てるもので、かろうじてこれは女性だ、おばさんじゃ、あるいは若い人じゃいうのがわかる程度で。男の人は前から光に遭うた者は、前部が焼けてるんですよね。私はこのあと避難するときに駅の裏を通って逃げたんですが、こういう状態の人をずうっと見ました。それで、とにかくもう恐ろしい。「いったいどうしたんかの。どうしてこうなったんじゃ」「なんでこうなったんじゃろうか」と、驚きと怖さとで見たんです。あの当時、もうちょっと観察力があったら、もっと詳しく言えるんですがね。しかし、ああいう状態の中でしげしげと見るというようなことはできませんよ。瞬間に見た感じをぱっと頭の中に取り込んでおいたものが、今こういう形で出てくる。ほぼこういう状態じゃったと……
比治山下の電停の広い道から上がってくる所で、こういう人たちがうずくまったりしている。負傷者がこの道をどんどんどんどん上がってきてたんです。私はこっちの道を通って帰ろうと思ったんですよ。ですが、消防団の人じゃったろうか、警察かどうかようわからんのんですが、「下へおりたらだめじゃー」「通れんど、行かれんど」と言ってるんですよ。慌てて今度は避難する負傷者の流れに逆らって引き返して、同級生らを何とかせにゃいけんという気持ちで、また元の所へ戻ったんですね。それが一一時半過ぎやったですね。お昼前じゃったろう思います。
それで工場へ帰って、そしたらもう、みんな……どういうんですかね、もうなーんにも考えんのか、どうしたらいいのかもうわからんような状態で、休憩室のところと講堂のところでぼけーっと座って話もしよらんような状態。ここは怪我をしている者があまりいないわけで。ただとくちゃんが私のうしろで死んだ、と言うだけで。それでそれをどうするか、話し合いもなけりゃ、臨時で付いて来とった先生もおらんのですよ。先生は、どこへ?と聞。いたら、ガラスで顔面右頬がガーッとまっすぐに切れて大怪我をしていたそうで、「わしは帰るけえ、あとは大野の指示に従え」と言って帰ったという。私に言わせたら逃げたんですよ。同じ被爆者ですからね、先生ですから悪う取りとうないけれど、私は先生卑怯だと思ったんですよ、子供心に。
残った者が「どうしたらええんだろう、どうしたらええんだろう」と言うので、「これから状況がどう変わるかわからんし、とにかく比治山の防空壕へ避難する者がおったら避難せえ。もうこっち帰るにもこっちは火の海じゃけ。家へ帰れるんじゃったら帰る方へ逃げていけ。今日は解散!」と言うて、そこで私なりの指示を出したわけですよ。それが正午前でしたか。工場のえらい人からも全然指示もなければ、そういう動きもなかったわけです。私しかやる者がおらんかったわけですね。もう人数も相当減っとりましたからね。私はそこから自分の家へ帰ろうとしたんですよ。自分の家の方は焼けるのは見えんかったですから。
昼前に解散して工場から逃げるとき、自分の持ち物を探したら、上着は木の上に吹っ飛んでひっかかっていたんですよ。上は作業するときは裸でしたから。弁当は、ロッカーみたいな棚があるんですよね。それに入れておいた。下駄はそこで履きました。下駄を履いて上着探して、木の上にあったんで、上着を鳶口で木から下ろしたんです。それを着て、ズックのかばんを下げた。でも、帽子がないんですよ。そのときひょっと見たら陸軍の兵隊さんがかぶりよった鉄かぶとがあったんですね。それを見つけて、鉄兜かぶって、下駄はいて、講堂へ行って大切な日の丸の旗をはずして背中にたすきがけに被って、片方はかばんで片方は日の丸、異様な格好ですよね。
大やけどをして逃げ惑う人たち 絵・大野逸美
私は大畑(おおはた)町の停留所まで出て、逃げてくる人たちと逆行して帰ったんです。電車道に出たら自分の家が見えるんですよ。一〇メートルくらいの広い幅の道ですから。それで電車道から片方の金屋町側は燃えていたんですよ、バリバリッと。しかし反対側の大畑町側は燃えていなかった。電車道が、火を切ってたんですね。大畑町は今、段原七丁目ですが。
学校が見えたときには、学校の校舎も建ったまんまで、私の家も建ったまんまで燃えよったのを見たんですよ。「うわー、これは帰られんわ」と思いましたね。「燃えよらあ……」
家にいたお袋と姉が心配でしたが、家族は日頃話し合いをしていて、爆弾が落ちたとき避難する場所を決めていたので、よしそれじゃあとりあえず、田舎へ逃げようと。それでここの町内の、この学区の避難場所は現在の高陽町の小学校、安佐北区の落合(おちあい)小学校と決まっておった。ここを目標に逃げるということで、また歩き出しました。
正午過ぎだったと思いますが、大正橋のほうへ逃げていった。大正橋は現在の大正橋ではなしに、ちょっと下手にあったんですよ。架け替えをして現在の大正橋は、一〇〇メートルくらい上になったんですね。比治山の線路のまっすぐ延長した形で。現在、道路は的場のほうへ曲がるのと大正橋へとなっています。
大正橋でも、原爆が落ちたその日の昼にはもう、水面が見られんぐらい死体がいっぱいでしたね。水をくれ水をくれという人たちも……。それから飛ばされた家の建物の材木とかで水面は見えんかったですよ。死体は潮の加減で行ったり来たりしたんですが、京橋川も、私が逃げるときの猿猴川(えんこうがわ)ももう水面は見えなかった。そのときには頭がパニックでしたから意識して見てなかったですが、人が川面に溢れて、溺れとったような姿を見ましたからね。これはすごいなー、と。
ボロボロになった真っ黒や、真っ赤な状態の被爆者が、幽霊同様に逃げる姿も随分見ました。しばらく大正橋でたたずんでいたら、姉婿に会った。義兄は消防団の団長をしよったんです。避難誘導をしていたんですね。偶然そこで会った。それで私の顔を見て「逸美!」と私の名前呼んで、「もうこっちはだめじゃけえ、家の避難先にみんな待っとるはずじゃけえ、戸坂(へさか)か矢口(やぐち)へ、落合へ逃げぇ」と言うて指示をしてくれたわけです。それでその通りに私は大正橋を渡って、それから荒神町(こうじんちょう)を通り、踏切を渡って、大内越峠(おおちごとうげ)へ出ようとした。
途中、広島駅の北側の東練兵場を横切ったときに奇妙なものを見ましたね。何の火の気もない、鉄道の線路の横に、枕木がこうずーっと井桁に組んであったんですよ。これが燃えよったのを見てびっくりしたですよ。火の気が何もないところで燃えているのが不思議でしたよ。私が自分の家を見たときに、私の家は原爆が落ちた爆心方向から広い道路を挟んで逆側にあった。学校の校舎も逆側にあった。木造です。木造三階建てだった。ここが建ったままで燃えよったんですよ。周りには何もない。火の気はなかった。ですから、ひじょうに不思議に思って、何じゃろうか、と。これは強い光かなんかの爆弾、子供心に熱射爆弾かなと感じたんですよ。火の気のないところで学校が燃えよった、それからずっと歩いて逃げよったら、とんでもないところで井桁に組んだ枕木が、あんな堅い木が、火の気のないところでまたこれも燃えよった。これどうしてじゃろうか、と。これは熱でやられる熱射爆弾か、と思った。それが当たらずとも遠からずじゃったわけですよね。
それで避難民がどんどんどんどんこの大内越峠へ向けて出よるんですよ。そのときに今の私の同級生もおったんでしょう。知り合いもおったんでしょう。近所の人は見んかったですが、そりゃ何百人の人間、何千人ですよね。そりゃ死の行進ですよ。真っ黒に焼けた者や皮を垂らした見分けのつかないような者の行進ですね。その中に交じって、私もずっと歩いていったんですよ。鳶口をずっと持って。田舎に避難するまで、鳶口を離さなかったですよ。
現在の大内越峠(おおちごとうげ) 2005/8/23
一番まともなのは私ぐらいのもんですよ。途中でも同じような状態の人がこうやって手をぶら下げて、ナイロンの靴下がありますよね、あのようなずれ落ちた皮を顔から手からぶら下げて。幽霊ですよ。そりゃ痛くてたまらんのでしょう。それから私の同級生、同じ学校の生徒の女の子は、途中でへたばって「大野くぅん」と小さい声で言うて。同じくらいの年恰好ですから、セーラー服かなんか覚えてませんがね。作業に行っとったんでしょう。「大野君」言うけえ、おお知っとるやつかと思うて見たら「水ちょうだい」って言うけえ、私は水筒も持っとらんし、それで「水ないよ」って言うたら「助けて」とか何とか言うたんでしょう。で、私は名前も聞かずに、ま、そこを逃げ去るように、どうしてやることもできんじゃないですか、道端で。何もしてやれずに見殺しにして私ら田舎に逃げたんですよ。それも悔やまれることのひとつです。忘れもしませんが、大内越峠のてっぺんくらいのとこですよ。
それでそのときに名前を確認しようと思って近くへ寄ったら、あの当時名札はね、木綿の布に名前を書いて縫い付けとったんですよ。墨で書いとった。墨で書いた字だけが、「山本」なら「山本」だけが、焦げた文字になっとるんですよ。黒い部分だけがちょうど虫が食うたように。ということはその子はねえ、おそらく鶴見町辺りの建物疎開だったと思うんですよ。あとからねえこういう体験談やら同級生の話を聞いたりしたらねえ、女の子は鶴見町で被爆しとるんですよ、たいていが。結局、そこへおいてけぼりにするしかなかったですけどね。大内越峠は学区外ですよ。自分の家へ帰るんじゃったら学区外へ出ませんよ。だから人に連れられて避難しようとしたんか、どこが目的かわからんまんまにさ迷うてあそこへ行って力尽きたんか、どちらかでしょうね。
駅の近くを通ってきましたが、大正橋から向こうは焼けてなかった。まだこの方は、火の波が来てなかったですから。駅前のほうはね。鶴見町のほうがやっぱり直射でやられたということでしょうね。
ぞろぞろと逃げて……それは百人、二百人じゃないですよ。一時期にはそりゃ何百人がぞろぞろですよ、行列です。
言葉を交わすようなことはなかったし、励まし合うとか、尋ね合うようなこともなかったし、私も向こうも。ただ呆然と、でしょう。知らず知らずにどこへ逃げるという目的地が頭に残っているだけで……火傷しとらん人は、私みたいに荷物担いだりしている人もおりましたよ。でも、大半は火傷で歩いてましたよ。まあ火傷しとらんでも、あんな風に手から皮膚をぶら下げとらんでも、もう意識的に手を前へ出すような状態でしたね。火傷しとらんでも熱いか痛いかで。まあ私も鳶口を持っとりながら、杖代わりにしとったんじゃないかと思いますよね。下駄を履いて何里も、何キロもあるところを歩くんですよ。そりゃあのころは元気がええ、とはいいながら。砂利道を下駄ですよ。大内越峠はすごい坂道ですからね……
私のお袋と姉は東練兵場から饒津(にぎつ)神社を通り、牛田の土手から川沿いにずーっと戸坂へ逃げたと言うんですよ。饒津神社からずーっと川沿いにあがって工兵橋で、お袋が言うのには陸軍の軍曹の服装をした兵隊さんが、誘導をしてくれたと。その人も怪我をしておる状態だったそうです。とにかくこっちへは入れん、白島の方へは行けんと。とにかく避難せえ、避難せえ、こっちへ行けと言うので戸坂まで逃げたんだそうです。戸坂の親戚にやっとたどり着いたということです。こういう状態で相当数の避難する人間が……そりゃ全部で十何万でしょ、市内で亡くなった人、あの、軍隊の人の数は入っとらんのでしょ。で、そういう状態の中で何千人かずつあっちこっち……広島市周辺四方へ分散して逃げていった。友達は己斐のほうへ逃げた者もおりますよ。
私はこっちから逃げていって、今でいう芸備線の線路沿いにずーっと上っていったんですよね。それで戸坂の手前で線路から降りて、田んぼの中の火の見やぐらを目印に下りて行った。そしたらお袋のほうも……やはり親子なんでしょうね、私を探しに向こうから歩いてきよったんですよ。それで、お袋が先に見たんか私が先に見たんかわかりませんが、お互いを認めて……、やっぱり親子じゃのお、血じゃのお、とあのとき思うたんですよ。あれだけの雑踏のなかで、いちはやく金切り声上げて「逸美!」と言って、寄ってきたお袋を見ると、その格好たるや……親父の下駄ですよ。下駄を履いて、一方は素足。あの頃、ワンピースで普段着といったらあんな格好でしょうね。それに前掛けしたまんまで、真っ黒い顔して私の腕に飛びついてきた。私は鳶口とそれから大切な日の丸の旗を背にしょって……「なんちゅう格好しとるんねえ」と自分のことは棚に上げてお袋が言うて「よかった、よかった!」と。
それで姉も今、親戚の家へ向かっているから、私らも落ち合い先の戸坂駅の下の親戚、石津家へ、とりあえず行こうということになって、そこへ逃げていった。落ち合い先はこの戸坂にしようということになっていましたから。
やはり姉もそこへ来ていました。三時以降じゃったでしょう。
姉はもう顔とか何とか、ガラスでやられてましたね。そのとき物干しへ上がっとったために光が直接当たったんかのうと思っていたら、そうではなくて、あの時ちょうど洗濯物を干し終わったところで、階段を下りて座敷の畳の上へ足をかけたときに、光ったと。それで爆風がどっと来て、吹き飛ばされた。気がついたらいっしょに割れたガラスにやられていたということなんです。そのとき爆風が横からきたんか斜めからきたんか、姉はどっち向いとったんかわからんですが、光った方向に向いとったんでなくて横向いとったかなんかじゃろうと思うんですね。体片面にものすごくガラス傷があったんですよね。夏ですから今で言う簡単服、ノースリーブみたいなものを着て二の腕を出していたですから、十個あまり刺さっとったんじゃないですか。すぐそばにあるガラスに一気にバーッと力が加わって粉々に砕けて、小さいガラスですからね、それが顔面に突き刺さった。
これは余談ですが、私に刺さったガラスもみんな小さく砕けていました。周りにおったガラスの傷を受けた者も、みな小さく砕けたガラスを受けていましたね。あの当時は、どの家もガラス窓はテープとか紙とか貼ってね、粉々にならんように処置してあった。最小限度にあのガラスを十文字とか、バツ印とかに紙やテープを貼って、壊れるのを防ぐ方策をとっていましたね。どの家庭でも。私は工場の窓ガラスにやってあったかは記憶がないし、うちの家もそのガラスへテープを貼っとったか覚えがないんです。じゃが、ガラスが粉々になっとったのは間違いないと思う。あの、刃物みたいにスパっというような大きいのはなかったですね。ですから、爆風というのはね、全然予想できんような、ガラスの壊れ方をしたと思うんですね。
しばらくしたら、父がやっぱり来たんですよ。家族全部そこで落ち合いました。
それで、急に安心して、腹が減ってきた。「腹減ったー」と言うたら「弁当がある」言うて。お袋もそれまで何も食べとらんのですよ。親戚のほうも、まだご飯を炊いて食べさすような準備もしとらんわけですよ。どんどんどんどん行列をなして逃げてきているところへ、そこへさらに他人が何十人も逃げて来とるわけですから、御飯の支度どころじゃない。それで残っとった私の、酸いような大豆のごはんを、井戸の水でゆすいで洗うて、かき込んだんです。私一人弁当食べたんですね。そこまでずーっと何も食べていなかったので、やっと空腹を満たして。さっさっさっさっと歩くような状態なわけにはいかんですよ。しかも声をかけられたりして。
途中でね、私泥棒したんですよ、畑へ下りて。なすびときゅうりとかぼちゃと、三つほどカバンにつめて。かぼちゃは料理せにゃいけんですよね。でも、きゅうりは、水、水で喉の渇きを癒すのになるし、口しのぎになると思ったんですね。
それから八月六日のその日のうちに四人で避難場所の今の高陽町(こうようちょう)まで逃げたんですよ。逃げられるうちに。というのは、その家は親戚でも遠縁でしたから。うちの直接の親戚兄弟ではなかったので、そこを足がかりに落合の方まで。落合の小学校で、炊き出しの食料をもらったり乾パンをもらったりしました。そこで、避難してきたということで、割り当てられた農家へ行きました。落合のずーっと先の諸木(もろき)いうところで、一軒の農家で四人家族がお世話になりました。もう日がとっぷりくれた時刻で、八時前後じゃったですかね。そんな時刻を何で覚えとるかいうたら、その家の前に川があって蛍が飛んどったんですよ。ああいう情緒的なことも意識の中に残っとるいうことは冷静なところもあったんじゃないかと思いますが、やっぱり家族全員が無事会えたという安堵感もあったかもわからんですね。諸木から広島方面を見たら、広島の空は真っ赤っ赤じゃった。あそこから広島の空が見えたんです。空だけですよ。戸坂の山と山との間に広島の空が真っ赤に。明るい間は見えんかったし後ろを振り返るだけの余裕もなかったですしね。その晩はお風呂へ入れてもろうたりね、よくしてもらったんですよ、そこの家には。お布団もちゃんと出してもらって。そしてそこでもまたご飯を炊いてもらって。「大変じゃったね」って……。じゃけえ、いまだにそこのご家族とは一年に一ぺんでも通りがかりにちょっと声をかけて挨拶していますよね。今は代が変わって息子さんになっていますから、付き合いと言うほどの付き合いはしていませんけども。当時そこにおられた方も年配の人だったんで、親父なんかは「どうかいのう、お元気かいのう」と声をかけて行き来しよったらしいですよ、戦後はね。とにかく良くしてもらいました、その家には。ほんとうにありがたかった。
そこには二晩泊めてもらいました。その間、父は、三篠(みささ)川をのぼって白木町の三田(みた)というところへ行って、話しというか、交渉というか、田舎へ帰ってくるいうことを言いに行ったんでしょう。三田は父の本籍で、ぼろ家ですが家はあり、墓もある場所ですから。親父にとっては故郷ですからね。それで、身内が何軒かいる中で一番身近では自分の妹がおるもんで、そこへ訪ねていったら、叔母さんの連れ合いさんがあんまりええ返事をしてくれんかった、ということで帰って来たんですよ。
あの落合の避難所までね。その間、私らはそこでずうっと厄介になって、何することもなしに生活しよったんですよ、二日ほどね。
それで三日目の八月八日の昼過ぎじゃったですか、父が帰って来たんです。田舎から。
もちろん、その間父は歩いて行ったり来たりですよ。交通機関がないですから。当時六十四歳で、広島から今の白木町まで、徒歩で二十何キロを往復して。元気がよかったんですね。広島から避難して、途中一晩泊まったとはいいながら、田舎まで行ってそれでまた田舎から落合まで重い荷物を持って引き返してきましたから。必死じゃったんでしょうがね。
父が「おい、逸美」って言うんですよ。お袋には言わんのんですよ。「田舎へは帰らんで」って。えらい怒っている様子で言うんです。「どうしてぇ。行くとこないじゃない」と言ったら「じゃけぇ、広島へ帰る」と言うんです。「わしが持っとるだけの道具は防空壕の中にあるが、田舎からも、ちいっとせしめてきたけぇ」と言うて、大工道具をですね、どうしてあんなもの持ってきたかよくわからんですがね、大工道具のノコギリとか、手斧とかカナヅチとか、こんな重いものを肩からぶら下げて帰って来たんですよ。しかもその上に米も。もちろん、叔母さんが気をきかせて米もくれたんでしょう。背中いっぱい、野菜やら米やらね。背中がかがむくらい持って帰ったんですよ。何十キロでしょう。当時はそれくらい父は元気がよかったんですよ。やっぱり自分らの子供や家族を守ろう、養おうという気持ちがあったんでしょう。それだけ持って帰って、「広島へ帰ろう」と。
それを聞いて、そこのおばさんが「今帰っても、市内には入れんよ。今広島から逃げてきた人に聞いたら、市内には熱うて入れんそうなよ」と言うんですね。「火がまだ残っとるけえ入れんよ」と。それで、「ぜーんぶ、焼け野原になってるんじゃけえ、行ってもどうすることもできん」と言うて、おばさんが「もう一晩おりんさい」と。そう言うて泊めてくれたんです。
六日の晩に逃げて、七日に泊まらしてもろうて、八日の晩も泊まらしてもろうて、結局九日の朝に「お世話になりました」と言うて「これで行きますわい」と。父が「おい、帰ろうで」と、お袋と姉と私を連れて出発しました。もちろん徒歩です。
それで広島まで芸備線の線路伝いに帰ってきました。東練兵場を横切って、広島駅のホームに立ちました。広島駅はもちろん、線路に汽車はまだそのときは通っていなかったですね。二、三台蒸気機関車や客車が動かないままちょっとは見受けられましたが。そのホームを上がったり下りたりして。裏から入って、表の南の旧広島駅の建物はがらんどうでした。駅前は完全に焼け野原。それでそこに立った時に、広島湾の向こうの似島が見えたんですよ。ホームからね。立ち木も、焼けたときの葉っぱのない幹が、バーッと見えましたね。焼け残った煙突とか、ビルとか……。印象に残っとるのは、広島駅の前に鉄道病院があったんですよ。そこにね、大きな煙突があったんです。これは戦後昭和三〇年ぐらいには、駅前を開発するときに今の鉄道病院の位置に移しとる。それまでは駅前の焼け跡のシンボルみたいだったんですよね。駅前橋は当時ありませんでしたからね、みな猿猴橋を迂回して行ってたんですよ。猿猴橋から京橋通りを抜けるのが当時としてはメインでした。
諸木から一生懸命歩いて、九日の昼過ぎには広島へ帰り着きました。
私らが住んどった金屋町へは、猿猴橋を渡って的場へ出て、的場から戦後太陽館とかいう映画館があったところの裏の方、段原小学校の裏、この辺へ抜けて出た。もちろん、周囲は当然焼け跡ですね。段原小学校まであの猿猴橋を通って、土手を通って学校の校庭を抜けて焼け跡へ帰ったんですよ。もちろん校舎も何もないですよ。
他も心配で、ずーと回って歩いてから、召集されて以来会っていない担任の黒瀬卓美先生の家へ寄ったら、先生が熱線をもろに被って全身火傷で寝ておられました。運悪く西練兵場で被爆したそうです。昔の護国神社の裏の方、今の市民球場の裏手、そこで被爆され、全身火傷の体で半日かかって学校近くの自分の家に帰られたんじゃそうです。先生は、すりおろしたジャガイモとメリケン粉を混ぜた火傷の薬を、全身、足の先まで塗ってもらってね。目と鼻のところだけが開いてました。お父さんが、先生の耳の中にわいたウジを、箸で二、三匹ずつ摘まみ取りながら付き添っておられたです。当時、黒瀬先生というのは二七歳です。一兵士として入隊してまだ間なしですよ。五月に私は元の学級へ帰る、先生は兵隊へ行く、それが同時でしたから。三カ月あまりで被爆されたんですよ。
偶然私が訪ねていって、「先生」と声をかけたら、全身火傷で虫の息じゃったですが、意識ははっきりしていて「大野か」という声が出ました。自分のことより、「お前らみな元気か」「阿部先生は大丈夫じゃったか」と言うて、人のことを気遣われたんですよ。「今のところ何の話も聞いていない、どうしよるんや」と。
そのときに先生の口から聞いたのは、「もろに光を浴びて、顔をやられた」ということ。お父さんが言われるには、ひと皮剥けたどころじゃなかったそうです。もろに正面向いとったということですから。爆風で飛ばされた、そっから先は覚えとらんと言って。家に帰ったときは、血もぐれと皮と服とがボロボロに焼け爛れて、軍服の形らしいものが残っていなかったそうです。素肌が見えて赤身が見えたいうて「わしの息子かどうかわからんぐらい。赤いお面をかぶったようになっとった」とお父さんは言っていました。
お父さんが「もうこれ以上の話は無理じゃけぇ」と止めたので、「また来るけぇね、先生。何か食べるもの持ってきてやらぁ」とは言ったんですが、それが永の別れになったわけです。そんな状態で実際には食べられるものなんてないんですから。
家のあった場所は九日でも、火事の後でまだ土が温かったですね。
で、帰って来た時に「おい、飯が炊けらあ」と、父が言うたんですよ。水道管は昔は鉛管じゃったですよ。家が焼けるとき、鉛管も熱で溶けるんですよ。蛇口のところは鉄ですがね。鉛管のところの水がバーッと出よったんですよ、もう九日の日は。「おい逸美、水が出るけえ、飯が炊けらあ」と言うんで、じゃあ、ということで防空壕の中を探して飯を炊く釜があったんで、あれで飯を炊いて食ったのが九日の夕方です。塩はありましたが、おかずは何にもありません。
生活がまた始まったわけです。九日に帰って来て、何にもないところから。最初は防空壕の中に寝泊りしようかと考えたんですね。でも父がバラックを建てる、家を建てると言うんで、大きな松の木がありましたんでそれを中心の柱にして、近所から拾い集めてきた、材木なんかで広げていった。電車道をはさんで段原大畑町(だんばらおおはたちょう)は焼けていなかったんですよね。でも、崩れた家はたくさんありました。無人の家が多いんですよ。もう住めないからと逃げてしまって。それらの倒れた家からちょっと柱とかトタンとか板とかいただいて来て。焼け跡にもトタン板がずいぶん散らばっとるわけですよ。これは焼け残りますから。屋根にするのにはこれがうってつけの材料なんですよ、一枚板で広い。板を一枚一枚打つよりはてっとりばやいですしね。それで、焼けた後のトタン板を私がずいぶん探してきましてね、二〇枚ぐらい探してきて。そして打ち合わせをしてバラック小屋を建てたんです。防空壕と庭の松の木をうまく利用して、柱も引っ張ってきたりして。焼け跡に電線がようけありましたから。電柱からぶら下がって、もちろん電気は通っていませんよね。銅線ですから、ぶつぶつ引きちぎって、父の知恵で「おい、縛れや、こんなんにせえ」言うて、組んでね、それで一〇畳くらいのバラックを建てたんですよ。
金屋町にいち早くバラックを建てた人は、もう八日の日、私らより前の日、もう帰ってきて建てましたよ。二、三軒ね、もうあった。それらのバラックはほとんどテント小屋で、畳一畳か二畳くらいで生活しとったです。その人たちが私たちが建てた一〇畳くらいのバラックを見て大きいのにびっくりして。「大野さん方は何をやらしても大けえのお」と。父は何事もやることが徹底しとるんで、うちはもうがばーっとやったもんじゃから「大邸宅じゃの」って言われたよね。
家の材料を拾い集めながら不思議に思ったことの一つは、段原小学校の黒板ですね。当時一枚板で大きいやつがあるでしょう、教室の。あれが何枚も飛んどったんですよ。校舎は焼けてすっかりなくなってる、もう土台の石が見えるんですよ。なんであの黒板だけが外へ飛んで出たんか。どっちにしても爆風でしょ。あれを持って出る者はおりゃしませんよ。それも何枚もですよ。校庭の真中辺りまでね。台風の後みたいに転がっている。風の向きがどうだったんか、どの方向になぜ飛ばされたのか調べるようなこともあったらね、面白いデータが出るんじゃないかと思うんですがね。ま、とにかくその黒板を家へ持って帰って、父が板にしてノコギリで引いて家の部材にしたんです。焼けた後ですから、土はまだ温いんですよ。それで黒板をひいてもケツのほうからほんわりほんわり、温かくて。そういうような状態じゃったです。九日にはね、川にはまだ死体がありましたよ。死体は、行ったり来たり、潮が行ったり来たりしたんでだいぶんなくなったようですが、橋桁にかかっていた材木類はまだだいぶ残っていました。
あと、川で私の記憶に残っているのは魚ですね。イダ(※標準和名はウグイ)と言うて広島の川には魚がおるんですね。帰ってきた九日の晩でした。すぐ晩御飯のために魚の調達に行ったんですよ、川へ。京橋川は、遊び場所でもあったが食糧調達場所でもあったわけですから、ついその感覚で。それで行って水面を見たら、背中を火傷した魚が泳いでおったんです。水面近くで泳いでいたのか、かなり深いところを泳いでいたのかわかりませんが、熱線の温度がどのくらいきつかったかというのは、この魚の背中もね、よく表していたと思います。泳ぎよる魚の背中が焼けとったんです。それがまだかろうじてぴくぴく泳いでいた。そんなの見たらびっくりした。うわー気持ちが悪いと思って。取らんかったですよ。
柳橋という木の橋があって、そこにかかった材木類の間に、魚が逃げ場がなくて干からびて死んどったのがおりました。まだぴくぴくしよったのもおりました。そのとき、死体が二つ三つまだ木と木の間にあったのも見とります。その頃はもう水面は割とこう、いろんなもので埋っておったですがね。
九日の日から二、三日かかって落ち着いたですね。その間、防空壕に寝たんですが、最低生活はできるだけの家財道具というか鍋釜を置いとったものですから、なんとかなって。水はちょっと汲みに行きゃぁ、なんぼでも出よるんですよ。もと炊事場じゃったところから。それから、風呂が残っとったんですよ。五右衛門風呂じゃったですが。屋根はむろんないですよ、焼けて。あれをきれいにして五右衛門風呂焚いて翌日から風呂に入りましたよ、私たちは。一〇日くらいから。
それから焼け跡生活が始まったわけです。職もない、仕事もない、収入もないので、どういう生活したかいうと、焼け跡の物拾いでしたね。一番金になったのは鉄屑とか、金ものですね。そういう商売をしとる者がすでにおったいうことを考えると、おかしいんですがね。もちろん風呂釜なんかはね、高価に売れました。五右衛門風呂でしょ、鋳物でしょ。焼け跡に残っとるのは焼けんのですから、風呂釜は。これは親父と二人で行ってね、槌とハンマー、それからゲンノウを持って行って、崩して、それを父がどこから調達したか知りませんが、大八車に積んで、持って帰って一日に一個、二個は売りましたね。平塚の方までずーっと行ったんですよ。鶴見橋のこっちですね。高級住宅は幟町(のぼりまち)、上柳町(かみやなぎちょう)言うて、この辺が、いわゆる銀行の人とか偉い人が住んどる大邸宅が並んどったんですよ。みんなもちろん焼けたんですけど。
父はここへ何度も足を運びましたね。それはいろんなめぼしいものがいっぱいあって、収穫が大きかったことも理由でしたが、実は父はここで被爆したんですよ。その縁もあった。原爆の当日、父は疎開ということで家の荷造りをして大八車を引いていったんですね。大八車を引いて上柳町まで来たわけです。広島銀行の頭取の邸宅があってそこに大きな石の門があった。四角い石の門に昔の武家屋敷のような大きな扉があって、その門のところへ座って一服しよったらしいんですよ。キセルに火を点けて一服しよったら、なんか飛行機の音がするので、見上げたら、飛行機が上を向いて行きよったと。あ、B29じゃ、と思ったら、ピカッとそれが光った、と。それはB29の機体に陽の光が反射したのかもしれませんけどね。あ、空襲じゃ思うて。その前に広島は空襲警報を解除しとりますからね。市民は大半安心しとったので、父はこれはおかしいと思うて、その石の陰に身を伏せたいうんですよ。大八車を置いて、とにかく身を伏せた。その瞬間、どーっと来た。それで助かったいうんですね。どーっとすごい音がして。「わしはあんな音聞いたことがない」言うくらい、すごい音がした。ですから、光ったのを逆に見とらんのですよ。目をこうやって、閉じて、手の指で鼻と目と耳を塞いで。「光ったのを見とらんが、音はとにかくあんな音は世の中で聞いたことない言うようなのを聞いた」と。それで地震かと思うたくらい体が揺れて、気がついたら石柱の陰におったのが大八車のところまで動いとった。飛ばされたかどうかはわからんのですがね。それから父は荷物も全部置いてそこから逃げたというんですね。京橋川を渡って、子供を助けたりなんかして、逃げよったと言うんですね。それからあらかじめ決めてあった親戚の所へ来たということなんです。
ですから、父は帰ってきてどうしても一度はそこへ行きたかったんでしょうね。大八車がどうなったか、見届けたかったと思いますよ。で、父と見に行ったんですよ。そうしたら、大八車は荷物ごと焼けていた。そのままで全部焼けちゃった。積んでおいた箪笥(たんす)とかなんとかみんなきれいに焼かれて。金属の輪と心棒だけが焼け残っていた。
あの焼け跡でものを拾って歩いて……。特に父が大八車を置いていた辺が大きな屋敷があると言うんで、焼け跡から遠征してここへようけものを取りに行ったんですよ。アパッチですよ。高価な物もありましたよ。骨董品のようなものもね。
金にしたのは父がしたんですからそれらをどこへ売ったもんか、知りません。ですが生活費は、ある程度入ったと思います。
父は無傷でしたが、焼け跡を歩いたせいか、のちにやっぱり原爆症の症状は出ましたね。ガスを吸ったんじゃろういうことで。白血球の数が、ちょっと多くなったり。それで、意識がなくなったり、ずいぶん病院通いをしましたよ。しかし父は戦争へ行って弾を打ち込まれても死ななかったくらいですから、「わしゃ死にゃへんど」と言いよって、へこたれなかった。それで九〇歳まで生きたんです。
しばらくの間、家の近所でも、ずいぶん死体を焼きましたよ。松川公園のところにね、ちょうど火葬する場所があったんですよ。すぐ裏側の電車道の方に、糧秣廠(しょう)いうて陸軍の食糧を貯蔵する倉庫があったんですが、その軍の敷地で火葬をよくやっていました。私たちのバラックの目と鼻の先なんですよ。五〇メートル離れているか離れてないかですね。そこで毎晩ですよ、死体を焼く。夜な夜な。晩御飯食べよったら、そこで死体焼いとるんですよ。軍隊とか消防団とか何とかがね。あのにおいは、もう一生忘れませんよ。どういうふうに表現していいかね。飯食いよってもね、飯がまずくなる。たまらないにおいでしたね。炎が見えて、その煙が家にも流れて来て……においがうわーっと。
終戦を聞いたのは、私が子供のころからよく遊んだ京橋川ででしたね。昭和二〇年八月一五日の終戦の報はそこで聞いたんですよ。対岸の平塚の方から、大きな声で教えてくれた人がおるんですよ。ラジオがかすかに聞こえたんですが、「おーい、日本は負けたどー」って。それで、「何が?」と思うて。私は日本が負けるようなことなんか全然思ってはおりませんでした。「神国日本は絶対勝つ」という気持ちが強かったもんですから、何を言っているのかわからなかった。
「負けたよー」「どうしたの、おじさん、おじさん」言うて。川は向こう側が船着場でこちらが浅瀬なんですよ。向こう岸に貸しボートがあって、そこのおじさんはガキ大将の私をよく知っているわけですよ。そのおじさんが、「おーい、日本は負けたどー」と。それはショックじゃったです。遊び場所でそれを言われ「えーっ」と慌てて、タッタッタッタッと走って帰りました。
「おとーちゃーん」と父を捕まえ、「日本負けたみたいやで」言うたら「何言いよるんか」と言われた。父は金鵄(きんし)勲章をもらった人ですから、そんなこと言い出したらもう殴られるのがおちぐらいの雰囲気ですよ。「ばかいうんじゃねえ。何言ってんだ」と。電車道の向こうにラジオを聞いた人がおられて、その人に父が聞きにいったんです。
「天皇陛下が直接負けたいうことを言うたらしい」と、父はがっくりして帰ってきました。「いやー、負けたか」と。昼過ぎですよ。あんなにがっかりした父を見るのは初めてでした。
八月末じゃったろうと思うんですが、アメリカの軍用機コンソリデーティッドB24というのがね、低空を偵察機みたいに飛んできましたね。広島上空の焼け跡を何回も何回も旋回して、写真を撮っていましたね。それこそ四、五〇メートルの低空ですよ。機上の人間の姿がはっきり見えるんです。爆心地を中心にぐるーっと旋回して写真を撮って行きましたね。で、そのときにすごい恐怖心を覚えました。姉が一番恐れたのは、進駐軍に真っ先に乱暴されるんじゃないかと。それで男の格好せにゃいけん、防空壕に隠れとかにゃいけんとか、いうような恐怖心もありましたね。負けた、というね。
生活が落ち着いてきたのは、九月の初め頃でしょうかね。
二、三ヶ月したら近所にも相当数のバラックができましたよ。町内活動が立派にできるような所帯数になりましたから。罹災証明とか配給とか、それを活用したいろんな町内活動ですね、これはもう半年も経たんうちに機能しましたから。
あの体験は、ずっと残さなけりゃならない体験だと思いますね。あの広島があって、今日の広島がある。忘れられない、忘れちゃいけないことだと思います。
一四歳の夏、キノコ雲の下の地獄絵図を見てから六〇年。この夏私は七四歳。私には三人の子供と四人の孫がいます。その孫のなかに中学二年生で一四歳の男の子がいます。私が被爆したときと同じ歳ですが、夢は野球の選手だそうです。とりわけ広島カープのファンで、よく広島市民球場に連れて行ったものです。小学生の頃にはキャッチボールの相手をしてやったこともありました。今では私は高齢社会の一員となって、糖尿、心臓の持病に加えて足・腰が不自由になってしまいました。現在杖をつく「じいちゃん」では相手をしてやることはできません。今、孫は屈託なく、元気に中学校の野球部で頑張っています。
しかし、じいちゃんが自分と同じ年頃にあった出来事には無関心で、〝ゲンバク〟については、学校で話を聞いている程度で、『サダコ』や千羽鶴の話、爆心地の『原爆ドーム』が世界遺産になっていることくらいしか知っていない様子です。『ノー・モア・ヒロシマ』の原点とも言うべき〝声〟を聴いてはいません。
「ピカドン」という言葉の語源も知らない、私の孫たちを含めたヒロシマの若い世代に被爆者の一人として、犠牲者に代わり、話し、遺すべき責任があるような気がします。
不幸中の幸いとでも言いますか、私の父母も被爆者でしたが、二〇年後に他界しており、平和記念公園の慰霊碑には被爆犠牲者として過去帳に名前を載せられ、納められています。身内に大きな犠牲はありませんが、私の身近な人、特に学友、先生の被爆犠牲者が数多く、仲の良かった同級生は勤労奉仕で被爆死して、いまだに遺骨がわからないと聞いております。
また私の学校の先生で勤労奉仕で生徒と被爆し、自分自身大きな火傷を負いながら生徒の救助、避難誘導に活動された話もあります。
被爆状況証言は数多く語られてきています。私の話には他の人と重なっていることも、またずれもあるかもしれません。
被爆六十周年は、私と孫にとっても意義ある節目の年と考え、〝じいちゃんのノー・モア・ヒロシマ〟を、老いた頭の中を整理しながら、話を遺すことにします。
孫をはじめ、若い人たちが何かを考え、感じ取ってくれることを願いつつ……。
(2004年11月28日/宇品公民館で/聞き手■立川太郎・渡辺道代他ヒロシマ青空の会メンバー)