サンクチュアリ

美味しい物・綺麗なもの・楽しい事

「春」がお山を駆け上がる。 その1 ( 桜道 )

2016-03-31 06:01:52 | 花紀行
 今年こそは!とだんなさんと二人で絶対行こうと話していた「見延山 久遠寺」の「しだれ桜」
私たちが選んだ日は、平日、暖かくて良いお天気の日(29日)でした。
富士川橋を渡って、富士川の西側を川に沿って北進、52号線に抜けて、身延山久遠寺に向かいます。

     

     

 この2本のしだれ桜は、私のお気に入りで、芝川から52号線に抜ける道、普通の民家に植えられていてます。左側は川で、右側は、一段上がっているので、帰りには、枝垂れている木の下を走ることになります。

     
     ほらね!

 車を停めるところなどはないので、いつも通り過ぎるだけなのですが・・・。    


     
     赤茶色の屋根のお宅と桜の木

     
     手前の山は春めいていますが、遠くの山にはまだ雪が見えます。

          

     
     左に右にしだれ桜が見えてきて、そろそろ見延町です。

 さあ、いよいよ「見延山 久遠寺」のしだれ桜に会いに行くことにしましょう。(このお話はまた明日)

     
     富士川町(増穂IC辺り)

 念願の「中部横断自動車道」の工事も着々と進んでいる模様。だんなさんと二人で
「開通したら、絶対日本海を見に行こう!」
と意気込んでいます。いつ開通するのかしら・・・?

 52号線沿いの看板(かなり年季がはいっている)

『 君は太平洋を見たか? 僕は日本海を見たい。』

 のんびりした風景の中に登場するこの看板は、いつも私に強烈な印象を残し、まだ見ぬ「君」と「僕」のことが気になって・・・。

 開通したら、その道を通って日本海を見に行こうと思っています。


 今週末、「身延山久遠寺」のしだれ桜は、たぶん見頃を迎えることでしょう。すごく綺麗なので、是非!
それから、まとめるのが間に合いそうもないので、先におすすめしちゃうけれど、身延山の先の「大法師山公園」の桜もとても綺麗でした。


                                                  つづく

   

ちょこっとドライブ その3 ( 田貫湖と狩宿の下馬桜 )

2016-03-30 09:48:05 | 花紀行
 田貫湖にも立ち寄りました。

     
     風が通って行きます。

     
     晴れていれば雄大な富士山が見えるのに・・・。

 帰り道、まだだとは思ったのですが、狩宿の下馬桜の様子を見に行きました。

     
     菜の花は満開でしたが、下馬桜はまだまだのようでした。

 井出家の高麗門は色合いが変わったようでした。下馬桜は樹齢千年ともいわれている桜で、満開の時はそれはそれは綺麗です。
満開のこの桜をご覧になりたい方は、以前のご紹介のページを見てね。
 この日(26日)は、何故かとても寒い日で、二人ともブルブル!のちょこっとドライブでした。

                                                  お終い

     

ちょこっとドライブ その2 ( 人穴浅間神社 )

2016-03-29 12:47:07 | 不思議紀行
 お腹がいっぱいになった私たちは、
「田貫湖周りを散歩しよう!」
と田貫湖に向かいました。途中以前から気になっていた鳥居のある「人穴浅間神社」に寄りました。
富士山が世界遺産に登録されたときにここも富士山世界遺産構成資産となり、ボランティアガイドの方が案内してくださるようになったり、資料などが置いてある建物が建てられたり、お手洗いも整備されたりしています。

『 富士山世界遺産構成資産(平成25年6月登録)
人穴富士講遺跡は、『信仰の対象』としての富士山の顕著な普遍的価値を証明する上で不可欠の構成資産である。
富士山の西麓に位置する人穴富士講遺跡は、長谷川角行が苦行の末に入滅したとされる風穴の「人穴」を中心として、その周辺に富士講信者が造立した約230基もの碑塔群が残されている遺跡である。
『吾妻鏡』には、鎌倉幕府2代将軍源頼家(1182~1204)の命令により、洞内を探検した武士が霊的な体験をしたことが記されており、早くも13世紀には人穴が「浅間大神の御在所」として神聖視されていたことが知られる。
その後、この記事は浅間大神の霊験譚として説話化され、人穴の存在が広く知られるようになった。
富士講関連の古文書によれば、人穴は、16~17世紀に長谷川角行が洞内で角材の木口の上に1,000日の間立ち続けるなどの修行を行い、浅間大神の啓示を得た場所であるとされている。また、角行が人穴を「浄土(浄土門)」であると述べたとの伝承に基づき、人穴を参詣し、修行を行う熱心な富士講信者も現れた。
人穴の内部には、角行を初代として、3代目及び4代目の弟子に当たる人物が奉納した1664年及び1673年の紀年銘を持つ石仏が残されている。
富士講が隆盛期を迎えると、信者は角行、食行身禄、先達などを供養・顕彰したり、自らの登拝回数を記念したりするために、多くの石造碑塔を建立した。
これらの一群の碑塔は富士講ごとにまとまった位置に建立されており、各講の勢威を示す意図がうかがえる。
現在、人穴への参詣者は見られるものの、富士講の組織及び活動は衰退してしまったため、1964年以降における新たな碑塔の建立は行われていない。』(富士の国やまなし観光ネットより)

     
     緩やかな参道を上がって・・・。

     
     弘化2年(1845)開祖角行の200年忌の建立された「宝篋印塔」

     
     富士講信者によって建立された232基の碑塔

     
     人穴浅間神社

 以前は、犬涼み山溶岩流内にできた長さ約83メートルの溶岩洞穴「人穴」の中に入って行けた(子供のころに訪れたような記憶はあるが、怖くて入って行かなかったと思う。)ようですが、現在は、危険なため立ち入り禁止となっています。
新しい社殿が造られていましたが、写真は撮り忘れてしまいました。

  『 御祭神

  木花咲耶媛命(このはなさくやひめのみこと)

  源家康朝臣(みなもとのいえやすあそん)、藤原角行(ふじわらかくぎょう)』


 人穴富士講遺跡については、富士宮市のホームページに詳しく載っています。

  神社紹介   人穴浅間神社  富士宮市人穴 206


                                             つづく
   

 

ちょこっとドライブ その1 ( moguでモグモグランチ )

2016-03-28 09:26:14 | ランチ
 良いお天気の誘われて、ちょこっとドライブに出かけました。(土曜日のお話です。)

     
     大きな窓からは(晴れていれば)雄大な富士山が見えるお席です。

     
     メインのお料理(チキンがハタ)が選べるワンプレートランチ(ドリンク付き)を頂きました。

 お野菜たっぷり、こんなにたくさんの種類のおかずが並ぶなんて・・・。美味しかったです。ご馳走様でした。

     
     まだまだ寒い!


前に仲良しのkaoとこのお店を初めて訪れた時の様子は、以前のご紹介のページを見てね。

    
  お店紹介   cafe&deli mogu (モグ)  富士宮市上井出 3472-22
                             ☎ 0544-54-1394
                        日・月曜日お休み (臨時休み有り、要確認)
                        11:30~18:00

 

ルンルン! 春のスカート

2016-03-27 09:01:06 | お気に入り
 仲良しのkaoに春色スカートを作ってもらいました。

     

 生地は、1月の半ばに鎌倉スワニーで買ってあったのですが、kaoはなかなか忙しくて渡すことができなかったのです。
・・・がしかし、渡すとすぐにちゃちゃっと作ってきてくれました。
昨年作ってくれたコーディロイのスカートと同じデザインなのですが、お腹の辺りまで押さえのミシンがかかっているので、ボリームも控え目、なにより着ていてすごく「楽」なのです。前回より少し丈を長くしてもらって、より女性らしい?雰囲気に・・・。
 kao、ありがとう。春のお出掛けが待ち遠しいです。

     

新東名 つながる! その6 ( 足助 町歩き 3 )

2016-03-26 10:42:00 | 建物紀行
 ランチの後は、足助の町でも奥の方「新田町」を散策しました。この辺りまで来る人は、あまりいなくて、静かな散策となりました。

     
     山城小路を上がると小さな可愛い「足助キリスト教会」があります。

     
     あらゆるスポーツの専門書を閲覧できるという「体育とスポーツの図書館」

     
     観音堂のある観音山  ここから眺める足助の町並みは絶景らしい・・・?

 お腹がいっぱい過ぎて上がるのを断念したのが悔やまれる・・・。

     
     この辺りで町並みが途切れています。この先は飯田に続いているらしい。

     
     ほそ~くて急な階段を下って川べりの道へ・・・。

     
     木で造られた「あゆみばし」 この川べりの道が「塩の道」だそうです。

     
     莨屋(たばこや)塩屋 で「足助直し」で作られた塩飴を買いました。

 このあたりのお店の入り口付近(上の写真の右)につるされた藁で作られた物は、秋祭りで火縄銃の鉄砲隊が鉄砲に付ける縁起物だそうです。(縁起物というだけでなく銃が暴発した時などに持っている人を守る働きがあるとのことです。)

     
     大正元年(1912)に建造された「旧稲橋銀行足助支店」(現足助中馬館)

     
     2階部分には手すりなどもつけられた造りになっています。

     
     強固な鉄の扉のつけられた金庫

 ここには、説明をしてくださる方もいらっしゃったので、町歩きをしていて気になったことを聞いてみました。先ほどの藁で作られたもののことと、もう一つ・・・。

     
     こんな感じに板壁に取り付けられた棒のことです。

 これは、火事の時にこの棒を外すと木の板が外れ漆喰の壁が現れ、類焼を防ぐ役目をするそうです。記憶が曖昧で申し訳ありませんが、どこかの町並みを見学した時にもいくつも目にしたことがありました。帰ってから調べてみたら「よろいばり」というそうです。
足助の町は、安永4年(1775)に大火に見舞われたというので、当時の人々が工夫をしたのだろうと感心しました。

 最近は、どこに行ってもたくさんの海外からのお客様でわさわさしていて、なんとなく落ち着かないのですが、ここは、ゆったりとした特別な時間が流れているようで、カタクリのお花も町歩きもランチものんびり・・・、とても楽しかったです。

                                                    お終い

新東名 つながる! その5 ( バンバン堂でランチ )

2016-03-25 08:03:35 | ランチ
 「お釜稲荷」から元の道に戻って歩いていると・・・。

     
     路地の奥にカフェを見つけました。

 だんなさんが
「古民家カフェがあるってどこかに載ってたよ。」
と言うので、お腹もすいていたので、ここでランチにすることにしました。(だんなさんにしては珍しく足助までの道のりやお店なども調べてくれたみたいです。感激!)

     
     ここでもゆったりとした足助時間が流れていました。

      
     二人とも「バターチキンカレー」とお芋のアイス、梅・柚子のソーダを頂きました。

 素朴な木の器に入ってカレーが運ばれてきたときには、少な目に見えたのですが、これが結構の迫力、お腹がいっぱいになりました。ソーダもたっぷり、濃厚なお芋のアイス、ちょこっとおまけのかりんとうも2種類(甘いものと塩味のもの)で、大満足でした。美味しかったです。ご馳走様でした。

     
     裏の扉を出ると、細い路地、下ると川に行けるのかな?


  お店紹介   ろじうらカフェ バンバン堂  愛知県豊田市足助町石橋 34-6
                             ☎ 090-4257-7240
                  営業時間  10:00~17:00 

     
     
     かりんとう(かれんとうとがりんとう)も買いました。

     
     バンバン堂の斜めお向かい「志賀酒店」で

     
     足助のお米で作った「範公」というお酒も買いました。
                                                     
つづく

                                                     

 

新東名 つながる! その4 ( 足助 町歩き 2 )

2016-03-24 06:25:55 | 建物紀行
 足助の町は、川沿いに山に向かって家々が建てられていて、道は時折、直角に曲がっています。(敵の侵入を防ぐための桝形みたい。)橋がいくつか架かっているので、橋の上からも独特の家並を見ることができます。

     

     
     足助橋から下流と上流を望む

  
     
     
         

       

     

 通りにも細い路地にも、のんびりとした時が流れています。
「お釜稲荷」の名前に惹かれて、坂道を上がって行くと・・・。

     
     大きなお釜が置かれています。

     
     朱色の鳥居も鮮やかな「お釜稲荷」

     
     直径2mの大きなお釜に祀られるお稲荷さん

                                                 つづく

新東名 つながる! その3 ( 足助 町歩き 1 )

2016-03-23 15:37:22 | 建物紀行
 『 足助の町並みの歴史

 足助の町並みは、尾張・三河から信州を結ぶ伊那街道(中馬街道)の重要な中継地にあたり、物資運搬や庶民通行の要所として栄えた商家町です。重要な交易物であった塩はここで詰め替えられ、「足助塩」「足助直し」と呼ばれました。町並みの成立は定かではありませんが、安永4年(1775)の大火で町並みの大部分は焼失してしまいました。大火の直後から町は再建され、今も町並みには江戸時代後期から明治末までに建てられた建物が数多く残っています。大正期や戦後の建物でも伝統的な町家の形式を踏襲するものが多く、現在まで古い町並みの景観が保たれてきました。
明治44年(1911)に国鉄中央線が開通すると、物資の輸送基地しての機能は次第に衰退しますが、その後も足助は東加茂郡の中心として歩み続けました。』(足助 町並み散策ナビより)

     
     足助川に沿って町が作られています。

 石垣が築かれ川にせり出すように家が建てられています。各家から階段で川に降りられるようになっています。

     
     辻には「お天王さん」のお社

     
     電線を埋めるなどの景観への配慮が行き届き、すっかり古の旅人の気分です。

      
     白い漆喰と黒い板、細い路地の両側に立ち並ぶ建物の美しい「マンリン小路」

     
     今度は、こちら「地蔵小路」を下ってみましょう。 

     
     お地蔵さんのお社

 ご本尊のお地蔵様は珍しいことに座っていらっしゃいます。他に、願いを叶えてくださる「抱き地蔵」と痛いところと同じ部分をさすると治ると言われる「おびんずるさん」がいらっしゃいました。 

     
     間口の広いお宅が多く、ゆったりとした雰囲気です。

                                                       つづく