三島大社に初詣に行ったとき(あまりの混雑ぶりに早々にお参りは諦めてしまったので、実際にはお参りしていませんが・・・)、ポスターを見つけて、
「絶対に見に行くぞ~」
と妙に力が入ってしまった佐野美術館の展示。
大好きな森雅裕氏の「化粧槍 とんぼ切り」に登場する本多忠勝愛用の「蜻蛉切」(本物)を見ることができるというのです。お話の中では、忠勝の娘「稲姫」(嫁いでからも数々の武勇伝が残っている後の「小松殿」)が真田信之(信行)に嫁ぐときに忠勝(父)に願い出て、お嫁入り道具に加えて嫁ぎました。
森雅裕氏の本化粧槍 とんぼ切り
ポスター(パンフレット)の中心は、もちろん「蜻蛉切」
『 初公開の矢部コレクション
ひとの縁は、
ものの縁
織田信長が長篠の戦いでの功を賞して奥平信昌に与えた一文字の太刀や、天下三名槍の一つ「蜻蛉切(とんぼぎり)」。
静岡県沼津の実業家・矢部利雄氏(1905~1996)が一代で築き上げたコレクションを、このたび初公開いたします。
国宝・重要文化財を含む刀剣・刀装具は言うに及ばず、仏教絵画や風俗図、陶芸などいずれのジャンルにも、それぞれの時代の佇まいを伝える優品が並びます。朱と黒の景色が見事な室町時代の根来塗(ねごろぬり)の数々も、コレクションを形成する重要な柱の一つです。
矢部氏は熱心に家業を営み、茶道や刀剣を通して地元のコレクターと交流を深める一方、沼津御用邸や千本松原の別荘地を訪れる東京の文化人と親しく交わり、自らの美意識を磨きました。
乗り物酔いがひどく、列車で東京や大阪へ出向いた回数は数える程。ほとんど沼津から出ることなくこの充実したコレクションを成したことにも驚嘆させられます。矢部家にはよく目利きと呼ばれる人々が訪れ、話に華を咲かせていたといいます。様々な人との縁を得、ものとの縁を結んで成されたコレクションをぜひお楽しみください。』(頂いたパンフレットより)
会場は、いつになく混んでいた。順路に従って歩き出すと朱塗りの渋い色が目に入ってくる。
しかし待てよ。「蜻蛉切」を見たい。早くゆっくり見たい。・・・ということで、「蜻蛉切」を探す。
すっとした立ち姿、美しい。飛んできた蜻蛉がこの槍にとまり、真っ二つに切れてしまったという逸話を持つ「蜻蛉切の槍」。
本多忠勝の手に握られ、幾多の戦いの場をくぐり抜け、ここにある。戦いの道具、人を殺める道具、我が身を守る道具、それでも惹かれる。尊いものに思える。
ウィキペディアには
『蜻蛉切(とんぼきり)は、天下三名槍と呼ばれた槍の1つ。戦国時代の武将・本多忠勝が愛用した事で知られる。
笹穂の槍身で、穂(刃長)1尺4寸(43.7センチ)、茎1尺8寸(55.6センチ)、最大幅3.7センチ、厚み1センチ、重さは498グラム、樋(刃中央の溝)に梵字と三鈷剣が彫られている。三河文珠派、藤原正真の作。
名称の由来は、戦場で槍を立てていたところに飛んできた蜻蛉が当たって二つに切れたことから、その名がついたという。通常の槍は4.5メートルほどであるが、柄の長さ2丈余(6メートル)であった。しかし、忠勝の晩年には体力の衰えから、3尺余り柄を短く詰められた。青貝螺鈿細工が施された柄であったと伝わるが、現存していない。黒糸威胴丸具足(鹿角の兜)と共に本多家に伝わったが、第二次世界大戦時に同家を離れ、その後、沼津市の実業家・収集家の矢部利雄(1905-1996)が入手した。愛知県岡崎市の岡崎城内「三河武士のやかた家康館」にレプリカが展示されている。三島市の佐野美術館で2015年1月から11年ぶりに展示される[1]。
なお、江戸時代の記録では、本多家にもう一つ蜻蛉切と呼ばれる槍があり、形は直穂で違うが、同じ模様が彫られ、作者も同じだったという。穂(刃長)1尺4寸(42.4センチ)、茎1尺8寸(54センチ)、幅3.6センチ、厚み1センチ。こちらの消息は全く不明である。』
とある。(色づけ文字は私です)
もう一つの「蜻蛉切」が、稲姫とともに真田家にお嫁入りしたのではないかと・・・。こちらにもいつか出会うことができるかも?
それから、もう一つ、江戸末期の刀工・固山宗次(こやまむねつぐ)による蜻蛉切の写し(1847年作)が東京国立博物館に所蔵されているそうです。
施設紹介 佐野美術館 三島市中田町 1-43
☎ 055-975-7278
「ひとの縁は、ものの縁」 平成27年1月9日(金)~2月15日(日)
学芸員の方も驚かれていましたが、この日はかなり混んでいて、「蜻蛉切」のところには、長い行列ができていました。ゆっくり見たいなら、平日か空いていそうな時間に行った方が良いかも?
「絶対に見に行くぞ~」
と妙に力が入ってしまった佐野美術館の展示。
大好きな森雅裕氏の「化粧槍 とんぼ切り」に登場する本多忠勝愛用の「蜻蛉切」(本物)を見ることができるというのです。お話の中では、忠勝の娘「稲姫」(嫁いでからも数々の武勇伝が残っている後の「小松殿」)が真田信之(信行)に嫁ぐときに忠勝(父)に願い出て、お嫁入り道具に加えて嫁ぎました。
森雅裕氏の本化粧槍 とんぼ切り
ポスター(パンフレット)の中心は、もちろん「蜻蛉切」
『 初公開の矢部コレクション
ひとの縁は、
ものの縁
織田信長が長篠の戦いでの功を賞して奥平信昌に与えた一文字の太刀や、天下三名槍の一つ「蜻蛉切(とんぼぎり)」。
静岡県沼津の実業家・矢部利雄氏(1905~1996)が一代で築き上げたコレクションを、このたび初公開いたします。
国宝・重要文化財を含む刀剣・刀装具は言うに及ばず、仏教絵画や風俗図、陶芸などいずれのジャンルにも、それぞれの時代の佇まいを伝える優品が並びます。朱と黒の景色が見事な室町時代の根来塗(ねごろぬり)の数々も、コレクションを形成する重要な柱の一つです。
矢部氏は熱心に家業を営み、茶道や刀剣を通して地元のコレクターと交流を深める一方、沼津御用邸や千本松原の別荘地を訪れる東京の文化人と親しく交わり、自らの美意識を磨きました。
乗り物酔いがひどく、列車で東京や大阪へ出向いた回数は数える程。ほとんど沼津から出ることなくこの充実したコレクションを成したことにも驚嘆させられます。矢部家にはよく目利きと呼ばれる人々が訪れ、話に華を咲かせていたといいます。様々な人との縁を得、ものとの縁を結んで成されたコレクションをぜひお楽しみください。』(頂いたパンフレットより)
会場は、いつになく混んでいた。順路に従って歩き出すと朱塗りの渋い色が目に入ってくる。
しかし待てよ。「蜻蛉切」を見たい。早くゆっくり見たい。・・・ということで、「蜻蛉切」を探す。
すっとした立ち姿、美しい。飛んできた蜻蛉がこの槍にとまり、真っ二つに切れてしまったという逸話を持つ「蜻蛉切の槍」。
本多忠勝の手に握られ、幾多の戦いの場をくぐり抜け、ここにある。戦いの道具、人を殺める道具、我が身を守る道具、それでも惹かれる。尊いものに思える。
ウィキペディアには
『蜻蛉切(とんぼきり)は、天下三名槍と呼ばれた槍の1つ。戦国時代の武将・本多忠勝が愛用した事で知られる。
笹穂の槍身で、穂(刃長)1尺4寸(43.7センチ)、茎1尺8寸(55.6センチ)、最大幅3.7センチ、厚み1センチ、重さは498グラム、樋(刃中央の溝)に梵字と三鈷剣が彫られている。三河文珠派、藤原正真の作。
名称の由来は、戦場で槍を立てていたところに飛んできた蜻蛉が当たって二つに切れたことから、その名がついたという。通常の槍は4.5メートルほどであるが、柄の長さ2丈余(6メートル)であった。しかし、忠勝の晩年には体力の衰えから、3尺余り柄を短く詰められた。青貝螺鈿細工が施された柄であったと伝わるが、現存していない。黒糸威胴丸具足(鹿角の兜)と共に本多家に伝わったが、第二次世界大戦時に同家を離れ、その後、沼津市の実業家・収集家の矢部利雄(1905-1996)が入手した。愛知県岡崎市の岡崎城内「三河武士のやかた家康館」にレプリカが展示されている。三島市の佐野美術館で2015年1月から11年ぶりに展示される[1]。
なお、江戸時代の記録では、本多家にもう一つ蜻蛉切と呼ばれる槍があり、形は直穂で違うが、同じ模様が彫られ、作者も同じだったという。穂(刃長)1尺4寸(42.4センチ)、茎1尺8寸(54センチ)、幅3.6センチ、厚み1センチ。こちらの消息は全く不明である。』
とある。(色づけ文字は私です)
もう一つの「蜻蛉切」が、稲姫とともに真田家にお嫁入りしたのではないかと・・・。こちらにもいつか出会うことができるかも?
それから、もう一つ、江戸末期の刀工・固山宗次(こやまむねつぐ)による蜻蛉切の写し(1847年作)が東京国立博物館に所蔵されているそうです。
施設紹介 佐野美術館 三島市中田町 1-43
☎ 055-975-7278
「ひとの縁は、ものの縁」 平成27年1月9日(金)~2月15日(日)
学芸員の方も驚かれていましたが、この日はかなり混んでいて、「蜻蛉切」のところには、長い行列ができていました。ゆっくり見たいなら、平日か空いていそうな時間に行った方が良いかも?