片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

日本  人・脈・記 (朝日新聞)を読んで

2006年04月26日 | 私の正論
朝日新聞24日25日の夕刊に、西、古川、成毛3氏の話がでている。
お互い22歳ので出会った西とビルゲイツ。1978年。西はマイコン雑誌「アスキー」を創刊しており、ゲイツの作ったBASICが動くマイコンを日本の電機メーカに作らせようと約束した。
その8年後の86年、「アスキーはマイクロソフトのことだけをやれ」というビルの要求を蹴り、西とビルはたもとを分かった。
アスキーでマイクロソフト事業部を担当していた、古川と成毛は、ビルに請われてマイクロソフト日本法人を立ち上げた。二人はまったく違った性格。夢見る古川と超現実的な成毛。結局成毛が社長になる。。。。。と、まあこういった物語。

私は、アスキーの創業直後から彼らと知り合い、83年からアスキーの社内システム構築の雇われCIO的な役割をしていた。私の席は南青山ビルの3階にあり、同じフロアに古川さんも成毛さんもいた。100メートルほど下った大仁堂ビルには、西さん、塚本さんがいた。塚本は出版局長で、現在インプレスの社長。

私の見るアスキーは、ちょっと違っている。

アスキーの創業社長は郡司明郎だった。そもそもの始まりは、郡司さんの家のアパートに早稲田の学生だった西さんが下宿していたことから始まる。郡司さんは私のシーエーシー時代の同僚。一緒に仕事をしていた仲だ。彼は寡黙で物事をじっくり考えるタイプ。派手なことは大嫌い。マスコミには絶対と言っていいほど登場しない。
アスキーには郡司さんが必要だった。西、古川、塚本といった血気はやる若者のたずなを握って、父親のように、時には母親のように経営の舵を取ってきたのが郡司さん。西さんが社長になった事件のいきさつを知って、これでアスキーはだめだな、と私は思った。

郡司さんは元気だ、ここ何年か焼き物に凝っている。
私の家には郡司さんに頼んで作ってもらったぐい飲み、花瓶、茶器がある。
妻が時々郡司さんにおねだりして作ってもらっている。また何か難題を突きつけているらしい。

毎日愛で使っている作品の写真を添付した。

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