お盆に田舎に行き、古い資料を眺めたり、子供の頃私たちをおんぶして子守をしたという叔父や叔母の話を聞いたり、近所の人と親しく話したり、年を経て、ようやく余裕ができたのか、なんと心安らぐことか。これも父の新盆のお陰だ。仏教は葬式仏教などと言われるが、生と死を正面から見据えているのが仏教ではないかと思う。だから葬儀をとても大切にする。葬儀だけではない。49日、新盆、お彼岸、一周忌、三回忌から五十回忌、百回忌まである。死を祭ることはすなわち生を考えることで、繰り返し繰り返し死を祭り、思い起こさせることで、今のみを忙しく生きている人間への警鐘を鳴らす意味があるのかと思う。
昔は、辛い現世が終われば極楽浄土があると言われたが、現世が物質的にここまで豊かになると、物質的な極楽浄土などどうでもよく、逆に心の極楽浄土が求められる。何のために生きているのかを見失ったとき、父母、祖父母、曽祖父母、もう一つくらいまで遡って必死に調べたらいいと思う。彼ら彼女らが、どう生き、どう死んだか。そうすれば自分がこれから何をしなければならないのか見え、また、多くの祖先に見守られている平安も覚えるのではないかと思うがいかがでしょうか。
昔は、辛い現世が終われば極楽浄土があると言われたが、現世が物質的にここまで豊かになると、物質的な極楽浄土などどうでもよく、逆に心の極楽浄土が求められる。何のために生きているのかを見失ったとき、父母、祖父母、曽祖父母、もう一つくらいまで遡って必死に調べたらいいと思う。彼ら彼女らが、どう生き、どう死んだか。そうすれば自分がこれから何をしなければならないのか見え、また、多くの祖先に見守られている平安も覚えるのではないかと思うがいかがでしょうか。